まるで人だな、ルーシー 著:零真似

角川スニーカー文庫

プロローグ

 人身御供ひとみごくうが上り坂を駆ける。真っ赤なポーチを腰で揺らして。

 勾配の急な山道。何年も前に乗り捨てられて色あせた軽トラックのサイドミラーを掴んで華麗なターン。

 御剣乃音みつるぎのおとは空き地に立つ。

 砂と土と雑草でできた海岸近くの空き地。微かに届いていた潮騒を打ち消す声で御剣は言った。

「その子を放せ」

 真昼の空き地のど真ん中で悪事は起きていた。

 ダンプカーみたいな大きな身体をした男と土管みたいに太い腕を持つ男と滝のように汗をかいた男に、ひとりの少女が囲まれていた。

 髪は銀色。瞳は紫。高い鼻とぷっくり膨らんだ唇。日本人離れして整った顔立ち。純白のワンピースは彼女の肌を適度に露出し、夏の獣の本能を駆り立てていた。

「なんだぁボウズ? これから楽しもうってぇのに、それを邪魔しよぉってか?」

 ダンプカーが唸る。

「変な正義感は身を滅ぼすぜよ」

 土管がぶつかり合う。

「そそそおそっそうでござる! そそそそれに、なにがしか勘違いされておられる様子! 我らはべつに昼間からこの女子にやまやまやましいことをしようなどとは────」

 滝が流れる。

「ひとりを三人がかりで襲うなんて、ずいぶんじゃないか。それもこんな開けた場所で」

 御剣は正しさに恭順する。

「僕がキミを助けるよ」

 自信に満ち溢れた言動は、彼の信念と直結していた。

「おねがいします!」

「あっ、こらっ!」

 男たちに囲まれていた少女は器用に包囲を抜け出し、途中で脱げた片方のスニーカーに構うことなく御剣を頼った。小さな身体で御剣の胸に飛び込み、顔をうずめて泣き縋る。

「たすけてください……あの人たち、私を見るなり群がってきて……いっぱいいっぱい卑猥な言葉を浴びせてきたんです……」

「ああ、わかった」

 優しく頭を撫でてから、御剣は少女を背中に隠した。

「なあ、ボウズぅ。おまえに勝てる相手か?」

 ダンプカーが唸り続ける。

「この世にぃ生まれて三十年。ワシは喧嘩に負けたことがないんだがなぁ。ボウズぅ、おまえは違うだろぉ。身体つきを見ればわかる」

 中肉中背。どちらかというと色白。髪は放置して伸ばし気味。そんな髪に隠されて見えない目にガンをたれるのをやめた男たち三人は早々に御剣を囲む。

「でもまあ、正義感の代償はちゃんと身体で支払ってもらうぜよ」

 土管みたいな腕がレモンイエローに染められたTシャツを掴み、グイと宙に持ち上げる。

「べ、べべっべべべつにそっちの趣味はないでござるがな!」

 御剣の背後で滝のように流れる汗が乾いた地面を潤した。

「……たしかに今の僕じゃ勝てない」

 自嘲気味に鼻で笑う御剣。

「今さら後悔しても遅いんだぜぇ?」

「後悔なんてしたことないさ」

 御剣は後ろ手にポーチを開ける。取り出したのは色彩豊かな立方体。

 縦横二十センチの、光の当て方によって三原色にも七色にもそれ以上にも見える立方体。鮮やか過ぎて、色が一面ごとに混ざり過ぎて、決して綺麗には見えない立方体。

 御剣はその立方体を思い切り空へ放り投げた。

「こいつらを蹴散らせ! エキセントリックボックス!」

 瞬間、立方体は真上に昇った太陽と重なり合い、強烈な一条の閃光で青空を切り裂いた。

 世界を眩い輝きが包む。

「なぁんだこれは⁉」

「目がくらむぜよ‼」

「あばばばばばば‼」

 三人が騒いでいる間に光は収まり、一瞬の静寂が訪れる。

 立方体は宙に浮いたままだった。

 そしてそこにいる全員の視線が再び立方体に集まったとき、それは“展開”した。

 六面はまず平面として開き、次に一面ずつの面積を拡大していく。二次元的な広がりを終えるとさらに拡大は三次元的に進み、面積は体積となった。六つの直方体は空中で螺旋らせんを描き、交錯し、複雑に絡まり合う。

 そうして重なり、繋がり合った直方体は弾力と柔軟さを帯び、いつの間にか“それ”は一個の人間を模していた。

 ある直方体は腕となって機能し、ある直方体は足となって動き、ある直方体は胴体となって存在し、ある直方体は幼い少女の顔となって笑った。

「スクランブル、参上!」

 丸みのある四肢を目一杯広げて大の字になった少女型のボックスが後光を背負う。

 変声期も迎えていない、高くてよく伸びる元気な声が地上の人間たちに降り注いだ。

 あんぐり口を開けた男たち三人を置いて、彼女はフワフワと宙を泳ぐ。

 推定身長百三十センチ。体重三十キロ。小学生女子一個分。

 胴体となったボックスは同時に洋服の様相を呈し、見る者によってその色はオレンジとスカイブルーだったり黄緑と桃紫だったりインディゴとオラージュだったりした。ただしだれの目にも一貫してその服はパーカーとフィッシュテールスカートに見えた。足先はスニーカーとして展開している。スカートの中にある日の当たらない部分はいくら覗いても暗黒だった。

 一方、不思議なことに少女──スクランブルの顔面はパーツから色素、肌質に至るまで精巧な幼女として構築されており、今まさに行われている空中浮遊と先刻まさに行われた幾何学的誕生さえなければ、おそらくその手の趣向を好む人間にとっては絶好の相手だった。

 大きな金色の瞳は生命の輝きを灯し、輪郭のハッキリした鼻筋は彼女が成長した暁の美貌を保証している。常にやや窄められているアヒル口からは北風を真似た口笛が鳴り、張りのあるモチモチの肌を代表して頬袋は膨れていた。丸みを帯びた耳の横で金色の髪が風に揺れている。

「代償は、悲しみだけど?」

 御剣の正面まで漂ってきたスクランブルが、ちっちゃな中指と親指をパチンと鳴らす。

 御剣は「なんだそんなものか」と鼻で笑った。

「ああ。そいつは僕にいらないものだ」

「そっか!」

 スクランブルはうれしそうにニコーッと笑って、それからストンと空き地に着地した。一瞬スカートの前が捲れて御剣に見えたパンツは七色のストライプだった。

「ちょっとごめんね」

 スクランブルは「えい」と男の太い腕をチョップした。未だ呆然としている男はあっけなく御剣を放してしまった。御剣はよれたTシャツを直して咳払い。

 そこでようやく我に返った三人は一斉に糾弾と強がりと怯えの言葉を並べて異分子の排除に乗り出そうとする。

 しかし次の瞬間、それらは全て彼らの胃まで逆流することになる。

 スクランブルが小麦色の右腕を引いた。右腕が拳を作った。二秒溜めた。右腕が動いた。

 少年の腹を幼女の拳が抉り、突き上げ、持ち上げた。

「どおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉおおおおおおおんんんんっ‼」

「ごっっはっっっあぁああああっ‼」

 血とか胃酸とか唾液とか。とにかく口から出る液状のものは一通り吐き出して、御剣はスクランブルのピンポン玉みたいな手の上で「へ」の字になった。

 幼女が少年を全力の腹パンでもって身体ごと持ち上げていた。

 ──ドサリ。

 本当にそんな音をさせて御剣の身体は空き地に捨てられた。

 ──とことことこ。

 遊び場を見つけた子供のように軽トラックまで走っていったスクランブルはぴょんと跳び、荷台に腰かけて宣言した。

「じゃあ、一分間の『神代かみしろ』タイム、スタート!」

 蹲っていた少年が立ち上がる。服に付いてきた砂と土を落として。

「お、おいボウズぅ……」

 たじろぎ、狼狽える男たちに向かって、御剣は声もなく笑った。

 人差し指を内向きに立てて軽く何度か折り曲げる。「いいからかかってこい」と言わんばかりに。

 挑発にエスカレーターよりも簡単に乗った三人が、一斉に感情任せで襲いかかった。

 そして男たちは倒された。彼らが全てを忘れて意識を取り戻すのはそれから三十分後のことである。

 丸められたバネが勢いよく跳ねて戻るように、直進するダンプカーはヘッドライトにもらったデコピンによって重たい身体を宙に浮かせて反転し、もう一撃入れられて地面に沈んだ。

 振り降ろされた土管はその半分ほどの大きさしかない手のひらによって受け止められ、無防備だった顎に拳を入れられ青空を舞った。

 一瞬出遅れたことによってその光景を目にすることになった滝は勢いを増し、ついには水源を枯渇させて気絶した。

 とかくそうして一分どころか十秒もせず、事は解決に至った。

「これでもう大丈夫だ」

 と、御剣が振り返って背後に隠していた少女に笑いかけたとき、もう少女はいなかった。おそらく隙を見つけて逃げたのだろうと推測する。

「この場にいなくても事後処理に問題はないんだよな?」

「なんのこと?」

 スクランブルは首を傾げる。

「“辻褄合わせ”のことだよ」

「うーんと……まあ、うん」

「なんだよ歯切れが悪いな」

「乳歯しか生えてないもん」

 えっへっへっ。小粋な幼女のジョークは沈黙で流された。

「もういいの?」

「ああ」

「そっか!」

 しゅばっと空気を裂いて荷台から飛び降りたスクランブルはとことこ歩いて御剣の前に立つ。

 差分三十センチの二人が同じ目線で向き合うには、御剣が腰を落としてやる必要があった。

 ふぅーと息を吐いて曲げられた上半身。突き出された顔。

 スクランブルは彼の両目にかかった前髪を指で弄って細く固め、軽く耳にかけてやる。

 金色の瞳とスカーレットカラーの瞳が互いを映し合った。

「じゃあ、乃音の悲しみをもらうね」

「ああ。これで心の軋みも減るだろう」

 小さな少女の小さな両手が少年の頬を挟み。


 ────二人は愛のない口づけを交わした。


 そして御剣の人間性はまたひとつエキセントリックボックスへと格納される。

 数秒して。どちらからともなく唇を離す。

 御剣の瞳の色が本来の栗色に戻った。

「さらばっち!」

 スクランブルはクルリと優雅に一回転。風にそよぐツインテールを追いかけるみたいに、彼女の身体はみるみるうちに下から上へと畳まれていった。

 スニーカーが骨格を無視してぐにゃりと縦に折れ曲がり、スカートを巻き込んで脛と重なり、両腕ごと胴体を喰らい、もう一度スクランブルが御剣と向き合ったときその顔も吸い込まれるみたいになくなって、悪辣な団子状で宙に浮いた色彩の集合体は最後にぎゅいんと空間を歪める音を鳴らして縮小し、整合した。

 御剣の目の前には縦横二十センチ、世界中の水彩塗料を片っ端から浴びせかけられたみたいな気味の悪い色の立方体──エキセントリックボックスがあった。

 元通りの形となってすぐ重力を思い出して落ちていくそれを御剣は右手で受け止め、ポーチに納めた。

 潮騒と一緒に夏の虫の鼓動がきこえる、八月初めのことである。

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