02-2 背中を向けた合同図形


          ■


 食事を終えたスクランブルは「ごちそうさま」をして箱に戻った。呼び出されるまで基本的にはこうして箱の姿でいるスクランブルだが、いくつかの感情を手にしてからは時折自分から少女の姿となって御剣みつるぎとのコミュニケーションを図っている。

 御剣から他の人間がいる前では自主的な展開をしないよう制限されているため、普段スクランブルが自分から話しかけられる相手は御剣しかいない。

『──がしたい』『──について教えてほしい』

 口をつくのはだいたいそんな要求だ。

 常に彼女の自発は彼女のために促される。

「ごちそうさま」

 御剣は自分の皿を水に浸けると着替えを済ませて部屋を出る。いつものポーチに財布とエキセントリックボックスをしまって。

 朝十時。平日の外は喧噪けんそうを早い時間に吐き出していて、きこえてくるのはセミの鳴き声ばかり。

 隣の七一二号室に視線をやる。ポストには新聞や広告が押し合いながら溜まっていた。

 相変わらず部屋の中からは物音ひとつせず、煤けた扉が開かれるところを御剣は見たことがなかった。

「昼夜逆転してるんだろうな」

 御剣は階段を使って一番下まで降りる。

 天井端に蜘蛛くもの巣が張った狭い通路を抜け、錆びた屋根つきの駐輪場を横目に、街へ。

乃音のおとー!」

 いこうとしたところで、空からよく通る声がした。振り返って見上げると、十四階建てのマンションの中腹で、制服姿の真白ましろが元気に手を振っていた。シワひとつない三分丈のセーラーが太陽に光る。胸のリボンをひらひらと揺らして。

 今日は朝から吹奏楽部の活動らしい。

 なんとなく手を振り返す御剣。

「カレー食べた?」

「ああ」

「じゃあ片づけるから、部屋開けて」

 大きなジェスチャーは下からでもよくわかった。

「開いてる」

「カギは閉めなっていつも言ってるでしょー!」

「ああ、悪い」

「もう」

 膨れながらも、やがて諦めたように笑い、

「じゃあ、勝手に入ってやっとくからね」

 真白は階段を使って八階から七階へと降りていった。

「ああ」

 見えなくなった背中に声を飛ばす。

 真白は御剣と同じく高校生になってから一人暮らしを始めた。学校は御剣と違うが、ここからでも十分通える距離だという。

 御剣には、真白がなぜ実家を離れて県外の高校に進学したのかわからなかった。御剣の場合は簡単である。あの家にいたくなかったからだ。

 あの家にいると、ときどきわけもわからず悲しくなったから。

 真白はなぜこのマンションを選んだのだろうか?

「……人の事情なんてわからないもの、か」

 早々に見切りをつけ、御剣は踵を返した。


          ■


 御剣の一日は定型化されていた。パターンは、学校にいくケースと学校にいかないケースの二つだ。夏休みの間は学校にいかないパターンで行動する。

 朝起きると朝食を済ませ、昼前になると家を出る。このとき選べる行き先は二つだ。潮騒を運ぶ海岸と、人で賑わう商店街。

 今日の御剣は街へ向かっていた。銀行で金を下ろし、真白に言われた食材を買うために。

 御剣には多額の貯金があった。要事のときにと、父が振り込んでいたものだった。

 エキセントリックボックスは、その力を行使した者の記憶を行使された者の中から消す。そうして超常的な力と、御剣との繋がりは“なかったこと”にされる。

 ただしそれ以前に働いた行動までなかったことにされるわけではない。

 初めて家族になったときに撮った写真はそのまま残され、父が父として教えてくれた口座の番号が変えられることはなかった。御剣はその金を崩して生活している。まだしばらく財源は尽きそうになかった。

 家から一時間ほど歩いたところにあるアーケードモール──落日ストリート。唐紅のタイルを二キロメートルずらーっと敷き詰め、斜光をイメージした黄色いグラデーションのアーチが空を隠す。軒を連ねて立ち並ぶ商業施設は市の規定によりどこも外壁を暗色でまとめあげている。積み上げられた煉瓦ブロックと、街灯を真似て一定間隔で立ち並ぶ細い電灯が悪戯な郷愁を誘う。落日ストリートはいつ来ても夕暮れだ。

 客引きの声は優しく、売られている物に時代の先を行く品はない。食品にしても、服飾品にしても、みんなどこかで見たことがあるようなものばかり。パスタはそよ風を添えず、ネックレスは一目でなにを模しているのかわかる。

 時折枝分かれしながら街の中心に上乗せされたようにあるこのアーケードモールは、単純にどこかへの近道としても頻繁に利用される。

 スーツ。学生服。漁師。ミュージシャン。老人。子供。自転車。ローラースケート。スニーカー。バンプス。待ち合わせ。待ち惚け。右を左を雑多な人が過ぎていく。飾られた夕焼けは、全員の行き先を帰路に思わせる。

 御剣はストリートにあるATMで金を下ろし、同じくストリートにあるスーパーへ向かっていた。

 そうして小さな違和感に気づいた。

「……なにかやってるのか?」

 ストリートの幅は広い。御剣のことを覚えている人間が全員横に並んでもなんの邪魔にもならないくらい。だから当然双方向通行を許されている。異変はそこにあった。

 いつの間にかストリートの全員が──否。男性だけがこぞって北を目指していた。

 少年も、お爺さんも。ギタリストも、サラリーマンも。自転車も、スニーカーも。全員明確な意志を持ってどこかへと向かっている。

 ある者はカバンを放り捨てて。ある者は携帯ゲームを落としたことも構わず。

 御剣はそのゲームを拾って持ち主に渡そうとする。持ち主はそれを受け取らなかった。恍惚とした表情で前だけを──その先にあるものを見つめて歩いていた。

 御剣は辺りを見回す。

 頬を赤らめ、焦点を上に飛ばした男たちが真昼の夕暮れを猛進していた。ひとりひとりの歩みは遅くとも、数のうねりが個の直進を行進に変えて止めようのない勢いを生む。

 モールのイベントにしては集客力がありすぎて、アイドルのコンサートにしてはやたらと狂気じみていた。

「……なんだ、これ?」

 それは宛らウォーキングデッド。脳は別の意志に寄生され、直進する様は糸を手繰られる人形。

 酷い映画に突然巻き込まれたのかと思った。カメラマンはいない。空撮は不可能。

 御剣はウォーキングデッドの波を掻き分けて走る。集団の意識を手引きする者の場所へ。その人間は全員が向かう先にいる。なぜなら大抵の映画の場合そうであるからだ。

 汗とタバコの匂いに鼻を押さえて走る。凪を忘れた風のように唐紅のアーケードモールを走る。

 彼に疲れはない。その要素は既にエキセントリックボックスに格納されている。

 汗ひとつかかないまま二十人ばかり群れの人間を抜いたとき、集団は開けた。

 御剣は列の先頭に立っていた。

 そして彼の予想は的中した。

「いやあぁぁああん‼」

 鉄と鉄をぶつけたみたいな叫びが落日ストリートに響き渡った。

 銀色の髪。紫の瞳。高い鼻とぷっくり膨らんだ唇。日本人離れして整った顔立ち。身体が振れて、純白のワンピースが翻る。

 昨日海岸近くの空き地にいた少女がストリートの真ん中で身を捩りながら立っていた。

 その少女に下卑た笑みで迫る男たち数人。昨日とは違う人間。その向こう、奥には御剣の後ろにいるのと同じ数の男たち。

 しめて四十二人の男が少女を囲んでよろよろと迫っていた。

「おたすけぇ〜!」

 少女はワンピースを掴まれ脱がされながら助けを求めていた。

 打算を介さない無心の奉仕が救難信号を受諾する。

「今助ける!」

 御剣は少女に群がる男たちを剥がす。男たちは御剣でも簡単に押しのけることができた。

 水玉模様の下着を露出した少女を背中に隠し、辺りを囲う男たちに警戒の視線を配る。

「あなたは昨日の!」

「どうなってるんだ、これ?」

「歩いてたらいきなり襲われたんです! 性的に!」

「この数に?」

「この数に!」

 下は七歳から上は八十歳までの男が一様に鼻の下を伸ばし、少女を視姦している。周りの店にいる女たちはその異様を嫉妬の眼差しで睨んでいた。

 少女にはそこまでの魅力があるのだろうか? そこら中の男が全員一線を越えたくなってしまうほどの魔性が。いくつもの要素を失い、正しく成長できていない御剣にはそれがわからない。けれど助けを拒まれても助けを実行する御剣だ。原因がわからずとも、求められたら応えないわけがない。

「こいつらを止めろ! エキセントリックボックス!」

 ポーチから取り出したエキセントリックボックスをグラデーションの天井に投げる。

 ぴかっ! 眩い光がモールを包み、真昼の夕焼けを太陽より濃い白で染め上げた。

「スクランブル、参上!」

 スクランブルはアーチに逆さまで立つ。垂れた髪と捲れたスカートが彼女の顔を包む。

「代償は、潮騒を好むところだけど?」

「ああ。そいつは僕にいらないものだ」

「そっか!」

 夕焼け色をしたスカートをぺたんと畳み、スクランブルが天井から降ってくる。ヒーローよろしく突き出した手を丸めて御剣の腹に降ってくる。

「どおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉおおおおおおおんんんんっ‼」

「ごっっはっっっあぁああああっ‼」

 打ちつけられた背中がタイルを砕く。もくもくと土煙が上がる。スクランブルがゆるやかな放物線を描きながら飛行して手近な店のベンチに腰かける。

 ──契約は完了した。

「……あの……大丈夫ですかぁ?」

 少女が煙の中を心配そうに見下ろす。

「……ああ」

 御剣は煙を裂いて立ち上がった。その瞳を赤色に燃やして。

「もう大丈夫だ」

 囲う男たちはスクラムを組んで逃げ道を失くす。もう彼らとの距離は額に溜まった汗の粒がはっきりと見えるまでになっていた。むわっとした熱気と、気分を悪くする臭いが鼻をつく。

 御剣は親指と人差し指を直角に立てた。それを頭の上に掲げて弧を描く。一回。二回。三回。徐々に弧は円周を広げ、ついには御剣の横幅を上回るまでに。

 御剣は手を止めた。そしてそれを胸の前に降ろす。

 同時に彼の指から茶色い縄が飛び出した。縄は意志を持った巨大な蛇のように男たちをあっという間に囲い、かと思えば急速に体長を縮ませて一纏めに全員を縛り上げる。

 脅威はひとまず鎮圧された。

「……カウボーイ」

 恍惚の表情で呟く少女。

「どうしてキミは襲われるんだ?」

「わかんないんですわかんないんです! ふええぇぇえん!」

 御剣の胸に顔を埋めて彼女は泣いた。

「……でも、かっこよかったです」

 ひっくひっくと、喉を鳴らして泣き止みながら御剣の心臓に向けて呟く。

「お兄さんになら、ずっと守ってほしいな」

 少女は赤くなった顔を上げる。完璧な美貌の中に年相応の未成熟さを混ぜ合わせ、大きな紫色の瞳で御剣の目を覗き込んだ。

 たしか保護欲はかなり前に失ったなと、御剣は夢に見たいつかを追想した。

「ごめん。それはムリだ」

 少女の肩を押さえて突き放す。

「そんな! 二度あることはずっとあるのに!」

 御剣は矛盾に気づく。

「キミは…………もしかして昨日のことを覚えてるのか?」

 なぜ? どうして? そうきこうとして出した言葉は横槍によって上塗りされる。

「一分です」

 声変わりも知らない少女の音色。主語のない短文を牽引する丁寧さ。

 それは出会った頃のスクランブルを思い出させた。

「スクランブル?」

 まだ早いだろうと声のしたほうに目をやる御剣。

 そこには少女がいた。スクランブルとは違う、けれどスクランブルと似た年頃の女の子。

 三角をした眉の上で斜めに切り分けられた水色の髪──控えめに外に跳ねたその先端が風に揺れる。線のように細い空色の瞳で焦点を定めないままぼんやりと御剣のほうを見て、少女はとある洋服屋の中から姿を現した。夕焼け色をしたベアトップのドレスは落日ストリートの古風な趣に合って映える。

 スクランブルより丸みのないほっそりとした顔立ちの少女は、小さな身体に得も言われぬ儚さを引き連れていて、見た目以上に落ち着いて見えた。元気がないと言い換えることもできた。

 少女は無表情で歩いてくる。

 カツン、カツン、と。ヒールがタイルを叩く間隔は常に一定だ。

 まるで生きた機械のようだった。

「……ッチ! もうかよ」

 背中で、声。酷く粗暴な、切るより叩くことに秀でた鈍のカッターナイフみたいな声。

 ワンピースの少女が出す甘えた声がコーヒーに落とした砂糖なら、その声は宛らケーキに塗した塩。遊園地なら刑務所。夢なら現実。そういうふうな対比になっていた。

 声は御剣の隣──紫の瞳をした少女がいた場所からした。だからその声は当然少女の声であり、無論少女の声ではなかった。

 ──少年が立っていた。

 重力に逆らって十六方向に立てられた銀色の髪は反抗心。吊り上げられた眉は威圧感。逆三角形をした栗色の目は悪辣。浮き出た鼻筋は信念。ほんのり紅を引いた唇は彼の世界に対する嘲笑を言葉以上正確に語っていた。

 少女の白い肌は少年の適度に日焼けした肌に張り替えられ、薄い毛の生えた腕がごしごしと唇を拭った。少年は腕についた赤を白のワンピースに擦りつける。綺麗だった無色のキャンバスは返り血を浴びたように人工的な赤色を受け入れた。

「おえっ……」

 自分の恰好に自分で吐き気を催した少年はえずくように喉を鳴らしてから、ため息。

 それから御剣を上目遣いで見つめて言った。

「──こんにちは、お兄さん」

 油に火を落としたように場は騒然となった。括られた男たちが一斉に自分の無実を主張し始める。どうしてあんなことを。悪気はなかった。身体が勝手に動いたんだ。

 遠巻きに眺める女たちはそんな男たちを冷ややかな視線で軽蔑していた。

「感想は?」

 少女は少年になっていた。

 年と背丈は御剣と同じくらい。けれど御剣とは正反対の性質を持った少年だった。

「あの子は?」

「オレだよ」

 少年は言う。簡単な足し算か引き算の答えを教えるように。

「むしろオレじゃなかったらこの恰好はなんなのさ?」

 ケラケラと笑いながら少年はクルリと回ってワンピースを翻す。一緒に薄い脛の毛がヒラヒラと風にそよいだ。

「女装?」

「変身ね」

 少年はグイと伸びをして背骨を鳴らした。

「おかしいなあ。男なら須くあの女にはときめいてしかるべきでしょ。外見にしろ、声質にしろ、それ以外にしろ」

 彼の言う通り、御剣以外の男は皆彼女に心を奪われていた。視界にも入らない場所から、まるで雌の匂いを嗅ぎつけた獣みたいに一直線に彼女を目指していた。

 御剣だけがそうならなかった。ひとりの少女を全員が求める様を異常だと認識していた。

「まあ、理由はだいたいわかってるけどね」

 少年はベンチで鼻歌を奏でているスクランブルを一瞥する。

「あんたも、そうなんだろ?」

「一分です」

 水色髪の少女が少年の前に立って告げる。

 御剣は少女を見た。

 見た目にそぐわない話し方。この異様な状況に欠片も動じない振る舞い。

 彼女はまだ人間味のない頃のスクランブルと似ていた。加えて他とは違う瞳の色が、彼女が束ねられた有象無象とは一線を画す存在であることを告げていた。

「わぁーかりましたよ」

 銀色に染められた髪が苛立たしげに掻かれる。

 少年は身を屈める。少女は踵を上げる。

 そうして二人は口づけを交わした。

 一瞬のような、永遠のような沈黙が流れた。

「では、失礼します」

 彼女の身体はみるみるうちに下から上へと畳まれていった。ハイヒールが骨格を無視してぐにゃりと縦に折れ曲がり、夕焼け色のドレスを巻き込んで両腕ごと胴体を喰らい、切なげな影を帯びた顔も吸い込まれるみたいになくなって、悪辣な団子状で宙に浮いた色彩の集合体は最後にぎゅいんと空間を歪める音を鳴らして縮小し、整合した。

 御剣の目の前には縦横二十センチ、おどろな夕闇を思わせる色をした気味の悪い立方体──エキセントリックボックスがあった。

 重力を思い出して落ちてくるそれを右手で受け止め、白いワンピースに血のような赤をつけた少年は不気味に笑った。

「オレは氷室ひむろなつめ。もうひとりの人身御供ひとみごくうさ」

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