02-3 背中を向けた合同図形
■
氷室の辻褄は合わせられていた。
「ここならいいか」
落日ストリートの中を二度分岐したところで氷室は立ち止まって荒い息を整える。
もう男たちの声は聞こえなくなっていた。自転車。バンプス。スカート。ブラウス。カフェ店員。オフィスレディー。待ち合わせ。待ち惚け。周りにはなにも知らない女性しかいなかった。
「いっ、いっぷうーん!」
どたどたどた。二人の後を追って走っていたスクランブルが、豆粒に見えるくらい遠くでそう告げてバタリと倒れた。御剣の疲労はもう彼女のものだ。
「ならあらためて。昨日ぶりだね、もうひとりの
通り過ぎていく女性の冷たい視線はことごとく氷室に突き刺さっていたが、どうやら痛みはないらしい。
「話積もらせようとも思ったけど、先に契約満了させといたほうがよさげだな」
スクランブルは御剣の名前を呼びながら手を伸ばしていた。御剣は引き返してひょいと彼女を抱きかかえ、氷室に尋ねる。
「……どうしてワンピースなんか着てるんだ?」
「まずきくのそこ⁉」
普通は違うのだろうか? 御剣にはわからない。
「これは、そうだな……キャラ付けさ。ワンピースの女の子がオフネックにジーンズの男に変わっても、すぐに“そう”だって気づかないだろ?」
「どうして変装なんか」
「変身だって」
「どうして変身なんか」
「いっぷーん!」
御剣の腕の中でアラームが頬を膨らませている。
しかたなく御剣はスクランブルとの用件を先に済ませることにした。
いつものように小さく息を吸い、御剣は抱えた少女に愛のないキスをした。
そこで惰性に変化が起きた。
「んっ……」
御剣の口の中を短い舌が弄る。上の歯をなぞり、内側の歯肉を舐め、固まっている舌と絡み合う。
スクランブルの頬は紅潮していた。鳥がエサを啄むように連続して唇を交わし、互いに呼吸もままならない。次第に金色の瞳が上擦ってくる。
「きもち、いい……!」
「もういいだろ」
御剣はスクランブルをやや強く押しのけた。
「キスのうまさ」なんてものが彼女に渡っていることを忘れていた。あれがうまかったのか御剣にはわからないが、周りの目から察するに、かなり背徳感のある光景だったらしい。
「おー、情熱的!」
氷室は目を輝かせていた。
「もっとー!」
スクランブルが両手を御剣の首の後ろまで回して駄々をこねる。
「ダメだ」
キッパリと否定。このキスに契約以上の意味を持たせてはいけない。
「はーい」
渋々といった様子でスクランブルは返事をし、氷室のエキセントリックボックス同様、縦横二十センチの立方体に戻った。
御剣は腰のポーチに立方体をしまう。
「さて。とりあえず、どっかに落ち着こうか」
氷室は御剣の手を引いて近くにあったカフェテラスに入ると、適当に注文を済ませて席についた。しかたなく御剣は対面に座る。腰かけ部分が花模様にデザインされた黒いイスは、上品さと昔ながらの趣を感じさせた。
「で、なにから話す?」
名前を忘れられたジャズナンバーがバックで流れる。
氷室はエキセントリックボックスを目の前の丸机に置いた。夕暮れ色に染まっていた立方体に机の黒が混じる。
「どうして僕のことを覚えてたんだ?」
「そりゃあ、忘れなかったからだろうね」
エキセントリックボックスの力に晒された者は全員エキセントリックボックスとその使用者──人身御供にまつわる記憶を失う。つまり昨日御剣と出会ったことを氷室が覚えていたのはおかしい。
「どうやら辻褄合わせは同じ人身御供には生じないらしいぜ。記憶処理を施す必要がないからだろう。エキセントリックボックスに確認をとったし、実際に試してみたからたぶん間違いない」
常人と人身御供には、“エキセントリックボックスという現象”を受け入れているかで既にひとつ隔たりがある。既に「普通」から外れた人身御供を普通に合わせる必要はないのだろうと氷室は結論づけた。
「そうか」
きくべきことをきき終えた御剣は立ち上がった。机に二枚の硬貨を置いて。
「ちょ、ちょい! もう⁉」
「ああ。教えてくれてありがとう」
「いやいや! まだまだあるでしょ⁉ 『自分以外の人身御供……だと……⁉』とか、『初めて力を使ったときの感想は?』とか、『おまえの目的はなんなんだ⁉』みたいな!」
御剣にはよくわからなかった。だから謝る。
「ああ、悪い。僕はもう、だいぶそういう疑問を抱けない段階になってるんだ」
メイド服の店員が頼んだドリンクを持ってくる。客商売なだけあって、氷室の恰好を見ても貼りつけた笑顔を凍りつかせることはなかった。
御剣はしかたなく席に戻る。
「他の人身御供がいる可能性なら、出会ってすぐに当然スクランブルから聞き出していた。実際にこうして出会ったのは初めてだけど、『ああ、やっぱりいたのか』以上の感想はないよ」
「オレが女に変身してたわけとか」
「ああ……たしかに不思議ではある。変身は趣味として……」
「趣味じゃないよ!」
「なら置いておくとして。どうして追われていたのかはたしかにききたいな」
氷室は得意気な笑みを浮かべた。
「でしょ? やっぱ気になるよなー」
「ああ。どうしてあんなことをエキセントリックボックスに願ったのか」
だいたいの不思議や異常の解明はエキセントリックボックスを引き合いに出せば直ちに終了する。氷室の変身。理性を失った男たちの欲情。女たちが向けていた嫉妬の眼差し。
エキセントリックボックスに願えばどんな変化も引き起こされる。
問題は、どうしてそんな変化を必要としたか、だ。
「オレがなにを願ったか、もうわかってんの?」
「いや。でもそれはいい」
御剣は他人に興味を示さない。だから氷室の願いに興味はない。彼が知るべきだと考えたのは、一般人を凶行に走らせた理由だった。
だれかを操ってまで叶えるべき願いというものが御剣にはない。
だから御剣は彼の願い自体ではなく、その願いを願うに至った心境をきいてみたかった。同じ人身御供として。
「よし。じゃあまずオレがなにを願ったかを話そう」
「いやいや、だからそれはいいって」
「オレは二つを願ったんだ。美少女になりたいって願いと、近くの男を虜にしたいって願いさ」
氷室は嬉々として勝手に語る。
「昨日今日と、エキセントリックボックスはその願いを叶えた。男どもは鼻の下伸ばしながら欲情してオレを押し倒そうとしてた。男のオレを、だ。毛むくじゃらの手がオレを裸に剥こうと伸びてくるんだ。笑えるだろ」
御剣はやはりそういう趣味なのかと問う。
違うと氷室は言う。
「──見ていて最高に楽しいのはどんなときだと思う?」
御剣は沈黙で先を促した。
「人が自ら犯した過ちの重さに潰れる瞬間さ」
円錐に広がるピーチパーラーの海で氷がカランと鳴った。
「二つの願いは僅かに時間をあけて叶えてある。そうするとさ、二段階に過ちを背負う様が見えるんだよ。まず、欲情の催眠が解ける。すると男たちは自分が身勝手な感情でかわいい少女を汚した自責に苛まれる。数秒後、十二時の魔法は解けて少女は男に変わる。すると今度は過ちの種類と方向性が変わる。少女を汚しちまったって罪悪は、男に欲情して自分を汚しちまったっていう罪悪に変わる。表情が、二度歪むんだ」
何度もその瞬間を見てきたような口ぶりで氷室は恍惚と語った。おそらく昨日と今日以外にも既に何度か変身を試みているのだろう。そして彼なりの成功を収めているのだろう。
やや呆れながら御剣は尋ねた。
「でも、その過ちも、重さも、すぐに忘れるじゃないか」
「いいのさ。一瞬の悲劇は十年、人を老いさせる。その様を見れるだけで、少女として乱暴されるには十分だよ」
御剣にはわかった。彼も歪んだ思想の持ち主なのだと。
健常な部分を削り取られ、歪曲を余儀なくされる。人身御供とはそういうものだ。
「そうか」
遠回りにはなったが、ききたいことはきけた。もう御剣に氷室と話す理由はない。
「ちょっと待ってって!」
驚きの吸引力でカフェオレを昇らせる御剣のストローを氷室が指で塞ぐ。
「感想は?」
「僕の前ではそういうの、やめてくれるとありがたい」
「それだけ?」
「それだけ」
女装して男の純心を弄ぶなんて許せない──なんて思うほど、御剣は正しくなかった。
「……いやいやいや、そんなはずない」
氷室は今さらの質問をする。
「あんた、名前は?」
「御剣
「そう。御剣乃音。正解だ」
そういえば名乗ってなかったと思うより先、氷室は隠すべき罪悪をポンポンと口にし始める。
「昨日出会ったあと、あんたのことを丸一日かけて調べさせてもらった。エキセントリックボックスを使って、現在の立場から昔の生い立ちに至るまで隅々と。それで見えた御剣乃音って人間は、オレみたいな悪人を決して許さない。許すはずがない。どんな些細な悪事も見逃さず、まるで自分を顧みないで人を助けるヒーロー。それが御剣乃音だ!」
「勘弁してくれ」
過去を覗かれたことに関しても。妙なイメージの押しつけに関しても。勘弁してほしかった。
「僕はそんな品行方正な人間じゃない。ただ助けたいから人を助けているだけだ」
「立派なことじゃないか。御剣乃音はそうじゃないといけない」
ため息がグラスの底に落ちる。
「どうやら誤解があるらしい」
御剣は混沌をかき混ぜた。
「僕は僕のエゴで人を助ける。それはいわゆる正しさと本質の部分でずれている」
人身御供の瞳が氷室を映す。栗色の目は永遠の孤独を抱えて翳っていた。
「べつに僕の心臓は悪事に敏感じゃない。それが目の前で行われようとしていたらたしかに止めるけれど、悪事そのものを根絶しようなんてまったく考えちゃいない。そもそもそんなこと不可能だし……いや、エキセントリックボックスを使えばあるいは可能か。まあそれでも僕は、この世から正しいこと以外を排除しようなんて思ってないよ」
「どうして⁉」
丸いテーブルが叩かれて、二個のグラスが腹の中で液体を波打たせた。
「僕以上正しくない人間なんていないからさ」
御剣は御剣なりの正しさを掲げて行動している。すなわち、困っている人間がいれば進んで自らを擲ち助ける。
しかしその正しさが決して万人にとっての正しさでないことはこれまでの経験で知っていた。例えば彼の隣人は彼の正しさを気持ち悪いというだろう。
御剣は自分を最小単位で見ている。もっとも先に切り捨ててよいものとして認識している。
御剣は自分を擲って人を助ける。なぜなら御剣より価値のない人間はいないから。
「……あんたの人助けは、正しくないっていうのかよ?」
「ああ」
なぜなら──。
「────僕はいつか死ぬために人を助けているんだから」
御剣乃音は人を助ける。人を助けて、自分を構成する諸要素をエキセントリックボックスに捧げて格納する。そうして少しずつ、自分を擦り減らしていく。
なぜかときかれれば、理由はいくつもあるし、同時にひとつもなかったりする。
とかく御剣にとって、自分はこの世界で生きているだれよりも生きている価値のない人間だった。
かといってまったくないわけではない。最小単位で、それは存在する。その単位を可視化したのが彼の生き方であり、つまり人助けだった。
彼は今や人を助けることによってのみ生きている理由を実感する。
生きていることを確かめるために死に近づく。
死というのは正確ではない。
エキセントリックボックスに全ての要素を格納した人身御供は抜け殻となり、一切の動作をやめて死んだように固まるという。そういう意味での死を御剣は待っていた。
「偶然の出来事までを含めた悪事がなくちゃ、僕はだれも助けられないじゃないか。そうなると、僕は生きることも死ぬこともできなくなる。中途半端に感情を残して動く得体の知れないものになってしまう。嫌だろう? そんなのは」
人身御供の瞳が氷室を映す。全てを諦め、全てを見捨てた狂気の目。須く嫌うはずの孤独を望み、自らの生をまるで尊んでいない虚ろな目。修復しようのない破綻を抱えてケラケラと笑っている異常の目。
無意識の本能で距離を置こうとした氷室の身体がイスから転がり落ちる。空を掻いた手がグラスを叩いて床に落とした。ガラスの割れる音が人工的な夕暮れに染まったカフェに響く。
氷室の背中が木造のテラスにぶつかることはなかった。咄嗟に立ち上がった御剣が彼の身体を抱えていた。
「大丈夫か?」
御剣は彼を抱えたまま笑ってみせる。その笑顔は身震いするほど凍りついていて、およそ人らしさを感じさせない玩具が作った微笑みのようだった。
「う、うわああああ!」
思わず御剣を突き飛ばす氷室。二人は互いにテラスの段に背中を打ちつけた。
慌てて駆け寄ってくるメイドに謝って御剣は席に戻る。そのまま帰るつもりだったが、もし氷室がどこかを痛めているようなら治してやらないといけなかった。エキセントリックボックスの力を使って。
「痛いところはあるか?」
問いに他意はなかった。御剣は本当に痛いところの有無を尋ねているだけだった。尋ねて、答えによっては然るべき対応をするだけだった。
その、どこまでもまっすぐな歪み方が逆に氷室の恐怖を駆り立てた。
──自分もいつか、こうなるのだと。
「…………し、心配ない」
平静を装ってイスに戻る氷室。彼の額は冷たい汗の粒で濡れていた。
「……いつからだ? 昔のあんたはそうじゃなかったはずだ。平穏を害する悪は容赦なく倒してきたはずだ。あの日躊躇いなく引き金を引いたみたいに」
「そんなことまで調べたのか」
氷室は気づかない。いつの間にかきく側ときかれる側の立場が逆転していることに。
「僕もわからないよ。たしかにあの日の僕には助けたい対象がいて、そのために敵を排除した。そうして打算感情を失ったけれど、だからってすぐに助けたい対象が広がったわけじゃない」
最初は親しい友人のためにのみ力を使っていた。けれど徐々に、御剣乃音を織り成す要素が薄れれば薄れるほど、救済対象は広がっていった。
常に自分だけはその円環の外側に置いて。
「エキセントリックボックスの力を使うっていうのはそういうことだ。覚えておくといい」
氷室が最近になってエキセントリックボックスを手に入れたことを御剣は見抜いていた。なぜなら、自分と比べると彼にはまだずいぶん人間味が残っていたから。
感情の起伏があるところとか、自分の欲求を満たすために力を使っているところとか。
だからどうということはなく、向けた言葉も先輩からのアドバイスと表現するには決定的に思いやりが欠けていて。
宛ら予言と形容したほうがイメージは近かった。
『おまえはいずれ壊れて、さらに壊れようと動き出すぞ』
そんな予言。
「それだけだ。僕はこれからいくところがあるから、もういいだろ?」
御剣の一日はプログラムされている。色分けされたいくつかのパターンを毎日繰り返す。
今日は買い出しに出たから、このあとは実際の日が暮れるまで、人のいない寂れた海岸で潮風に吹かれる手筈だった。
ああ、けれどそうだった。先程の件で潮騒を好む心は失われているから、このまま家に籠って明日からのプログラムを練り直す必要があった。
「人を助けたいなら……なんで人のいないとこにいくんだよ?」
言い負かされた気がして、苦し紛れに氷室が呟いた。
テーブルを立ったまま御剣は固まった。
「…………」
答えられなかった。
家にしろ、海岸にしろ、なぜ人を助けるために生きている自分が人のいない場所へ向かおうとするのか。なぜひとりになろうとするのか。
御剣乃音には御剣乃音がわからなかった。
今この瞬間に解と結びつかない疑問が生じた。
「……オレは……認めないぞ……!」
項垂れた氷室の前でグラスが震える。彼の抑え切れない感情が机を揺らしていた。ついた肘と立てた膝の貧乏ゆすりをやめ、彼はエキセントリックボックス片手に立ち上がった。
「オレは今のあんたを認めない!」
ワンピースを翻し、エキセントリックボックスがグラデーションのアーチに投げられる。
一瞬走る暗黒の閃光。立方体は十字に展開し、人型となる。
「エキセントリックボックス、展開しました」
鼻にかかる幼い声。機械的な話し方。エキセントリックボックスが宙で水色髪の少女を真似る。重力を無視して空に三角座りした少女は雲ひとつない空色の瞳を曇らせて、まるで覇気のない姿で人身御供の要求を待っていた。
「降りてこい!」
少女は透明な台を滑るように姿勢のひとつも変えずに同じ高さまで降りてくる。
「オレがあんたをヒーローにしてやるよ」
氷室は不敵な笑みを浮かべて目下の願望を口にした。
「ここにいるやつらを争わせろ。エキセントリックボックス!」
「代償は格闘ゲームのうまさですが?」
「けっこうだ」
「おい、やめろ」
御剣の制止は届かない。
数組の客と店員が唖然として見やる中、氷室とエキセントリックボックスは相対した。
「歯ァ食いしばってろよ!」
氷室が右手に拳を作り、それを少女の腹部に突き刺す。もう片方の手で氷室がガッチリと少女の肩を掴んでいるせいで、彼女はその場に倒れることもできず痙攣していた。
「おまえ、なにを……」
「これがオレらの『
氷室の目が紫色に変わった。
「ッ……」
危険を感じて咄嗟に御剣もエキセントリックボックスを取り出す。その間にも氷室は踊るような足取りで店の中を回り、客や店員の身体に触れていった。
彼に触れられた者は願望の操り人形となり、氷室のために争いの火種を撒いていく。
相席の友人にコップの水をぶちまけた女を皮切りに、カフェで一気に暴動が渦を巻いた。
飛び散る液体。割れるグラス。飛び交う罵声と行き交う暴力。オシャレなイスは武器になり、机は盾に。ガラス棚は投擲物の貯蔵庫。だれかが押した警報ベルは仕組まれた人災を告げていた。
「いいか? これは予言だ。オレという悪を排除しない限り、あんたの大事なものはオレに奪われ続けるぞ」
一瞬で終末の風景と化したカフェのどこかから氷室の声がする。
「おまえは僕になにをさせたいんだ?」
「なにって? 簡単さ」
氷室はその言葉を口にしたきり、もうここへ帰ってくることはなかった。
「オレはあんたに、オレの願いを叶えてほしいのさ」
いつの間にか、彼のエキセントリックボックスも姿をくらましていた。
意味はよくわからなかったが、御剣は事態の鎮静化を優先する。
「この場を鎮めろ。エキセントリックボックス!」
戦場の真ん中で立方体が展開する。
「スクランブル、参上!」
スクランブルは飛んでくるグラスやイスを器用に避けながらその場に立ち、御剣に言う。
「代償は、愛情だけど?」
ああ。そいつは僕にいらないものだ。
そう言えるほど、彼にとってその要素は軽くなかった。
それを手放してしまえばどうなるか、御剣にはわからない。
──真白は僕の愛がなくなったことに気づくだろうか? そのとき真白は悲しむだろうか? もしそうなら、それはいけない。最小価値である自分がだれかを悲しませるなど、あってはならない。
……いや、でもそれはないか。真白なら、僕よりもっといい相手はいくらでもみつけられるだろう。彼女はそれだけの存在だ。自分なんかとは違う。
なら、僕はどうだ? 僕は愛情を、真白を手放して悲しむだろうか? 否。
答えは出た。御剣乃音にもう悲しみはない。真白セツミの相手が自分である必要はない。
鳴り止まないどころか膨らみ続ける喧噪の中、数秒の沈黙。御剣は数秒の沈黙で、その答えを出した。
「ああ。わかった」
「そっか!」
スクランブルが拳を突き出して突進してくる。
御剣の表情が一瞬、ほんの僅かに人間味を帯びた。
「……いよいよ、ひとりになるな」
申し訳なさそうに彼は笑った。その謝罪はめずらしく自分自身に向いていた。逆にいえば、自分自身にしか向いていなかった。
「どおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉおおおおおおおんんんんっ‼」
「ごっっはっっっあぁああああっ‼」
御剣はどんな願望も叶えられる『神代』となった。
右手の指を二本立てて銃を真似る。その先を暴徒と化した連中に向ける。
「バン」
狙われた人間がひとり、またひとりと一分間の眠りについていく。
「バン、バン、バン」
御剣は撃つ。あの日と同じように。あの日より無感情で。人を撃つ。人外の力で、質量のない透明の睡眠弾を撃つ。
「バン、バン! バン!」
疲労感はないはずなのに、なぜかひどく息が切れた。だからといって苦しくはない。ただ呼吸のペースがいつもより速くなっただけ。
「バン!」
全ての暴徒が横たわり、沈静化した。
辺りを見回す。幸い血の一滴もない。大小様々な寝息が古いジャズナンバーに乗ってきこえる。
「もういいの?」
意識なき暫時の亡者の真ん中に立つスクランブルが首を傾げる。彼女の服は周囲の色を全て内包して輝く。
スクランブルはじれったそうに身体をもじもじさせながら指をくわえていた。はやくもう一度キスをしたいらしい。
「いや、ちょっと待っててくれ」
「はーい」
スクランブルは御剣に従順だ。どんな要求も彼女にとっては命令であり、その命令に逆らうことはない。
御剣が人を助けるために生きているように、スクランブルは人に近づくために生きていた。そもそも彼女の存在を“生きている”と言えるかどうかは疑問の残るところではあるが、少なくとも彼女の第一欲求は人身御供である御剣から人間としての要素を奪うことであり、キスや食事は副次的な欲求でしかなかった。
だから彼女は──エキセントリックボックスは──主人である人身御供に使われ、主人の望みを善悪の規範なく叶える。それが自らの願望成就に繋がるから。
「残り何秒だ?」
「さんじゅー!」
「わかった。カウントはしなくていい。だいたいそれくらいで終わらせるから」
御剣はポーチからケータイを取り出した。電話帳を開き、一件しかない連絡先に電話をかける。三回のコール音の後、電話は繋がった。
「ああ、
電話の向こうから元気な声がきこえる。
「それで、悪い、真白。唐突だけど、僕はもうすぐキミへの愛情を失くす」
御剣のほうから電話をかけたのはこれが初めてだった。
「今までよくしてくれてありがとう」
最初で、最後だった。
「今日で、僕らは別れよう」
元気な声はきこえなくなっていた。
画面によると、通話を始めてから既に一分が経過している。会話をしている時間より、沈黙のほうが多かった。
「……悪い」
御剣は電話を切った。ビジートーンが鼓膜で居心地悪く残響した。
そうして彼は孤独になった。
ケータイをグラデーションのアーチに投げ捨てる。天井にすら届かず落下して、電池パックが飛び出した。うるさい音は消えた。
振り返るとスクランブルがニコニコ笑顔で待っていた。
「もういいよ」
御剣は愛のない口づけをして愛を渡した。
もう彼が、あるいはこれからも彼が、だれかを愛することはない。
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