第3話 解決編

 その遺体が発見されたのは夜四時過ぎのことだったらしい。

 終電を逃してターミナル駅から徒歩で自宅まで二時間かけて帰った男性がその遺体を発見した。遺体は、例によって壁から尻を突き出すような形でそこに置かれていたようだ。

 現場は小さなアパートのゴミ捨て場だった。コンクリートブロックを積み重ねて作られた小さな一角に遺体は放置されていた。例によって切断面を壁に接する形で放置され、例によって現場は血まみれだった。冬の寒い日のことだったから、虫の類はそれほど湧いてはいなかったようだが、しかしそれでも臭いがきつかったと発見者の男性は話している。駅から自宅までの帰り道、曲がり角を曲がったところでいきなり女性器むき出しの下半身を見かけた男性は一瞬幻覚を見ているのかと自分の正気を疑ったそうだ。性欲が有り余ってありもしない妄想を抱くようになったか。一瞬、そう考えたそうだ。

 しかし鼻を突く異臭と、片手に持っていた清涼飲料水が男性を現実に引き戻し、慌てて警察に連絡、ということに至ったらしい。私に連絡があったのは私が大学についてすぐ……つまり朝の七時過ぎ。私は考え事をする時は朝の時間を大事にすることにしているので論文の締めくくりを書く時も学会発表用の資料を整理する時も朝一で大学に行くことにしている……のことだった。警視庁捜査一課の安西から連絡を受けた私はすぐにその日の予定をすべてキャンセルし現場に向かった。この事件が起きてから、私のゼミ生はもう幾度目かの講義中止を受けることになるが、まぁ、学部生レベルならそれくらいの方がむしろ嬉しいだろうと私は思った。卒論の進捗が気になるところではあったが、その辺りは院生の指導力に任せているところがあるのであえて深く考えないことにした。それよりも、私の性的関心と学問的関心が奇跡的なシンクロを見せているこの一件への好奇心の方が勝ってしまったというのが正直なところだ。

 遺体を見て私が率直に抱いた感想はこうだ。

 汚い。

 殺された女性の尻はお世辞にも綺麗な尻だとは言えなかった。出来物の跡の類があって表面的に汚かった、というわけではない。小ぶりで、貧相で、まるで小学生児童の尻を見ているような気分にさせられる尻だったからである。

 はっきり言って、この程度の尻なら男湯で見られるおっさんどもの尻と大差ない。そう思える尻だった。私はここに来て再び壁尻殺人の犯人のセンスに疑問を抱いた。一体何を基準に女性を選定しているのだ? いや、社会進出を果たしている女性に対し攻撃感情を抱いていることは分かった。しかし、壁尻にするというのに女性の尻の形に関心がないというのはいったいどういうことだ? 私の混乱が伝わったのだろうか。安西刑事は心配そうな顔をしてこう言ってきた。

「あのう。何か分かったのでしょうか」

「逆です。さっぱり分からない」

 本心だった。さっぱり分からない。

「犯人の目的というか、その、女性を選ぶ基準というようなものが、全く見えてこないんですよね」

 私がそうつぶやくと安西は気の抜けたような「はあ」という返事をした。私は彼女に訊ねた。

「被害女性の職業は?」

「あ、えーっと」

「CAだったみたいですよ。スチュワーデス、って言い方は古いんですかね」

 いつだか私に有意義なアドバイスをしてくれた鑑識のおじさんがそう言った。彼は安西刑事のことを見ると気まずそうに帽子に手をやり一礼した。私は彼に訊ねた。

「やり手の企業の……?」

 すると鑑識のおじさんは一枚の写真を見せてきた。どうやら、遺体発見当初の写真らしかった。

 女性の膣にねじ込まれた、一枚の布切れ。

 見覚えはあった。これでも一応、年に数回は飛行機に乗る。被害女性はどうやら大手航空会社のCAだったようだ。

「無残な殺され方ですよね。自分が働いていた頃の勲章みたいなものを性器につっこまれるだなんて……」

 鑑識の彼は切なさそうにそう言った。私は表面上、彼に対し同感の意を示しておいたが下半身はそうではなかった。私はこの手の話に興奮する性質だ。女性の無残な、無様な姿に興奮するのだ。

「膣内からは他にも何か見つかりませんでしたか?」

「見つかりました。精液が……殺精子剤も一緒に」

 やはり精液が。それも、殺精子剤も一緒に。私は頭を抱えた。何故だ。何故コンドームに射出した精液を、再び女性に注入する? どうせ殺してしまうのだから、最初から生でするのじゃだめなのか? 犯人にとっては、避妊具をつけることに何か意味が……? 非科学的な空想ばかりが頭を駆け巡った。私は頭を振ると現場から運ばれて行く遺体を見つめた。

「上半身は?」

「見つかっておりません」

「乳房だけ、とか、髪の毛だけ、とか、そう言ったパーツ単位でも……?」

「ええ、上半身は影も形もなくなっているそうです」

 ますます分からん。もしかして、考え方が逆なのか? 現場に残された尻の方こそ犯人にとっては「どうでもいいもの」で、現場にない上半身が犯人にとって「重要なもの」なのか? そう考えれば多少の説明はつく。犯人は元から尻に興味のない人間だから壁尻という観点ではあまり美しくない尻を持つ女を選定している。もしかして異常なまでの巨乳好きだとか、上半身フェチだとかいう結論に至るのか……? しかしそうだとしたら、膣内に遺した精液はどうなる? 

 私は混乱した。混乱したから、手近にいた安西を捕まえて少しいじめることにした。

「遺体と同じポーズを取ってもらえますか? こう、お尻を突き出す感じで」

 安西がゴミ捨て場に手をつき、尻を突き出す。

「こ、こうですか……?」

「そうです(いや、実にいい尻だ)」

 しばらくそのままでいて、と私は言うと、安西の尻を眺めて数分を過ごした。安西の写真も何枚か撮った。考えていたことはただ一つ。今すぐこの場でこの女を全裸に剥いて犯してやりたい。

「ありがとうございました」

 脳内でたっぷりと安西の尻を堪能した私は彼女を解放することにした。安西は首を傾げながらその場を離れた。私は言った。

「しばらく、研究室で考えてみることにします。用があったら、また電話で呼び出してください」


 壁尻殺人に進展があったのは、翌日の午後の事だった。

 ちょうど私は大学の学食で大してうまくもない昼食をとっている最中だった。壁に設置された大型のテレビ。本来なら大学内のニュースだとか掲示物などを表示する薄型のテレビに、それは映った。

『都内連続異常殺人の犯人、逮捕?』

 私は食べかけていたラーメンを吐くかと思った。慌てて私は研究室に引き返して室内の電話の着信履歴を調べた。ちょうど私が昼食を取りに部屋を出たタイミングで、数件の電話がかかって来ていた。どれも見覚えのある……すなわち、警視庁捜査一課の安西の……番号だった。

 留守番電話に数件、録音が残っていたので私はそれを再生した。要件はこうだった。

「犯人と思しき人物を確保しました。至急、来てください」

 言われなくても行くつもりさ。私は大慌てで外出の準備をすると研究室を後にした。


「容疑者赤嶺孝男は男性。都内在住。職業不詳です。先生のご意見が伺いたくて本日はお越しいただきました」

「連絡ありがとうございます」

 マジックミラー越し。私は容疑者男性を見つめながら安西の報告を聞いていた。

 しかし相変わらず、彼女の報告から何かを得られることはなかった。

「私の方で彼に話を聞く、ということは可能でしょうか?」

 壁尻殺人の犯人。私がずっと尊敬の念を抱いていた人物が今、目の前にいる。そう思うと、私は、興奮を隠しきれなかった。この男を分析したい。この男の頭の中を覗いてみたい。そういう使命感のようなものに駆られた。だから私はそう訊ねた。彼に話を聞くことはできるか。私にその権限はあるか。すると安西は、ちらりと腕時計を見てからこう答えた。

「稲村先生にはぜひ、犯罪心理分析を行っていただきたいと思っています。つきましては、これから行われる尋問の後に、先生の尋問時間を設けております」

「それはありがたい話です」

「先生にはこれから行われる尋問の様子も観察していただいて、心理分析をしていただきたく思っております」

「承知しました」

 私は姿勢を正した。マジックミラーの向こうでは、髭面の何だか冴えない顔をした、品のない男がぼけっと椅子に座っていた。私は言った。

「尋問を始めてください」


 それから警察の人間がやった尋問の内容は、有体に言ってしまえば、退屈そのものだった。

 いや、警察の人間に落ち度があったわけではない。むしろ彼らはきちんと系統立てた質問を容疑者男性にしていた。しかし問題は容疑者男性の方にあった。何を聞いても何を言っても、「俺はやってない」の一点張りなのである。

「だからよ、俺はやってないんだって。無実なんだ」

 私は警察の人間に……安西は別の仕事があるのか、尋問途中で私の近くを離れた……警察が彼を逮捕した根拠について訊ねた。私の近くにいた警官は、姿勢を正すとこう言った。

「精液のDNAと、容疑者男性のDNAが一致したのであります」

 精液のDNAが一致した? 私は首を傾げた。犯人が唯一現場に残していった自分の痕跡。あれが証拠になったというのか。私は詳しい話をその警官に聞いた。

「照合元になったDNAは、どうやって入手したのですか?」

「はっ、本官も詳しくは聞いておりません。安西警部補が証拠を確保したということしか……」

 安西が? あのうすのろ女が? 私がさらに首を傾げていると、取調室の中にもう一人の男性刑事が入って来た。どうやら尋問のプロらしく、人当たりのよさそうな柔和な顔をした男だった。

「君がやったことは分かっているんだよ」

 刑事はそう言った。男は黙っていた。

「君の自宅から採取されたDNAと、事件現場に残されていたDNAとが一致した。もう言い逃れはできないんだ」

「なんで俺が捜査線上に上がったんすか」

 赤嶺は私が聞きたかったことをずばりと聞いてくれた。刑事は言った。

「被害者の内の一人……高宮ゆきさんに対してストーキング行為をしていたね?」

「それもう二年も前の話じゃないっすか」

「していたね?」

「していましてけども」

 なるほどそう言うことか。被害者周辺を徹底的に洗った結果、捜査線上に浮上したのがこの男というわけだ。しかし今のところ彼が関与していそうなのは高宮ゆきの一件だけで他の事件には関係がなさそうである。まぁ、一つのほころびを徹底的にほじくり返すというのが警察のやり方というものなのだろうが。

「二年前のことに関しては接近禁止命令が出て以来何もしちゃいませんよ。今日まで綺麗さっぱり忘れて生きていたくらいなんです」

「本当かなぁ。じゃあどうして、高宮ゆきさんの膣内から君の精液が見つかったんだね」

 そんな感じの尋問がもう一時間ほど繰り返されたところで、ひとまず彼の仕事をは終了したようだった。安西に言われた通り、私の尋問タイムになった。

 私は一通りの捜査資料を手にして取調室に入った。私が彼に対して聞きたいことはただ一つだった。それ以外の質問は、大方警察の人間がしてくれた後だったのである。私は赤嶺に向かって、こう訊ねた。綺麗さっぱり、簡潔に。

「最近、何かいいことはなかったか?」

「いいこと?」

 私はにやりと笑うと言った。

「私はあった。知人の伝手でとある風俗店に行ってね。それはいい思いをさせてもらった。〈壁尻バー〉というのをご存知かね?」

 私はそれから、自分が〈壁尻バー〉でした行為を一つも漏らさず彼に報告した(警察関係者に私の存在がどう映ったかは知らない。もしかしたら容疑者を饒舌にするための方便だととってくれたかもしれない)。すると赤嶺の方も下卑た笑いを浮かべて……多分、こう言う話をしても大丈夫な相手だと安心したのだろう……こう言った。

「いや、あんたほど大した話じゃないが、俺もこの間淫乱女に会ってよぉ」

「淫乱女」

「普段はこう、スーツをびしっと着た感じの、いかにも仕事ができそうな女、って感じだったんだよ。けどそいつ、バーで俺のことを見るや否やスカートをたくし上げてトイレで一発……それからホテルでも……」

 男はそう言ってけひひ、と笑った。私はスマホを操作すると、ある写真を見せた。

「こんな女じゃなかったかね?」


「ご用、とは何でしょうか」

 安西刑事が私の研究室を訪れたのは、その日の夕方のことだった。私は椅子を勧めると、彼女に聞いた。

「コーヒーは?」

「いただきます」

「……ミルクと砂糖は?」

「いただきます」

 安西は自分がここにいる理由が分かりかねる、というような顔をしていた。私は言った。

「壁尻殺人について一つの考察を導くことができましてね」

 すると安西は姿勢を正してこう言った。

「ぜひ、お聞かせ願えますか」

「もちろん。今日はそのために来ていただいたんです……」

 それから私は、今日手に入れることができた捜査資料をばさっと机の上に放り出した。安西の目の前に、それらは散らばって行った。私はその中から一枚の写真を取り出すと言った。

「まず、最初の被害女性です。名前は三高早百合さん。彼女に関して気になる点が一つ。それは、解体のレベルが違うということ」

「解体のレベルが違う」

「ええ。聞くところによれば、彼女の事件だけは肉片や骨片といった細かいパーツまで見つかっているそうですね。他の事件では見つかっていないような細かなパーツまで」

 安西はじっと押し黙っていた。私は話を続けた。

「これについてはある仮説を立ててあるんです。それは、最初の事件において犯人はあくまで『運搬・隠蔽』が目的で遺体をバラバラにしたのではないか、ということです」

「運搬・隠蔽」

「ええ。遺体をどこかに隠してやろうと考えていた。だからこそ、遺体をより細かなパーツにまで分けてやる必要があった」

「しかし結局、下半身は見つかっているわけで……」

「そこです」

 私は人差し指を立てた。

「そこが一番不可解なポイントなんです。遺体を隠すことが目的だったはずなのに結局下半身は見つかっている。そこで私は、こんな仮説を立ててみました」

 私は研究室内にあったホワイトボードに簡単に図を描いて説明した。まずは簡単に、人の形を描いてからその腰の辺りに線を引いて体を半分にした。

「犯人は、遺体を隠蔽する際にまず、遺体を半分にすることを考えた。解体するにもまず順序と言うのが必要ですからね。そしてまず、上半身をバラバラにした。これで上半身の隠蔽が可能になる。しかしそこで問題が起きた」

 私はホワイトボードの上に描かれた人形の上半身だけを消すとこう続けた。

「残った下半身を処理しようとした時に、本件の第一発見者が現れてしまったんです。つまり、事件が発覚してしまった。やむなく犯人は下半身を放置して逃げざるを得なくなった。そして偶然、本件の特徴が出来上がってしまった」

 私は三高早百合の発見された下半身の写真を指差した。それは美しい尻をした女だった。この女の尻を好きにできるのなら、いくらでも積むだろう。そんな尻だった。だがこの尻は壁尻としては不完全だ。そう思いながら私は話を続けた。

「つまり犯人にとって最初の『壁尻』は意図しないものだった。第一発見者が来てしまったから思わず置いて逃げたのだが世間でそんな風に騒がれるだなんて思ってもいなかった。その証拠に、ほら……」

 私の指の先では、三高早百合の尻の切断面は壁に接する形で置かれてはいなかった。ただ単純に、壁に立てかけた状態で放置されていたのだ。

「なるほど」

 安西が小さく頷いた。

「話を続けます」

 私はコーヒーを一口飲んだ。うまくもないインスタントコーヒーだ。

「続いて気になる点は犯人が女性を選出する理由です。今回の事件においてはこの特徴がなかなかつかめずに苦労していた。しかし私は、つい最近ある特徴を見つけることに成功しました。被害者には専業主婦がいないんです」

 それから私は、柴葉と話している時に得られた知見を簡潔にまとめて安西に話した。安西は頷きながらその話を聞くと、こう言った。

「社会的に進出している女性に対して攻撃感情を抱いている……」

「その通りです。今回の犯人が女性を選ぶ際の基準、それはターゲットが社会進出を果たしている女性であるか否か」

「赤嶺は社会進出をしている女性に恨みでもあったのでしょうか?」

 そんなことを訊ねてくる安西の口に、私はそっと人差し指を当てた。彼女はじっと押し黙った。

「最後の謎。それは精子です」

 私は捜査資料にあった精液の成分分析の表を示すと安西に言った。

「殺精子剤の成分が検出されている。犯人は、コンドームを用いて精液を採取した後、それを被害者女性の膣内に入れるという行為をしているんです。異常でしょう?」

「え、ええ」

「一見すると支離滅裂です。どうせ殺す相手なのに、あるいは殺した後の相手なのに、避妊具を用いて性交し、しかもその行為を無に帰するような行為をあえてする。犯人の目的が見えてきません。しかしこれにも、ちゃんと理由があったんです」

 私は安西に背を向けて窓際に立つと話を続けた。

「例えば犯人が私なら、こんなことをする必要はありません。私はこんな意味不明な行動などしない。殺した人間を相手に避妊具を使って性交するだなんてゴムの無駄遣いだ」

「でしょうね」

「ところが犯人にとってはそれをする必要があった。必要があったから犯人はコンドームを使ったんです」

 私は安西の方を振り返った。それから言った。

「犯人は女性です」

 沈黙が一気に重さを増したのを感じた。私は構わずに話を続けた。

「犯人は女性だった。だから、精液を自分で作ることができなかった。精液を採取しようとしたらどうしても何か容器が必要になる。それがコンドームだった。犯人は……この際だから彼女は、と言ってしまいましょうか……彼女は、自分以外の人間が犯行に及んだように見せかけるためにどうしても精液が必要だと考えたのでしょう。自分の代わりに逮捕されるスケープゴートを前もって用意していた、という風にも言えるかもしれない。それがあの赤嶺孝男だった。彼女は前もって赤嶺孝男とセックスすることでコンドームに精液を射出させ、それを証拠物件として使うことにした。遺体の膣に注射器か何かを使って精液を注入してそれを異常な犯人による異常な性交の痕跡に見せかけようとした。ところが彼女は失敗した。コンドームに殺精子剤という薬品があることを知らないまま行為に及んでしまった。だから殺精子剤入りの精液という謎の証拠物件が出来上がった」

 安西は沈黙していた。私は再び彼女に背を向けると話を続けた。

「今回の事件は『男性による異常性欲の発展』としての事件ではなかったんです。『女性による、女性に対する嫉妬の発現』としての事件が正しい形だった。だから社会進出を果たしている女性が狙われたんです。つまり、こんなことをする女性をプロファイリングするのだとしたら、こんな人物像になるでしょう」

 私はホワイトボードに再び近づくとペンを手に取った。それから書いた。

「犯人は、①女性。②社会進出を果たしている女性に対して劣等感を抱いている。③②から推測されるに、恐らく犯人は社会的に遅れている、あるいは思うように社会進出できていない。④殺精子剤の存在に気付かなかったことから、恐らくあまり気のつく人物ではない。こんなところでしょうか……」

 それから私は、再び安西に背を向けるとこう続けた。

「現在容疑者とされている赤嶺孝男は当然、その①~④のどれにも該当しません。まず彼は男性ですしね。そこで彼に聞いてみたんです。『最近何かいいことはなかったか』ってね」

 そしたら教えてくれましたよ。私のその声は研究室に虚しく響き渡って行った。

「つい最近、バーで知り合ったスーツ姿の女が淫乱で、いいセックスができた、とね。そこで彼に聞いてみたんです。こんな女じゃなかったか、って。あなたの写真を見せて」

 私の背後で安西は沈黙していた。私は続けた。

「彼女は……いえ、もうこの際だからあなたは、と言ってしまいましょうか……あなたは、最初の三高さんの事件の時は思わぬ形で『壁尻』が実現し、驚いたかもしれない。しかしその『壁尻』が女性を最高に侮辱するスタイルであることを知り、以降の殺人はすべてその『壁尻』に見立てた方法で遺体を放置することに決めた。あなたの目的は最初から社会進出を果たしている女性に屈辱的な死を与えることだった。それには『壁尻』というスタイルは持って来いだった。あらかじめ赤嶺孝男を自身のスケープゴートとして利用する腹積もりでいて……そのために必要な被害者周辺の情報、というのも警察のあなたなら入手しやすい……赤嶺とセックスすることでその精液を採取し、事件現場に残した。あなたがやったことを端的にまとめるとすれば、こんなところでしょうか……」

 背後で物音があった。それは、鞄を開ける時にジッパーが立てるちぃーっという音だった。私は彼女に背を向けたままだった。だが、彼女の行動は手に取るように分かっていた。馬鹿な女だ。馬鹿な女だ! 

 夕暮れ。それも、冬の夕暮れである。日はあっという間に落ちる。もう窓の外は真っ暗で、窓ガラスには室内の明かりが反射してちょっとした鏡のようになっていた。私は私の背後で起きていることを、もちろんしっかりと把握していた。

 安西は鞄から包丁を取り出していた。そしてこっそり私に近づいている最中だった。馬鹿な女だ。窓ガラスのことに気が付かないとは。私が背を向け油断していると思い込んでいる。馬鹿な女だ。そんなのだから、殺精子剤を見落とすのだ。

 彼女が私の背後で大きく振りかぶるのを、私は黙って見ていた。はっきり言うが、肉弾戦で女に負けるほど私も軟じゃない。振りかぶった包丁を振り向きざまに下ろさせることくらい、私には何ともないことだ。

 それよりも安西の尻! あの尻を私は堪能できるだろうか。振り向きざまにあの包丁を取り上げて、安西に突き立てて、それから悠々と警察を呼んで助けを求めて、しばらくは格闘があったふりをして、安西の尻を撫でまわすくらいの時間を、私は確保できるだろうか。いや、きっとできるだろう。他でもない、私なのだ。好きなことへの情熱は誰にも負けない。

「先生」

 安西が話しかけてきた。今から十分もしない内に、ことは解決するだろう。





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壁尻殺人事件 飯田太朗 @taroIda

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