第2話 事件編その二
「警視庁の安西です」
ドアの向こうからあの尻の形のいい女の声がした。私は喜び勇んで……といっても内心だけのことだが……ドアを開けた。
「こんにちは」
片手に警察手帳を持っている彼女は何故か気まずそうな顔をしていた。私はドア口から顔を覗かせた体勢のまま応じた。
「こんにちは」
「お話がしたいので、中に入ってもよろしいでしょうか」
伏し目がちにそう訊ねてくる安西。ええ、よろこんでと言いたかったが私は自分の体臭が少し気になった。精液臭くないだろうか。先述の通り、私は今朝、研究に集中できるように、睾丸中の精液を全部吐き出してきた。具体的には、朝五時から七時まで二時間かけて八回から十回程度射精した(五回を超えたあたりから射精の回数を気にしなくなった)。おかげで頭は絶好調だが、股間から発散される体臭、および全身の汗腺から発散される汗臭に性的な分泌物が混じっていないか不安になった。しかも、女は男より五感が鋭い。事、嗅覚においては男性よりも鋭い感覚を持っている。私が気づかない体臭に、彼女が気づく可能性は大いにある。
しかし、ここで彼女の提案を断るいい材料が私にはなかった。ちょっと散らかっているので構内のカフェでお話ししましょうとでも言えばそれだけで済む問題だったが、事、性的な問題が頭に浮かんでいると男の知能は途端に低下する。私とて例外ではない。私はどもり気味になりながら応じた。
「え、ええ、ええ。どうぞ。いいですよ」
ドアを開く。安西真琴が私の研究室に二度目の来訪を果たした。私は一瞬、前回と同じ椅子を勧めようかと迷ったが、あの椅子はその辺の変な客に座られることがないよう研究室の一番奥に……私の椅子の近くに……置いてあったので仕方なく別の椅子を勧めた。まぁ、この部屋に彼女の尻を受け止めた椅子が増える分には問題ない。後で裸になって彼女が尻を擦りつけた椅子に股間を擦りつけるとしよう。彼女のぬくもりが冷めやらぬうちにべろべろと舐め回すのでもいいかもしれない。
安西が私の勧めた椅子に座る。ああ、今この瞬間だけ私は椅子になりたい。その激情たるや『私は椅子になりたい』というタイトルで一冊の本が書けそうなくらいだ。睾丸中の精液を抜いてきたとは言え、ペニスは正直である。勃起こそしなかったがじんわりと熱を持ち始めた。じんじんと、筋肉痛のような痛みが走る。
私が思わず下腹部を押さえると……露骨に股間を押さえるわけにもいくまい……安西が心配そうな顔をして訊いてきた。
「お腹が痛いんですか?」
「いえいえ、つい最近久々に運動したら体中の関節が痛くてね。今はちょっと股関節が……」
なんて我ながら訳の分からん言い訳をする。生殖器の痛み、それも生殖細胞の排出に伴う痛みという意味では女性の生理痛にも通じる部分があるのだろう。違いがあるとすれば女性は受動的に吐き出さざるを得ない状況になるが男性は積極的、能動的に吐き出しにかかるということくらいか。もしかしたら男女間での性的事象への関心度の違い……男性の方がセックスに対して積極的であり、女性は消極的である……も、この受動能動の違いで説明できるのかもしれない。男性は性を能動的に感じることができるから積極的になり、女性は性を受動的に感じざるを得ないから消極的になる。論文が一本書けるとは言わないが新書の一冊くらいならこのテーマで書けそうだ。
「で、その、お話と言うのは?」
私は安西の方に水を向ける。彼女はかしこまるように尻をもじもじさせると……もっと! もっともじもじしろ! ……こう言った。
「先日はお忙しい中事件現場まで赴いていただいてありがとうございます」
「いえいえ。こちらとしても関心のある事例ですから」
「現場ではあまり先生のお力になれずすみませんでした。今回はそのお詫びと、二三伺いたい事があってお邪魔したんですが……」
「お詫びいただかなくても大丈夫ですよ。で、伺いたい事と言うのは……?」
ここで彼女は決意したような顔になると言った。
「先生は、現場でこう仰いました。『まだ男性が犯人と決まったわけじゃありませんけどね』。先生のお考えの中では、女性も犯人像として浮かんでいるということでしょうか?」
「ああ、いや、あの時は勢いでそう言ってしまいましたが……」
私はあの優秀な鑑識係の男を思い出しながら言った。結局、彼の性的嗜好は何なのだろうか。帽子をかぶっていたから分からなかったが額は広そうだ。禿頭の可能性がある。つまり、男性ホルモンがたくさん出ているということだ。そして男性ホルモンがたくさん出ているということは、つまりスケベだ。きっと何か、他人には言えない嗜好があるに違いない。
「あくまでも可能性の一つとして提案しただけで、具体的な犯人像にはまだ至っていませんよ」
「下半身にこそメッセージがあるのではないかとのことでしたが……」
「あれもまだ、仮説の段階です」
つまりまだ、何も分かってないのだよ。相手が学生だったら冷たくそう言っていただろう。しかし今私が相手をしているのは素敵なお尻の素敵な女性だ。一分一秒でも長くこの場にいてもらわないと困る。ドアホな学生どもとは話が違う。
「そうですか。先生の方でもまだ事件を考えている最中だったんですね」
「ええ。さすがにまだ何かを言えるような状況ではありません。もう少し分析をしてみないと……」
学者らしいことを言ってみる。私が言いたいことは要約すると「まだ何も分かっていませんすみません」なのだが、それをできる限り迂遠に言って彼女を引き留めようとしているのである。しかし作戦は功を奏さなかった。彼女は関心をなくしたように目線を下ろした。
「そうですか。じゃあ、お邪魔にならない内に帰らないと……」
と言って、安西が尻を上げる。ああ、上げてしまったか。上げてしまったなら仕方がない。帰ってもらおう。私はドアを開けると彼女を通した。帰り際、安西がすがるような目になって言った。
「本件は先生が頼りです。何卒、よろしくお願いいたします」
そう言ってお辞儀をする彼女。せっかくお辞儀をしてくれるなら、尻が強調されるアングルから覗いてみたいものなのだが。
「いえいえ、こちらの方こそ、よろしくお願いします」
そう言って頭を下げたのだが、私は鼻だけを器用に動かして彼女の残り香を嗅いでいた。シャンプーやら何やらの薬品に交じって、彼女の汗の臭いを感じることができた。
『都内でバラバラ殺人事件。被害者は女性。連続殺人か』
翌日。私は、巻頭を飾っていたグラビア目当てで買った週刊誌に例の壁尻殺人の記事が載っていることに気づいた。
『現状、被害者に共通点はなし。異常性欲者の犯罪か?』
『昨今増え始める異常性欲』
『都内秘密の風俗店〈壁尻〉バー』
何とはなしに担当記者名に目をやる。柴葉和義。私は再び記者名に目をやる。柴葉和義。さいばかずよし。サイバカズヨシ。柴葉和義か。私は胸のときめきを覚えながら、スマホを弄って電話をかける。しばしのコール音の後、応答音が聞こえてくる。
「柴葉か」
「もしもし。稲村か」
懐かしい声がスピーカー越しに聞こえてくる。私は言う。
「随分活躍しているようだな」
「何のことだか分からないな」
「壁尻殺人だよ」
そう言いながら、私は自分の手の爪を見る。少し、伸びてきた。机の引き出しを開け、爪切りを探しながら私は言う。
「君の記事を読んだ。随分詳しく調べているんだな」
「何言ってるんだ。後半なんかほとんど風俗ルポだ」
爪切りを見つけた。私は、机の上に飾ってある学部の卒業パーティの時の写真を見た。写真の中には、柴葉と私が写っていた。私は言った。
「二年ぶりになるかな。いつだか同窓会で会ったよね」
「会ったな。……ははあ」
この時になって柴葉はようやく私がなぜ電話をかけてきたのか悟ったようだった。
「お前、行きたいんだろ」
「どこにだ?」
ティッシュを広げ、爪を切る。飛んでしまわないように気を付けていたのだが、ぱちんと切った爪はどこかへと消えてしまう。
「〈壁尻〉バーだよ」
ふむ。さすが私の学部時代からの友人だ。私の趣味嗜好をよく分かっている。私は言う。
「先日事件現場に行ったんだよ。犯罪心理学者として、犯罪分析にね。君の記事に使えそうな情報ならいくつか持っているんだけどね」
「そうか」
まだ推しが足りないか。
「事件について話をしてもいい。犯罪心理学者としてコメントを残そう」
「稀代の天才犯罪心理学者、稲村秋人のコメントとあればよそも欲しがるだろうな」
「そうなのかな。しかし相手が君ならギャラなしでもいいよ」
柴葉が少しの間沈黙した。私は言った。
「日程も君に合わせよう」
すると電話口の柴葉が笑った。
「暇なのか、学者は」
暇ではない。断じて暇ではない。情熱があるだけだ。自分が関心を持ったことに対する、熱い思いが。
すると柴葉が言った。
「よし、明日の夜七時に○○(場所は伏せる)に来い」
「分かった。明日の夜七時に○○だな」
「存分に楽しませてやる。お前も俺を楽しませる情報を持って来い」
柴葉が電話を切った。私はため息をつくと、爪切りの続きを始めた。
異常性欲とは、大きく二つに分けることができる。
一、量的異常。性欲が極端にありすぎていつでもどこでもセックスをしたがる。あるいはその逆。性欲がなさ過ぎて目の前で女が裸踊りを始めても冷めた顔でいる。こうした性欲の亢進と減退が異常性欲の分類その一。量的異常性欲である。
私にはこの気がない(と、自覚している。もちろんあくまで自覚でしかなく、客観的な根拠などはない)。私は講義の度に大量の女子大生を目にするが、彼女らに欲情することは一切ない。あるとしたら彼女らを壁尻にした現場を妄想した時だけ。その時だけ私の性欲は亢進される。言っておくが、世のアダルトビデオ業界には「女子大生」というジャンルが存在するくらいなので、私が講義の度に置かれている状況……すなわち、六〇〇人近い女子大生の群衆の真ん中にぽつんと一人置かれて、あまつさえ勃起ペニスを見られそうになるという状況……に、金を払ってでも置かれたい男というのは一定数存在するはずである。しかし、私はそんな状況に置かれても興奮は愚か恋愛感情さえ抱くことがない(くどいようだが、私が興奮するのは六〇〇人近い女子大生を全員壁にぶち込んで壁尻美術館のようにした場面を妄想した時だけであって、講義の度に勃起しているわけではない)。よって、私の場合分類その一の量的異常性欲には属さないことになる。
分類その二、質的異常。これは想像しやすいかと思う。例えば、まだ乳も膨らんでいない女児に興奮するのは質的異常の一つだ。いわゆる、小児性愛というやつである。性的対象の異常という分類ができるだろう。同様に、犬だの山羊だのの動物を性的対象にするのも質的異常性欲の一つであると言える。連中は馬を相手に交尾を……驚くなかれ、女性が馬と交わろうとするケースもある。あんな生き物の一物をぶちこまれたら子宮が破裂して死んでしまう……求めることもあるので頭がおかしい。他にも、行為の異常というのも質的異常性欲に分類される。例えば、露出狂。公衆の面前に恥部を晒したいという衝動は間違いなく異常性欲に分類されるであろう。私の壁尻性癖もどちらかと言えばこの分類に属する。
とはいえ、この質的異常は「異常」の定義が難しい。事、セックスとは常に文化的、歴史的、地理的、社会的、伝統的影響を受けやすい現象であるため、ある国や地域で異常とされる性行為が、他の国では当然のように行われていたりする。一夫多妻制などを例に考えてみると分かりやすいだろう。一人の男性が複数の女性と関係を持つことは我々の国にとっては『異常』だが……そうでもなければ不倫報道に価値などなくなるだろう……しかしアフリカなどの国ではそれが『正常』だ。もしかしたら、アマゾンなどの未開の地では私の性癖である壁尻が……すなわち、女性が性交の際に上半身を覆い隠すというような行為が……一般的である文化もあるかもしれない。この場合、私の性癖は決して異常性癖などではない。文化の尊重である。
すなわち、質的異常性欲は考えようによっては文化なのであり、歴史なのであり、地理なのであり、社会なのであり、伝統なのである。私の性癖も考えようによっては文化であり、歴史であり、地理であり、社会であり、伝統である。不倫は文化だと言った芸能人が過去にいたが、あれはあながち間違ってもいない発言なのである。
さて、私は今夜もその文化の発展に寄与する必要がある。すなわち、壁尻系のアダルト作品の検索、及びその購入である。この手のメーカーはたいてい月に一度くらいのペースで新しい作品を発表してくれるので私も月に一度くらいのペースでメーカーのサイトを覗きに行く。雰囲気としては、サラリーマンが仕事終わりに行きつけの居酒屋に行くようなものだ。私の場合、行きつけの居酒屋も、好きな酒も好きな料理もないから当然情熱がここに注がれることになる。
壁尻と言うのは三次元での再現が難しいものなので……と、書きはしたが動物との性交に比べて格段にやりやすいジャンルではあると個人的には思う……現実の女性が壁尻をやってくれる例と言うのは極端に少ない。よって私が興じる壁尻も、必然的に二次元が多くなってくるのだが、このところ私は肉感的な尻にハマっているので、とあるアダルトゲームブランドの作品を愛好している。その作品の中では、強くて逞しい、男性よりもずっと社会的に優位に立っている女性が、無残なまでに壁に埋め込まれ、その尻を性器をさんざんなまでに犯されている。尻たぶに『男性用便器』という落書きまでされて、精液と愛液まみれにされて放置されている。ホームレスのように何日も何か月も何年も風呂に入っていない薄汚れた男のペニスを受け入れざるを得ない状況下に放置されている。私は、そういう作品で己の性欲を高めに高め、ペニスを擦り、精液をティッシュペーパーに吐出している。例の事件が起こって以来、それが日課になっていると言っても過言でもない。
しかし、私は今夜、自分の性欲を高めるところまではいっても精液の吐出は行わない。ペニスを擦りこそすれ、射精にまでは至らせない。いわゆる、自発的生殺しである。私は明日、柴葉に連れられて例のバーに行く予定である。行ったはいいが出すものがないという状況では赤っ恥もいいところである。明日に備えて私の睾丸は精子を大量に生産しておく必要がある。精子を蓄え、ぷりっぷりに膨らんでおく必要がある。が、その一方で、私の中での性的欲求が高まっているのもまた事実である。射精はしなくても、そこに至るまでの快感を味わうことはできる。射精寸前まで高めてやめて、また高めてやめて、を繰り返す。煙草で言えばシケモクを吸っているようなものだろうか。わびしさの中にまた、味がある。そんな暴発寸前のオナニーに私は今宵ふける。
よくゼミの女子学生に、先生はお休みの日何をしているんですかと聞かれることがある。そういう時、私はたいてい読書をしていると答えることにしているのだが、実際は違う。その質問をしてきた学生を頭の中で壁にぶち込んで犯しまくっている(壁尻の場合、相手が美人である必要がないので便利ではある。どんな女も体つきさえよければ性的対象となる)。あるいは、先述のアダルトゲームブランドのサイトを覗いて自分のペニスを擦りまくっている。それ以外にない。逆にそれ以外何をしろというのだ。男の休日なんてたいていそんなものだ。みんなが憧れるイケメンも、他人には言えない性癖の一つくらい持っている。あるいは、潜在的にその因子を持っている。少女漫画のイケメン君も月曜ドラマの王子様も、それが量的であれ質的であれ、他人には言えない性癖の一つや二つ持っているのである。世の女性はそのことにきちんと留意してもらいたい。そんなことを考えながら、今宵も私の夜は更ける……。
翌日、私は約束までの時間を悶絶しながら過ごし……いっそのこと大学を休んでやろうかと思った。女性に生理休暇が認められるなら私にも性欲休暇を認めるべきである……、ついに午後七時を迎えた。場所は都内のある場所(例によって控える)。柴葉との待ち合わせ場所に、私は三十分早く着いて待っていた。この三十分の長かったことと言ったら。危うく私は性欲に狂うあまり街路樹に頭を打ち付けそうになった。それだけの辛抱をした末、私は柴葉と二年ぶりの再会を果たすことができた。あいつは私の背後から私に近づいてきた。
「よう。待ったか」
口髭を蓄えたあいつは、片手を上げながらそんなことを言った。
「今来たばかりだ」
振り向きざま、まるでデートの待ち合わせでもしていたかのようなセリフを吐いて私は彼を歓迎した。今にして思えば、歴代の彼女の誰にも「今来たばかりだ」なんてセリフを吐いたことがなかった。「待った」と聞かれて待った場合は素直に「待った」と答えたし、待たない場合は相手に待たせていた。集合時間ジャストに来たことなど一度もない。
「元気そうだな」
そう言ってにやりと笑ってくる柴葉。嫌味な笑顔だ。もっとも、こいつは昔からそういう笑い方をする奴だったが。
「君もね」
短くそう言う。はっきり言って、私は柴葉に会いたかったわけではなく、柴葉の紹介によって例のバーに行くことが目的だったのでこの短いやりとりにも大変いらいらさせられた。柴葉が言う。
「お前に取材をするのが先か? それともお楽しみが先か?」
そんなの決まっているだろう。
「楽しい方が先だと嬉しいね」
柴葉がまたにやりと笑う。
「よし。じゃあ、行くか」
歩き出した柴葉の後に、私はついて行った。
例のバー。つまり〈壁尻〉バーのシステムは簡単である。
まず、入り口に入ったところで料金を払う。基本料金二万四千円。プラス一万円から二万円でオプションをつけることができる。もちろん私は合わせて四万円四千円払う。これで、つけられるオプションは全てつけることができるようになる。すなわち、壁に嬢の一番かわいい写真あり、下着破りあり、尻ビンタあり、写真撮影あり、おもちゃあり、本番行為ありの何でもありコースである。都内の風俗店で四万円台でこれだけできる店はなかなかない。柴葉はいい場所を紹介してくれたということになるだろう。
料金を払うと、店の中に通される。店内は暗い。パテーションとカーテンで簡単な仕切りが作られており、ぱっと見は劇場の舞台袖のような雰囲気だ。BGMが流れているから目立たないが、時々カーテンの向こうから肉と肉がぶつかるようなぱんぱんという音が聞こえてくる。きっと先客が楽しんでいるのだろう。店員に導かれるまま店の奥に行くと、あるカーテンの前で立たされた。そこで何故か、ボディチェックを受けた。おそらく、嬢を守るシステムだろう。見ず知らずの男に無防備の下半身を晒す仕事なのだから、嬢に自身の身を守る術はない。ナイフを持った男に襲われでもしたら大変である。店としても大事な商品に傷をつけさせるわけにはいかないのだろう。
ボディチェックが終わると、カーテンが開けられる。待望のご対面。そこには、コンクリート打ちっぱなしの壁と、小さな穴、そこからにょっきりと生えた女性の尻があった。丸い尻。女性的な尻。薄桃色の尻。その尻を覆う、薄紫のパンティ。すべてが最高だった。私はその尻にむしゃぶりつきたくなるのを我慢しながら店員の話を聞いた。
「お時間は……柴葉様のご紹介と言うことでプレミアムコースですので、一時間半です(どうやら通常は六十分らしい)。タイマーが鳴ったら、そこで即終了です」
店員が尻の脇に置いてある小机にタイマー付きの時計を置く。私は頷く。
「では、ごゆっくりお楽しみください」
店員がカーテンを閉めたところで、私は服を脱ぐ。裸になる。壁から生えた尻にキスをし、下着を破く。薄い陰毛と女性器が露になり、私の興奮はどんどん高まる。私は壁に貼られた嬢の写真を見た。高部ユリ、二十歳。肩まである長い黒髪に、黒目の大きい童顔の女の子がにっこりと微笑んでいる写真がそこにはあった。見る限り修正の類は使われていない。まるで家族写真を切り取ったかのような素朴な写真だ。しかし、その素朴さがまた私の興奮を掻き立てた。この女を産んだ両親は、娘がこんな仕事をしていると知ったらどんな思いをするだろうか。大切にしていた娘が、壁から下半身をむき出しにして男性を迎え入れ、小遣いを稼いでいると知ったらどんな気分になるだろうか。考えるだけで興奮した。また、どうせサバを読んでいるのだろうが、年齢が普段私の教えている学生たちと同じくらいという設定にもまた興奮した。私の壁尻美術館の願望の一端が今、目の前でかなっているのだ。
下着を破り、露になった尻を私は叩く。両掌で。びたびたと。やがて何をしても嬢の方が文句を言ってこないこと……言いたくても言えない環境なわけだが……が分かると、私は渾身の力を込めて女の尻をビンタした。赤く手形が残る。その上にまた手形を重ねるようにビンタをする。叩く。叩く。ひとしきり叩いたところで、今度は記念撮影をすることにした。店側が用意してくれてあるポラロイドカメラを手に取ると、私は様々な角度から壁に埋まった女の尻を撮影しまくった。床に現像された写真が散らばる。後ですべて回収しなければならないのだが、構わず私は写真を撮りまくった。やがて、嬢の尻に浮かんでいた私の手形が薄くなり始めたところで、私は次のお楽しみをすることにした。おもちゃの使用である。
説明などいらないだろうが、おもちゃとはいわゆる大人のおもちゃである。バイブ、ローター、電マ、ディルドの類である。各おもちゃがどんなものかが分からない人は勝手に検索でも何でもしてくれ。
私はローターを手に取ると嬢の尻たぶをがっとこじ開けた。女性器が露になる。私はその陰核にローターを当てるとスイッチを入れた。途端に、嬢の尻がびくんと跳ね上がる。その反応が面白くて、私はローターを強く押し当てたり、離したりを繰り返した。やがて嬢の反応が淡白になってきたところで、私はいよいよ本番行為に臨むことにした。
本番行為とはいわゆるセックスである。私はオプションで本番行為ありを選択している。つまり私は金で嬢に対し性行為をできる権利を買っているわけで、これから行われる行為はお互い合意の上での行われる。
私は脇の小机の上に置いてあったローション入りのボトルを手に取ると、嬢の女性器にボトルの先端を挿入した。それから、ボトルの腹を潰して中身を嬢の中にぶちまけた。ボトルを引っこ抜けば、前戯なしでも濡れ濡れヴァギナの完成である。これで挿入の準備が整った。
私は自慢の愚息を取り出すと、嬢の秘部に当てがった。先端からじんわりと嬢のぬくもりが伝わってくる。ああ、たまらない。私は腰を押し進めた。ゆっくりと、味わうように。嬢の中に私が入って行った。
それから先のことはよく覚えていない。狂ったように腰を振っていたことだけは何となく記憶している。射精までの時間はまるで天国にいるような気分だった。私は一心不乱に腰を振り、また嬢の尻を叩いた。叩いて叩いて叩き続けた。やがて、射精した。これは一応ルールで、中出しは禁止されているので私は嬢の尻の上にどくどくと精液を吐き出した。
と、こんな具合のお楽しみをもう一往復したところで、脇に置かれていた小机のタイマーが鳴った。時間である。私はふう、とため息をつくと服を着た。ネクタイを締めながら、思う。これに四万円はらったのか。何だか思い返してみると馬鹿馬鹿しかったような、しかしおかげさまで助かったような。妙な虚無感にとらわれながら私はカーテンから出ていった。もちろん、床に散らばった写真は全部回収したし、壁に貼り付けてあった嬢の写真も回収した。私の壁尻コレクション三次元の部の完成度がまた高まったことになるのだが、何故かうれしさはあまりなかった。あるのはただひたすらわびしい気持ち、虚しい気持ち。男と言うのは、セックスの後にこうした消沈を覚えるものである。それが例え愛する女性であったとしても、射精の後には必ず消沈が待っているのである。私は煙草の煙を吐くようなため息を一つ、つくと店を出た。店の外では、柴葉が煙草をふかしながら待っていた。
「随分楽しんだようだな」
にやりと、あいつが笑う。私は言う。
「おかげさまで」
それから私は手を上げ、柴葉に言った。
「一応、このことは誰にも言わないでくれよ。私にも世間体がある……」
「安心しろ。天才犯罪心理学者稲村秋人が変態風俗店に行っているだなんていう三流記事を書くつもりはさらさらない」
そうか。私は短くつぶやく。もっとも、そういうことをしないという確信があったから私は柴葉に今回の紹介を依頼したのだ。
「じゃあ、今度は俺が得をする番だ」
柴葉が言う。私は頷く。
「そこのカフェにでも入ろう」
その喫茶店はコーヒーが馬鹿に高かった。一杯六百円。ファーストフード店で一杯百円でコーヒーが飲めることを考えれば頭のおかしい値段だ。豆が違うだの淹れ方が違うだの言われてもそんなことは私には分からない。損をした気分になりながら席に腰掛ける。柴葉が言う。
「一応、取材だからな。録音させてくれ」
「構わないよ」
私はテーブルの上に置かれたボイスレコーダーを見て思う。私のあれはこれより大きい。
コーヒーもまだ来ていないのに柴葉が言う。
「早速、始めるか」
柴葉が今日の日付を口にする。記録、という意味で必要な儀式なのだろう。
「事件に関して重要な情報をつかんだとのことですが、どんなことですか?」
なるほど、どうやら彼の質問に答えていく形式らしい。私は答える。
「いえ、ちょっと、話しにくいことなんですけどね……」
と、言ってから馬鹿みたいな気分になる。この男の前で何を遠慮する必要があるのだ。堂々と言ってしまえばいい。
「コンドームについてなんですけど」
「コンドーム」
真面目な顔で繰り返す柴葉のことを見つめながら私は言う。
「ええ。先日、事件現場を訪れた時なんですが……」
と、言ってから自分が敬語を使っていることに違和感を覚える。録音機がある手前、仕方がない。これは親しい友人との会話である以前に、記録でもあるのだ。
「被害者女性の女性器の中から、精液が見つかったそうです。しかし、単純に精液だけじゃないようで」
「というと?」
「殺精子剤が見つかったそうです」
「殺精子剤」
「ええ。コンドームの先端とかによく入ってる、ゼリー状の」
柴葉が身を乗り出してくる。
「それが被害者女性の体から出て来たんですか?」
「ええ。異常でしょ? 恐らく犯人は一度被害者と性交をして、その後でコンドームの中にある精液を膣内に入れたんでしょうけど……」
「そんなことをして、何の意味が?」
「さぁ、そこまでは」
私が首を傾げると、柴葉が椅子に座り直して言う。
「確かに、事件の異常性を物語る証言ではありそうです。……間違いないんですか?」
「鑑識の人から聞いたので間違いないと……あ、ここはオフレコでお願いします」
「分かりました」
ふう、と柴葉がため息をつく。煙草臭い。
「他に、異常な点は?」
「恐らく犯人は現場で被害者女性を捌いているということでしょうかね。現場にはかなりの血がありました」
「それについては、一応こちらでも情報を押さえています……」
と、柴葉は手帳のページをめくって言った。
「一番最初の被害者、三高早百合さん二十七歳が殺害された現場でも解体の痕跡がありました。恐らく関節のものだと思われる骨片、内臓のものだと思われる肉片などが見つかっており、警察は現場で解体が行われたのではないかと考えている、とのことです」
「……そんなに子細なことが分かっていたんですか」
私は違和感を覚えた。私が行った現場では、そんな詳細な報告は上がってきていない。
「同様の痕跡は他の事件でも見られるようですが、個人的に気になる点が」
そう言って言葉を切る柴葉に私は訊ねる。
「どんなことでしょう?」
「一人目の時は、遺体をかなり細かなパーツにまで分解したことが想定されます。関節の骨片、内臓の肉片が見つかっていることから。しかし、それ以外の事件では単純に血が見つかっているだけで骨片肉片の類は少数しか見つかっていません。おかしくないですか?」
どうやら私が抱いた違和感と同じものを、柴葉も抱いたようだ。
「解体のレベルが事件によって違う……」
私がそうつぶやくと、柴葉も頷いて見せた。
「一件目は明らかに細かなパーツまで分解しています。しかし二件目以降は上半身と下半身を切断したことは間違いないがそれ以上の分解をしたか定かではない。いや、痕跡がないということは恐らくそれ以上の解体をしていないんでしょう。この点について、何かご意見はありますか?」
「いえ。ただ、私が現場に行った時は、そこまで子細に分解しているような報告は上がってきませんでした。そちらの仮説通り、二件目以降は上下の切断以外に解体をしていないのかもしれません」
ここで紫葉は考え込むように下を向くと、こう切り出して来た。
「遺体の解体についてはひとまず。次は、被害者の共通点について伺いたいのですが」
被害者の共通点。私は首を傾げた。これまでの事件報告を見る限り、被害者に共通点は見出せないはずだった。私個人の分析においてもそうだ。この男は、何かに気づいたというのだろうか。私は紫葉の口が開かれるのを待った。紫葉が言った。
「被害者女性たちには一見、共通項はないように見える。年齢、見た目、職業全てばらばら。学生が被害者の場合もあれば、バリバリのキャリアウーマンの場合もある」
その通りだった。たいてい、この手の女性ばかり狙われる連続殺人においては被害者に何らかの共通項……長い金髪の女性だとか、色白で泣きぼくろがあるだとか……があるはずなのだが、壁尻殺人の被害者に限ってそうした外見上の共通項は一切なかった。職業もまた同様だった。OLが殺されたこともあれば、学生が殺されたこともある。唯一共通点があるとすれば、今のところ五十代以降の女性が被害に遭っていないということか。被害者同士に共通点が見出せないことがこの事件の特徴でもあるはずだった。それなのに、この男はその法則を打ち破る何かを見つけたというのか。面白い。私の犯罪心理学者としての勘がそう告げていた。私は紫葉の話の続きを聞いた。
「どんな人が被害に遭ったか、ではなく、どんな人が今のところ被害に遭っていないか、で考えたんです。そしたら、面白いことが分かった。専業主婦が一人もいないんです」
ほう。思わず私はそう声を上げてしまった。紫葉が言った。
「これは結構有意な特徴だと思っています。被害者女性は二十代から四十代まで幅が広い。それなのに、今のところ専業主婦が一人もいない。女性の社会進出が珍しくなくなったこのご時世とは言え、二十代から四十代まで幅をとれば専業主婦は一定層をとると思います。それなのにまだ職業主婦の女性が一人も出ていない」
「既婚者が殺された例ならいくらでもありましたよね。それでも専業主婦はいない……」
言われてみると、そんな気もした。確かに壁尻殺人において専業主婦が殺された事例は今のところ見ていない。そして紫葉の言う通り、女性において専業主婦というのは一定層を確保しそうなものではある。それなのに今のところヒットがない。これは有意である気がした。だから私は頷いた。
「なるほど、興味深い説ではあります」
すると紫葉が急にボイスレコーダーに手を伸ばした。一度スイッチを切り、入れ直してから、また日付を口にする。
「犯罪心理学者、稲村秋人氏との対談」
紫葉はそう言ってから再びレコーダーをテーブルの上に置いた。それから言った。
「これから先は、こうした方が話しやすそうだ」
「確かに」
私は頷いた。椅子に深く座り直す。一証言者としてではなく、稲村秋人として柴葉と話すことができるのなら敬語も使わなくていいし楽だ。
「今の話は興味深かった。専業主婦が一人も殺されていない」
「何が理由か知らんが、犯人にとって専業主婦は攻撃対象じゃないということらしい。まぁ、もちろん、現時点での話だし、もしかしたら今後専業主婦が被害に遭うことはあるのかもしれないが」
「研究のテーマとしては非常に面白い」
と、言ってから、不謹慎だったか、と私は口に拳を当てた。紫葉が笑った。
「お前なら、どういう仮説を立てる?」
「そうだな、例えば……」
私は少しの間考える。
「犯人は働く女性……いや、学生も被害者にいるから、将来有望な、としようか……将来有望な女性を攻撃対象としている。このことから、犯人は社会進出を果たしている女性に対して、何らかの感情を持っていることが考えられる」
「随分持って回った言い方だな」
紫葉が笑う。私は言う。
「現状分かっていることからじゃこのくらいのことしか言えない」
「ワイドショーに出ている学者のようなことは言えないのか」
「その程度のことでいいのか? わざわざ私から取材をするというのに」
柴葉はまた笑った。
「それもそうだな」
ようやくコーヒーが来た。六百円もかかるコーヒーは淹れるのにも時間がかかるのだろうか。
「殺精子剤の話といい、今の話といい、面白かった」
柴葉がコーヒーをすする。私もそれを倣う。確かに香りはよかったが、百円のコーヒーと何が違うのかよく分からなかった。柴葉が言った。
「さて、本件に関するお前の研究成果について、話を聞こうか」
「もちろん、いいだろう」
それから柴葉に話したことはこれまでここに書いてきたことと大差がない。よって書かない。
柴葉との対談が終わったのは午後十時を回った頃だった。夕食をとり損ねてしまったが、久しぶりに友人と話をするのはそれなりに面白かった。何より、収穫があったのが大きい。一件目とそれ以降とでは解体のレベルが違うかもしれない。専業主婦はターゲットにされていない。これらは重要な情報だった。今後の研究に活かすべきだろう。
実際の女性を、現実の女性を相手に性欲を発散できるというのはそれなりに効果のあるものだったらしい。
それからしばらく私の壁尻欲求はなりを潜めた。道行く女の尻を見ても壁に埋め込んでやりたいなどという不穏なことは思わなくなった。女性を性欲を発散させるための『モノ』としてではなく、ちゃんとした一個人として見られたのはこの事件を扱うようになって初めてのことかもしれない。それくらい、私の頭はクリアになった。世の女性に知っておいてほしいことは、性産業の多くは単に男性の自己満足に終わっているだけではなく、性犯罪の抑止にも繋がっているということだ。現に私という性犯罪者候補は、壁尻という私特有の願望を満たすことで無事健常者として生活を送れるレベルにまでなれた。高部ユリさんとかいう自称二十歳の女性に私は感謝すべきであろう。彼女が身をもって私の欲求を受け止めてくれたから私は手錠をかけられずに済んだのだから。近頃、側溝に身を隠して女性のスカートを覗く行為をして捕まった男がいたが、あの手の男もちゃんと自身の欲求にマッチした性産業があれば未然に犯罪を防げたはずなのである(確かにニッチな欲求ではあったかもしれないが……)。そういう意味でも、私の場合はとてもラッキーだったと言えるだろう。
クリアになった頭で私はいろいろなことを考えた。壁尻殺人事件について、何が明らかになっているか、何が明らかになっていないかを真剣に考えてみた(別にこれまで真剣に考えてこなかったという訳ではないが、今までは雑念が多すぎた)。その結果、おおよそ次のような考察を得ることができた。
一、どうやら一件目とそれ以降の殺人では、体をバラバラにした目的が別であるらしいということ。
恐らく、一件目の殺人における遺体の解体はあくまで運搬・隠蔽が目的だったのではなかろうか。柴葉が言っていたことが真実ならば、一件目の殺人事件は他の数件に比べより念入りに解体作業をしたことになる。そこまでして体を細切れにする合理的な理由はやはり運搬・隠蔽くらいしか想像できない。遺体の解体は犯人にとってもそれなりにリスクのある行為だからである。基本的に、事件というのは発生後時間が経てば経つほど発覚のリスクが高くなる。遺体の解体には当然時間がかかる。つまり、犯人は遺体をバラバラにする時、常にリスクを背負いながら行為を続けるということになる。犯人がもし合理的思考の持ち主であれば……実は、殺人犯という段階でこの仮定は危うくなるのだが……リスクを背負ってまで行為をする以上は何らかのメリットがないと美味しくない。解体をすることの一番のメリットといえば、遺体が小さくなることで運搬しやすくなるということと、隠蔽がしやすくなるということである。はっきり言って、骨から何から挽肉状にしてトイレにでも流してしまえば遺体の消失という点では完璧なトリックなのである。恐らく一件目における犯人もそれを狙ったのではないか。そう私は考えたのである。
もちろん、この仮説には危ういところも多々ある。例えば、結局のところ犯人は遺体の隠蔽に失敗しているという点である。如何に上半身を細切れにしたところで、大きな下半身が見つかってしまっては元も子もない。壁に立てかけた女性の下半身を見せつけたいのではないかと思われる本件において、遺体の運搬・隠蔽が目的の解体はそれほど意味をなさなくなる。と、なると疑うべきはどちらか。『壁に立てかけた女性の下半身を見せつけたかったのではないか』という仮説と、『遺体をバラバラにした目的は単純に運搬・隠蔽が目的だったのではないか』という仮説。
実は、これら二つの仮説の中で客観的な仮説はどちらかと言われれば後者なのである。つまり、採択すべきは『遺体をバラバラにした目的は単純に運搬・隠蔽が目的だったのではないか』という仮説であって『壁に立てかけた女性の下半身を見せつけたかったのではないか』という仮説ではない。『壁に立てかけた女性の下半身を見せつけたかったのではないか』という仮説には犯人の気持ちに対する観測者側の主観が多く混ざっている。実際の犯人の気持ちなどこちらから測定しようもないのだ(心理学者がこんなことを言っては元も子もないと思われるかもしれないが)。なので、犯人の気持ちについて推しはかろうとしている『壁に立てかけた女性の下半身を見せつけたかったのではないか』という仮説には客観的根拠が欠けるという判断に至る。何故壁尻という形で事件が発覚してしまったのかは分からないが、犯人は少なくとも最初の事件においては遺体の運搬・隠蔽が目的でバラバラにした。そう考えるのが妥当である。
二、被害者の特徴について。これについては柴葉の援助によって立てることができた仮説を全面的に支持することにした。すなわち、犯人は社会進出を果たしている女性に対して歪んだ認知を持っている。いわゆる、犯罪心理学と聞いて多くの人がイメージするであろう、犯人のプロファイリングを行ってみたわけである。
と、言ってもこちらの方の仮説はまだ未完成で、犯人の特徴は愚か性別の特定さえできていない。現状言えることは『恐らく』男であるだろうということと、『恐らく』異常性欲者であるだろうということ。『恐らく』社会進出を果たしている女性に対して歪んだ認知を持っているであろうこと。それだけである。
しかし、『社会進出を果たしている女性に対して歪んだ認知を持っている』という仮説については実は一番自信を持っているところでもあった。と、いうのも改めて事件ファイルを読み込んでみて分かったからである。一人目、三高早百合さんはイタリア料理店を経営する敏腕シェフとして有名な女性だった。二人目、石井里奈さんは人材派遣系の会社でプロジェクトリーダーとして活躍していた。三人目、久戸瀬まりさんはコピーライターとして多くの広告を手掛けている女性だった。四人目満瀬綾子は……私の教え子でもあった女子大学生は……法学部のエリートで大手企業に内定が決まっている将来有望な女子大学生だった。こうして見ると、実に華やかな経歴を持った女性ばかりが狙われているのである。ここに来てようやく犯人が被害者を選ぶ傾向が分かったのだ。犯人は社会進出を果たしている女性に対して歪んだ認知を持っている。この仮説には根拠がある。故に、本件について私の考察を述べる際に一番自信を持てる部分なのである。
三、本件一番の謎、精子についてである。五人目の被害者にして、私が実際に現場を見聞した高宮ゆきさんの膣内から発見された殺精子剤入りの精液だ。これについての考察は一番自信がない。よって、不確定要素が多い物言いになってしまうことをあらかじめ謝っておく。
精液を残すということは、犯人が自らDNAを残していっているということである。これが意味するところは、恐らく『サイン』なのではないかと私は思う。『俺がこの殺人事件を起こしたぞ』『俺がこの女を殺してやったぞ』という証。DNAは採取されても警察の方で照合するデータがなければ結局誰のDNAかは分からずじまいになる。重要な証拠であることには間違いないのだが、犯人の側に『俺のDNAは何を間違っても警察の元に渡ることはない。つまり照合はされない』という自信があれば残していっても問題のない代物ではある。むしろ、同一犯による犯行を示すある種の『サイン』としての意味が残るので私はその線を疑ってみた、というわけである。この説には何の根拠もないので机上の空論の域を出ないのだが、一応分からないなりにも考えてみるという姿勢は大事である。
と、こんな風に自説をいろいろまとめていたところでいきなり電話が入った。柴葉か、と思ったが東京のど真ん中からかかってきている電話だった。私は出た。すると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「もしもし、稲村さんのお電話ですか」
「そうですが」
「警視庁の安西です」
「ああ」
あの形のいい尻をした女刑事か。私は近くに置いてあった彼女の座った椅子を撫でながら言う。
「どうかしましたか」
「都内で事件が起こりました。例の連続殺人です」
連続殺人。壁尻殺人か。私は机の上を片付けながら言う。
「場所はどこですか」
「○○(例によって伏せる)です」
「分かりました。すぐに向かいます」
私は机の上にあった資料を一通り鞄の中にしまうと研究室を出た。
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