壁尻殺人事件
飯田太朗
第1話 事件編
壁尻……女性の上半身を壁の中に埋め、下半身、主に尻と性器を露出させた状態で拘束すること。性的嗜好のひとつ。下半身ではなく、胸より上の上半身を壁から露出させるタイプもある。
その遺体が発見されたのは真冬の夕方のことだった。
発見者である近隣住民が言うには、どうしようもないくらいの異臭がしたから文句を言うためにそのドアの前に立ったそうだ。その部屋にはうら若き女性が住んでいて、発見者が以前見かけた時はちょっとかわいいな、今度ご挨拶したいな、くらいには思っていたらしい。しかしさすがにこんな臭いを発散させるような女じゃ、どこかしらに問題があるタイプだと、発見直前までは呑気にそう考えていたそうだ。
ドアが開いてることに気づいたのは、チャイムを押した時だった。薄く開かれたドアからさらに強い、鼻をつくような異臭が漏れていた。発見者は男性だった。若い女性に対するごく健全な関心と、異臭の原因に対する不健全な好奇心とが理性を上回るのに、そう時間はかからなかった。
ほどなくして男性は遺体を発見した。
正確には遺体の一部。上半分がどこにいったかは今も分かっていない。しかし下半分は第一発見者の男性の目にひどく衝撃的に映ったに違いない。
壁から突き出された、女の尻。
性器も肛門もすべて露出させたその尻を、男性はしばらく見つめた。それが例えば、男性自身の部屋の中で、しかもパソコンの画面の中でのことなら、男性は間違いなく勃起していただろう。それほど魅力的な、丸みを帯びた尻だった。極めて女性的な尻だった。毛は薄く、丸い尻たぶと尻たぶの間からは、薄桃色の外性器のみが顔を覗かせていた。それはまるで、男性器に犯されるのを待っているかのように薄く開かれていた。ただひとつ、壁や床が血まみれであることを除けば、単純に精子の発散のみを求めがちな男性諸兄にとって、これほど望ましい眺望はなかったことだろう。
そこではたと我に返った男性は、携帯電話で警察に電話した。唐突にして目の間に現れた凄惨な現場に、男性の頭脳は綺麗に麻痺していた。
これが、現在世を騒がせている壁尻連続殺人事件の最初の現場報告である。
要は、女性の腰から下を切り離し、切断面が壁に接着する形で放置する、というバラバラ殺人事件である。その様相が男性の性的嗜好のひとつである「壁尻」に酷似していることから、主にネット上などで「壁尻殺人」という名称が用いられるようになった。
「壁尻」とは、女性を壁に埋め込むことで身体の自由を奪い、まるで男性用小便器のように道具扱いして性処理を強制するというSMプレイの一種である。当然ながら、今回の殺人事件の犯人にも、そのような嗜好が見られることは容易に想像がつく。
こうした「異様な」殺人事件が起こると、犯罪心理学者である私の元にはマスコミ各社から数多の取材申し入れが飛び込んでくる。ちょっとのコメントで馬鹿みたいなギャランティがもらえるから、別に嫌な仕事ではないのだが、彼らの認知バイアスのひどさと来たらまるで男性教師に想いを寄せる女子学生並みに思い込みが激しいので、用心しながらしゃべらないと墓穴を掘ることになりかねない。やれと言われればもちろん喜んでやるが(金にはなるし)数ある仕事の中でも面倒くさい仕事であることには間違いない。
とは言え、個人的に興味のある事例ではあったので(治安がいい日本でこうした事件が連続すること自体珍しい。昭和の激動期以来と言えるだろう)、私はマスコミ各社から依頼を受けるよりずっと前に、この事件について調査を始めていた。いつ起きたのか、どのように発見されたのか、有力な証拠はあったのか、近隣で類似性のある事件(例えば動物の虐待など)は起きていなかったか。予想できる下調べは既にし尽くした上で、私は各社からの依頼を受けた。ある意味、準備万端だったと言えるだろう。
マスコミ連中の取材の仕方というのはある意味とても形式的で、会社は違っても聞いてくる質問にはかなりの類似性が見られた。中でも、次のようなニュアンスの質問は特に多かった。
「この事件の話を聞いた率直な感想は何ですか?」
実際問題としてそうは答えなかったのだが、彼らのご要望通りに、本当に私の率直な答えを述べるとすれば、こうなるだろう。
射精した。この事件の話を聞いた時、私のペニスは勃起し、どぴゅどぴゅと大量の精液を射出した。これに尽きる。
もちろんそんなことをマスコミ連中に言ったりはしない。他人に射精の話をするだなんて、さすがに私もそこまでの変態ではない。しかし事実として、私のペニスはこの事件の話を聞いた時、自慰でも、そして女性との性行為でも経験したことのないくらい途方もない量の精子を射出した。下着どころかズボンまでもが精液で濡れた。幸い、自分の研究室でのことだったので、コーヒーをこぼしたことにして研究室に備えてあったジャージに着替えた。そのまま十五分ほど放心して、私は何かに駆られるかの如く自分のペニスを取り出すと、再びその事件記録を読み返し自慰にふけった。研究室で自慰をしたのはこれが初めてだった。室内はかなり生臭くなったが、私の性欲は大いに満たされた。その日のゼミは休講にして、一日中換気扇を回し続けながら私は思った。
うらやましい。率直に言ってかなりうらやましい。まず、女を物みたいに扱えること自体かなりうらやましい。その上犯して犯して散々蹂躙して、性的快感を搾取し尽くした挙句、まるで使い捨てのオナニーホールの様に殺してしまう。それも、壁から尻を突き出すという女性からすればこれ以上ないくらい屈辱的な格好で放置する。
素晴らしい。
私は犯人のセンスに感動さえしていた。ここまで女性を卑下できる人間が今のご時世どれだけいるだろうか。女性の社会進出が珍しくなくなった今、女性が男性を押し退けて自身の法外なまでの権利を主張するこの国で、かつてのお犬様のようにのさばるこの女という生き物を、これほどまでに無駄遣いのできる犯人に、私は敬虔なクリスチャンの神に対する敬意に負けないくらいの真摯な、尊敬の念さえ抱いていた。私もこんな風に女を使い捨ててみたい。私もこんな風に、女から性的快感を搾取し尽くしてゴミのように捨ててみたい。女の尊厳というものを、犬のクソのついた靴で踏みにじるような、田舎の公衆便所の使い古されたポットン式トイレに頭からぶち込むような真似をしてみたい。そんな感情に身を任せて数日を過ごした。そう。「壁尻」は変態性癖のひとつであり、私の性癖でもあった。私は「壁にはまった女性の尻」に性的興奮を覚える人種だった。ここに告白するが、私の個人パソコンの中には二次元三次元を含め数々の壁尻画像が保存されている。
そんな私にとって、「壁尻」殺人とは嗜好と学術的関心とが見事なまでの共存関係にある素晴らしい事例だった。すぐさま、私はこの事件の犯人と同様の行為を行いたくなった。すなわち、女性を殺して壁に埋め込み、その尻を犯すのである。肛門と言わず、性器と言わず(厳密に言うと殺してから上半身を切断し、犯すということになるのだが)。
一般的な男性は、こうした配偶者や恋人に向けられない類の性的嗜好を、主に風俗嬢などにぶつけるのだろう。しかし、基本的人権が確立されているこの日本において、例え風俗嬢と言えどその命を奪うことは犯罪になってしまう。犯罪心理学者である私が犯罪者になってしまうのはさすがに熱心が過ぎる。ミイラ取りがミイラになるの典型的なパターンだ。そんな馬鹿はごめんである。
しかし逆に、これは学者としての地位を捨てさえすれば、叶うかもしれない欲求だった。刹那、本当に一瞬の間、自分が犯罪心理学者であり、善良な市民であることを忘れ、道行く女性の中から、最高の形をした絶品の尻を持つ女を選び抜き、その背後に忍び寄り捻り殺した後、壁にでも何にでも埋め込んで睾丸はおろか尿道さえ空になるまでその膣内に(あるいは直腸に)吐精し尽くせば、私の欲求は満たされるはずだった。単純にそれだけの問題だった。しかし私の前に立ちはだかる悲しい現実として、問題というのは、常にシンプルなほどその難易度を増すものだった。
私は今のこの地位に立つまでかなりの苦労を強いられた。心理学という学問で身を立てるというのはこの国において大道芸で飯を食っていくことに等しい(実際にそうしたパフォーマンスに心理学的要素を絡める演者はいる)。しかし、私はそれをやってのけた。大道芸のような派手な見世物は何一つなかったが、着実かつ堅実な手段でそれをやってのけたのだ。もちろん数々の辛酸も舐めてきた。教授の靴にキスして済むならそうするとさえ思ったこともある。男性なら分かると思うが、精液の射出に伴う快感は文字通り刹那的なものである。その一瞬の快楽の為だけに今の地位を捨てるというのは、あまり理性的な判断とは言えない。
しかし人間の三大欲求というのは厄介なもので、私の壁尻殺人に対する想いは、自慰で発散させるほどにその熱量を増していった。事件のことを思って自分のペニスを擦るたびに、擦る激しさに比例して殺人への思いが強くなっていった。吐精の瞬間、その炎は一瞬小さくなるのだが、町の中で、電車の中で、学内で、近所のスーパーで、形のいい尻をした女性を見かけるたびに、私は彼女たちを絞め殺し、無慈悲なまでに壁に埋め込み、犯したいという衝動に駆られた。その衝動を抑えるために帰宅してから自慰をし、また駆られ、自慰をし、さらに激しくなった劣情熱情にまた駆られ、もっと激しく、声を出して自慰をし……という毎日を繰り返した。性に関心を持ち始めた思春期にもこれほどオナニーにふけったことはなかった。自分ではあまり気付かないものだが、きっと私の部屋は発情期の豚のような臭いに満ちていたことだろう。
そろそろ何か手を打たなければ、私が第二の壁尻殺人犯になる。
そう危惧していたところに、あの話が転がり込んだ。それは水曜日のことだった。私が自分の研究室で、教え子のレポートの添削をしていた時だった。
「こんにちは。警視庁捜査一課の安西というものですが、こちら稲村秋人教授のお部屋でしょうか?」
唐突なノックとともに女性の声が聞こえてきた。警視庁捜査一課? アポイントメントもなしに何事だ? そうは思ったが大体察しはついていた。事件が起こったこの数ヶ月。世間が私に関心を示すことがあるとすればほとんどがあの壁尻殺人に対するコメントが欲しい時だった。相手がマスコミから警察に変わったところでそれは同じだろう。
私は渋々といった体でドアを開けた。世間の大学教授に対する評価がどうかは知らないが、決して暇な職業ではないことだけここに記しておく。突然の来客は誰だってあまり嬉しくはないものかもしれないが。私はむっとしているように見えるであろう表情を作って来客を迎えた。客人は丁寧な口調で喋った。
「突然、お約束もないのにすみません。警視庁捜査一課の安西真琴というものですが」
二度目の自己紹介をしてぺこりと頭を下げた彼女を、私は一瞬の内にして観察した。セミロング。栗色の髪。控えめな真珠のピアス。ダークネイビーのパンツスーツで身長150センチほど。美しい女性だった。私は歓迎した。とはいえそれは内心のことで、口先上は形式的手続きを踏むことにした。
「何のご用でしょうか」
約束もないのに急に訪れてくる無礼者に対し相応しい態度で私は彼女に接した。事実、特に明確な目的もなく大学教授や院生が巣食うこの陰気な研究棟にノコノコやってくる彼女は、不審者に違いなかった。警備を呼べば一発退場とまではいかなくとも一悶着起こすことになりかねないだろう。一般的な社会人としてそれは避けたいはずだ。
すると彼女は、肩にかけた小さめのカバンから、A4サイズのクリアファイルを取り出してきた。ファイルには、ある週刊誌の記事が挟まれていた。少し前、私が壁尻殺人事件について丁寧に解説してやった記事だ。
「昨今、世間を騒がせております連続殺人事件についてお話を伺いたく本日はやって参りました。急なことで本当に申し訳ありません」
「……いえ、最近はこの手の話ばかり受けますから」
私は事実を的確に述べた。初対面の女性と接する時のコツだ。世の恋愛心理学者はやたらと共感という言葉を使いたがるが、初対面から馴れ馴れしい態度を示すのは無意味な警戒心を煽りかねない。まずは着実に、お互いにとっての事実確認をしていくことが正確なコミュニケーションを産むのである。
「もし稲村先生のお時間がよろしいようでしたら、少しお話を……」
「構いませんよ」
私は彼女の発言に被せ気味に快諾した。彼女の顔が少し、華やいだ。暇だったわけではないのだが、私は彼女に興味を持ってしまったのだ。まだ彼女の後姿を見た訳ではないので何とも言えないが、腕や胸の辺りの肉付きのよさといい、きっといい尻をしているに違いない。
「申し訳ありません。すぐ、済ませますから」
いえいえ、ずっといてくれていいんですよ。彼女を部屋に招き入れる際、私はさりげなく彼女の尻を見た。キュッとくびれた腰に続く丸い曲線。太ももの辺りでまたくっと引き締まるそれは、間違いなく私の大好物である絶品尻だった。いい女だ。もっと近くで観察したい。
「本日はどういったご用でこの大学に?」
彼女に椅子を勧めて早々に、私は彼女の腹に探りを入れた。彼女がここに来た本当の狙い、目的。ひとまずそれが知りたかった。それ次第で引き止める時間も、彼女を観察できる時間も決まる。
「私が目当てで当大学に来たわけではないのでしょう?」
私が目当てならちゃんとアポイントメントをとる。私は何かのついで。帰宅途中に買う牛乳みたいなものだ。
すると彼女は恥ずかしそうに笑って言った。
「ご明察です。誠に申し訳ないのですが」
「当大学が事件に何か関係していたのですか?」
私はすっとぼけた質問をした。すると彼女は内ポケットから一枚の写真を取り出してきた。若い女性の顔写真だった。もちろん私には見覚えがあった。満瀬綾子。確か二十二歳。
「連続殺人事件の、最近の被害者です。この大学に通う女子大生でした。私は彼女の経歴を洗う過程で、この大学に辿り着いたというわけでして……」
学内から被害者が出たのはつい一昨日のことだった。満瀬綾子は法学部の四年生で、大手企業に内定が決まっていた優秀な学生だった。
かねてからマスコミに接点の多かった私は、彼女の一件で再び一気に脚光を浴びることとなった。もっとも、学問的な分析というより個人的な感想を聞かれることの方が多かった。同じ学内から被害者が出たのはどうお考えですか。犯人が許せませんか。雑誌だけではなく、テレビ各局からも取材の依頼が来た。雑誌はともかくとして、テレビは見もしないし好きでもないので全部お断りした。
実を言うと、彼女は私の『少年犯罪心理学入門』を受講していた学生の一人だった。ついに身近な女性から被害者が出たことに、私はたまらなく興奮した。満瀬綾子。授業中の彼女のことを思い出しても、確かに彼女はいい尻をしていた。講堂内の階段を上る時に左右に振れる尻を思い出す。私はあの尻を好き放題にできるならいくらだって払う。両の尻たぶをがっと開いて、尻の穴から性器までべろべろと舐め回してやる。
などと考えていたところで私は現実に立ち戻る。
「なるほど。聞き込みついでに雑誌に載ってた犯罪心理学者に話を聞いてやろうと」
「御察しの通りでございます」
会話をしながら、私は彼女が腰かけている椅子を見ていた。満瀬綾子もそうだが、目の前の彼女もいい尻をしていた。彼女のぬくもりが直に伝わった椅子。彼女の尻を受け止めている椅子。私は鼻の奥が潤った気がした。あの椅子は、後で思いっきり匂いを嗅いでおこう。私は唇を軽く舐めた。
「で、私に聞きたいことと言うのは?」
これはいささか迂闊な発言だった。心理学的に(と言っても私の個人的な知見によるものだが)、要件というのは向こうがしゃべり出すのを待った方がいい。人は誰もが天邪鬼で、聞こうとすれば口を閉ざし、逆に語り出すと聞いてもないことをしゃべり出す。今の私の発言は、彼女に必要最低限の情報しかしゃべらせないぞという宣言になるので、腹の内を探りたい私としてはあまり好ましくない一手だった。私は後頭部をガリガリと引っ掻いた。
彼女は私に手渡したクリアファイルを示すと、言った。
「学生から被害者が出たので、先生としてはお答えしにくい問題かもしれませんが」
「構いませんよ」
「彼女は先生の授業を受講していたと聞いています。何か彼女のことについて、事件に関係しそうな情報はありませんか。どんな些細なことでも構わないんです」
彼女は警察にありがちな常套句で私に迫ってきた。要するに被害者が通っていた大学に来たはいいが何も情報をつかめなかったので、藁をもすがる思いで私の研究室のドアを叩いたということだろう。彼女、もしかしたらあまり優秀な刑事ではないのかもしれない。
「どうもこうも、ありませんけどね。犯人が許せません。それだけです」
しかしこの回答ではあまりに淡白だろうか。即座にそう判断した私はため息をついた。
「でもまぁ、何が起こったのか、全然飲み込めてないというのが正直なところです。まさか、私の教えている学生から被害者が出るなんて」
我ながらアカデミー賞主演男優賞ものの名演技だ。私は上目遣いに安西とかいう刑事を見た。ひどく同情するような顔をして首を縦に振っている。だが今の発言は本心でない。もちろん全くの嘘というわけでもないが、私は満瀬綾子の事件発覚後、すぐさま彼女のレスポンスペーパーで自分のペニスを擦り、精液で彼女の綺麗な字を汚した。そんなこと言えるわけがない。
頼みの綱だった私からさえ有力な情報がつかめなかったからだろう。安西はしばらく考えるような顔をした後、こう言ってきた。
「あの、突然の訪問の上にこんなことを言うのは大変厚かましい話なのですけれど……」
「何でしょう」
しかしこう言った私にはもうおおよそ、彼女のしてくるお願いというのに察しがついていた。それでも彼女は、言いづらそうに言った。
「もし、稲村先生の都合がつけば、なんですけれど。明日からでも警察の捜査に協力していただきたいのですが……つまり……」
実際に現場に出て、犯罪分析を行ってもらいたいのですが……。
椅子の上で申し訳なさそうに尻をもじもじさせながら彼女はそう言った。今この瞬間だけ、私はあの椅子になりたかった。
私があんまり彼女の座る椅子に気を取られていたからだろう。彼女は不安そうに私の顔を覗き込んで、言った。
「やはり、厚かましいお願いだったでしょうか……」
そりゃ厚かましいに決まってる。もし、彼女が丸坊主のむさ苦しい中年オヤジだったら顔も見ずに断っていたところだろう。私だって暇じゃない。しかし美しい尻の美しい女となれば話は違う。
彼女の顔を見ているうち、私は決意した。しばらくの間、この安西とかいう女の尻を自慰のネタにしてやろう。美しい目元。すっと通った鼻。艶やかな唇。栗色の綺麗な髪。いい女だ。この女の尻を眺められるなら犯行現場に赴くのも悪くない。元より、壁尻殺人事件は私の趣味と奇跡的なまでの一致を見せた貴重な事例だ。これを研究しないで何を研究するというのだ。
安西の尻と、壁尻殺人の被害者の尻。こう考えれば壁尻殺人の現場調査は私にとって天国に等しかった。一度に二人の女性の尻が見られるのだから。しかも片方は性器も肛門も露出している。素晴らしいではないか。
「構いませんよ」
私からの快諾が想定外だったからだろうか、彼女はぱっと顔を輝かせて「本当ですか?」と訊いてきた。私は頷いた。
「個人的に、興味のある事例ではありますので」
公的な相手に対し、本心を口にしたのは、これが初めてかもしれない。
かくして私は警察の捜査に協力するようになった。とはいえ、私は一介の大学教授である。繰り返すが暇ではない。たまに学者というのは暇なものだと思い込んだ学生や元学生たちが勝手に研究室に押しかけてきて面白くもない話を聞かせに来ることはあるが、甚だ迷惑である。質問は講義の時にしろ。同窓会なら他所でやれ。腹の中ではそう思いながらも私は笑顔で彼らに接する。当然だ。私の研究費用は大学から降りている。ではその大学は誰から金をもらっているかと言えば、彼ら愚童どもの父兄からである。つまりはスポンサーのご子息に当たるわけだから、無碍にもできないのである。しかしこの世に大学生ほど面倒くさい生き物はいないわけで、基本的に頭の中はセックスと遊びしかない。女子ならセックスがスイーツに置き換わる(稀にだが、セックスもスイーツもという欲張りはいる)。
こういう時、私は本能と理性のジレンマに陥るが……すなわち忙しいからと学生もしくは元学生を追い払うか、にこやかな笑顔でサービスするか……もとより理性的判断には慣れている。そうじゃないと今頃何人の女性を壁に埋め込んできたか、これまで食べてきた米粒の数と同じ程度に分からなくなる。
そういうわけで私は今日も教壇に立つ。約六二〇人を収容できる大ホール。受講者はどういうわけか女性が多い。私の講義が必修科目になっている心理学専攻生に女が多いというのもあるが、一応私の『少年犯罪心理学入門』は公開講義である。つまり他学部履修が可能であり、だからこそのこの大ホールなわけなのだが、六〇〇人近い履修生の約八割が女子学生である。全体の内、心理学専攻生は一〇〇人程度。お分りいただけるだろうか。お分りいただけない方のために書いておけば、私はモテる。五〇〇人近い他学部履修生のほとんどが、私を目当てにやってきた女子学生どもである。おかげで講義前のホールはピーチクパーチクとまるでツバメの巣のようで騒がしい。猿山の猿と言ってもいいかもしれない。揃いも揃って妙な匂いのシャンプーを使っているからか知らんが甘ったるい匂いに満ちていて、ホールに入った途端に気分が悪くなる。全員が全員流行という伝染病にかかっているから、茶髪のクルクルが流行り出せば皆一斉に茶髪のクルクルになる。端から見れば皆量産型のロボットのようにしか見えないのだが本人たちはこれで個性があると思っているらしい。そして不愉快なことに、このクルクルには大量のトリートメントだとか何だとかいう薬品が必要になる。それらは当然匂う。私がホールに入ってきてすぐ換気スイッチを入れるのにはそういう訳がある。しかしこの仕草でさえ、おめでたい女子学生からすれば「優しい気遣い」に変換されるのだからおかしい。馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿ばかり。全員壁に埋め込んでやりたい。
たまに、私は考える。目の前にいるたくさんの女子学生を、全員素っ裸にし、一列に並べて壁尻にしたらどんなに壮観だろうと。見渡す限りの尻尻尻尻尻尻。尻を額に入れて並べて、美術館のようにするのだ。額の下、一人一人の尻に注釈を入れる。何年何月何日生まれ、氏名にスリーサイズ、経験人数、出産経験、そして顔写真まで載せるのだ。笑顔の、その子が一番可愛く写っている写真を。写真の上には恐怖に震える真っ白でまん丸なケツが並ぶのだ。全員、性器も肛門も露出させた状態で。
私はそれらのケツを右から順にボンゴのように叩いてやる。白くて丸い肌が赤く染まるまで。腫れて血が滲むまで。きっとヒィヒィ泣いて許しを請うだろうが壁の向こうのことなんて気にもならないし気にしない。むしろ気が向いたら膣にでも肛門にでもペニスをねじ込んで腰を叩きつけまくるのだ。ボンゴのように叩く手を止めず。睾丸を振り回し、硬く勃起した陰茎で女の内臓を掻き回してやる。はぁ、考えただけで射精しそうだ。
こういう時、私のペニスは正直である(多分、ペニスというのは誰のものでも正直だろうが)。講義中だろうと何中だろうと勃起してしまう。今年七十になる学部長からすれば羨ましい限りかもしれないが(噂によると勃起不全で悩んでいるらしい)、さすがに六百人以上の学生の前で勃起ペニスを晒すのは公開処刑に等しい。こういう時、教卓というのは非常に便利なもので、両手を突いて熱く弁をふるっているフリをすれば股間を見事に隠してくれる。いやはや、今日も危ないところであった。
こうして思い出してみれば、満瀬綾子はそんな美術館候補の一人だった。服の上からでも分かる絶品尻。ぷりっとした丸みを帯びた尻。彼女の尻を飾るなら金の額がふさわしいだろう。色添えするために肛門に花を活けよう。菊の花がいい。白くて美しい菊を、菊門にブッ刺すのだ。たまらない。私はよくそんな妄想をしながら自慰にふけっていた。彼女はもうこの世にはいなくなってしまったが、しかし私の脳内では永遠に芸術品として、残り続けているのだ。臀部を額縁に飾られ、尻の穴から美しい花を咲かせた下品極まりない女として。
ふと、ホールの隅に見慣れないスーツを着た女性の姿を見かけた。ベージュ色のジャケットに黒のパンツ。就活中の学生ならもっと地味なスーツを着る。社会人だなと思い至る頃には彼女が誰か察しがついていた。安西とかいう刑事だ。この間、私の研究室にやって来た、あのいい尻をした女刑事だ。
講義が終わると彼女は私の元へやってきた。警察手帳を一瞬見せ、それから言った。
「稲村先生。これから事件現場にご同行いただいてもよろしいですか?」
「それはもう、喜んで」
彼女は首を傾げたが、これこそ私の本心だった。どうやら私は、彼女の前では素直になってしまう運命にあるらしい。
犯行現場は東京都のある市(一応、守秘義務があるので何市かは伏せておく)だった。駅前の、簡素な新築アパートの一室だった。
被害女性は有名出版社の編集長。三十二歳独身。恋人はいないらしいが最近親しくしていた男性はいたようで、カレンダーにデートの日付が書き込まれていた。『十時に渋谷 瀧さん』瀧さんの後にハートが付いているあたり、かなり気合が入ったデートだったのかもしれない。まぁ、そんなことははっきり言ってどうでもいいのだが。
大手出版社の編集長にして男性にもモテる高宮ゆきさんは、例によって下半身しか見つからなかった。壁尻殺人の生現場。初めて見たそれは、筆舌に尽くしがたいほど最高の眺めだった。
ぷりっとした丸い尻が、壁からにょっきり生えている。もちろん、それは切断面を壁にくっつけていたからに他ならないが(故に現場は床一面血まみれだったが)、色白で、肌のキメは細かく撫で心地が良さそうな尻だった。あの肌にペニスを擦りつけることが出来れば、きっとこの世のものとは思えない快楽が得られるだろう。しかし女性器の方は毛の生え方が下品だし黒ずんでいたので正直あまり好みではなかった。半開きの外性器といい、締まりは悪そうだ。彼女の尻を楽しむなら、その意味どおり肛門にぶち込むか尻の割れ目にペニスを擦りつけるのがベストだろう。
正直な話、ここで一人になれるチャンスがあれば私はペニスを取り出して肛門にぶち込んでいただろう。私の愚息はもちろん、部屋に入った瞬間から既にいきり立っていた。それを隠すのに、私は床一面に広がる大量の血のせいで具合が悪くなったふりをして前屈みにならねばならなかった。しかし視線が低くなると余計に尻の割れ目がはっきり見えてしまう。ビラビラの外陰唇。ぷりっとした尻たぶ。ペニスはいよいよ引っ込みがつかなくなる。私の本能が、三十秒以内にペニスをケツにぶち込むかこの場を去るか決めろと決断を迫ってくる。仕方がないので、私は一旦部屋から出て廊下に蹲った。すると安西とかいうあの刑事が、そっと背中を撫でてくれた。やめろ。お前の尻を想像するとまたペニスが大きくなる。おまけに背中をとはいえさすられればもう堪らなくなる。わたしは射精寸前だった。本音を言うと、ちょっぴり出ていたかもしれない。
少なくともカウパー液はだだ漏れだった。私はパンツがぬめぬめしているのをペニスの先で感じながら言った。
「大丈夫です。ありがとう」
「あまり無理はなさらずに……」
ここでようやく安西の手が止まる。私もほっと人心地が付く。女の手というのは、どうしてこうも柔らかいのか。あれで体に触られるとどうにもこうにも堪らなくなる。
これは一発出さないことにはおさまらない。トイレにでも行って一発抜くか。パンツの中でペニスが暴れている。廊下に出てもまだこれなのだから状況は絶望的である。おまけに近くには安西もいる。くそ、かくなる上は……。
私は安西に一言断ってパトカーの後部座席に腰掛けるとしばらく俯いていた。こうしていることで、自分が壁尻殺人の殺人犯として逮捕された場面を想定してみているのである。むろんペニスは萎む。これこそが狙いだった。仮想的にとはいえ自分が逮捕され、今まで積み上げてきた苦労全てが水泡に帰す場面を想像すれば、ペニスはげんなりせざるをえない。射精せずともペニスは縮む。我ながら完璧な作戦だった。
さて、現場に戻るに当たって、私は自分の精神状態を完全に理性が勝利した状態で保たねばならなかった。
これは結構大変なことだった。壁尻殺人の現場というのは私にとって天国でも何でもない、ただの生殺し地獄だった。男性なら想像してほしい。自宅。自分用PC。画面にはエロ動画。もちろん誰も見ていない。おまけに動画の中ではあなたの好みの女性があなたの好みの性的嗜好を満たしてくれる状況である。この状況で自慰をするなという方が難しい状況。そんな状況に私は置かれているのだ。
なのに自慰はおろか勃起さえも許されない。気が狂いそうだった。壁尻なんてどうでもいい。自分の頭を壁にぶち込んだ方がましだというような状況だった。こんな状態ではろくに犯罪分析なんてできやしない。研究なんて以ての外だ。私は今すぐオナニーがしたい。個室ビデオ屋でもインターネット喫茶でもどこでもいいからとにかくペニスをしごける空間が欲しい。できれば千円ぽっきりのオナカップもつけてほしい。
もう私の頭は完全に仕事から離れてしまっていた。自慰がしたい。とにもかくにも自慰がしたい。
たった一発でいいのだ。たった一発、精液を放出さえさせてくれれば、私は多分今世紀最高潮に冴え渡った頭で現場を分析できるだろう(まさに賢者モードというやつだ)。この睾丸で暴れ回る我が子種たちを、大地にでもティッシュにでもオナカップにでも出させてさえくれれば、私のIQは格段に向上するだろう(誰か実験してみてほしい。性衝動に駆られている男性のIQと、その欲求が解消された直後の男性のIQとの間にどれくらいの差があるのか)。
だがパトカーの中でするわけにもいかない。私はとにかく意識を集中させた。私は壁尻殺人で逮捕されてしまった。今は重要参考人として現場に呼ばれ、事件の顛末を話して聞かせている。そういう設定にでもしない限りペニスにおさまりがつかなかった。私の愚息は、パトカーの中で萎えはしたもののまだはっきりと熱を持っていた。このまま現場に戻ればまた前屈みにならざるを得ないだろう。
深呼吸をして何とか理性に手綱を握らせると、パトカーを出た。鑑識班の男性が、大丈夫ですか、と声をかけてくれた。あの人の性的嗜好は何だろう。少なくとも壁尻でないことは確かである。あの男性に私の苦しみを分かってもらうには何に例えれば効果的なのだろう。パイズリだろうか。フェラチオだろうか。イラマチオ(強制フェラチオ)には多少理解があるが(やはり女性に無理やり性的行為を強いるということに私は快感を覚えてしまうらしい)、ヒールで踏まれたいとか鞭で打たれたいとかその手の嗜好には理解がない(何であんなのがいいのかエジプトのヒエログリフ並みに理解できん。あいつら頭がいかれているんじゃないんだろうか)。
頼む誰か私の苦しみを理解してくれ。そう思いながら現場に戻った。現場はアパートの二階だったので、階段を上って行くうちに私はだんだん怒りを覚えるようになってきた。何で私がこんな目に。私が一体何をしたというのだ。人を殺したわけでもない。誰かに襲い掛かったわけでもない。むしろこの性的鬱憤を人にぶつけないよう細心の注意を払って生活している。なのにこの仕打ち。なぜだ。なぜ私がこんな目に遭わなければならないのだ。しかし悲しいことに、ペニスというのは怒りでも膨張するものらしい。私のペニスは携帯電話のアンテナのように犯行現場に近づくほどしっかりと立つようになった。やはり前屈みにならざるを得ない。世の女性に知っていてほしい。あなたの近くで前屈みになっている男性がいたらそれは十中八九勃起を隠している。すぐさま肩なり脚なり胸元なり、身に覚えのあるセックスシンボルを隠す方向に出てあげた方が親切である。そして私は何も見ていませんよという風に知らんぷりをするのだ。
「大丈夫ですか。あまり無理はなさらないでください」
このタイミングで安西である。悔しいくらいにいい尻をしている。ああ、今すぐこの女の尻の割れ目に顔面からダイブしたい。この女の愛用している自転車のサドルになりたい。股間に顔を埋めて思い切り深呼吸がしたい。もちろんペニスは制御不能に陥っている。多分少し射精している。私のパトカーでの努力は無駄だったのだ。くそ。こんなことなら最初からこんな話引き受けなければよかった。
「ちょ、ちょっとお時間もらえますか」
そう言って私は近くにあった公園のトイレで自慰をした。公衆便所の便器というのはとにかく汚さそうなので座れなかったから、立ったまま自慰をした。この姿勢は初めてだったのでなかなか達することができず苦労したが、私は何とか吐精を済ませると現場へと戻った。頭はこれ以上ないくらいにはっきりしていた。
「上半身はやはり見つかりませんか」
自慰終了から十五分後。先ほどとは別人のようにクリアな頭になった私が現場を訪れて最初に気にしたことがそれだった。別段深い理由があったわけではない。ひとまず何かしゃべる必要があるだろうと判断して適当なことをしゃべっておいたのだ。
「見つかりません。現在周囲を捜索中ですが……」
安西が私の顔色をうかがいながら話してくる。
「あの、もう大丈夫なんですか」
「ええ。大丈夫です」
しかしいい尻をしている女だ。だがもうペニスは暴れない。先ほど芯を抜いてきた。今はただの腑抜けになって私のパンツの中に納まっている。もっともパンツの方はもうぐちょぐちょだが。適当なタイミングでコンビニに行って替えのパンツを買ってこよう。
下はぐちょぐちょだが上は冴え渡っているので再び事件現場検証を試みる。床一面血、血、血。何を使って切断したかは知らないが、胴体部の切断となれば最低限刃の大きな鋸は必要になってくるだろう(一般家庭にある文化包丁では切断できても首までとなるのではないだろうか)。短時間でやったとすれば男性が犯人であろうが、時間をかけていいのであれば女性も視野に入ってくる。少なくともこの状況から何かを判断するのは時期尚早か。もっとも、『切った下半身を壁に立てかけておく』という行為に何か意味を見出すとしたら、それは犯人による何らかの意思表示になるわけなのだが。この現場から私は何を読み取ればいいのだろうか。
切断した遺体を立てかける方法はいくらでもある。しかしこの犯人は単純に立てかけるのではなく切断面を壁に接触するような形で放置している。あえてこのポーズを選んだ理由は? 上半身を隠す理由とは何か? 疑問は多い。しかしそれだけ、隠されたメッセージも多い。
私は安西に尋ねる。
「遺体は死後どれくらい経ってから切断されたとか、そういう報告はありますか?」
「あ、えーっと」
「切断面などから使われた刃物が特定できたりしないでしょうか? 検死報告を伺いたいのですが……」
「はい、えっとですね」
なんだこの女。ポンコツもいいところだ。現場に到着してから自慰しかしていない男に対してこの程度のことしかしゃべれないのか。本職の刑事かどうか怪しくなってくる。素人がコスプレしてるだけなんじゃないのか。
「け、検死報告はですね、えーっと」
「切断された刃物の特定はまだできていません。多分鋸を使ったのではないかと思われていますが、現場近辺にそれらしきものは転がってないので、犯人が持って帰ったのかもしれませんね」
先ほどパトカーの中で座り込んでいた私に話しかけてくれた鑑識の男がそう話してくれる。何だ、できるやつもいるじゃないか。私は性的嗜好不明の男性に向かって語り掛ける。
「内臓などはどうなってるのでしょう? 持ち帰られた形跡はありますか? それとも切ったまま?」
バラバラ殺人の九割は運搬・偽装を目的としたものだ。しかし壁への立てかけ方にこだわりがありそうなこの一件は、どうしても運搬・偽装を目的としたものには見えない。むしろ下半身を残すことにこそ意味がありそうだ。となると色々なパターンが想定できるのだが、私がまず考えたのがカニバリズムの可能性だ。すなわち食人。殺した人間を食すのである。上半身を持ち去ったということは上半身にしかないもの。つまり内臓の大半だとか(実際、この壁尻殺人の切断面はちょうど骨盤の真上を切り取るような形になっているので残る臓器があるとすれば大腸の下の方と子宮、膀胱、その程度だった)を目的とした犯行であると考えれば納得できる部分もあるにはある。
「内臓の類も見つかっていませんね。どうやって持ち去ったのかは知りませんが、とにかく上半身は綺麗になくなっています」
「乳房も当然?」
「見つかっていないです」
女性がターゲットとなるバラバラ殺人の場合、犯人が男性で、しかも歪んだ性癖の持ち主であれば、膣と子宮だけ持ち去る、あるいは乳房だけ持ち去るというケースが稀にだがある。持ち帰って自分のペニスをこすりつけ、慰み者にするのだ(まさに生オナホといったところか)。今回の場合下半身が残っているからひとまず膣と子宮には興味がないようである。となると乳房か。そう考えた上での先の質問である。
あるいは、乳房から腰の括れまでを含めた部位(肩のあたりから、へそのあたりにかけての胴体部位。女性的な曲線が現れる部位だ)に性的興奮を覚えるタイプの犯行かもしれない(この手合いはショッピングモールとかにある上半身だけのマネキンにも興奮できるから幸せな連中……いや、不幸な連中? ……である)。もっとも、「無くなった上半身=犯人にとって価値のあるもの」という等式が成り立っている場合の考察になるのだが。その等式の立証は今のところなされていない。
再び私は壁に立てかけられた下半身に目をやる。相変わらず女性器は汚い。多分下の毛の処理にはあまり気を回さないタイプだったのだろう。私が彼女の恋人だったら必ず剃らせるなというくらい毛が生えていた。世の男にはむしろ生い茂っている方が興奮するという手合いがいるが、私には理解できない。想像してみろ。生理の時その毛は血まみれになるんだぞ。陰毛専用シャンプーでも開発されない限り私は陰毛フェチにはなれない。
ここで私は発想を逆転させた。すなわち残した下半身にこそメッセージがある。持ち去られた上半身はまさに運搬・偽装が目的であり犯人にとって下半身を現場に残すことにこそ意味があった。となると私と同じ手合いによる犯行という線がまず浮かぶ。壁尻殺人。女を殺し、その下半身のみを露出させた状態で放置することに快感を見出す者の殺人。
「膣内から精液は?」
「見つかっています。成分分析にかけていますが、どうも単純に精液だけというわけではないようです」
「というと?」
「殺精子剤の成分が見つかったそうです。コンドームの先っぽなんかに入ってるあのゼリー状の」
となると、犯人はわざわざ避妊具を用いて性交したのか。死体相手に? いや、性交した当初はまだ生きていたのかもしれないから女性の方から避妊具を求めたという可能性はあるが……。となると犯人の行動が理解できん。性交し、殺し、解体し、下半身を壁に立てかけた後にコンドームの中の精子を膣内に移す。どうにも支離滅裂だ。死体に生の元となる精液を入れることで命の蘇りを……なんていうワイドショー向きのコメントが頭に浮かんだが全く以て非科学的なので却下する。この手の話を信じる馬鹿が多いから日本の心理学会は世界に後れを取る。
「まぁ、何にしても碌でもねぇ野郎の犯行だと思いますよ」
鑑識の彼がそう言ったのに対し私はこう答えた。
「まだ男性が犯人と決まったわけじゃありませんけどね」
特に深い意味はない、思い付きのつぶやきだったのだが、鑑識の彼はちょっと気まずそうにすると「その通りでした」と頭を下げた。私は安西の方を振り向いて言った。
「まだ思い付きの域を出ていませんけど、持ち去られた上半身よりは残された下半身の方に何かメッセージがあると考えた方がよさそうな気はします。ひとまず、その路線で私なりに考えてみます」
「あ、はい。よろしくお願いします」
結局この現場で彼女が何かの役に立っている様子を見ることはついぞなかった。まぁ、尻の形がいいから許してやれなくもないが、ポンコツはあまり好かれないのが世の常だ。彼女の職場での人間関係は相当気まずいに違いない。
実際のところ、犯罪というのには実に様々な要因が含まれている。
母親に虐待されたから女性に対し偏見を持ち、変態的な行動に出る。友人から受けたいじめが原因で、小動物を虐待してしまう。これらの説は、犯罪の原因をよりシンプルにしたいという傍観者側の欲求の表れに過ぎない。つまりは、犯罪の現実を示す説でも何でもないということだ。実際は母親に虐待されたからと言って女性に歪んだ願望を抱かない人間だっているし(むしろそちらの方が多数だと思われる)、友人からいじめられたストレスを小動物の虐待に向ける人間もかなり少ない(我々が日頃感じているストレスを小動物の虐待に向けないのと同じように、彼らだって彼らなりのストレス発散方法がある)。
つまり実際の犯罪というのは、実行可能な環境、当人の偏向的な価値観や歪んだ認知などの、複数の様々な要因が重なった結果でしかなく、その原因を一つに特定など到底できないということである。
壁尻殺人のような事件が起きた場合、マスコミというのは何かと事件の原因を「一言で」求めようとしてくるが全く以て無理難題である。犯罪の原因を一つに特定できるのであれば世の中から犯罪はとっくの昔に淘汰されている。
とはいえ、連中も手ぶらで帰るわけにはいかない生き物なのでどこまでもどこまでも食い下がってくる。渋々私が現時点で考えられる可能性をいくつか示唆すると、さもそれだけが原因であるかのように触れ回る。あの業界にまともな頭を持った連中はいないらしい。まぁ、もとより諦めてはいたが。
しかし私は考える。
あの残された下半身だけに隠された意味は何かと。対マスコミ用というわけではない。あの遺体に隠された本当の意味について思いを巡らせた。これは私の勝手な予想であるが(そして先ほどからまくし立てている説とは逆行するものになってしまうが)あの遺体にはきっとシンプルな目的がある。今回の犯人が複数の複雑な理由から殺人に至ったわけではないと言い切るわけではないが(たいてい一人の人間が殺人に至るには複数の要因が奇跡的な一致を見せた場合が多い)、少なくとも「下半身だけを現場に残していく」というあの行為に限れば、何かシンプルな目的が一つ、あるはずである。
ここで私が注意しておきたいのは、殺しそのものには複雑な複数の理由があったかもしれないが、バラバラにした下半身を現場に残すという行為にのみ限定すれば、理由はきっとシンプルなものに違いないという、そういう仮説を立てているだけである。この二つを混同するとすぐさま袋小路にぶつかる。研究とは……つまり、何かを『分かる』、理解するということは……こういう『分別』をつけていくことである。
研究室に戻り、資料と称して撮影させてもらった事件現場の画像を見ながら、私は思う。被害女性はさぞかし無念であろう。自分の体が真っ二つにされて一番恥ずかしい部分を曝け出す形で放置されるのだから。その無念さこそがまた堪らない興奮材料になるのだが、ここでまたペニスに屈するわけにはいかない。私は理性の力を以て性欲を抑えにかかる。この時のために今朝既に出せるだけの精液は吐出してきた。今私の睾丸の中はすっからかんのはずだ。しごきすぎてペニスがじんじんと痛いくらいなのだから。女性には分からぬ痛みだろうが、ペニスというのは勃起しすぎると筋肉痛のような痛みを伴うのである。まだ勃起の仕組みも分からん中学生の時分には、ペニスというのは筋肉の塊で性欲が高まった時だけ収縮して固くなるものなのだと思い込んでいたくらいである(実際には海綿体と呼ばれる部分に血液が流れ込むことで勃起する)。
ペニスの話はどうでもいい。事件の話に戻る。
私は残された下半身を撮影した一枚を眺めた。汚い。現場でも思ったことだが陰毛の生え方が汚い。写真だと肌の質感だとかがイマイチ伝わりにくくなるので余計に陰毛の汚さが強調される。正直、私が犯人で脱がした女の尻がこうだったらがっかりするだろう。それくらいの汚さなのだ。
しかもよくよく見てみれば、尻の形自体も格別いいわけでもない(悪い、というわけではないのだがよくもない)。一体犯人は何を基準に被害者を選定したのだろう? 壁尻殺人において尻を重要視しない? 蕎麦屋に来てかつ丼を食って帰るようなものだ。もしかしてこの犯人と私はあまり相容れない尻の趣味……ひとえに女の尻が好きと言ってもその嗜好はまた多岐に分かれる。おっぱいの形ごとにマニアがいるように、尻の形ごとにもマニア道が存在するのだ……を持っているのかもしれない。
研究室のドアがノックされたのはそんな考え事の最中のことだった。私が短く「はい」とだけ答えると、ドアの向こうから「警視庁の安西です」と声がした。私はまたあの綺麗な形をした尻に期待を寄せながらドアを開いた。
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