12月30日

【12月30日】リマでいろいろ考えた

 朝、クスコの空港でガイドのマリソルさんと別れた。名残惜しい。目配りと気配りが行き届いて、説明が的確で、日本語が堪能で、クスコの「心」を語ってくれた。ガイドとして最高の人だった。


 リマ行きの飛行機を待つ間、唐突に、背の高いペルー人男性に声をかけられた。


「日本人ですか!?」


 マリソルさんに負けず劣らず、見事な日本語だ。ツアーで観光をしている日本人です、と答える。人好きのする笑顔の彼と、飛行機の時間まで話すことになった。


 彼は16年前、日本からペルーに帰ってきたという。20歳のころから9年間、日本で働いていたそうだ。エドちゃんと呼ばれていたらしいので、私もそう呼んだ。


 エドちゃんは日本でホームステイをしながら、いろいろな仕事をしていた。自動車工場や空港で働いたり、南米のダンスのパフォーマーをしたり。日本人の彼女がいて、お互いの言葉を教え合ったり、一緒に旅行をしたりしたそうだ。


 日本の食べ物が懐かしいという。特に豚骨ラーメンが大好きだったそうで、ニンニクをつぶしてどんぶりに放り込むジェスチャーが手慣れていた。なお、納豆とわさびだけはダメらしい。


 エドちゃんはカラオケが好きだった。長渕剛をよく歌っていた。ブレイクしたばかりの安室奈美恵を聴いていたそうだ。こんな曲あったよねと、ポケットビスケッツの『タイミング』のサビを一緒に歌った。懐かしい。


 心の半分は日本人だと言うエドちゃんは、1990年代のフジモリ大統領の外交及び経済政策に則って、日本で働くことを選んだそうだ。おそらく、マリソルさんが日本で11年間過ごしたのも同じ理由だったのだろう。


 エドちゃんは、故郷のアヤクチョに帰省する途中だった。ペルーの地図を眺めると、アヤが付く地名がいくつもある。遅ればせながらアヤと名乗り、アヤの意味をエドちゃんに訊くと、ケチュア語で「生まれ変わり」のことだと教えてくれた。


「ケチュア語もスペイン語も教えますよ」


 日本語での会話に飢えていたエドちゃんは上機嫌で親切でユーモラスだった。たまに日本人に声を掛けても、びっくりして逃げ出されてしまうそうだ。確かに、風変わりな存在が苦手な日本人には、エドちゃんのインパクトはなかなか強烈だと思う。


 エドちゃんと別れ、飛行機に乗り込み、クスコを離れてリマに戻った。ナスカ観光のときの男性ガイドが再び迎えてくれた。平日のリマの道路は混んでいて、新市街のレストランまで1時間以上かかった。


 シンプルに鶏肉を焼いただけの、ペルーではよく食べられるという料理が昼食だった。地鶏っぽいというか、肉自体がおいしい。主食のポテトの量が多すぎる。デザートは、ルクマというフルーツのアイスクリームだった。甘すぎて断念。


 午後はリマの市内観光をして、夕食後に空港まで送ってもらい、そこで解散となる。フライトは日付が変わってからだ。炎天下のリマを歩き回ることになるから、かなり過酷な日程だ。マチュピチュ村でゆっくり休息しておいて正解だった。


 リマの市内観光は初めから期待していなかった。ペルー独立の父を記念したサン・マルティン広場から、植民地支配の中心地であるアルマス広場と、それを見晴らす大聖堂を駆け足で見て回る。


 大聖堂は、クスコのものに比べて迫力に欠けた。地震や経年による劣化を補修してあるが、そのやり方が雑に感じられた。そして申し訳ないが、説明のクォリティをマリソルさんと比べてしまうから、どうしても物足りない。


 リマの大聖堂の地下には、歴代の大司教だけが眠る墓がある。また、征服者フランシスコ・ピサロの棺も大聖堂の地下から発見された。ピサロがここに葬られているとは予想外で、皆が驚いたという。


 驚くほどのことだったのだろうか。日本人の私にはわからない。


 私がピサロ死去当時の人間だったら、と想像する。インカ帝国の民ならば、棺を暴いて遺体に復讐してやろうと考えるかもしれない。スペイン人ならば、棺の中に黄金が隠されていないかと、やはり棺を暴くだろう。


 その想像が的確なら、ピサロの棺は、大聖堂のような特別な場所にひっそりと隠して安置してあって当然だ。


 大聖堂には24の祭壇があった。祭壇は、主に木造の緻密な彫刻で飾られている。巨大なパイプオルガンが鎮座していた。雰囲気が威圧的で息苦しいのは、クスコの大聖堂と同じだ。荘厳だとか壮麗だとか、そんなふうには感じない。


 説明が曖昧で、リマのアイデンティティがどこにあるのか、わからない。クスコは、征服され搾取された怒りと悲しみを抱えていた。リマの民も同じ痛みを抱えていたのか? それとも、支配者に近い立場だった?


 拒絶反応のような、嫌な気分が胸にせり上がった。大聖堂に入ってこんな感情をいだく日本人は、私くらいのものかもしれないが。


 私は隠れキリシタンの血を引いている。遠い先祖が隠れキリシタンだったわけではない。父方の家系は、父が子どものころまで隠れキリシタンだった。


 五島列島には、今でも隠れキリシタンがいる。彼らは、カトリックを信仰する集落と隣り合い、神道や仏教を信ずるふりをしながら、江戸時代からの祈りを守り続けている。


 隠れキリシタンとカトリックは違う。明治時代、禁教令が撤廃されてカトリックの聖職者たちが長崎や五島列島を訪れたとき、隠れキリシタンは初めて信仰を告白した。そのとき、カトリックの聖職者は、隠れキリシタンをありのままには認めなかった。


 江戸時代、隠れキリシタンは指導者も聖書も欠いた状態で信仰を続けていた。証拠を残すことを恐れ、祈りはすべて口伝によって受け継がれた。彼らの祈りは次第にカトリックの正統から離れ、祖先崇拝と混じった独特の信仰へと変化した。


 だから、ヨーロッパ渡来の本物のカトリックは、隠れキリシタンを異端として弾劾した。隠れキリシタンは2派に分かれた。本物のカトリックを学び直す者と、祖先が大切にしてきた祈りを守り通す者と。


 五島列島に現存する隠れキリシタンは、隣接する集落のカトリック信者と水面下で反目し合っている。隠れキリシタンは隠れているから、その事実を知る人は少ない。私がこうして事実を明るみに出すことは、祖先への裏切りに当たるかもしれない。


 隠れキリシタンを研究しようと考えていた時期がある。少し調べた。けれど、自分に近すぎて、知ることが苦しくなった。冷静なつもりでいても、江戸幕府からもカトリックからも疎まれた祖先の歴史をたどるうち、どうしても陰鬱な気分に陥ってしまう。


 カトリックを正統あるいは正義とする価値観の対立、というテーマが、私は苦手だ。その対立する相手がプロテスタントであろうが、異端派であろうが、異教徒であろうが、王侯貴族であろうが、植民地の民であろうが、すべて拒絶反応が起こる。


 端的に言えば、私は、権威的な存在としてのカトリックが苦手なのだ。五島列島の教会群は美しくて好きだが、支配者層として世界史上に存在したカトリックは、苦手としか言いようがない。


 クスコの大聖堂には、クスコの民の感情があった。私自身の感情ではなく、彼らの感情が強く動いていたから、私自身のアイデンティティが変な具合に揺さぶられることはなかった。でも、リマは相性が悪い。撫でる程度の気楽な観光のはずが、苦しかった。


 気を取り直そう。


 リマの旧市街をざっと見て回った後、バスに乗り込み、天野博物館へ向かった。実業家の天野芳太郎氏によって設立された考古学博物館だ。1時間くらいしか見られないというから、ここでもまた不機嫌になる自分が最初から予想できた。1時間で足りるわけがない。


 結論から言う。やっぱり不機嫌になった。時間不足な上、ガイドの説明も博物館の解説も不十分だった。


 館内のコレクションは、プレ・インカと呼ばれるインカ帝国以前の時代の出土品がメインだった。殊に、11世紀ごろから15世紀ごろにかけて栄えたチャンカイ文化の遺物は、収録点数が多い。


 入って最初のゾーンは、紀元前2500年ごろに海岸地域で出土した土器や織物が展示されていた。出土地が比較的近接していたから、ガイドブックの地図上にマークできた。


 次のゾーン以降、出土地のエリアが広がった。私はペルーの地理に疎い。どこから出土したものなのか、もはや地図上で追えなくなった。説明パネルに地図を付けてほしい。


 ナスカから出土した織物だけはロケーションが把握できたが、なぜアンデスのリャマの毛やアマゾンの鳥の羽根が使われていたのか。交易の結果なら、凄まじい長距離の徒歩移動のコミュニケーションが紀元前に成立していたことになる。説明があっさりしすぎだ。


 もう1つ、きわめてまぎらわしかったのが、スペイン語による年号の表記法だ。紀元前が「a.c.」で紀元後が「d.c.」。日本で一般的な英語式なら、紀元前が「b.c.」で紀元後が「a.c.」だ。私の知る「a.c.」とは違う「a.c.」が展示品に添えられていて、思いっ切り混乱した。


 というわけで、いろいろと不満の募る博物館見学だったのだが、ツアーのみんながおみやげを物色している間、受付に置かれていた日本語の研究論文を立ち読みして少し知識を広げることができて、いくらか機嫌が回復した。


 今から数千年も前の織物や土器が完璧な状態で発掘されるのは、海岸地域が非常に乾燥しているからだ。織物はミイラをくるむための特別なもの、土器も祭祀にまつわる特別なもので、それらの紋様が意味するところもまた特別なものだった。


 そうした「特別なもの」がなぜ織物や土器だったのか、という疑問は、東洋史学を知る者として直感的に起こった。中国の歴代王朝であれば、「特別なもの」は石碑に刻む。石の堅固さが永遠性を象徴するからである。実際のところ、石は案外早く風化するのだが。


 中島章子氏の研究報告によると、文字を持たないアンデス文明では、紋様や意匠が神や王の権威などを示すために使われていた。初めはやはり石にそれらを刻む習慣があったようだが、やがて織物や土器に描かれるようになった。織物や土器が持ち運べるからだ。


 アンデスのリャマの毛やアマゾンの鳥の羽根が海岸地域から発掘されることからわかるとおり、古代の文化の担い手たちは交易を行い、広い範囲を移動していた。その際、織物や土器は「持ち運べるメッセージ」として重宝された。


 もっとじっくり論文を読みたかったが、時間切れだった。調べたいなあと名残を惜しみつつ、本を棚に戻した。


 バスに戻りながら、リマの市内観光を思い返して気付いた。ツアー客としては非常に面倒くさい人間だ、私。ごめんなさい。


 夕食の場所は、ナスカの帰りとは違う日本食レストランだった。何でこのタイミングで日本食? おいしかったので、よしとする。でも、全日程を通して、ペルーのローカルな食べ物を口にしたのは初日だけだった。ほかは若干お高い料理ばかりだった。少し残念だ。


 食後のお茶を飲む間も、混んだ道を空港へ向かう間も、空港でフライトを待つ間も、気の合う誰かとしゃべっていた。ペルーのこと、歴史のこと、日常のこと、これまでプレイしたことのあるゲーム、小学生時代にハマっていたホビー、いろいろ。


 知りたい、という欲求を掻き立てられる旅だった。ペルーの歴史やケチュア語をもっと知りたい。


 書きたい、と純粋に思った。インカ帝国の歴史物語を書いてみたい。どんなふうに表現すればいいだろうか。どんな物語なら成立させられるだろうか。圧倒的に知識不足の現時点では、ふわっとしたイメージしかないけれど。


 この旅は一生、記憶に残り続けるだろう。ひとつも忘れないために、ここにこうして記録する。いつか再びペルーを訪れるとき、私はきっと、今よりもペルーを好きになる。



【了】

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ペルー旅行記 馳月基矢 @icycrescent

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