第9話
「S」と出会って数ヶ月もすると、私の身体には痣と噛み跡が絶えないようになっていた。首筋に痣が出来た日はファンデーションで隠さなければいけなかったし、頬を思い切り張られた日の次の日は、カットモデルの仕事を延期して貰わなければいけなかった。シンヤさんの働く会社との派遣契約は早々に切れて、継続はしなかった。
対等ではなくなったのはいつからだろう。始まった時から、そんな関係ではなかったのかもしれない。私はシンヤの女で、所有物で、玩具だった。当たり前のことのように、それを受け入れた。ごめんなさいで埋まるLINEも、呼吸をするのと同じくらい、当然のことだと思えていた。
「隣でぷかーってさ、タバコ吸うみたいにされたら困るでしょ?」
「葉っぱですか?困らないですよ、別に。」
先に煙を吸い込んでとろりとした目の彼が、私にそれを差し出した。独特の匂いがして、酩酊を感じる。久しぶりに味わう、世界がダリの絵のように溶けていく感覚と、世界が崩れていくような刹那的な感覚。目の前の今しか。目の前の彼しか世界に存在していないという、世界が半径50センチまで縮小した感覚。身体を合わせると、二人の皮膚がずぶずぶと重なって一つに埋れてしまう感じがした。痛覚は麻痺して、彼が深々と噛み跡を残すのも、キスをされているのだと錯覚する。髪を掴まれて、頬を張られて、売女だとかメス犬だとか、汚い言葉を投げかけられるのも、嬉しくてたまらなかった。別にマリファナに依存したんじゃない。元々アルコールと向精神薬に浸っていた私にはさほど特別な快楽ではなかったし、あの植物に、そもそもそんな肉体依存性も精神依存性も無い。未来永劫あんなもの吸わなくたって生きていける。タバコを一日取り上げられたならば、私は喚き散らすだろうけれど。
私が依存していたのは彼だった。彼の肌に匂いに声に、全てに、どろどろに溶けていった。幸せになんてなれないって分かっていることが、幸せなのだろう。余りに馬鹿げていて、涙さえ出てくる。
「俺のものって印を入れてよ」
「うん、入れます。」
「どこがいい?」
「腰、かな。脇腹とか。」
「決めておけよ、今度連れて行くから。」
イニシャルはS。サディズムのS。支配者のS。サエキシンヤのS。
「星を二つ一緒に入れたいです」
そして、これは、彼には絶対に言わないことにした。ひとつの名前で呼ばれる、ひとつにはなれない、ふたつの星。スピカのSだ。
家庭では、大事な奥さんでは発散出来ないフラストレーションの。仕事で積もったストレスの。捌け口として使われることが嬉しかった。嬉しかったのだ。刻まれたSとふたつの星。未来の私に言い訳をするための、スピカ。これはあの人のイニシャルじゃない、スピカのSだって。
ダリの絵のように、思考も溶ける。
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