第3話

水彩絵の具を薄めに薄めたような空と、トラックの走る音、下にはアスファルトがのっぺりと続いている。高いところから下を見た時にわくわくしたら死にたいのサイン、怖い、と思ったなら生きたいのサインで、ことあるごとに私は自分の心理状況を確認することにしていた。一段とその屋上からの景色は魅力的で、足が、柵を踏み越えようとうずうずする。ああ今ならいけるかもしれない。縁に片足をかけて、下を覗いた。誰もいない。思考が、未知の快楽へと飛んでいきそうで、バイトが終わったら寄ろうと思っていた喫茶店のコーヒーと、それを、天秤にかけた。

「押してやろうか」

「え」

「なんつってね」

佐伯さん。驚いて名前を呼ぶと、彼は大した表情の変化も見せずに、私の顔を覗き込んだ。

「飛ぶのかと思って。」

「…そんなわけないじゃないですか」

見透かされていたことに、ぎくりとした。得意の繕った笑顔を向けて、右手に持った煙草を見せる。

「これ、吸いにきただけです」

「うちの会社ユルイから中でも吸えんのに。」

「だって、天気がいいから。外に出たくなりませんか」

「なんないね、あっちーし。」

そういいながら佐伯さんは、私にバニラアイスをコンビニの袋のまま手渡した。他の子にはもうあげたんだけどさ、レイちゃんいなくて、屋上行ったっていうから。

「わざわざすみません」

「いーや。こんくらいしないとねー」

あ、あとこれ。そういって、彼が、作業着のポケットから、私の携帯灰皿を出す。それは、今朝、蓋が壊れて捨てようとしていたものだった。煙草のマークが逆についていること以外は、買った時のそのままのように、完全に、直っていた。彼のことが魔法使いのように見える。

「…どうしたんですか、これ。直ってる。」

「直したのよ。こう見えて俺器用だから。ちょちょいっとね」

「ありがとうございます」

ぱかぱかと、開いたり、閉じたりしてみた。なんの違和感もなく、逆さになったマークすら、この方が気に入ってるわ、と言っているかのようだった。

「携帯灰皿持ってんの偉いよね、なんで?」

「偉くないですよ。外で吸いたいときとか、困るからです」

「ああ、結構ヘビーなんだ」

「そうなんですかね、減らさなきゃとは思うんですけど。女の子がヘビースモーカーって、ほら、印象悪くないですか。」

「そう?俺は別に何も思わないけどなあ、何吸ってんの?」

「ハイライトです。メンソール。」

「ああ、結構ごついね。」

「ですよね、やっぱり。」

「でもなんか似合うよ。一本くんない?」

彼の手が私のハイライトを挟み取って、それに火を点ける様を、ずっと見ていた。水彩絵の具のような景色に、油絵のような彼の姿が、ミスマッチで、くらくらする。

「押してあげようか」

「…なんでですか」

「冗談だよ」

ひゅう、と生暖かい風が吹く。私も彼も、夏だというのに、長袖だった。会社の制服に半袖があるのは知っている。三好さんや長野さんは半袖を着ていた筈だ。

「今日、派遣の子も誘って飲もうって三好さんが言ってんだけど、レイちゃん来る?」

「あ、行きます」

「お、なんか以外。そういうの苦手かと思ってた」

「ただでお酒飲めるところなら私、何処にだって行きますから。」

「いいねえ、俺とミヨさんの奢りだよ。」

備え付けの灰皿へハイライトを落とすと、佐伯さんはにかっと笑った。ああ、お酒が飲みたいと、私は直されたばかりの携帯灰皿に火種を押し付けながら、煙混じりのため息を吐いた。

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