第4話

幸せになりたかった。ただ、幸せになりたかっただけなのだ。けれど世間一般で言われるところの「幸せ」のモデルと私が望むものはさっぱり合致せず、何を欲すれば良いのか分からないうちにこうなった。彼は私のことをよく「女じゃなくてメスだな」というけれど、それはそういうことなのだと思う。下腹部はまだあたたかい気がする。彼の数億は私の1と結びつこうとしているのかもしれなくて、それが、僅かに幸福を与えた。

「セックスをしたのは?」

「昨日の22時ごろですかね」

「わかってると思うけど、百パーセントじゃないのよ。あなたこれで何回目よ。だから…」

「今度からは低用量ピルも飲もうと思っています。」

先生は私をじとりと見て、呆れた顔でカルテに目を落とした。後ろに控えている看護師が何故か微笑みを浮かべていて、憐れまれているような、居心地の悪さを感じる。

「ピル飲んでも性感染症の予防にはならないからね」

「はい」

「言ってることわかる?ピルを服んでも、コンドームをつけなさい。」

「はい」

「ああでも」

今度は何を言われるだろうと身構えていると、彼女はパラリと手元の紙をめくった。

「膀胱炎にはならなくなったのね」

「あ、そうですね。」

セックスの後に、そのまま眠るのが好きだった。人の肌の体温を枕に、睡眠薬を服むよりも柔らかな眠りを、感じるのが好きだった。した後にすぐにトイレに行かないと膀胱炎になりやすいとわかっていても、その柔らかさから離れたくなくて、以前の私は、月に1度は膀胱炎になり、2月に1度は血尿を出しては、脂汗を垂らしながら抗生物質を処方されに来ていた。彼の隣では、眠ることが出来ない。それは、私の肉体的な健康にとっては、良いことであったのだ。

「こちらの病院では言ってるの?」

何をですか、と訊ねようとして、トン、と先生が差した先にある私のお薬手帳が目に留まる。そこには私の処方されている抗鬱剤安定剤etc.が並んでいて、あー、そっちの病院。と思う。いっそ小さな個人病院ではなくて、大学病院とかにまとめてしまおうかとも考えたことはあるけれど、待ち時間と診察代が異様にかかるというだけだったので、休日に私は病院をハシゴする。

「セックス依存は病気よ」

「…そうなんですかね」

「あなたセックスしないと生きていけないと思う?」

「………」

そりゃそうだろ、と叫びたかった。だって、誰が三大欲求だって言ったわけ。食欲睡眠欲そして何?当たり前じゃない、って言いたかったけれど、ここでそうやって騒いだならば、既にメンヘラのセックス依存扱いされているところを更に面倒なことにしてしまうと思ったので、へらりと笑ってみることにした。笑っている自分の顔の皮を剥いでしまいたいとも思った。

「あと煙草ね。ピル服むなら減らさないと」

「それは向こうの病院でも相談してるんですけどね」

「そちらでは何て言われてるの」

「それで気分が落ち着くなら、悪いこととも一概に言えない、って。」

先生は溜息を吐いた。「そちら」の私の先生は、ファーストフード店の店員みたいだ。私が言って、注文をして、薬を処方してくれる。たったそれだけでカウンセリングとか面倒なことを言い出さないので気に入っていた。あの仕事なら、時給1000円のバイトでも出来そうだと考えることもある。

待合室に戻ると、子供が私にぶつかって転んだ。3歳くらいの男の子で、絵本を持って涙目で私のことを見上げた。

「すみません。」

「いいえ。かわいいお子さんですね」

ままー、と走り寄った先にいたのは腹に詰め物をしたような体型の妊婦で、私はその姿を見るたびに軽い目眩のようなものを覚える。子供は、彼の子供と同い年くらいだろう。私は、無意味に、微笑んだ。

「やんちゃで困ってるんですよ」

「男の子だし、やんちゃなくらいがいいですよきっと」

「そうですね。次は、女の子みたいだから、おしとやかになってくれるといいんですけど。」

聞いてねえよクソババア!私は腹の底で叫び声をあげる。彼が女の子が欲しい、といつかこぼしていたのを思い出してしまったからだ。彼は奥さんに中出しをしているのだろうそして奥さんはピルなんて服まないのだろう以前に見た彼のクローンのような息子の顔を思い出して、ああ私だって彼の子供が欲しい、と思った。違う私は子供なんて要らない。私は彼のクローンが欲しいのだ。私が欲しいのは完全なる彼の遺伝子だけで構成されたクローンだ。彼が欲しい。私は、彼が欲しいのだ。

「ままー、このおねえちゃんも赤ちゃんうむのー?」

「けんた、」

ケンタ、と言われた男の子を妊婦は手元に寄せた。すみません、と曖昧な顔で謝られる。笑いたくなった。155センチ38キロの私のお腹はぺったんこで、婦人科にいるのは誰が見たって、性病か堕胎か避妊か、そのどれかだろう。

お姉ちゃんはね、赤ちゃんになる前の命の素を殺すんだよ。

そう教えてあげたかったけれど、どうだろうねー、とケンタくんに返す。妊婦の携帯がピリリと鳴った。

「…あ、ごめん、いま病院。そう、そう、大丈夫よ。え、早く帰れるの?うん。うん。じゃあハンバーグお願い。ケンタが喜ぶから。うん。うん。じゃ、また。うん。病院だから、またね。」

妊婦の会話を聞きながら、私の手に入れることの出来ない幸福について考えていた。

幸せになりたい。幸せになりたかった。世間一般の幸せのテンプレートと幾らそれがかけ離れたものであっても、私はただ、幸せになりたいのだ。

処方されたばかりのアフターピルをクリニックの外で飲み下すと、彼の吐き出した数億が、だんだんと、死んでいく感じがした。さよなら私の愛しいクローン。クローンではない彼から、病院行った?とLINEが来ていて、今アフピル飲んだとこ。指先だけの感覚で、送信した。

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