第8話
仕事が遅番だったので喫茶店に入ると、隣に鋭い眼鏡をかけたビジネスマン風の男がいた。男は今時珍しい、パイプをふかして、目の前においたパソコンを何やら見つめている。株が何かだろうか、と思ったのは一瞬で、いや、違うな、と私の内腿に入れた桑の実が告げる。全く、この桑の実は何のセンサーになってしまったのか、男がスマートホンの上に黒いガラケーを乗せているのも、「仕事用」だと瞬時に判断する。仕事用。会社のではなくて、いつでも捨てられるプリペイド。
隣に座りミルクティを飲んで煙草を吸っていると、男がジッポをカチカチとさせ、そこから火が出ないことに苛立っているのに気が付いた。ああ、火、貸すべきかなあ。とか、ぼんやりと思う。
「すみません」
「あ、はい、火ですか?」
「つかなくなっちゃって。」
「これでよかったら。」
私のダサいピンクの100円ライターでパイプに火をつける様は、それでもどこか、優雅に見えた。男が私にライターを返す。私はそれを、テーブルの上に置いた。
「また必要なら、勝手に使ってくれて構いません」
「ありがとう」
そう言うと、男は私の顔をジイ、と見た。あー、なんだろうな、私、何かしただろうか。そんな考えの裏側で、考えたくない可能性が頭をよぎって、そしてその私の勘は、こんな時には当たることが多い。
「ねえあんた」
「…何ですか」
初対面であんた呼ばわりきたよこれ、と思いながら、表情筋だけで笑顔に似たものをつくる。男は、パイプをふかして、言った。私に左手で小指を立てる。
「あんた、シンのコレだろ」
「…お知り合いでしたか」
「まあ、仕事上のね。」
どんな仕事、とは、流石に聞かない。
「よく話してるよ。可愛い玩具がいるって」
「光栄ですね。写真でも見たんでしょうか」
「ああ、見せられたよ」
それがハメ撮りで無いことを祈りつつ、私は灰をトン、と落とす。男はさして興味が無いのか、あるのかわからない顔で、私の手元や顔を見ている。佐伯信矢、シン、と言うのが信矢さんだということは、明白だった。
「可愛い顔してるね、噂通り。あいつはあんたに入れ込んでるよ、珍しく」
「…だとしたら、嬉しいです。」
「でも気を付けた方が良い。」
「…私はソープにでも売られますか?」
「その可能性もあるんだろうけど。あいつのしてきたこと知ってる?女のコ泡に沈めるの趣味みたいなもんだから」
「そうですね、よく言われます。気を付けたいと思います。」
「でもあと一つ忠告な」
あいつちょっとヤバイんだよ。男はそう言って、パイプをひっくり返して灰皿へ落とした。
「こないだトラブってな、パクられるかもしんない、ってこと。」
「……そうですか」
「驚かないの?」
「もう、何に驚いていいのかわからないですからね」
「それは心構えが出来ていいね。」
そう答えながら、私の心臓はバクバクと張り裂けそうになっていた。煙草を持っている手が震える。震えを隠すように火を揉み消して、新しいものに火をつけた。パクられる。パクられる。パクられる。パクられる。
「あんたといて変わった様子は無い?」
「私は、彼のしていることは、よく知りませんから」
「そうか、そこまで馬鹿じゃないか、あいつは。ペラペラ女に話すことはしないか」
「そうなんでしょうね」
…あの、と自分の唇が滑っていく。ミルクティの味は、もうわからなかった。ハイライトの甘みも苦味も、全部、わからなくなっている。
「私が付き合う人、付き合う人、みんな捕まっちゃうんですよ。」
「へえ」
「別に、アブナイ人が好きとかアヤシイ人が好きとかじゃないんです。シンヤさんと知り合ったのも職場だし。全然、知らなかったし。みんなそうなんです。私の元カレ、犯罪者のオンパレードで」
「興味深いね」
男は楽しそうにパイプを掃除し始めた。面白がられるくらいがいいとは思っているけれど、なんだかこの状況が絶望的で、マゾヒスティックな快感すら覚えたのだった。頭の中でもうほぼ縁の切れた母親の声が反響する。あなたのせいで。
「サイコパスとかソシオパスとか、生来的に犯罪を犯しやすい人間がいるのは知ってるだろう。そして、DVをする男と別れた先で出会った男にまたDVを受ける女がいることもわかるだろう」
「まあ」
「君はそれなんだよ。生来的に犯罪者の素質を持つ者を無意識下で選んでいるんだ。」
「何のために」
「そうすれば、犯罪者と付き合うのは君みたいな哀れな女だけで済んで、他の善良な市民は、善良なままで生きることが出来るだろう?」
「…ああ、そうですね」
仕事まではまだ時間があったけれど、これ以上この男と話す気にはなれずに、私は荷物を纏め始めた。善良な市民が善良なままでいられるだって?馬鹿らしい。そして、何もそれを否定出来ない。
「まあ君みたいのは稀だから、あいつもお気に入りなんだろうね。チームの名前とシンヤって名前で寄ってくるやつばっかりだっただろうから。君がそういうところを知らないなら、あいつの地元でスカウトでもナンパでもされたらいい。そしてシンヤの女って言ってやるんだよ。ころっと顔色が変わる様を見られるよ」
池袋ウエストゲートパークでもあるまいし、そんなの本当にあるなんて笑ってしまいたくなった。私はストリートにいる人間が嫌いだ。男も女も嫌い。私に好きなものなんて、殆ど無いのだけれど。公園でたむろするなら喫茶店に入れよと思うし、コンビニの前でたまるなら居酒屋に入れと思う。その馬鹿にしていた人種にどうしようもない恋情をいだいているのは紛れもなく自分自身で、それがたまらなく情けなく思えた。
「あんたは可愛いし、金に困ったらいつでも言ってよ」
「…はあ」
「この辺の店なら大抵紹介出来るから」
男の出した名刺を受け取ると、私はそれをポケットに入れた。喫茶店の外は寒くて、まるでパイプをふかしたみたいに、靄が口の周りから出た。
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