終章 何色にも染まる春
東大正高校に、春が帰ってきた。
別にうちの学校でなくても、日本中どこにでも春はやってくるけれど。春は帰ってくるものではなく、来るものだと一般的には言われているけれど。
目を瞑り、瞼の裏に映る、様々な輝ける景色を思い返す。ひらひらと目の前を横切って舞う桜の花弁のような、美しく、けれど二度とは蘇らない景色を。
中学2年生、愛猫マープルを探して初恋の相手に出会った街の片隅。
高校1年生、空乃と簡単な謎解きをして、新聞部に入部するきっかけを作った昼休みの屋上。
パノラマ模型の不整合を追い、ある人の親友と祈りに纏わる謎を解いた中庭。
体育祭、一枚の奇妙な告発予告状を巡り、一年前の確執と因縁のために走り回った運動場。
高校で出来た友達である忍と、中学の友達であるアッチとの交流の中で、絆が消えてしまうことの恐さを知ったバッティングセンター。
キヨの葛藤と前田さんの想いを知り、陰ながら二人の背中を見送った、校門。
曽布川さんの思わぬ一面を知り、『陰』と『陽』なるものの本当の意味を、演劇部の確執を通じて知った、教室。
迷わない迷子である奈通ちゃんを、同じ境遇の柿坂先輩と一緒に、母親の元へ送り届けたお祭りの日。
そして……文化祭の中、柿坂先輩のために、自分のために、駆けずり回った、この東大正高校すべて。
どこにも平等に、春はやってくる。
「『距離感』って、不思議だよな。
近くで話してるのに、相手がずっと遠くを走ってるような感じがしたり、遠くにいるのに、ずっと隣に寄り添ってくれているような感じがしたり」
写真立てに入ったあざとい顔のマープルの額を、親指で撫でながら語りかける。
ガラスの冷たい感触しかしないはずなのに、私の指にはたしかに、あの日のあいつの毛並みが、もさもさした気持ちよくて暖かい感触が蘇ってきた。本当に幽霊として化けて出てくれるんじゃないかと夢想するほど私はロマンチストではないけれど。
ふっと微笑むと、写真の中のマープルも、ちょっとニコって笑った気がする。私はロマンチストではないけれど、そういった感情を、「そんなわけがない」と吐き捨てられるほどリアリストなわけでもない。
距離感。
マープルとは、直接肌を触れ合わせたりすることでしか意思疎通ができなかったけれど、家族や友達となら、顔を見て話すだけで……何なら、それすらしなくてもコミュニケーションが取れる。
電話を使えば遠く離れた友達ともすぐに話せるし、メールを使えば言葉では言い表せないことまで文字で伝えられる。ネット上で顔も知らない人と好きなバンドの新曲の話で盛り上がったり、くだらない意見の対立で喧嘩したり。
顔も、声すらも知らない相手を好きになったりすることって、賛否両論あると思うけれど、私はとても素敵なことだと思う。
人と人との距離感は、きっと、物理的な距離で表されるものでもなく、お互いをどれだけ知っているかということだけで表されるものでもない。
愛とか絆とか、そういう言葉だけでまとめられるものでもない。
「行ってきます」
いつもより軽いカバンを左手に、自転車の鍵を右手に。
私は家を出て、東大正高校に向かった。
今日は、卒業式。
人と人との距離を離し、そして、ずっと離れないものにするための日だ。
#
卒業式はつつがなく終わり、花道を歩いて去っていく3年生を見送った。
泣いている人もいれば、笑っている人もいた。隣の友達と抱き合いながら歩いて行く人たちもいたし、最後まで堂々と胸を張って歩く人もいた。
出席番号的にずっと隣にいた空乃なんかは、卒業証書授与のあたりから最後まで、ずっとさめざめ泣いていたが、私は泣いたりはせず、ただじっと座っていた。
ぶっちゃけて言えば、文化祭の時に散々泣いてしまったせいか、肝心の卒業式であんまり『お別れムード』を実感できないでいたのだ。感動や胸に残る寂しさが全くないわけではなかったが、文化祭が先輩たちとのお別れで、そこから今まではフェードアウト期間というか……。
こんなこと、今の空乃に言ったら「冷たい!」とか「人でなし!」とかの罵詈雑言を浴びせられそうだ。
式の後、新聞部の面々は部室に集まった。
お別れ会は文化祭のあとにやったけれど、最後にもう一度だけ、新聞部を去る身として部室にお別れの挨拶をしたいと、柿坂先輩たちが言ったからだ。
部室の前に集まり、一人ずつドアを開けて入っていく。
空乃と忍は、まだ少しひくひくと肩を揺らしていた。たぶんこのあとまたいっぱい泣くんだろうな……。
1年生が全員部室に入室して、なんとなく部室のホワイトボードを背にして横並びになる。そのあと、3年生の2人が、順番に入ってきた。
いつもよりキッチリと着た制服の胸に、凛としたコサージュを付けた先輩たちの姿を近くで見た途端、今日これまで全く反応しなかった目頭が急速に熱くなるのを感じた。
その立ち姿は、これまでの卒業式のプログラムの何よりも、「お別れ」を強く物語っていて……。
3年生2人もドアの前に並ぶと、送る者、送られる者が、向かい合わせになる。
おほん、と咳払いをして、渡良瀬先輩から挨拶を始める。
「長い挨拶はいらない。『いつでも会える』、『新聞部をよろしく』、『困ったら頼りなさい』。この3つだけが、私から君たちへの別れの挨拶です」
鼻声で言い終わり、ほら、と少し八つ当たり気味に柿坂先輩に挨拶を促す。
柿坂先輩は、涙も後悔も、一点の曇りもなく晴れやかな表情で、すうっと息を吸ってから。いつもよりも大きい声で、挨拶を述べた。
「……色々と迷惑をかけたけれど! この部の部長で、部員でいられてよかった。俺からも長い挨拶はないよ。渡良瀬と違って、俺はいつでも会えるってワケじゃないけれど……きっとまた、この7人で集まろう!」
『はい』
まっすぐだったり、揺れたり、ぶれたり、震えたりした声が、私の喉が辛うじて出した、声にならない声に重なる。
こんな時になって、視界がぼやける。喉がいうことを聞かなくなる。
「……じゃあ、最後に。部長」
「うん」
柿坂先輩と渡良瀬先輩は、ぐるっと首を回して、部室全体を見回した。
あまり会議などでは有効活用されず、渡良瀬先輩がよくラクガキをしていた、真っ白なホワイトボード。
備後先輩によって置かれ、夏場はたまに教師たちにバレないようにアイスとかを冷やしていた、小型冷蔵庫。
レイアウトや文章を考えて散々にらめっこした、ノートPC。
みんなで囲んで会議をしたり、打ち上げなどの時にはお菓子やジュースを広げた、大きい長机たち。
『東大正高校新聞部シリーズ』のファイルが一番左端に収納された、書類や過去の新聞などがギチギチに詰まったガラス棚。
それら全てを、たっぷりと時間をかけてじぃっと見ていくほどに、先輩たち2人は目を潤ませていった。
耐えきれなくなったように、柿坂先輩が、鼻を啜って、「もう、済んだ?」と渡良瀬先輩に尋ねる。渡良瀬先輩は右頬に流れ落ちた大粒の涙を拭うことなく、こくりと頷いて。
そして。
『……3年間、ありがとうございました……っ』
絞り出すような、胸を突き刺すほどに切ない声で、部室に別れを告げ、深々と頭を下げた。
姿勢を戻しても、頭だけは上げられず、腕で涙を拭いながら。2人は大きく、小さいその背中を私たちに見せまいとするように、すぐに部室をあとにした。
部室には、私たち1年生5人だけが取り残される。
文化祭の時点で、すでに柿坂先輩も渡良瀬先輩も、新聞部の部員名簿から籍は除かれていたけれど。
11月から今まで、私たちだけでも、ちょっと苦戦することもあったけど問題なく新聞部としての運営を続けて来られたけれど。
それでも、2人がこの学校からいなくなってしまうことに対して、どうしても小さな不安と巨大な寂しさを胸の内から拭い去ることができない。
「……うっ…………」
沈黙を破ったのは、私の喉から漏れ出した声だった。
ダメじゃないか……みんなだって、寂しいのは同じなのに。
――そういえば……私、泣いたことないな……――
1年生の最初の頃、空乃との会話で言った、自分のセリフを思い出した。
――赤ちゃんとか、小さいときは泣いてただろうけど。……注射のときも泣かない子だったって聞いたし、映画でもウルッときても我慢するタイプだし、少なくとも小学校に入ってからは泣いたことないな……――
随分と、涙もろくなってしまった。
喉から漏れ出す嗚咽も、止めようとしても止めようとしても目を突き破って出てくる大きな涙も、なんにも我慢が効かない。止まらない。
ふと、私の肩に手が置かれた。
空乃の手だ。
「……うぅ、ううぅぅ」
「うぅぅ……うぁぁん……!」
励ますでも、慰めるでもなく、空乃は私の肩に手を置きながら、私よりも大きい声で、私よりも激しい勢いで涙を流した。
私も、空乃の肩に手を置く。
そうすると、落ち着くどころか、さらに涙が止まらなくなってしまった。
「ぐっ……ぐすっ……」
共鳴するように、忍も口を抑えて泣き始める。
女子3人が、肩を寄せ合って、泣く。
肩を寄せ合ったからといって、この声も出せない嗚咽の中では慰め合えるわけもないのに。
ただ、1人で泣くには、この感情は大きすぎた。
「……うっ……ううっ……」
「………………」
下邨、キヨも、必死に声を押し殺すように、必死に顔を隠すように、うずくまるような姿勢になって泣き始めた。
どれくらい長く、そんな風に、感情の任せるままに泣いていたのか。
気が付けば夕方になっていて、誰からともなく無言でカバンを掴んで、黙って一人一人部室を出て、帰って行った。
――こうして、柿坂十三郎先輩と、渡良瀬秋華先輩は、東大正高校新聞部を去った。
#
前略
小池さん、久しぶり。
手紙なんて書き慣れていないから、いつもの話し言葉で書きます。
俺と天音さんは今、オーストラリアにいます。
ビックリすることがいっぱいだよ。
道路脇には車に撥ねられたカンガルーの死体が転がってるわ、甘く味付けされたアリをスナック感覚で食べたりしてるわ。
天音さんは、こういった日本では考えられないことを知ったり実践したりするのが大好きだから、大喜びなんだけど。俺としては……アリはまだいいとしても、カンガルーの死体は、ちょっと。できればもう見たくないかな。
天音さんが死体を袋に詰めて持って帰りたいとか言い出した時には、本気で旅の中止を考えたよ。
ともあれ……なんというか、やっぱり、旅に出てよかった。心からそう思う。
知れないことを知れる、見られないものを見られる。
そういうことが好きだから、俺は高校で新聞部に入ったんだし……何より、自分の考え方が全てじゃないと知って、世界の色々な人の考え方や知識に触れるのは、得難い経験だ。
世界を見ることができて、とりあえず今は、最高に楽しい。
まぁ、まだオーストラリアだけしか見てないけれど……。
あと何か月、何年……或いは、何週間程度で急に終わるかもしれないけれど。しばらくは、こんな風に世界を見て回ろうと思う。
きっと、この先の人生を送っていく中で、今の日々は思い出として輝く。
小池さんは俺なんかよりずっとしっかりしてるし、自分の考えを持っていそうだから、偉そうなことを言うのは気が引けるけれど……もしも今、もしくはこの先、生き方や進路に悩んだのなら、後悔だけはしないようにしてほしい。
ポンっと、適当に道を選んでもいい。悩んだ末に楽な方楽な方へと流されてもいい。それでも、その日を後悔することだけは、しないでほしい。
日本に戻った時は、真っ先に新聞部に顔を出すから、よろしくね。
他にももっと書くべきことはあるんだろうけれど、今回はこの辺で。
次はどこだろう。イタリアで手紙を出すことになるかな。今話し合ってる感じだと、次はヨーロッパの方に行こうってことになってるんだ。
だいたい一か月後ぐらいになるかな。予定は未定と言うけれど、天音さんが本当に行き当たりばったりすぎて……。
とにかく、こっちは元気だよ。
それでは、また。
輝かしい青春を、どうか、後悔のないように。
柿坂十三郎
#
卒業式の次の日の早朝、備後さんと共に日本を発った柿坂先輩は、一週間弱で新聞部宛に便箋をくれた。
マメなことに、便箋の中には新聞部各部員に宛てた手紙が1枚ずつ入っていて、みんな似たような内容だったけれど、みんな嬉しそうにその手紙を読んでいた。
「あーあ。カッキー先輩も高校卒業した途端に説教臭くなっちまったなぁ」
「インドとか行ったら余計ひどくなってそうだ」
私はこの手紙でけっこう感動していたというのに、先に読み終わったらしい下邨とキヨが、机の上に手紙を放り出して、感情をぶち壊しにするようなコメントをする。
ふん、と溜め息を吐いて手紙を鞄の中にしまう。その様子を、空乃と忍が横から覗き込んでいた。
「読んだ? 何て書いてあったの?」
「……別に。たぶん2人のやつと変わらないと思うけど」
「本当? ハーバーブリッジの耐荷重の計算とか書いてあった?」
「コアラの生態観察レポートとかも?」
「…………」
どんだけ書くことなかったんだよ。
読みたきゃ読めよ、と言って2人に手紙を見せることも考えたが、どうにもこの2人と私とでは内容が違いすぎるようなのでやめておいた。
黙って椅子に深く座り、いつも通りの黒いカーディガンから、いつも通りにスマホを取り出す。
最近はめっきり開かなくなったメモ帳アプリに、久しぶりに新規のメモを追加する。書くのは、先輩の手紙への返信だ。
忙しなく世界各地を旅する2人に、手紙など届くはずもない。旅に携帯は持っていかないつもりだと言っていたし、電子的な連絡手段もないから、いよいよ返信の文言など考えたところで伝えようが無いのだが。
それでも、まぁ……暇つぶしにはなるだろう。
忙しなく、目まぐるしくめくられていったこの1年間の暦を思い、今流れているゆったりとした時間を享受する。
春休みは短いようで長い。無駄なことをする時間だって、必要不可欠だろう。
私は新聞部の窓から外の景色を眺め、ひとつ小さな欠伸をすると、特に迷うことなく、こう書き出した。
――先輩たちの今いる場所で、桜は見えますか?
【連作ミステリー】東大正高校新聞部シリーズ OOP(場違い) @bachigai
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