11章 Secret Title

 実の所、俺は、備後天音という女性に対するこの気持ちを、恋心という一言で済ませていいものか測りかねている。

 ひとしきり泣いた後に、一言も発さず帰っていった小池さんを見送って、入れ替わりで入室してきた備後先輩と二人きりの美術室で、俺はそんなことを考えていた。


「……本当によかったのかい。私なんかよりも、小池さんの方が絶対にいい女性だぜ」

「ええ。苗字が違うとはいえ、実の姉に恋をするよりかはよほど健全なのでしょうが……そういう生き方を選んだのだから、後悔はありません。それに、あなたに拒絶されても、俺はどちらにせよ彼女の告白を断っていましたから」

「そうか……うん、それならいいんだ」

「俺も、あなたのように、卒業したら世界を巡りたいと考えています」


 備後先輩は、少し目を丸くしたものの、そのあと優しい目をして、微笑んでくれた。

 仄暗い夜の帳に、その顔は何故かぼんやりと悲しみを帯びたように映る。


「私に憧れてとか、私と同じように親から離れたくて……というわけではなさそうだね」

「……それらも、少しはあります。けど、そんなそれらしい理由じゃなくて。ただ単純に、大学に行くよりも世界を回る方が有意義だと思っただけです」


 備後先輩の言う通り、俺たちの両親はどこか、人としてあるべき感覚に決定的に欠陥があるのだろう。

 先輩が日本を発つ前日、うちの両親は、平気で一緒に写真に写った。離婚自体に何の感情もないのだから当然だと言えるだろう。お前も写れ、と言われたが、にこやかに辞退した。そんな空気感の両親が心底気持ち悪く、あとで両親にカメラマンをさせ、先輩と2人で写真に写った。


 そんな両親だけれど、別に、親として愛情がないとは思っていない。

 俺を引き取ってくれたのは母親だが、ここまで育ててくれたことはもちろん、大学への進学費用を貯めてくれていたことに対してはとても感謝しているし、誕生日だって毎回祝ってくれた。

 だから、本当にこれは、俺のただのワガママで……。


「この3年間、色々な価値観に触れてきて感じたんです。俺には、譲れないものとか、心血を注げるものがあまりにも無さすぎる」

「我々くらいの年頃の若者は、大体そうだと思うけどね」

「えぇ。大学で、少しずつ見識を広げ、将来を具体的に決めていく。それが一般的でしょうし、母親も俺にそうしてほしかったのでしょうが……あなたのせいですよ」

「おや。突然なんだい?」


 急に責任を擦り付けられちゃったな、と、クスクス悪戯っぽく笑う先輩に、俺は、あくまでも真面目に微笑む。


「世界に飛び立つあなたの後ろ姿を見て、思ったんですよ。『後悔のない生き方をしたい』、って。

 あなたに憧れたことは、世界を見たいと思った理由ではないけれど……背中を後押ししてくれる、エンジンでした」

「…………」

「先輩。いえ……天音さん」


 緊張する。

 今になって、俺は小池さんのこんな覚悟を自分のために無下にしたのだと思い知らされた。

 大丈夫だ。どんな結果になっても俺は……後悔しない。

 俺は、少し汗ばんだ左手をズボンで拭き取って、手のひらを天井に向け、天音さんの前に差し出した。


「俺は1人ででも世界を巡るつもりです。だけど、そこに一緒にあなたがいたなら……きっと、もっと世界は輝いて見える」


 それを聞いた天音さんが、備後先輩が……一瞬、ほんの一瞬だけ……顔を変える前の、昔と同じ顔で、驚いた気がした。


「……やれやれ。私が目を離してるあいだに、どこでそんな気障な口説き文句を覚えたんだい?」

「口説き文句なんかじゃない、本心ですよ。世界を巡る旅に、俺も……『恋人』として、同行させてください」


 大人っぽい笑みは絶やすことなく、けれど少しだけ頬を染める天音さん。

 ……いつか、旅の中で……血の繋がった恋も認められる国に行ってみたい。そんなことを強く思った。


「……こちらこそ」


 天音さんが、そっと俺の手を取る。

 心臓が重力の影響下を逃れ、ふわりと浮き上がるような心地がした。


「どうも私は長旅をするには行き当たりばったりが過ぎるようでね。君が一緒にいてくれるなら、私も嬉しい。……『恋人として』、という部分は保留とさせてもらうが」

「……ありがとうございます」

「いつか……私の中から、『弟』としての柿坂十三郎と、『後輩』としての柿坂十三郎の印象を、『恋人』として塗り替えられたなら……」


 天音さんは、その先は言わなかった。


 どこかから、笑い声と歓声が聞こえた。ひと足早い打ち上げでもしているのだろうか。

 そろそろ帰らなければならないね、と、天音さんは鞄を持って歩きだす。

 ぼうっとしていると、突然、手を取られて引っ張られた。振り返ると、天音さんが得意げな表情をして顎で美術室の出入り口を指している。


「よろしくお願いします、十三郎」


「……こちらこそ。天音さん」


 こうして、様々な関係に決着を付けて、文化祭2日目の夜は更けていった。



11章 2点Bb間の距離


END

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