10章 2点間の距離
HIGASHITAISEI HIGHSCHOOL FESTIVAL
CHAPTER6.3 TITLE:
『小池咲は食えない後輩である』
〇視点:小池咲
〇同行者:柿坂十三郎
〇文化祭2日目・17時20分
「……翼は認めたようだけれど。俺は、まだ認める気は無いよ。君の推理を最後まで聞くまではね」
「そうですか。そう言うと思ってましたよ」
あぁ、もう、なんだか……うんざりだ。つまらない推理ごっこに付き合わされる身にもなってほしい。
まるで犯人側みたいな感想を抱きながら、私は小さく舌打ちする。そんな私の悪態を見て、柿坂先輩は、口元に手を当ててクスクスと悪戯っぽく笑った、
「俺の前で、初めてだよね。小池さんがそんな態度取るの」
「……もう、可愛い後輩を演じる必要もありませんからね。でもそれは、先輩も同じことでしょう? こんな食えない性格をしていたなんて」
「ははは。……それは、お互い様だよ」
お互いの乾いた笑いが、美術部室の壁や床や天井、飾られている絵に染み込み、夕景と夜景の間、紫色のヴェールの中に溶けゆく。
……本当に。なんでこんな人を、よりにもよって初恋で好きになってしまったのか。
自分の初恋を、私はひどく呪った。
この期に及んで、未だに彼のことを好きな自分が、
かわいいとか、かっこいいとか、そんな感情を、この期に及んで育んでしまっている。
「……君には、かっこいい、優しい、憧れの先輩だって思われたまま……卒業したかったんだけどね」
「…………」
「さぁ、続きを話してくれないか。もう夜になりそうだしね。まずは、あの署名……2日に渡って新聞に書かれた記者Bの署名が指し示すメッセージについて、教えてもらえるかな?」
「……分かりました」
今、やっと分かった。
先輩は、心の底からこの状況を楽しんでいるのだ。この推理ごっこを、そして、文化祭で起こった事件の全てを。
たぶん、だから先輩は……。
「あの署名が指し示すメッセージ。結論から言うと、それはこの場所……『美術室』です」
「へえ。なんでそうなるの?」
「……少し、口で言うには複雑ですね。面倒臭いんですけど……本当に。もう認めてしまってくれませんか?」
「推理パートで面倒臭がる探偵がどこにいるんだ。ちゃんと説明してくれ」
「私は探偵でもないし、こんなもの、推理でも何でもありませんよ」
溜息を吐く。しつこく遊びをねだる子供の相手をするような気持ちで、私は長く喋るのに備えて、大きく息を吸い込んだ。
「……あの署名のメッセージを読み取る上で最も重要なのは、署名が発見された新聞の掲示場所です」
さっき全員で新聞部で話し合いをした時に共有した、スマホのメモ帳に記録した情報を読み上げる。
「1日目、
9時台 新聞部室。
10時台 西館3階。
11時台 西館3階。
12時台 東館4階。
1時台 東館3階。
2時台 西館3階。
3時台 東館2階。
4時台 西館4階。
5時台 西館3階。
2日目
9時台 東館4階。
10時台 東館2階。
11時台 西館4階。
12時台 東館2階。
1時台 西館1階。
2時台 東館2階。
3時台 西館1階。
4時台 西館1階。
5時台 東館1階……。
そして、2日目4時台と5時台は、上下逆さまの『逆向き』に書かれていました」
「どうして逆向きなんだろうね?」
「白々しいですね。殴ってもいいですか?」
先輩のこういった態度に最初は傷付いていたが、渡良瀬先輩との通話を終えてから、そんなことにいちいち腹を立てたり涙目になったりしているのが馬鹿らしく感じられるようになった。
ヘラヘラと笑う柿坂先輩に呆れながら、私は彼の言うところの『推理』を披露する。
「先輩。ヨーロッパなどの地域においては、日本で言うところの1階は、0階として数えられるのをご存じですか?」
「知っているよ。日本が1階から始まって、1階、2階……と数えるのに対し、イギリスなどの国では0階、1階……と数えるんだよね。グラウンド・フロアとも言うんだったかな?」
「聞かれていないことまでペラペラとありがとうございます。概ねその通りです」
何かの建物のエレベーターに乗った時に、行き先階数のボタンの、本来『1』と書いてある場所に『G』と書かれているのを見たことはないだろうか。
あれは、柿坂先輩の言った『
G階、その次が1階、その次が2階……という風にカウントするのだ。ちなみに地下1階を『B1F』と表記する所もあるが、このBはアメリカ英語で地下を表す『
「さて、では。それを元に、署名のあった新聞の場所を、1階を0、2階を1、という風に変換して、もう一度まとめてみましょう」
予めまとめておいたメモを、もう読み上げるのは疲れるので、画面に表示したまま柿坂先輩に見せる。
1日目、
9時台 新聞部室→2(新聞部室は東館3階のため)
10時台 西館3階→2
11時台 西館3階→2
12時台 東館4階→3
1時台 東館3階→2
2時台 西館3階→2
3時台 東館2階→1
4時台 西館4階→3
5時台 西館3階→2
2日目
9時台 東館4階→3
10時台 東館2階→1
11時台 西館4階→3
12時台 東館2階→1
1時台 西館1階→0
2時台 東館2階→1
3時台 西館1階→0
4時台 西館1階(逆)→0
5時台 東館1階(逆)→0
「おぉ、暗号っぽくなってきたね。……それで。この数字を、どうするのかな?」
「この数字たちは、2つで1つのセットなんですよ。2つずつに区切ると、
22、23、22、13、23、13、10、10、00……となります」
この、導き出された9つの2桁の数字から見えてくるものは……。
「これだけではまだ不十分です。さらに大事なのは、それぞれの署名が、西館と東館どちらの新聞に書かれたものか……ということ」
「西館と東館、ね。そこにどんな意味があるのかな?」
「……柿坂先輩。英語文化に憧れるのは結構ですが、多用するのはいかがなものかと思いますね」
「何の話か分からないなぁ」
すっとぼける柿坂先輩を無視し、この暗号を解く上で一番ややこしい部分を説明するため、私は口内に溜まった唾を飲み込んだ。
「……東は、『E』。西は、『W』。それぞれ、イースト、ウエストの頭文字です。
先程羅列した9つの数字のうち、左側に来ている数字……十の位の数字が、『東館か西館、どちらから出てきているものか?』。これがこの暗号を読み解く、最重要ポイントだと言えるでしょう」
「ほう……?」
「まず、一番最初の『22』。この十の位の『2』は、東館3階から読み取ったものですよね。
この場合、東を表す『E』から数えて22番目のアルファベットが解となります。Eから始めて、F、G、H……ときて、21番目はZだから、頭に戻って、22番目は『A』になる」
この法則で、9つの数字全てをアルファベットに変換すると。
「23は、Wから数えて23番目のT。
22は、Eから数えて22番目のA。
13は、Eから数えて13番目のR。
23は、Wから数えて23番目のT。
13は、Eから数えて13番目のR。
10は、Eから数えて10番目のO。
10は、Eから数えて10番目のO。
そして、最後……。
逆向きに書かれた、『00』。
これは、Wから数え始めて00番目のWを、『逆向きにして』……M」
「…………」
「組み合わせると。
『
だから私は、ここで待ち伏せた。
先輩が、誰にも邪魔されずに『彼女』と会うために設定した秘密の場所を暴き、じっと向日葵のオブジェを見つめて、待ち伏せた。
「……負けたよ」
先輩は、大きく溜め息を吐いて、上を見上げた。
「犯行の……署名の動機は、さっき渡良瀬先輩たちとの通話で言ったような『告白の回避』なんかじゃない。あなたは純粋に、彼女と待ち合わせるために、この暗号を隠した。
あなたよりも、誰よりも謎を愛した彼女なら、必ず意図を汲んでくれると信じて」
「……全部その通りだ。ここまで見透かされてたとは。けっこう頭ひねって色々考えたんだけどなぁ……形無しだよ」
「楽しそうですね」
推理ごっこは、終わった。
反省の色が全く見えない犯人が、満足そうに舌打ちして、その場をくるくると歩き回る。
この行為に、いくらの意味があったのかは知らない。分からないし、考える気もない。
「……俺は、君に謝らないといけないのかもしれないけど。こういった不義理な形で君の告白を蔑ろにしたことに対して謝るべきなのだろうけれど。……謝る気はないよ」
「そうでしょうね。先輩がここで謝るような人だったなら、こんな型紙なんか、必要なかった」
私はカーディガンのポケットから、くしゃくしゃの型紙を取り出して、広げた。
「……なんで」
「なんで君がこれを、ですか? もらったんですよ。あなたなんかとは比べ物にならないくらい、優しい先輩にね」
この型紙は、文化祭前日――文化祭中色々なことがありすぎて、もはや遠い過去の出来事のようだ――の放課後、
はずだった、とはどういうことかと言うと、私よりも先にこの型紙を発見したOBの山田花子さんが、私がこれを見る前に処分したのである。
私の含みのある言い方に、柿坂先輩は、今日一番……いや、それどころか、今まで見たこともないような切羽詰まった顔で、私に迫った。
「何を言ってるんだ!? 彼女は……先輩はここに……」
「ここに来ていないはずだ、ですか? ……まさか、本当に気付いていなかったなんて。驚きましたよ」
「…………嘘だろ」
この、私の『驚きましたよ』は、本当だ。嫌味でも皮肉でもなく、本当に驚いた。
だから、やっぱり……彼女には勝てないな、と、思った。
この型紙には、ひとつの文とひとつの署名だけが、汚い走り書きで記されている。
『ごめんなさい B』。
いや……この『B』に見えるものは……走り書きのせいで繋がって見えるだけで、本当は……。
「記者Bと記者b。順当に考えれば、イニシャルにBが含まれていないあなたではなく、彼女が『B』を名乗っていると思ってしまうでしょう。
しかし、この『B』には……アルファベットのBだけではなく、『13』を崩して書いたものという意味も含まれている。違いますか?」
柿坂先輩は……柿坂十三郎先輩は。
文化祭前日、私と直接顔を合わせることなくその告白を断るために、回りくどい謎解きと回りくどいメッセージカードを作って、あの教室に仕掛けたのだ。
「……もう、入ってもいいかい?」
その声に、柿坂先輩は目を見開く。
自分の好きな人が会いに来てくれるというのに、まるで信じられないといった表情の先輩を見て、私は溜め息を吐く。
「……ええ。お願いします」
私の初恋を。
小池咲の初恋を、終わらせてください。
彼女らしくもなく、控えめな音を立てて、スライドの扉が開く。
キャップに、ポニーテール。東大正高校の指定セーラー服を身に纏い、彼女は、私に申し訳なさそうな笑みを向けて、美術室に入室する。
山田花子……などという分かりきった偽名は、もはや必要ないだろう。
1年ぶりにこの学校に降り立ったbと、1年間この時を待ち続けたB。
2点間の距離は、今、再び縮まった。
備後先輩の顔を見つめて、柿坂先輩は、泣きそうな顔で……いや。堪えきれず涙を流して、言った。
「……なんで、整形なんかしたんだよ」
#
HIGASHITAISEI HIGHSCHOOL FESTIVAL
CHAPTER6.4 TITLE:
『2点間の距離』
今回の件について、私はほとんど自分で推理をしていない。
1日目の朝、空乃の手帳を探している時に備後先輩に会い、そこで彼女が拾った手帳を受け取った。
その際に、空乃が書いている私小説のことと、自分が備後天音であること、自分が『記者b』であることを話された。
……自分が引退する時に、『必ず1年後の文化祭に来てください』と柿坂先輩に言われたことも。
この時点で、私は、自分の初恋を諦めるべきだったのだろう。
しかし、1日目朝の時点では、まだ書名事件は新聞部内だけでしか認知されていなかったため、事件のことに関しては全く触れられなかった。
2回目の接触は、書道部の取材。
カミネが空乃を外に追い出し、2人きりになった書道部室で、私はカミネのスマホを介して備後先輩からこの事件の全てを聞いた。
ラインの電話が繋がるなり彼女は、もしもしも言わず、『あの署名のトリックを教えよう』と言って、フリクションのボールペンを使った署名出現のトリックを話してくれた。
署名の発見される場所についても触れられたが、まだ1日目13時の時点ではアルファベットが出揃っていなかったため、『確定したらまた教える』と言われた。
そして……SNSの写真の真相と、自分を取り巻く家族関係について話してくれた。
3回目の接触は、1日目が終わったあと、校外の喫茶店。カミネから伝言を受けてカフェ・ド・ルーラーに向かうと、キャップを脱いだ備後先輩が待っていた。
署名による暗号は、1日目終了時点で既に『AT ART ROOM』の1つ目のRまでが判明していた為、そこで暗号の全ての説明をしてもらった。
くしゃくしゃになった型紙……メッセージカードは、この時に、備後先輩から受け取った。
「意気地のない後輩に腹が立って丸めて捨てたが、君に宛てられたものを私に捨てる権利はないと思い直して後から拾い直した。申し訳ない」と謝られたのが印象深い。
カプチーノと、私の好きなハムサンドを奢ってもらった。
……それ以降。2日目は、ほとんどラインか電話でやり取りをした。直接的には一度も会っていないと思う。
2日目の最初、忍に、どうにか理由をつけて柿坂先輩を拘束できないかと協力を要請した。「もともとグレーな書類はいくつかあるから、これらの書き直しを命じれば1時間は拘束できるよ」と張り切る忍に、友情を感じた。
例の着ぐるみ事件が起こった後、着ぐるみの中身に勘づいた渡良瀬先輩から話を聞き、下邨も共犯であるという推理を完成させた。
さっき、部室で全員集まって署名事件についての話し合いをしていたが、それが始まる前に、すでに私たちは大体の推理を終えていたのだ。
限りなく、限りなくズルい方法で。
本物の『記者b』に、答え合わせをしてもらいながら――。
以下は、備後先輩の話とカミネの話を元にした、備後先輩と柿坂先輩の家庭についての私の憶測だ。
他人の家庭の事情について詮索する気はないので、これを本人たちに確認する気はないが……恐らく、ほぼ間違いはない。
何故なら、大部分は備後先輩が赤裸々に語ってくれたものであり、疑いようがないからだ。
備後先輩と柿坂先輩は、元々は、同じ家庭に生まれた姉弟だった。
2人がまだ幼い頃、夫婦仲の悪化を理由に両親は離婚。備後先輩は父親に、柿坂先輩は母親に、それぞれ引き取られたそうだ。
備後家も柿坂家も、古くからこの地区で暮らしていたそうで、離婚したからといってどちらも遠方へ引っ越したりはせず、この大正に留まった。
そして、2人は高校で再会した。
お互いに、自分たちが姉弟であることは、すぐに分かったそうだ。
家庭環境を詮索されるのが嫌だから、周囲には黙っていた。普通の先輩後輩として過ごし、たまに二人きりになると、両親の話や近況報告をしあった。
両親が離婚する前から、二人ともミステリーが好きだったらしく、共通の趣味の話題でも盛り上がったという。
そんな、不思議な温度の関係を保ったまま月日は流れた。
渡良瀬先輩が被害を受けた例の事件で、酷い自己嫌悪とパニックに陥った柿坂先輩を、備後先輩が優しく諭した……その日。二人の関係は、大きく形を変えた。
備後先輩は、柿坂先輩に、こう言ったのだという。
「十三郎。私たちの両親が離婚した本当の理由、もう知ってるかい?」
「……『母さんの浮気』? 馬鹿だなぁ、違うよ。彼らの間ではそういうことになっているみたいだけど……」
「もし本当に原因がそれなら。なんで、私たちは離れ離れになったんだろうね? なんで、どちらも父さんに引き取られなかったんだろうね?」
「……彼らはね。どうでもいいんだよ」
「一人で暮らしたいらしい。昨日、父さんに、卒業したら世界を回る旅行に行きたいって言ったら、二つ返事でOKされた」
「しがらみなく、自由に暮らしたいって。笑顔で言われたよ」
「私たちはしがらみなんだってさ」
「……こんなことがあるか?」
「離婚した時の話を聞かされたよ。別れ話は終始にこやかな雰囲気だったそうだ。夫婦の関係に飽きたから離婚する、なんて。中学生の好きなサイコパス診断の模範解答みたいなことを、平気で言って、平気で賛同したそうだ」
「十三郎。……私たちはそういう血なんだよ」
「正直、私が君の立場でも、同じことをやっていたと思う。もう少し上手くやった自信はあるけど、秋華ちゃんの置かれている立場なんか気にせず、自分が『名探偵』になるために行動する」
「人の気持ちに鈍いっていうか……何て言ったらいいのかな。分からないや」
「……だから。まあ。そう」
「なんていうか。認めたくないけれど、そういう所、遺伝してるんだよ」
「君の方が大人しいみたいだけどね」
有名人である記者bは、一部の人間からは嫌われ者でもあった。
備後先輩は、表沙汰になっていないだけで、渡良瀬先輩の件のような人間関係をめちゃくちゃにする『名探偵ごっこ』を沢山やってきたのだという。
それに巻き込まれた被害者たちから恨みの目を向けられても、何とも思わなかったと。
何とも思わないことに悩んだと。
……柿坂先輩は、備後先輩が卒業する日に、来年の文化祭に来てくださいと約束を取り付けた。
備後先輩は、宣言通り、卒業してすぐに世界を巡る旅に出た。
そして、約1年が経ち……。
#
「……母親似の顔が気に入らなかったとか、そういう理由でもあれば、実にドラマチックでよかったのかもしれないね。でも残念だが、特に理由はないよ。強いて言うなら、アメリカに行った時、思わず手が出るくらい安かったから……ってとこかな」
私は以前の備後先輩の顔を知らないが、どうやら、大きく変わってしまっているみたいだ。
評判を聞く限り、在学時時点でかなりの美人だったらしいのだが……その顔に何の躊躇いもなくメスを入れてしまえるというのは、やはり、私には想像がつかない感覚だ。
「……前の顔の方が好きでしたよ。顔が無くても、好きですけれど」
「嬉しいね。だけど十三郎、いま君が言うべき言葉は、私の容姿への評論でも、面映ゆい過去の思い出でもないのではないかな」
「…………」
備後先輩は、柿坂先輩と私に順番に一瞥をくれると、帽子を深く被り直して、微笑みを絶やさなかったその口元を固く結んだ。
そしてくるりと踵を返すと、美術室の出入口の方へ歩き出す。
昨日、喫茶店で備後先輩と話したことを思い出す。彼女は、彼女らしくもなく、終始俯いていた。
「君がもう1年早く生まれていたら……十三郎は君を選んでくれていたんじゃないだろうか」。備後先輩は、自分と柿坂先輩の気持ちに、疑問というか、葛藤のようなものを感じているらしかった。
夕暮れを越し、夜を迎える前の淡い紫のヴェールが、窓を貫いて美術室を暗く照らす。カラカラと、また控えめに、備後先輩は戸を引く。
「外で待っているよ。君が裏切った後輩に、しっかりと誠意を持って向き合いなさい」
ピシャ。開ける時は控えめだったのに、備後先輩は、えらく乱暴に戸を閉めた。
美術室に、私と柿坂先輩の2人だけが取り残される。
柿坂先輩は、真顔だった。彼の方から何を言うでもなく、私から投げかけられる言葉を受け止めるために……今日、いや、今まで接してきて初めて、私と真剣に向き合ってくれている。
中学2年生の時に出会って、今年の4月に再会して……色々なことがあった。
ものぐさだった私が新聞部に入部したのも、元はと言えば、柿坂先輩に近付きたかったからで……。
「……か、柿坂、先輩」
必死に抑え込んでいた嗚咽が、胸の痛みが、再び去来する。
胸の辺りにあるのであろう、感情を抑え込む弁のようなものに、少しずつ亀裂が走っているのが分かる。感情の波は引き返すたびにその勢いを増す。
思い出すたびに。今目の前に立つ柿坂先輩が、私の顔を見て痛々しく眉を下げるたびに……感情は強くなる。
この先、何て言おう?
今までの思い出を羅列しようか?
……いや、卒業式みたいになってしまうかな。
スマホのメモに書き留めた、ドラマチックな告白文を読み上げようか?
……やめとこう。空乃も、微妙そうな顔をしていたしな。
言いたい言葉はいっぱいあるのに、言うべき言葉は、ひとつも見つからない。
言いたい言葉が見つかるたびに、涙が、目の表面に溜まって零れそうになる。
――あぁ、ダメだ。
――泣きたくなかったのにな。
言うべき言葉は見つからないまま、私は、胸と口元を抑え、何時ぶりか分からない……本当に何時ぶりか分からない、涙を流した。
泣くのって、こんな感じだったっけ。
……こんなに、痛くてスッキリするものだったっけ。
手を思い切り口に当てて嗚咽を抑え込み、私は必死に、震える喉から声を絞り出した。
「柿坂先輩。
優しくて格好いいあなたが、大好きです。
ずるくて、見栄っ張りで、嫌味なあなたを知って、もっと好きになりました」
好きだということは伝えた。
初めて、自分の口で、はっきりと。
言葉を止めると、嗚咽を我慢する喉の締め付けによって、「うぅ」、というような声が漏れる。
「……せめて、明日1日だけは……私と一緒に、文化祭を回ってくれませんか」
あの話の後で、付き合ってくれませんか、などとは、とても言えなかった。
深く頭を下げる。柿坂先輩から見たら、嗚咽をこらえて、背中を丸めただけのように見えるかもしれない。
柿坂先輩の声が、低く下げた私の頭に降り落ちる。
その声は、濡れていた。
「……小池さんのような人に好きになってもらえて、本当によかった。自分の中で唯一の誇るものができた」
頭を上げる。
柿坂先輩は、さっきまでの私と同じように、目に涙を溜めて、感情が涙を増やさないように、必死に胸を抑えていた。
「……ごめん。明日は、1人で回るって決めてるんだ」
「…………そうですか」
どこか、その言葉に、ほっとしてしまう自分がいるのが悲しかった。
この激情を明日まで持ち続けなくていいんだと。成就するわけもない初恋を、今日で終えることができるのだと。
人生で一度だけの恋ではない。二度目、三度目……いや、二度目が始まる前に三度目のことを考えたくはないけれど。きっと、この恋よりも素敵な恋が待っているはずだ。
みっともない悪あがきを断ってもらえて、私はむしろ救われた気分だった。
「……じゃあ、先輩」
でも、それとは別に。
「外が、暗くなるまでで、いいですから。ほんのすこしだけで……いいから……」
この胸の痛みも、また、本当だ。
「胸を……貸して……頂けませんか……」
恋が終わって安堵する気持ちも、恋が破れて辛く苦しい気持ちも、全部、本当だ。
この胸の中に、『後悔』だけはないけれど、それ以外の全てがあった。
「……うん」
了承を得て、私は一歩、柿坂先輩に歩み寄る。
まだボロボロと涙は零れているけれど、私は頭半分くらい高い先輩を見上げて、ニッと笑ってみせた。
不器用に微笑み返す先輩。その頬に、私は思い切り振りかぶって、一撃、ビンタをお見舞した。
「痛ぇっ……」
「……あははっ……グーでやればよかったかな」
張られた頬に手を当て、目を丸くする柿坂先輩に、私は飛びつくように抱きつき、頭をその胸に擦り付けるように預けた。
枯れ果てることのない涙が、決壊したダムのように、流れ出して止まらない。
「……うあぁ……ああぁぁああぁぁ……」
「…………」
私の肩に手を当て、眠る子猫をさするように優しく頭を撫でてくれる先輩に、私は少しだけ……少しだけ長く、甘えた。
END
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