9章 小池さんの初恋

HIGASHITAISEI HIGHSCHOOL FESTIVAL

CHAPTER6.1 TITLE:

『小池咲は泣かない後輩である』


〇視点:小池咲

〇同行者:柿坂十三郎

〇文化祭2日目・17時12分


「最後の推理を始めましょう」

「………………」


 あくまでも黙秘を貫く構えの柿坂先輩に、私はそれを告げた。

 目頭が熱くなって、声が上擦り始める。だけど、まだだ。最後の犯人を言い当てるまで、弱いところは見せられない。

 両の手を固く握りしめて、唾をのみ込む。

 窓の外の夕焼けが、柿坂先輩の冷たい無表情を明るく照らしていた。


「一連の事件は、昨日、文化祭開始直前の朝に始まりました。私たち新聞部の掲示予定だった新聞に、ボールペンで落書きがされていたんですよね。先輩、文面は覚えていますか?」

「文面も何も、ただの署名だろう?」

「ただの署名、ではないでしょう。『記者B』という署名です」

「そうだね。でも、記者Bという名前は、名称は、記号は、かなりの人間が知っているものだ。そう言ったのは小池さんじゃなかったかな?」

「ええ。ここから犯人を絞り込むことはできないと思っていました。その時はね」


 記者Bは、2、3年生なら誰でも知っているし、直接顔を合わせたことなどないだろう1年生にまで名の及ぶ、かつての新聞部の英雄だ。進学も就職もせず、あらゆるレールを無視して飛び出し、世界を股にかける旅に出た、みんなの星。

 インパクト・知名度共に、名を騙るにはぴったりの人物。

 備後天弥びんご あまね。去年度この学校を巣立った女性だ。


「だけど私は、過去の『記者B』の記事、つまり七不思議シリーズの記事を見て、あることに気付きました。

 ……署名です」

「署名?」


 わざとらしく語尾に疑問符をひっつける柿坂先輩に、私はまた傷つき、泣かされそうになる。

 いやだ。負けたくない。


「……署名というか、名前の書き方ですね。実際に見てください」


 私は、あらかじめ持ってきておいた『東大正高校新聞部シリーズ』から、何枚かの新聞のバックナンバーを取り出し、机に広げた。


「記者Bが、学校の謎を解くこのシリーズ。毎回、絶対に文中に、『記者ラージビィ』若しくは『記者スモールビィ』が謎解きを行った、という旨が記されています」

「大文字と小文字……ね」

「ただの偶然だと、私も最初は思いました。気まぐれな備後さんが、たまたま、うっかり、シフトキーを押したり押さなかったりしただけだと」


 しかし、と言って、広がった新聞の中から1枚を持ち上げる。

 柿坂先輩の前に差し出したその記事は、文化祭が始まる前の夜に空乃と解いた、体育のサッカーで起きた不思議な事件について書かれたものだった。


「その記事の署名は、記者『B』みたいだね。大文字だ」

「そうですね、さん」

「…………」

「記事の最後には、記者Bが、次の体育の授業でサッカーをすることを仄めかす文章がありました。しかしそれだとおかしいんです。女子の体育のカリキュラムには、サッカーは含まれていないんですよ」


 柿坂先輩の目が鋭くなる。

 それはきっと、脅しという意味の眼ではない。威圧という意味も持たない。先輩からすればむしろ、脅して、威圧しているのは、私の方なのだから。

 深呼吸。


「……もっと遡って見てみましたが、七不思議シリーズにおいて、最初期の署名は小文字の『記者b』ばかりでした。去年4月から備後さんの卒業が近付くにつれて、少しずつ、大文字の『記者B』が増えていった」


 奇跡のシュートの記事の上に、去年12月発行の『記者B』記事を重ねて置く。具体的には、12月3日に発行された、奇妙な雪像を巡る珍事件を取り上げたものだ。


「さらにこの記事。12月の1か月間、備後さんは丸々休学して、オーストラリアで真夏のクリスマスを過ごしていたはずです。彼女は日本を離れていた、それなのに七不思議シリーズは掲載された……」

「なるほど、決定的だね。天弥さんは『記者b』で、それとは別に『記者B』がいたってワケだ」

「……あくまでも、自分がそうだとは認めてくれないんですね?」


 その質問には答えず、先輩は代わりにニコリと笑った。

 最後の最後まで、この人は仮面を外さないつもりらしい。

 私も涙をこぼす代わりとして、馬鹿でかい溜め息を吐く。少し間を置いて、声が震えていないことを確認してから、最後の推理を再開する。


「……それでは、時系列を昨日に戻しましょう」


 現在へ。この事件が起こった、昨日へと。


「朝、掲示予定だった新聞の山の、一番上の1枚にのみ、記者Bの署名は残されていました」

「そうだったかな?」

「つまらない惚け方しないでくださいよ……先輩が言ったんじゃないですか!」

「うん。で、それがどうかしたかな」


 歯を食いしばって持ちこたえる。抑え込む。

 恋をした人への憎悪を。失望を。


「あのとき、署名の入った新聞は1枚しか見つからなかった。だからこそ、私たちはカン違いをしてしまったんです」

「その心は?」

「たくさんある新聞の中の、一番上にしか署名がされていない。その状況から私は、てっきり、犯人は新聞部室に侵入後、急いで1つだけ署名を残して去ったのだと思っていました。

 だから、その後に次々起きた掲示新聞への署名も、すでに貼られてある新聞にその場で書き込んだものだと思っていた」


 だが、そうではなかった。


「記者Bの署名は、のではなく、のです。予め署名を入れておいた新聞を貼るだけなら、ラクガキされる瞬間を目撃されるリスクもありません」

「そういう面では理に適った手段だと言えるね。だけど、それが実際に実行されたという根拠はあるのかな?」

「あります」

「……いいね」


 私が自信を持って答えると、柿坂先輩は、らしくもない歪な笑みを浮かべた。

 まるで、そう。悪役のような、似合わない笑みを。


「たとえば、3番目に見つかった署名入り新聞は、2年生の廊下の掲示板に貼られていました。……何度もあそこに新聞を貼りに行ったことのある先輩なら、この意味が分かりますよね?」

「ええと……あ、そうだ。あの掲示板、表面がでこぼこしてるから、あの上からキレイにサインを書くことはできないってことか。はは、珍しく冴えてるなぁ、俺」

「わざとらしいですよ……」


 3番目に見つかった新聞の他にも、でこぼこした掲示板に貼られていた新聞は何枚かあったが、全て他のものと変わらずキレイに署名がされていた。

 私は深呼吸する。柿坂先輩は読めない笑顔を貼り付ける。

 もうすぐ、この推理は、一旦のゴールに達する。


「つまり署名を書いた犯人は、新聞が貼られる前から、事前に書き込むことができた人物に限られる」

「それはどうだろう? 一度カベからはがして、サインを書き込んでから、もう一度貼り直したとは考えられない?」

「目撃されて不審がられるリスクが大きすぎますね。まぁ、新聞部員が犯人だったなら、その手段を取っても怪しまれずに済むかもしれませんけどね」


 私の言葉に被せるように、先輩がわざとらしい大きな溜め息をつく。首を左右に大きく降って、肩をすくめる。そのいちいち芝居がかった動作に、私はさっきからいらいらさせられている。


「……五十歩百歩だよ。文化祭2日目は、俺たちの『イベント』のおかげで、生徒たちみんなが記者Bの署名に注目していた。初めから署名の入っている新聞を貼った瞬間、バレてしまうに決まってるじゃないか」

「真相を知っている相手に説明するのって、なんだかとても徒労です。いい加減に認めてくれませんか?」


 ゆっくりと指を上げる。

 柿坂先輩の目の前に、人差し指を突き付ける。できることなら、このまま先輩の眼を潰してしまいたい。

 声がひどく掠れているのを自覚して言う。


「あなたが犯人です――柿坂先輩」


 この広くて狭い美術室から、この狭くて広い世界から、何もかもが消えてしまったような、そんな無音だった。

 紫色に輝く空。死にかけの夕陽が、細々と窓に差し込んで、美術室の真ん中に鎮座している太陽の彫刻を照らす。陽を受けて、偽物の太陽は本物のように紅く輝いて見えた。

 先輩は穏やかに笑っている。

 努めて笑顔を作っているのだと思っていたが、どうやら先輩は、この状況に即した表情を、それ以外に持ち合わせていないようだった。


 やめてください、私の好きな笑顔は――。

 私の恋した笑顔は、それじゃない。


「拙いね」


 否認。


「俺は認めない。だから、君の思う『真相』とやらを、きちんと説明してもらおうか」

「……記者Bの署名には、が使われていたんです。ゴムなどで擦ると、その摩擦熱によって透明になるインク。ところで今、先輩の胸に差さっているペンにも、それが使われていますね?」

「確かに、そうだね」

「……そして、そのインクは、熱で見えなくなるのと同じように……『冷やすと、見えるようになる』」


 つまりは、こうだ。

 先輩は、あらかじめ新聞に、熱で見えなくなるインクを使って署名を書いておいた。それを温めて消しておいて、壁に掲示したあとに、冷やして文字を浮かび上がらせる。


「なるほどね。それならたしかに、少しでも人の目を盗めればいけるかもしれない」

「実際に試してみましたが、昨日今日の学校の気温なら、新聞紙などの上からコールドスプレーをさっと吹き付けるだけでこのトリックが可能です」

「あのね、小池さん」


 またも、私の言葉を遮るように、先輩が口を挟む。


「たしかに、今の推理で君は、新聞部員が犯人である可能性が高いことを示した。証明できてすらいないけれどね」

「………………」

「それに。仮に新聞部員の中に犯人がいるとしても、なぜ俺に限られるのかな。俺の他にも……例えばキヨとか、翼とか、新聞の掲示にあたった部員はいたはずだ」

「……そうですね」

「俺を犯人にしたいなら、そこのところを説明してもらわないとね。小池さん?」


 断りも入れずに、私はスマホを取り出す。

 けっきょく、この文明の利器に頼ってしまうのか。スマホ依存症はそろそろ治さないとと思っていたのに。脳内で自嘲しても、口角は1ミリも上がらなかった。


「できれば……ここで認めてほしかったですね」


 呼び出したIDに電話をかける。

 スピーカーホンに切り替えて、机の上に置いて数秒待つ。


『はいはーい、もしもし』

「渡良瀬先輩。?」


 柿坂先輩は、他人事のように嘆息した。



HIGASHITAISEI HIGHSCHOOL FESTIVAL

CHAPTER6.2 TITLE:

『渡良瀬秋華は泣けない先輩である』


〇視点:渡良瀬秋華

〇同行者:下邨翼

〇文化祭2日目・17時18分


「ええ、おかげさまでね。それじゃあボチボチ、裁判の続きをしましょうか」

『裁判……そうですね。罪状は何でしょうか』

「罪状も何も。女の子泣かすヤツは、全員死刑でしょ?

 ……ねぇ、


 私、渡良瀬秋華と、下邨翼くんは、新聞部室で対峙していた。

 私は彼に、「助けて」「新聞部室」と、二通のメッセージをラインで送るという卑怯な手段を使って、部室に強引に誘い出した。下邨くんはとても心配した様子でここへ駆けつけてくれたけれど、ピンピンしている私を、そしてその表情を見て、諦めたように無表情の棒立ちになってしまった。

 片桐たちに私がまた酷いことをされていると勘違いしたのだろう。私たちを取り巻くいざこざをこんな風に利用するのは気が引けたけれど、こうする他なかった。それに、下邨くんがしたことを思えば、おあいこさまというものだ。

 冗談めかさずには、口を開くことも出来なかった。不自然に上がった口角を下げてしまった瞬間、私は、先輩であるということも忘れて無様に泣き出してしまいそうだったから。

 電話の向こう側から、咲ちゃんの『いけますか?』という声が届く。


「それじゃ、こっちも開廷ね。検察側、準備完了しておりまーす」

『下邨、そこにいるんだよな?』

「……おう」

『柿坂先輩の共犯者は、あんただな?』

「………………」


 苦々しげに口をすぼませる下邨くんに向かって、私は1歩進み出る。

 ――やだなぁ、あはは……。

 片桐たちを追い返して、しがらみもなくなって、また2人きりで向かい合えたんだから。もっと、可愛い笑顔とか見せたかったな。

 普通に告白したかったな。

 君と一緒の年に、生まれたかったなぁ。

 私のしゃくり上げる声か、涙を拭う衣擦れの音でも届いたのだろう。咲ちゃんが心配そうに、電話の向こうから声を投げかけてくれる。私とそう変わらない、掠れた声は、だけど私なんかよりずっと強かった。


『先輩、大丈夫ですか?』

「…………あったりまえじゃん。早く、さ、始めてよ」

『……分かりました。先に聞いとくけど下邨、自白する気は?』

「……………………」


 下邨くんは、肩から提げたスポーツバッグの端っこを握ってシワをつくり、俯く。

 黙秘。

 相手が黙っているのに、こっちも黙っていては何も始まらない。この気持ちもこの状況も、この恋も、何も終えることは出来ない。

 私はなるだけ口角を上げて、口を開いた。


「……咲ちゃんの推理の、そのまんま受け売りだけれど。

 文化祭の直前、君たちは、私たちが告白を行おうとしていることを、何かの形で知った。私たちの告白を受けたくなかった君とカッキーは、共謀し、すぐに今回の犯行の計画を立てた」

『解けない謎を作って、うやむやのまま文化祭を終えるために』

「…………」

『文化祭が終わってしまえば、学年の違う私たちが顔を合わせる機会はほとんどないでしょう。告白する機会も然りです。

 記者Bの出現という、正体不明の怪事件で忙しいフリをしておけば、文化祭の3日間を乗り切れる。……それが先輩たちの動機。そうですね?』

『発想が飛躍しすぎじゃないかな、小池さん。渡良瀬もな』

『ねぇ、先輩。そこまでして、私たちの告白、聞きたくなかったんですか?』

「…………」


 震えて、だけどそれを必死に上から抑え込んだ咲ちゃんの声は、カッキーや下邨くんを責めようとするものであるはずなのに、何故だろう、私の胸に、どろんとした毒薬みたいに響いた。

 部室奥の窓枠が、夕焼けを浴びて影を伸ばす。私と下邨くんの中点を切り裂くように。


「文化祭1日目の朝、カッキーは全時間帯の新聞1枚ずつに『記者B』の署名を残して隠し持ち、そのうち最初の1枚を、机の上に目立つように置いた」

『それが……空乃の発見した、第一の署名です』


 本当は下邨くんがやったのかもしれないけれど、まぁ、同じことだ。どうせこういうずる賢いことを思いつけるのはカッキーくらいだろうし。


「その後、当番通り午前中は下邨くん、午後はカッキーが、それぞれ1時間ごとに新聞を張り替えて行った。一日目は特に何も無く、カッキーたちの計画は遂行された」

『問題が起こったのは2日目、今日の午後。本来当番だった柿坂先輩は、書類の不備によって風紀委員の忍に拘束された』

『……やれやれ。やけにムキになって拘束するなと思ったけれど、小池さんたちとグルだったっていうこと?』

『こちらが非難されるいわれはありません』


「続けるよ。

 ここまで継続してきた新聞の掲示と署名を途切れさせないために、カッキーはラインでキヨくんと下邨くんに連絡を取った」

『キヨに対しては、動けない自分のために、代わりに新聞の掲示を行ってほしいという内容。そして下邨に対しては、その新聞を冷却して署名を浮かび上がらせてほしいという内容』

「キヨくんの方は、つつがなく指示を実行できた。新聞部員が新聞を貼るだけだからね。けど、下邨くんの方はそうはいかなかった」

『なぜか? ……下邨がラインで指示を受け取ったのは、ちょうど水泳部のシンクロパフォーマンスが終わったあとだったからだ』

「…………」


 下邨くんが、斜め下に顔を逸らす。夕陽が新聞部室をオレンジと黒の2色に分けていく中で、下邨くんの顔は影の黒に染まって、表情が全く読み取れない。

 だいたいどんな顔をしているのか察しはつくけれど。


「14時40分頃、下邨くんはチャットで『水泳部の集合が終わったら合流します』と発言している。おそらく、これはホントなんだよね?」

『シンクロパフォーマンス終了後、水泳部はミーティングを控えていた。ミーティングの後では14時台の署名を出現させるタイミングがないんじゃないかと危惧したあんたは、シンクロが終わってメッセージを見た後、すぐに所定の位置へ向かう必要があった』

「だけど体は濡れているし、全部乾かして服を着る時間はない。濡れたまま校内を走れば目立つことは必至だし、床を濡らせば犯人が水泳部の誰かだってバレちゃう。じゃあ下邨くん、君は、どうやって床を濡らさずに校内を移動したんだろうね?」


 あの時、校内のどこに何があったのか。どこで何が起こっていたのか。

 私は下邨くんに、人差し指を向ける。さっき公園で、片桐たちに向けた刃のように鋭い視線を乗せて。


「答えは『着ぐるみ』、だよね」

「…………」


『進藤浅彦は美術部と水泳部と風紀委員を掛け持ちしている。おそらく2日目のシンクロ直前まで進藤はすかすかランタンの着ぐるみを着ていて、それを部室に脱ぎ捨てていたんだ』

「君はろくに体も拭かずにそれを着ると、コールドスプレーで着ぐるみの手を冷やして、東館2階の新聞に署名を出現させるため走り出した。そこで私に見つかって、追いかけっこをする羽目になった」

『渡良瀬先輩に目撃され、追跡されるというハプニングはあったものの、あんたは無事に新聞の署名を浮かび上がらせることに成功した。そして、カウンセリング室で着ぐるみを脱ぎ、着替えを行った』

「ちなみに、この件に関しては既に進藤くんから裏が取れているわ。シンクロが終わった後に、『新聞部のイベントに使うトリックのために着ぐるみを使わせてほしい』と言われたので、面白そうだったから快諾した、とね。カウンセリング室に着替えを持って行ったのも進藤くんだって聞いてる」


 源さんは進藤くんからそれを聞いてカンカンに怒っていたようだけれど。私は、ウソを吐いた下邨くんが悪いからあんまり怒らないであげて、と言い添えておいたのだけど……あの様子じゃ、今頃お説教でもしているんじゃないだろうか。

 ともあれ。これで共犯の証拠は完全に示せた。


『……以上が、犯行の一部始終だ。何か間違ってるとこがあれば言ってくれ、下邨』

「…………ないよ」

『そうか』

「咲ちゃん。ここからは、私に任せてもらっていい?」

『分かりました。では……頑張ってください』

「お互いにね」


 私は通話を切り、こちらを真っ直ぐ見据える下邨くんに、腕一本分の距離まで近付いた。

 申し訳なさそうに、ばつが悪そうに、下を向いていた下邨くんはもういない。真剣な表情でこちらを向く下邨くんに、私は、かえって緊張させられていた。


「……まずは。なんでこんなことしたのか、聞いてあげる」

「最初、柿坂先輩には、『署名を使って備後先輩に暗号を送りたいから、協力してもらえないか』って言われたんです。お互いに、その……告白、を。告白を避けるためにやろう、なんてことは、一言も言いませんでした」

「…………」

「けれど……俺は、このまま何事もなく文化祭3日間を終えて、先輩と関わらなくなったら、って。告白なんてないまま、良い先輩後輩のままでいられたらって、ちょっと、そういう風に思ってました。なんでこんなことしたのか、っていう質問の答えは、それです」


 本人の口から聞くと、意外に重い言葉だった。

 告白なんてないまま。良い先輩後輩のまま。

 告白とは、今の関係を破壊してしまうことなのだ。今までと同じではいられなくなる事と、失敗したら壊れてしまうリスクを代償に、交際という新たな関係を得ようとする行為。

 下邨くんが私の告白を避けようとしていることを知った時、心の底から怒ったり悲しんだりできなかったのは、少なからず仕方がないよなという感情を抱いてしまったのは、そこに原因がある。

 告白は、一方的な押し付けなのかもしれない。今までのままでいたい、今の関係を維持したいと思っている相手の気持ちを踏みにじるのと同義なのかもしれない。


 しかし。

 だからこそ、付き合う前には告白が必要なのだと、私は思う。


「君は、私と……先輩後輩のままでいたい。それが、答えってこと?」

「それはっ……」

「否定しなくてもいい。告白しようって決心した時点で、こういう結果になるっていう覚悟はできてるから」


 もっとショックだと思っていたけれど、不思議と、憑き物がとれたようなスッキリとした心持ちだった。

 目の前の下邨くんが、何か、取り返しのつかないことをしてしまった後みたいな、どうしようもなく切ない顔をしているからかもしれない。私の方は、至って爽やかである。


「だけどさ。少しだけ、話を聞いてもらえるかな。私、君には、してもしきれないほど感謝してるんだよ」

「……先輩が? 俺に?」

「片桐のこと」


 もう二度と思い出したくない、悪夢のような思い出。悪魔のような女。

 だけど、下邨くんに感謝の気持ちを伝えるためには、彼女のことを語らないわけにはいかない。


「きっと君は、水泳部という自分の居場所を守るために行動しただけなんだろうけれど。女子更衣室に入ってでも私のライターを処分してくれた事とか……なんていうか、すごく、勇気を出すきっかけになったんだよ」


 忘れもしない、6月のこと。

 部室棟の裏で、いつものように平井や里中たちに呼び出され、ライターを持ち出されてお金を要求されていた私は、その場面を目撃した下邨くんに助けられた。

 その時には詳細は話さなかったけれど、見られてしまった以上隠せないからと、私が今も水泳部の一部連中から脅しやいじめを受けていることを教えた。それを聞いた下邨くんは、自分のことのように怒ってくれたのだ。

 そして、女子更衣室から持ち出したライターを私の目の前で粉々に砕いて、他のゴミに紛れさせて捨ててくれた。ニカッと笑って、これでもう安心っす、と言ってくれた。


 あの時から、きっと、私は――。


「あれは……俺は何もやってないのと同じっすよ。たまたま水泳部に、ライターのある場所を知ってる女子がいたから……」

「そんなことない。あの時私は君から、自分の置かれている状況に立ち向かう勇気をもらったんだよ」

「……はは……ありがとうございます」


 申し訳なさそうに、照れくさそうに、下邨くんはお礼なんかを言った。お礼を言っているのはこちらの方だというのに。


「それに……今日、公園であったこと」


 あれ。なんでだろう。

 さっきまで、先輩後輩の関係でいたいと言われても、告白をやんわり断られても、たいして痛まなかった胸が、ズキズキと痛み始める。

 滲みだした視界に、公園で倒れていた下邨くんの姿が蘇る。


「君が片桐たちのところに1人で向かったって聞いて、私は、目の前が真っ暗になった。足りない頭で、片桐相手にどうしたら自分の意思を貫けるか、必死に考えて……気が付いたら、ナイフを買っていた。

 あははっ。下邨くんも罪な男だね。もし君があれ以上痛めつけられてたりしたら、私、今頃殺人犯になってたかもしれないんだよ」

「じょ、冗談でもやめてくださいよ」

「そう。人にナイフを向けるなんて、冗談でもやっちゃいけないことだ。だから、君に嫌われても仕方がない」

「…………」


 自首なんかする気はないし、あの状況を打破するためにはああするしかなかったと思っているから一切の罪悪感はないけれど、それでも、その行動が人を遠ざけるものであることは理解しているつもりだ。

 だからこそ、私はあのとき、真に救われたんだ。


「君は、私がナイフを持つ理由を考えてくれた。慮ってくれた」


 涙が溢れ出して止まらない。嗚咽が呼吸を阻害し、言葉を喉から引き出すのも困難になる。

 だけど、不思議と苦しくなかった。

 感情が思考を追い越したのか、思考が感情を追い越したのか。意識が体を離れていくような、ふわふわとした浮遊感と高揚感の中で、私は言葉を紡いだ。


「だから、私は、君を好きになれてよかったと心の底から思った。実らないとしても、人生で一番最初に好きになった男の子が君でよかったって」

「…………」

「ちゃんと、告白させてほしい。君の言葉で終わらせて欲しい。

 ……好きです。お付き合いしてください」


 深く、深く、頭を下げる。


 『下邨くんが好きだ』というこの気持ちを終える、次の瞬間を、じっと待った。

 この気持ちに、最後の最後まで真剣に向き合いたい。人生で初めて出会った恋心の熱さを、私は、それが掻き消える直前に知った。


「……ダメだ。嘘はつけないっす」


 じっと見つめていた床。

 私の立つ真下だけでなく、下邨くんの足元にも、ぽたぽたと水が落ちていることに気がつく。

 思わず顔を上げる。下邨くんは、今まで見たこともない、子供のような寂しい顔をしていた。


「……俺だって、先輩が好きだ。たぶん、先輩が俺を好きになってくれる前から、好きだった」

「えっ……」

「やる気のない水泳部でムシャクシャしてた時に、可愛い女の子がタオルを貸して、微笑んでくれるんだ! 好きにならないワケねーだろ!」


 じゃあ、どうして。

 発しようとしたその言葉は、下邨くんの籠った叫びによって遮られる。

 下邨くんは、両の腕で鼻と目をごしごしと擦り、濁った声で思いの丈を叫んだ。


「けど! ……先輩は、庵野ってOB、知ってますか?」

「……話は聞いた事があるわ。今は日体大で活躍しているとか。この地域では有名だけど……それが?」

「庵野さんがうちの学校の水泳部を辞めたのは、当時の部長が、庵野さんの彼女を……犯したからです」


 予想だにしなかった単語が下邨くんの口から飛び出したことに、私は少なからず動揺してしまい、両手で口を塞いだ。

 庵野というOBが、自分の彼女を奪われて水泳部を去ったことは知っていた。だが、犯した、なんて……。


「……恋愛は、人を狂わせるんだって、そう思いました。俺は元々、小学校のプール解放の時のコーチだったから、庵野さんと知り合いで、憧れてたんです。

 中2の時、その話を庵野さんの友達から聞いて……人を好きになるって気持ちをまだ知らなかったから、俺は、『絶対に恋愛なんかするもんか』って思いながら……高校に上がりました」


 憧れの人の、最悪のエピソード。

 本気で水泳選手を夢見る中学生だった下邨くんにとって、その話は、価値観を歪ませるのには十分すぎただろう。


「だから、新聞部に入って、先輩を好きになって……どうしていいか分からなくなりました。恋愛って悪いもので、周りの人間関係を悪化させてばかりの毒で……。

 水泳部が少しずつ元の形に戻れそうになってきている今、『恋』をしてしまうのが、ものすごく怖いんです」

「……恋が、怖い……」

「庵野さんを……水泳部を、壊した、恋愛。誰よりも憎んできた恋愛」


 顔を腕で拭い、拭い、けれど次から次に涙と鼻水を出す下邨くん。

 ついには拭うのをやめ、その両手を自分の胸に当てて、そこにある何かを抱きしめるように、背中を丸めて縮こまった。


「……先輩に、感じた、恋愛」


 今まで、過去を呪ったことは……後悔をしたことは、あまりなかった。

 やらなきゃ後悔するようなことは、全部やってきた。やって後悔したことは、ほとんどない。少なくとも、今この瞬間まで残っている後悔は、ない。

 けれど、ただひとつだけ。


 片桐たちと接点を持ち、水泳部を巻き込んで、今日の日まで黙っていじめられていたことを、私は、自分を刺し殺したいほどに後悔した。


「恋愛が怖いから。自分が恋愛することで、水泳部とか、周りの人間関係をめちゃくちゃにしてしまうんじゃないかって。だから、私とは付き合えない。……そういうこと?」

「…………はい」

「……気持ちは、分かった。憧れの水泳の先輩が酷い目に合って、恋愛を憎む気持ちも、完全にではないけれど……分かったわ」


 後悔した。

 ナイフをチラつかせて脅しをかけるだけで退けられる奴らに、これまで怯えて生きてきたせいで、不本意とはいえ水泳部の荒廃に一枚噛んでいたことを。

 私がいじめに屈せず、もっと早く、片桐とか、里中たち水泳部の幽霊部員をぶっ飛ばしていれば、下邨くんが水泳部でここまで悩まなくても済んだかもしれないのに。少なくとも、水泳部の環境は今よりもっと良くなっていたかもしれないのに。


 ……あー、後悔した。後悔、後悔。


 だから。

 ここからは、後悔してやるもんか。


「バーカ」


 私は思い切り、下邨くんにビンタをかました。

 彼なりに悩んでいることは分かったし、その悩みをつまらないものだとは全く思わない。むしろ共感できる。

 だが、だからといって、この文化祭で私や咲ちゃんを騙し続けていたことに関しては一発制裁を加えなければいけない。


 流れを無視した一撃に、今まで流していた涙を引っ込めて、きょとん顔で「え?」と言う下邨くんの肩を掴む。


「……君の悩みはもっともよ。恋愛は、周囲の人間関係を壊すこともある。甘いことばっかりじゃないし、そういう意味では、ナイフのような、怖い代物だとも言えるでしょう」

「………………」

「だけどね。夕方、片桐にナイフを向けて啖呵をきった私よ? ……もしも君以外の男に犯されそうになったら、今度こそ人殺しをしてやるわ」


 ひっ、と、そこそこ傷付くリアクションをしてくれる下邨くんに、私はいつも彼にタオルを投げる時と同じ笑顔を向ける。


「冗談よ」

「……目がマジでしたよ」

「とにかく、私と付き合うことになって、もしも水泳部の幽霊部員やろくでもないOB・OGが人間関係を破壊しようとしてきたのなら……私は、絶対にそいつらから君と水泳部を守ってみせる」

「…………」


 下邨くんの瞳が、再び潤む。


「この強さは、君がくれた強さだから。それでも、もし君が不安だっていうなら……私はいつまででも待っててあげる。お互いに、自分と自分の周りを守れるくらい強くなれたら……今度こそ、付き合おう」


 下邨くんの方から手を離し、一歩だけ、後ずさる。

 今日何度目か分からない涙目になった下邨くんが、ぐっ、と天井を見上げる。やがて前を向き、私に見せてくれた顔は……。


「……俺も。水泳部を守ることができたら、胸を張って……今度は俺から、先輩に告りますから」


 ちょっとだけしわくちゃだけれど、いつもと同じ、笑顔だった。


「分かった。じゃあ、それまで待ってる。その間は、恋人じゃなくて……何だろ」

「……『パートナー』、とか?」

「パートナー、か……」


 パートナー。

 いい響きだ。

 私が微笑むと、彼も、照れくさそうに額に手を当てながら笑ってくれた。


「……よろしくね。パートナーさん」

「こちらこそ。……できるだけ早く、迎えに行きますから」


 新聞部室に、闇が降りる。

 さっきまで窓の外でうるさいオレンジ色を放っていた夕景は、すっかり消え失せ、夜の帳を街に下ろしていた。


 ……咲ちゃん。こっちは、何とか……あるべき形に収まったってところかな。

 そっちは、どうなった?

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