第13話 最後に笑う者

 豊臣政権全盛期、秀吉には二人の子が誕生した。いや、二人しか誕生しなかったというべきであろう。

 ルイス・フロイスから『宮殿を遊郭にしている』とまで言われた女好きな権力者に、子が二人しか生まれなかったのだ。

 しかも、生んだ女性は一人だけ。

 織田信長の妹であるお市の子、茶々である。茶々の出自やその背景と豊臣秀吉の関係性については割愛するが、二人の子については注目したい。


 一人目の子、捨(鶴松)。

 その誕生に秀吉は大いに喜び、全国各地の有力者からも祝賀が山のように寄せられた。

 二人目の子、拾(後の秀頼)。

 その誕生に際して、秀吉は全く喜ぶ素振りを見せていない。不思議な事に、祝賀も全くと言っていい程に残っていないのである。


 豊臣秀吉が生物学的に父となる能力が欠損していた可能性は広く知られているが、茶々(淀)の懐妊についてはあまり広く知られていない。

 当時の世情を鑑みれば、子の出来ない夫婦には一つの手段があった。

 参籠と言われる行為である。

 簡単に説明すれば「神仏に祈って子を授かる」という行為だが、それは寺社仏閣などの奥、密閉された空間で行われた。要するに、その密閉空間で秘め事が行われ、子を授かるという事だ。

 それを権力者の妻が行う場合、どうしても外せないひとつの大切な要件があった。子を授かる女性との間に秘め事を行う男性が、複数である必要だ。誰の子か分からない状態にしておかなければ、後に禍根を残す可能性があるからであろう。

 捨(鶴松)の懐妊時、秀吉も大坂や京に滞在していた。そして恐らくは、秀吉の指示のもとで参籠が実施されたのであろう。

 聚楽第の落書き事件も相まって、この参籠の件を闇に葬るために多くの人が処刑という憂き目にあっているのだが、そもそも秀吉の指示であったのであれば、周囲の人間としても祝うべきでる。そのため、捨の誕生には山ほどの祝賀が寄せられたのだ。

 ところが、拾(秀頼)誕生の時は違った。

 朝鮮出兵の前線基地である九州肥前名護屋へと出陣していた秀吉の元に、茶々の懐妊が知らされたのは、秀吉の正室である寧々からの手紙であった。

 それに対する返信の手紙は有名な物で、秀吉は全く喜ぶ素振りがなく、文末では「かりの子ということにしておこう」と記している。

 肥前滞在中の秀吉と、聚楽第にいる茶々の間に子が出来るわけもなく、普通に考えれば参籠が行われたか、誰かと密通(不倫)によって出来た子という事になる。秀頼の父には諸説あるが、実際のところ確認する術がない。

 だが、確かな事もある。

 肥前名護屋から帰還した秀吉は、お抱えとなっていた陰陽師を追放し、その後も陰陽師関連については非常に厳しい迫害を行っている。また、ほぼ同時に茶々の周囲にいた女房衆が処刑されているのだ。

 そして、前の子である捨(鶴松)の時には山のように届けられた祝賀が、今回は全くと言っていい程に届かなかった。

 察するに、秀吉に無許可で参籠を行って妊娠したという事実が隠れているように見えてならない。

 そして、これもまた有名な手紙であるが、秀吉から茶々に当てて「自分の乳で育てろ。乳が出なければ良く食べて、自分の乳で育てなさい」という内容の文章が送られている。

 これは実に恐ろしい突き放しである。

 当時、ある程度身分のある人間の子は、乳母という乳をあげるための女性が宛がわれ、生母自らが乳をあげる事はなかった。即ち、秀吉はその子を「自分の子とは認めない」という意思を明確に示していたのである。


 だが、生まれたばかりの赤子というのは、人の心を鷲掴みにするものだ。

 現代においても同じであろう。

 所謂できちゃった婚に猛反対した両親でさえ、孫の顔を見たとたんにデレデレになる現象と同じである。

 ある程度年老いた秀吉が、生まれたての赤子に籠絡されるのにそれ程時間はかからなかった。

 希代の人たらしとして知られる英傑は、人生最後の最後に小さな赤子に籠絡され、たらし込まれる形となったのだ。そしてそれが、豊臣政権崩壊への一歩となったのである。


 誰しもが分かっていた。

 その子が秀吉の子でない事など、誰しもが分かっていた。

 返しても返しきれない恩のある豊臣家に対し、返せないものは仕方がないし、返すべき人もこの世にはいない。その状況に豊臣恩顧の大名たちは、徳川家康という強烈な権力者への依存を加速度的に強めていく。


 分かっていたのだ。

 だがそれでも、恩ある亡き主の願いを叶えようと躍起になった者もいた。


 1600年、関ケ原。

 秀吉の死後、年々増え続ける新徳川派の大名達。このまま捨て置けば、間違いなく徳川が天下を掌握する事になるであろう危機的状況に、石田三成という人物が立ち上がった。

 だがそれも、老獪な徳川家康が相手では分が悪かったと言えよう。かえって豊臣政権の弱体を招くいう無残な形で決着したのである。


 それから十五年。

 ついに大坂城に火の手が上がった。


「弥八郎、見えるか、ついにやったぞ」


 既に齢八十を超えている徳川家康は、覚束ない足取りではあったがしっかりと両足で大地を踏みしめている。真田の突撃をどうにか凌ぎ切った後、大坂の落城を遠目に眺めているのだ。

 見えるか、と問われた本多佐渡の姿はない。老齢の為に足腰が立たず、この時は参陣していないのだ。

 目を細め大坂城を見つめる家康の背後に、一人の僧が佇んでいた。その僧もまた、小さくひとりごちる。


「父上、左馬助、ついに豊臣を討ちましたぞ」


 二人の天海として関東に赴いた二人の僧は、その才覚を遺憾なく発揮した。様々な情報網の確立や、人脈を作り上げた。そして、図らずも関東へ移封となった徳川家にとって、これ程まで助けになった存在はいなかった。徳川家の家臣たちが各地へ領主として赴く中で、天海の築いた人脈はそれを滞りなく推し進める事を大いに助け、家中の誰からも一目を置かれる存在にまで伸し上がったのである。

 だがこの時、存命だった天海は一人だけである。かつて左馬助と呼ばれていた天海は、既に他界していた。


 日暮れと共に激しくなる残党狩により、次々と名のある将の首が届けられる。そんな凄惨な夜、家康は天海と二人で小さな酒宴を開いていた。


「大御所様はいつから豊臣を滅ぼされるおつもりでしたか」


 天海の問いに、家康は遠い目をして答える。


「滅ぼす事が目的ではない。儂はな、常にそうしてきた」


 老人の域に達した家康は、普段はあまり口にしない酒で唇を濡らした。


「南光坊よ。儂はな、徳川のためになる事ばかりをしてきた。その為ならば、頭を下げる事も、盟友を討つ事も、敵を滅ぼす事も、子を殺すこともある。だがそうする事が目的ではないのだ」


 そう語る家康の様子を、天海は静かに見守っている。家康は言葉を続けた。


「右府はな、太閤の子であった事にしてやれ。滅びた今となっては、太閤の威光など怖くはない」


 右府とは右大臣の事を指し、この時期の豊臣秀頼の官職である。


「畏まりました。そのほうが都合が宜しゅう御座います。豊臣恩顧の大名には、太閤の子を見捨てたという負い目を背負って頂きましょう。右府は太閤の子であり、徳川将軍に滅ぼされた。太閤の恩を返せなかった者には、相応の誹りを受けてもらいましょう」


 加藤、福島を代表格とする豊臣恩顧の大名は、その後徳川幕府による厳しい政策によって改易処分を受ける事になってくのだが、そこに南光坊天海の影があったことはあまり知られていない。

 参勤交代を始めとする政策と、外様大名に対する厳しい処分。それらは三代将軍家光の頃に始まったものである。その家光の乳母は江戸にて絶大な権力を誇った春日局。明智光秀の重臣、斎藤利三の娘である。

 そしてまた、天海の名が資料に多く見られるのも、将軍が家光の頃である。

 春日局、天海、徳川家光。

 彼らの全盛期に、多くの外様大名が取りつぶされてしまった事も、事実として残っている。

 勝者は一体誰であり、その勝者は何を隠し、何を歴史として書き残したのか。その謎が解明される事は未来永劫、ないのかもしれない。

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覇王の秘密 犬のニャン太 @inunonyanta

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