第12話 天海と女

 天下の情勢は羽柴に傾き、各地の大名が挙って臣従。

 天下人としての地位を盤石にした羽柴秀吉は、朝廷から関白に任命され、その二年後には太政大臣となって豊臣の性を賜った。これにより、秀吉は名実共に天下の頂に立ったのである。

 そんな中、未だ上洛しない関東北条氏の棟梁である北条氏直、並びにその父である北条氏政に対し、豊臣側から再三の上洛要請が繰り返されている。

 頑なにそれを拒む北条親子と縁戚関係となっていた徳川家康は、表向きは北条親子を説得する風を装いながらも、関東の情報収集に躍起になっていた。

 時に1588年四月、秀吉がついに九州島津氏をも下した翌年の事である。

 遠江国、浜松城。


「殿、おつきになられましたぞ」

「おお付いたか、通せ通せ。さあ早う」


 徳川家の居城を、二人の僧体が訪れていた。


「よくぞ参られた、ささ、こちらへ」


 家康は前を歩いていた初老の男性の手を取るようにして、二人を己の居室に引き入れる。


「勿体なき事。中納言様に置かれましてはご機嫌麗しく」


 豊臣政権の重鎮となっていた徳川家康は、その官位を中納言まで高めていた。


「然様な堅苦しい挨拶は抜きじゃ。苦しい想いをさせてしまったな。ささ、お座り下され」


 家康に勧められて座した二人の僧。一人は痩せこけた初老の人物で、もう一人は老け込んでいるようには見えるがどうやらまだ若い。

 家康は二人を交互に見つつ、初老のほうの僧に言葉をかけた。


「左馬助殿、よくぞ生きておられた」


 それはかつて、千種峠で密談を交わした相手。明智左馬助秀満である。


「主と共に落ち延びたのですが、主は昨年他界致しました。これに控えるは主が嫡子。現在は剃髪して天海と号しております」


 左馬助の言葉を受けて、もう一人の男が頭を下げて口を開いた。


「中納言様にはお初にお目にかかります。惟任日向守が嫡男、天海と申します」


 その様子を満足気に見つめた徳川家康は、早々に本題を切り出した。


「惟任殿は徳川の大恩人である。そのお子とあらば、大恩人のお子である。世に事を知らしめるにはまだ時間も必要であろうが、お二人にこれ以上の苦労をかけない事くらいは今すぐにさせてもらいたい」


 言うのと同時に、一通の書状を差し出した。


「武蔵の無量寿寺へ赴いて頂きたいのだ。川越は大坂からは遠く、行き交う人も多く羽柴の目も届かぬであろう。故に然程の苦労もなかろうが、入用とあらばこちらかも支援を致す。この後、関東が乱れるような事が無いとも限らん、いや、恐らく関東は乱れる」


 その書状は、関東川越にある無量寿寺――現在の喜多院――へ宛てられた物で、叡山から高僧をそちらへ送るという内容が記されていた。


「関東の情報を集めてもらいたい。天海殿はいずれ徳川の臣下として丁重にお迎えするつもりであるが、それにはまず家中の者が納得するだけの材料が必要じゃ。形ばかりでよい。仕事を引き受けてはもらえぬかな」


 家康の言葉に、左馬助は力強く頷いた。


「天海殿は亡き御父上より譲り受けた明晰な頭脳をお持ちです。仏の教えに広くご理解を示される事は無論、六韜三略にも尽く精通されておいでです。また、陰陽五行の学問を修め、つい先日からは風水を学び始めた所で御座います」


 それが本当であれば、とてつもない秀才である。


「それは大層な。流石は惟任殿のお子よ」


 家康は言葉を続けた。


「そうじゃ左馬助殿、その方も天海を名乗ってはどうだ。もう一つな、行ってもらいたい寺があるのだ」


 家康はもう一通の書状を差し出し、相手の返答を待つことなく言葉を投げかけていく。


「江戸崎不動の住職も空いておる故、そちらへ赴いてもらいたい。二人で『天海』という僧となり、その天海という僧が上げた功績を我が家中に認めさせるのだ。川越と江戸崎にて仏事を取り仕切り、尚且つ関東の情報を多く掴んだとなれば、我が家中において天海を侮る者などいなくなる」


 その言葉に、天海の口から自然と言葉が漏れた。


「二人で……天海」


 家康は矢継ぎ早に言葉を繋げた。


「そうじゃ。その明晰な頭脳と、左馬助殿の豊富な経験。この二つを持ち合わせた人物ともなれば正しく、徳川の宝となる人物であろう」


 そうする事で、光秀の忘れ形見は立身するであろうし、決して粗末な身の上になる事もないだろう。左馬助はそう思い、家康の提案を二つ返事で了承した。


「お申し出、有り難く。我らこれより先『天海』として、徳川家繁栄の為に犬馬の労をとらせていただきます」


 こうして、二人の天海は関東へと赴いた。


 一人は川越にある無量寿寺。

 一人は江戸崎にある不動院。


 彼らの齎す情報は徳川家を大いに助けた。そして後年、豊臣秀吉の命によって長年根幹地としてきた先祖伝来の地を離れ、関東に移封された徳川家康を助けたのもまた、天海の情報と人脈、そして修めた学問であったという。


 天海という人物は謎に満ち溢れている。確かなのは、人並み外れた才覚を有していた事。前半生は様々な説があるだけで、本人が決して語ろうとしなかった事。そして何より、当時としては常識では考えられない長寿であった事。

 明智に纏わる様々な説に取り巻かれているが、とりわけ興味深い話がある。


 後年、天下が徳川の物となってしばらく後の事であった。

 将軍職を徳川家が世襲していく事を世に知らしめた二代将軍徳川秀忠に、待望の嫡男が誕生した。隠居の身であった家康は大層喜び、それ相応の乳母を付けようと思い立つ。

 そこで広く人を集めたと言われているのだが。

 広く集めた割に、選ばれた人物は特別目立った教養や人脈を持ち合わせている人間ではなかたった。


 お福。


 後に朝廷から春日局かすがのつぼねという称号を賜る女性である。

 元は、関ケ原の戦いで東軍の勝利を決定づけた小早川秀秋の家老で、小早川家断絶後は浪人をしていた稲葉正成の妻であった女性。そして、その父は明智光秀の家老を務めた斎藤利三という名将である。

 更に面白いのは、斎藤利三と稲葉家の関係性である。

 斎藤利三が明智光秀の配下になる以前、元は稲葉良道(家系図上は稲葉正成の祖父にあたる)の配下であった。その絡みが本能寺の変の遠因となったという説もある程である。

 また、稲葉家というのも実に奇妙なもので、頑固一徹の語源になったと言われる稲葉良道などは特に際立っている。

 本能寺の変以降も半ば独立勢力であるかのように振る舞い、美濃の領主となった織田信孝や、池田恒興とも諍い事を起こしてはその都度時の権力者の仲裁を受けている。いわば問題児である。

 お福の背景に見えるのは、問題児である稲葉良道。

 織田信長を弑逆した謀反人の家老、斎藤利三。

 そしてその謀反人である明智光秀。

 関ケ原で東軍を勝たせ、その後徳川によって断絶された小早川家の家老の妻。

 そのような背景を持ち、ましてやこの時期のお福の最終経歴は、無職浪人の妻である。

 そんなお福が、三代目の将軍職を継ぐであろう男児の乳母となった。不自然極まりない人選ではないだろうか。

 そして、お福が初めて天海にあった時、こう挨拶したという。


――お久しぶりで御座います


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