第7話 ラスボス
「いやいや、お前の家でも飲めるよ。無料だし」
「ただちゃうわ。あつかましいねん」
「そうだね」
そう言いながら、電車を乗り継いだ。行きは緊張感でさほど思わなかったが、帰りは乗客皆に見られているようで、恥ずかしかった。
「喫茶店ちゃんといけよ」と耳元で何度も囁かれた。唇が耳に触れそうだった。
「家、もうすぐだぞ」
「いや、行くねん。昔、いったところ」
「お前に昔なんてあるのかよ」
「ある。私の自由帳RPGのラスボスやねん」
「なにがなんだか判らないんだが……」
「その喫茶店の女が、実はラスボスやねん。魔女って言うたやろ」
僕はもう半分聞き流していた。とにかく喫茶店に寄って、どんな風に座って、そこのラスボスとどんな風に注文や会話をして、そして出て行くか。その長丁場になるであろう喫茶店を僕は何度も頭の中で予行演習した。
地元の公園の近くを通りかかると、背中から指が伸びてきて看板をさした。
店名を見ずに入った。
若い女性の店長が、先生みたいな顔で「いらっしゃい」と言った。黒く長い髪を分けていて、おでこが店内の灯りで少し光っていた。店内のテーブルや椅子はすべて木で出来ていた。彼女はテーブルや椅子に触れることができるかなと思ったが、降りる気配がなかった。
僕の太腿の上に彼女を乗せた。彼女の足を大きく開かせて、お尻を股間のくぼみにはめさせた。僕が少しのけぞることで、彼女が前のめりになりすぎるのを防いだ。椅子に座った僕の上に彼女が座る。汗で蒸れたうなじが目の前にあった。何とか足が床に触れないようにできた。店長はそれを見て、「あ」と言って笑ったっきり、何も言わなかった。たぶん、近所の噂で彼女のことを知っているのかもしれなかった。
腕や胴を触って、彼女がとても痩せていることにあらためて気がついた。ちゃんと食べているのだろうか。あのフルーツサンド、どれほど美味しかっただろうか。ちゃんと食べてあげなよ。羨ましいんだよ。お前のお母さんのご飯、どれだけ美味しいか。あの焦げたホットケーキ……。
彼女を非難するような体温が沸いた。彼女の母と見た、過ごした、話した日々を思い出して唇を噛んだ。
彼女と遊園地へ出発する前、彼女の母と話をした。
「ごめんねぇ。本当についていかなくていいの? 隠れて行くわよ」
「大丈夫ですよ。もう中学生ですし」
「しっかりしてるのね。ほんと、私も見習いたいわ」
彼女の母は、娘の異常を気にしないように努力していた。育てるのをあきらめた、いち抜けた、もうやめたと笑っていた。それを聞くと、僕の血の気がひいた。怒りでもなく悲しみでもなく、何故か自分がなくなっていくようだった。正体不明の強迫に悩む娘をあきらめないためには、普通に育てることをあきらめないと、だめなんだろう。普通以外の育て方とは何だろうか。娘のわがままに全て応えていくことだろうか。でも、何もしなければずっとこのままの状態が続いて大人になってしまうのではないか。けれども、それでもきっと大丈夫だろうと思って、見守り続ける。それが彼女の母の態度だった。それはたぶん、僕の義理の母からも……あぁ、母からも、されていることだろうと思えた。その思考の行ったり来たりに振り回されて意識が飛びそうになった。
「たぶん、私があんまり構ってあげなかったからかしら」
「違う、違う……」
こんなに大事にしてくれているじゃないか。
「なんでかしらねぇ」
「ほんとに羨ましいお母さんです」
彼女の母は綺麗な黒い服を着ていた。ピアノの先生だから。僕はシャツや下着が湿っていることに気がついた。遊園地への出発前なのに汗をかいていた。彼女は寝巻にも使っている水色のTシャツのまま部屋から出てきた。
遊園地に向かう前の会話を思い出していたら、彼女がもぞもぞと動き出した。
彼女はテーブルに向けて、グラスの中の水をかけていた。指をひたせるようにして、水滴を自分でかけさせた。水は、触れた部分を浄化するらしい。浄化されたテーブルは、触れても大丈夫だった。
彼女は少しホッとしたようだった。
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