第6話 大人のコーヒーブレイク
「ほら、クロノトリガー」
赤、白、緑、黄色、青空へ風船がいっせいに飛び立った。みんなが空を見上げた。僕も見たけれど、すぐに彼女のほうへ視線を戻した。彼女は僕の背からおりて、風船を追いかけてアスレチックコーナーの滑り台を、小さな子どもを押しのけて駆け上がり、赤い屋根の上まで昇って行った。靴や靴下を履かないので、白い足首が目に焼き付いて、止まっているように見えた。
マスコットがせわしなく動き出した。幼児は泣き出していた。大人らは彼女でなく彼女の保護者を捜しだすように辺りを見回しながら、傍観していた。
僕は大人がもし昇ってきたら彼女は飛び降りるだろうと思って、追いかけようとした。しかし、足が止まった。もし走ったら、彼女は降りない。余計騒動が大きくなる。
「これはクロノトリガーというゲームに出てくるエンディングと同じだ」
僕の心の中に、理由のない確信ができた。
クロノトリガーは彼女の一番好きなゲームソフトのタイトルだ。主人公は時間を自由に移動できる手段を持っている。ある時、自分たちの未来が巨大な異生物に滅ぼされていることを知る。一度主人公はその異生物に殺されるが、仲間達が時間の最果てにいる老人から復活の力を借りてきて主人公を蘇らせる。そして再び決戦に挑み、未来を救う。その後、仲間達はそれぞれの時代に帰ってしまわなければならなかった。その、お別れの場面に、風船がたくさん飛び去っていくシーンがある。
彼女はあの時のあの感動をもう一度そこで再現しているのだ。彼女はあのエンディングを見て泣いていた。まだ自由に地面を歩けていた頃だ。
だから、そのままにしなければ、バグが起きてしまうことになる。バグとは、彼女の世界のシナリオ通りに動いているところに、誰かが介入して、展開を変えてしまうことだ。まったく思いつきだが、きっとそうだと思えた。
なぜ僕がおんぶをしないとだめなんだ。いや、選ばれたから。けれど、これで何もなかったら……いや、たぶん何も起こらない。お金がもらえるとか、表彰されるとか、なんにもない。じゃ、おんぶしてるのはなぜだ。なぜあんな両親の言うこと聞かないとだめなんだ。あんなに頭を下げて……僕は無関係の子どもだろ。お前らなんか親じゃないんだよ……。彼女の母も、卑怯だ。無償で作ってくれていたホットケーキも紅茶も、ぜんぶの恩をこの時に使って……。
僕は、親や友達ではなく、映画や漫画の一コマを見ている読者のような心持ちで動けないでいた。
赤い屋根から、彼女はこちらを見て笑っていた。アスレチックコーナーは彼女一人だけになっていて、知らない家族が遠巻きに眺めていた。
遊園地で何か事件が起こる。それを一緒にクリアする。どうか大人が彼女に触って、無理やり降ろそうとしませんように。彼女は捕まる前に、絶対に飛び降りる。それをキャッチできる自信は僕にはない。
穏やかにならなくていい。むかついてもかまわない。人に触れることもできず、エレベーターもエスカレーターも使えない。屋根に上ったそんな彼女が僕を見下ろしている。何のためでもなく、自分がただ昇りたいと思ったから。僕はただじっと彼女を見上げていた。遠いな、と思った。
風船はジェットコースターのコースを越えた。観覧車のてっぺんも過ぎていった。これもゲームと同じだったんじゃないか。それなら、簡単だ。ゲームを僕らはずっとやってきた。二十四時間やりたい放題やってきた。
僕はゲームを信じて彼女を待ち続けた。
ようやく彼女が降りてきた。
「どうやった?」
彼女の腕をひいて、早足でその場を去りながら僕は、
「クロノトリガーみたいだった」と何とか笑って見せた。
彼女は遊園地を出るまで、おんぶせずに普通に歩いていた。そうしてゲートをくぐると、彼女の足が止まった。やっぱりおんぶすることになった。
「家でおばちゃんのアイスミルクティーが飲みたい……」と僕がつぶやくと、「自分の家で飲めや。私は、家では飲まん。コーヒー飲むんや」
「いや、家でコーヒーを飲むんでしょ」
「は? コーヒーは喫茶店やろ。大人のコーヒーブレイクや」
僕は足をそのまま冷静に進めた。変に止まって動揺すると、彼女が僕を否定して、触られるのを嫌がり、地面を裸足で走り出して、公園のベンチの上でいつまでも動かないでいることになる。父親はだめ。母親がおんぶして帰るハメになる。彼女の母にそんな疲れる思いをさせたくない。その光景がありありと脳裏に浮かんだ。
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