第8話 オメガフレアマンション
注文したアイスコーヒーが二つ届いた。
どう飲ませるか戸惑っていると、彼女が突然質問し始めた。
「この盆はどこのものなん?」
作家さんが作ったもので、神戸のギャラリーで手に入れたと、ラスボスの魔女である店長の答えが返ってきた。
コースターは染織をやっている友達の手作りで、グラスはガラス職人をしている知り合いから購入したもの。ストローもシロップもミルクもスーパーで買っている。
氷? 氷は自分の冷凍庫でつくってる。コーヒーはベトナムの豆で、酸味のない苦みだけのものを選んでる。
ようやく飲みたそうにしたので、僕は彼女を抱えながら、ゆっくりとグラスを近づけた。口が触れないよう上から垂らすように飲ませた。シロップは大丈夫だがミルクを混ぜるのは拒否された。店長は一瞬声を上げかけたが、うまく黙った。
氷が彼女の鼻の頭に次々ぶつかって落ちていった。
飲み終えて、お金が足りないことに気がついた。僕は一人で青ざめていた。
店長に正直に話した。「住所は?」と聞かれて、彼女は「えーと、オメガフレアマンション……」とあきらかな嘘をしどろもどろに言った。
店長は笑って、「それじゃ、何かアイデアを言ってよ。お客さんがもっとたくさん来るための、アドバイス。コーヒーをこうしたらいいとか。そのアイデア料でアイスコーヒーの代金を交換ね」
僕はさんざん考えて「口を拭く紙があったらどうでしょうか」と答えた。
「ああ、紙ナプキンね。でも、それはもうすでにあるの。拭くものありませんかって聞かれたら机に出すようにしてるの。それに……その子はその紙を使うかしら。たぶん、触らないわね」と店長が彼女を見た。さっきの質問のお返しのつもりだろうか。魔女との戦いになったと思った。彼女は店長を見ていない。
僕は答えられなかった。店長に笑みを浮かべられた。とても、嫌な気分だった。人がどれほど追い詰められているか、分かっていない。義母で……母である笑顔に似ていた。すべてわかっている顔。さんざん見飽きていた。父の戸惑いの顔のほうがよかった。痩せ細っていて、結局事なかれですますために黙る父。自分にかつて何かを期待していたけれど、もうしていないような顔。
「透明な氷にしたらええ」と彼女がアイスコーヒーを指さした。
「お父さんが透明な氷でなんか飲んでた。バラバラの白い氷じゃなかった。一個の大きい透明なもの……」
店主は深く頷いて「それはいいわね」と唸った。
「上等の氷だと、アイスコーヒーの風味も保たれる。普通の氷だと、水っぽくなるね。ありがとう。もっとお客さんが来るかもね。お代はタダよ」
おんぶしている時よりも出発時よりも、店の中のほうが汗がびっしょりだった。クーラーが効いているにも関わらず。しばらく経ってから僕は「警察を呼ばれたらどうしよう」と考えていたことに気がついた。それが汗の原因だった。
たぶん、クロノトリガーの世界みたいなものは、まだ終わってない。呼ばれたらいったい彼女はどうなっていただろう。警察官に腕を捕まれたら、バグと同じだ。全力で逃げ出して、もう一生見つからないかもしれない。浄化の一つとして全身を洗うために、川に飛び込むのではないか。一瞬で崩壊してしまうものを、僕は背負って歩いていたのだ。ゲームではほんの少しのバグも命取りだ。
――物語が進まなくなる。
おんぶし直す度に、彼女が重くなっていく。
「お父さんのことは……」
必死に何かを押さえて僕は彼女に言った。頭の中で母ではなく父が思い出された……動揺していた。弱い男。事を起こさないようにする人。今の僕だった。
「奇跡が起こらんかぎり無理や。オヤジには触られへん。だいたい滅多に帰ってこうへん」
奇跡ってなんだろう。バグのことだろうか。それとも、エンディングまでたどり着くことだろうか。
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