第4話 僕が殴ったあの日
母親に支えられながら職員室の前まで行き、そのまま引き返していく彼女がいた。引き返した理由は、廊下の色が違うから。階段はノンスリップの部分だけを踏んで下りていった。裸足だった。僕のほうは一切見ない。昔、一緒にゲームしたことを彼女は覚えているのだろうか。
ふとした言い合いになって彼女の頬をぶったことがあった。その翌日から休みがちになり、学校に通わなくなった。僕のせいだろうか。最初は、自分の責任とは思いたくなくて、家族に何か問題があるからだろうと考えていた。けれどもそうではないようだった。
原因を突き止めようと、友達や親を使い、探ったことがあった。友達からは、心の闇とか演技とか殺人者予備軍とか、ろくな回答はなかった。彼女の母は、「昔、田舎に住んでいて、いきなり都会に引っ越してきたからかしら」と幼稚園の頃の話をし出したり、「ピアノ教えてて、ずっと家でかまわずにいたからかしら」との二つの予想のあいだを右往左往しているばかりだった。ただ、強迫観念に囚われる病であることは確かだった。
彼女はずっと夏休みのままの生活をしているのだろうと、羨ましいなと思いながら帰宅した。塾のカバンを置くと義母――としているが実際には母――が頼み込むような視線を僕に向けてきた。
「話があるんだけどいい?」
「話があるんだけど……ですか」
「あの例の子をおんぶして、遊園地まで行って欲しいのだけど……」
僕は黙ったままだった。
「どう、できる?」
うん、大丈夫、はい、オッケー、了解。どれも言葉に出せなかった。
「ありえないだろ……」と文句を言ってしまった。ため口で。義母はそれでも頼んできた。
おんぶ、遊園地、彼女を抱え続ける体力、できるかどうか。頭の中で、
断りつつも、頭の後ろに冷静さが残っていて、やはり受けるしかないと思った。頬に残暑の西日が差し込んでひりひりした。
たぶん、僕のせいなのだ。頬の、白い肌の感触がよく思い出せた。殴る方も痛い。本当だ。痛いどころじゃない。一生引きずる。彼女の服、水色のTシャツ、中学生なのに小学生男子みたいな服装の上に乗っかった顔。何で殴ったんだっけ。
僕が何をしたら怒るかの遊びをしたんだ。彼女の家のリビングで。結局我慢しきったけれども、彼女の母の見えないところでぶったんだ。彼女は泣かなかった。何か言いたいことをぐっと堪えた残念そうな顔だった。
馬鹿でもアホでも何を言われても我慢できた。だけど、
「お前あれやんけ、お母さんとお父さん死んだんやってな」
「そうだけどなんだよ」
「嘘つきやん」
「は?」
「昔から、あんたのお母さんもお父さんも同じや。いいお母さんと糖尿病のオヤジさんやん。自分で勝手に死んだことにしてるんやん。義理とか仮とかアホちゃうか? 私の家が好きやからって、親まで死んだことにせんでええやん、ほんまにあんたは私以下の子どもやで。いったい何がしたいねん。あんたのお母さんもオヤジさんも、あんたのその態度にものすごくしんどい思いしてるんやで」
お前に言われたくない。お前の家、特徴があるだろ……! ピアノとか、社長とか、そして……お前とか!
――本当はグーだったかもしれない。彼女は腫れがひくまでどうしていたのだろう。記憶が曖昧だった。
でも僕のせいなのに、僕に頼むというのは変だ。憎い人間におんぶなんてさせるだろうか。廊下の色が違うから歩けないような子なのに。おんぶして移動? 何を言っているのだろう。
僕は義母と彼女の母と三人で、いつものリビングにいた。僕にはアイスミルクティーが出された。ずっと変わらない味だ。
おんぶされる当人は自室に閉じこもり、出てこない。彼女はどうやら義母を視界に入れたり、リビングのカーペットを歩いたりすることができないらしい。義母と彼女には何の接点もない。カーペットなんて、いままでいくらでも踏んだりしてきた。だが、僕が殴ったあの日のあたりで、すべてダメになってしまった。
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