【街コン】空中散歩と成人の儀

さくらもみじ

【ジンクスの場所】

「いい報せと悪い報せがある。どちらから聞きたい?」

 岡山に越してきたばかりの僕に、先生は、洋画でよく聞くベタな台詞せりふを投げかけた。

 ここ数年は、日本一災害の少ない県として、移住者が増える一方だという岡山。

 僕はその手の目的で越してきたわけではないものの、先生は県外からやってきた男性に、必ずこの質問をするのだという。

 玉手箱を選ぶ浦島太郎のような気持ちで、僕は慎重に考えた。

 いや、岡山は浦島太郎ではなく、桃太郎ゆかりの地であったか――。

「どちらかといえば、悪い方から聞きたいですね」

 悪い事実があるのであれば、先に聞こうが後に聞こうが同じこと。

 持ち上げてから落とされるよりは、落とされてから持ち上げられた方が、幾分かマシだと判断した。

「そうか……まあ、君はそういうタイプだと思っていたよ。それじゃあ、悪い報せだがね……」

 いつになく真面目な先生の表情に、僕は生唾を飲み込んだ。

 緊張で、握った拳の内側がじっとりと濡れている。

 しかし――。

「君はこの岡山において、まだ一人前の男とは認められていないんだ」

「え、ええ……?」

 先生の言葉は、想像していた内容とはまるで異なっていた。

 拍子抜けであると同時に、この人を頼って大丈夫なのかという、わりと切羽詰まった疑念も湧く。

「じゃ、じゃあ、いい報せの方は……?」

 怪訝けげんさ溢れる僕の問いに、しかし先生は全く動じる様子も見せず、妖しく微笑んだ。

「今週末、私が君を、一人前の男にしてあげるということだよ」


 ◆ ◆ ◆


「世界には様々な成人の儀式がある。バヌアツのバンジージャンプ。エチオピアの牛跳び。マサイ族のライオン狩り。私の言いたいことがわかるか?」

 日曜日。

 カーキ色の渋いツーシータを南南西へ飛ばしながら、先生はそんなことを言った。

「岡山にも、ちょっと危険な成人の儀式があるってことですか?」

「ちょっとじゃない。大いに危険だ。君、めていると後悔するぞ」

 なるほど――岡山において、を経験していない男は真の男にあらず、というわけだ。

 先日は無意味に背徳的な物言いだったため、別の意味で身構えていたが、どうやら健全な儀式ではあるらしい。

「それで、この鷲羽山わしゅうざんってところに来たわけですね」

 数十分後、僕たちはその地に立っていた。

 鷲羽山ハイランド。

 パンフレットと内観を見るに、どうやらブラジルを模したテーマパークらしい。

 勾配の激しい園内を、先生の後についてどうにか山頂まで上ると、そこにはバンジージャンプが体験できるというアトラクションが待ち受けていた。

 まさか、岡山はバヌアツと同じ成人の儀式を採用しているのかと焦ったが、先生は当たり前のようにそこを素通りする。

をも凌駕する恐怖の乗り物が、この先にある」

 長いとはいえない行列の最後尾に並んで、先生はおどす風でもなく僕に言った。

 行列はどんどん進み、やがて見たこともないようなアトラクションが眼前にその全貌ぜんぼうを表す。

 僕の凍りついたような表情を見て、先生は満足気にうなずいた。

「それじゃあ、私はここで見てい……」

「次の方どうぞー、二名様で乗られますか?」

「はい! ふたりで乗ります!」

「え?」


 ◆ ◆ ◆


 そのアトラクションを一言で表すならば。

 断崖絶壁から張り出した、高さが四階建てのビルほどもあるレールの上を、心もとない安全ベルトひとつ頼りに、むき出しの自転車で一周するというものだった。

 自転車は左右一対の構造で、僕が外周側に、先生が内周側に乗っている。

「馬鹿だな、君は。ひとりで乗らなければ儀式にならないじゃないか。わ、私は漕がないぞ」

 平静を装ってはいるが、先生の声は明らかに震えていた。

 僕はひとつ前の人たちに合わせた速度で、ゆっくりと自転車を漕ぐ。

 錆びたレールに軋むフレームが、恐怖心を煽り立てた。

 だが、不思議なもので、無心で漕いでいるうち、だんだんと感覚は麻痺してくる。

 長い直線の先にあったヘアピンカーブを抜ける頃には、身体はこの乗り物に慣れつつあった。

 ふと、僕は今さらながら、先生に尋ねるべきことに思い至る。

「本当に、大丈夫だったんですか? 患者の僕を、こんなところに連れてきてしまって」

「医者としては落第だろうな。だが、私は君を、あくまでも友人のひとりとしてここに連れてきた」

 友人。

 そんな言葉が彼女の口から飛び出すとは――それも、こんな僕に対して。

 と、そのとき。

 急に視界がひらけ、僕の目の前に見渡すかぎりの青の光景が姿を現した。

 凪いだ瀬戸内の海、雲ひとつない快晴の空、そして、その間に架かる雄大な瀬戸大橋。

 海抜百メートルは優にあろう、この場所からしか見られない圧倒的景観は、恐怖よりも感動を強く覚えさせる。

「私の兄は、ずっとこの景色を見たがっていた。けれど、成人する前に逝ってしまってね。原因不明の、不治の病だった。今の君と同じだよ」

 先生は何でもないことのように言ったが、彼女が女医という険しい道を選んだ動機なのだろう。

 そして、僕をここに連れてきた理由も、何となくだが理解できた。

「この景色を見た者は、不治の病だろうが何だろうが、たちまち治ってしまう」

「え……ここ、そんなジンクスがあるんですか?」

「ないよ」

 先生は少しだけ笑って、僕の方をちらりと見た。

「だから、。君がジンクスの一人目になれるよう、私は全力を尽くす。その身体に巣食うものを、どうか私に任せてほしい」

 ――ああ、この人にならば。

 地元ではさじを投げられた僕の病も、委ねてよいのではないか。

 相変わらず、身体も声も、少し震えていたけれど。

 そんな先生が、若くして名医と呼ばれていることに、疑問を抱く必要などないことを悟った。


【了】

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