新撰組紀行 ‐ 斎藤一と、京都を歩く ‐

馳月基矢

新撰組紀行 ‐ 斎藤一と、京都を歩く ‐

 斎藤一が、かつて、まさにこの場所に立った。


 寺社だらけの東山かいわいには珍しくない瓦屋根の四脚門の前で、私は立ち尽くしている。


 朝七時。門は開け放たれ、野性味を留めて整えられた庭が望めた。門を入って数歩のところに竹の柵が植えられ、無縁の来客を拒んでいる。


 私が斎藤一の足跡を辿る京都旅行に出たのは、梅雨の明けきらない七月中旬だった。私が大学と大学院を京都で過ごしたのと同じ年齢の頃、新撰組の斎藤も京都に住んでいた。それに気付いて親近感を覚えたのが旅のきっかけだった。


 京都駅で夜行バスを降り、歩き出してすぐに雷雨に見舞われて、かもがわほとりは松原通沿いの小さな公園で立ち往生した。やがて雨雲が通り過ぎると、私は東山の坂を上り、この門前に至ったのだ。


 高台寺のたっちゅうの一つ、げっしんいん。新撰組からたもとを分かったとうろう一派の十数名が、新撰組にしゅくせいされるまでの短い期間、ここに住まっていた。


 斎藤も伊東に従って新撰組から離れたが、その目的は、伊東の掲げる「一和同心」の倒幕論への賛同ではない。斎藤はスパイだった。


 ――伊東を探れ。奴はいずれ火種となる。


 斎藤が新撰組副長の土方歳三にそう耳打ちされたのは、おそらく伊東が入隊してすぐ、元治元年(一八六四年)の末頃だったはずだ。伊東一派の離脱が慶応三年(一八六七年)三月であるから、二年余りの間、斎藤は伊東の身辺を探っていたことになる。


 私は月真院の門をくぐった。斎藤たちが起居したや本堂は庭木に隠れてよく見えない。稽古や鍛錬をしたであろう裏山も塀の向こうだ。


 下調べしたところによると、通常、月真院は門内に踏み込むことができない。今、わずか数歩分とはいえ、なぜ入ることができるのか。早朝だからか、特別な来客でもあるのか。


 門が開いていても、勝手に入るのは無礼だ。わかっている。が、一歩でもその場所に近付きたい衝動は抑え難い。


 斎藤一がここにいた。私と全く同じ場所に立ったかもしれない。


 いや、百五十年前に彼が踏んだ土は、和風モダンな石畳の下に封じられている。庭の石も草も木も、その大半は、彼の頃よりもずっと新しく配置されたものだ。


 雨に濡れた草と土の匂いが生々しい。裏山のやぶが大いに茂っているせいだろう。この匂いは、彼の頃も同じではなかったか。


 振り返ると、大きな椿つばきの木が門に寄り添って立っている。織田信長の弟、らくさいが植えたとされる早咲きの椿だ。樹齢六百年にして、今でも見事な花を咲かせるらしい。


 幕末にも有楽斎の椿は咲いたはずだが、スパイである斎藤が月真院を後にしたのは旧暦十一月十日、西暦に直せば十二月上旬だった。斎藤は、椿の開花を目撃できただろうか。つぼみしか見なかっただろうか。斎藤は伊東一派の情報を手に、新撰組の屯所へと去っていく。


 私も月真院を背にして歩き出した。東山の坂を下り、ひがしおおを渡る。斎藤はどの道を行き、どの橋で鴨川を越えただろうか。松原通か、五条通か、さらに南か。私は松原通を選んで進む。ここを真っ直ぐ西へと行けば、新撰組が最初に屯所を置いた壬生みぶに到達する。


 一方通行の松原通には今、間口の狭い建物が密集している。斎藤の頃は違った。


 元治元年(一八六四年)の禁門の変の直後、京都の中心部は、どんどん焼けという大火をこうむった。斎藤が月真院でスパイ活動をしたのは、それから三年ほど後のことだ。斎藤が歩いたとき、この街は再建途上にあった。


 ふと、私は竹の柵に封鎖された路地に気が付いた。覗き込めば、かさぼこの組み立てが行われている。おんまつりの準備中らしい。


 新撰組も祇園祭を楽しんだかもしれないと、空想が鎌首をもたげた。でも、斎藤は誘いを受けても、むすっとして答えるのだ。


 ――俺は、祭は苦手だ。人が多くてうるさい。


 乗りの悪い斎藤に、同年輩の沖田や藤堂は不平たらたらで、土方あたりが笑って仲裁する。


 ――斎藤、行ってこい。市中警備だ。人が多い場所にこそ、倒幕派が身を潜めていやがるんだぜ。総司たちのりも頼むぞ。


 そんな平和な一時を空想する一方で、楽しい記憶が多いほど、スパイの役割を担う斎藤は感情を殺し切れず苦悩を深めただろうとも思う。


 壬生をかすめて、花街だった島原を横目に、堀川通を南下する。新撰組の二番目の屯所跡、西本願寺の脇を通り、なお南へ。


 JRと近鉄の線路に行く手を阻まれる直前、しおこう堀川の交差点に架かる歩道橋に上れば、私と斎藤の目的地はその南西角、観光ホテルの敷地内にある。


 不動堂村と呼ばれたその場所に、新撰組は当時、三番目の屯所を構えていた。屯所に辿り着いた斎藤は、月真院で知り得た情報を土方らに告げる。


 ――十月の大政奉還以来、伊東さんは積極的にゆうぜいして回っている。やるなら今だ。日本の将来について議論したいと言えば、伊東さんは必ず誘いに乗る。


 斎藤の報告を受けて、十一月十八日、新撰組は伊東を呼び出し、議論と盃を交わし、その帰途にて殺害。流れ出る血がたちまち凍るほどの寒夜、伊東の遺体を辻に放置して一派をおびき出し、せんめつを決行する。


 一説では、その夜の戦いに斎藤も参加したという。正確には、斎藤一ではない。彼は、名を山口二郎と改めていた。


 一という潔い名を捨て、二の字を名乗った彼は、騙し抜いた伊東一派に無敵の剣を振るいながら何を思っただろう。どれほど葛藤し、苦悩しただろうか。


 幕末の動乱は時の彼方に流れ去り、寡黙だった彼の言葉は、多くは現在に伝わらない。私には空想することしかできない。


 遠雷が聞こえる。もう一雨、来そうだ。


 壬生なら、雨をしのげる場所があるだろう。私は速足に歩き出す。今日の旅は、バスも電車も使わない。幕末の彼らがそうしていたように、ただ二本の脚で京都の町を歩くのだ。



【了】

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