新年度

エピローグ

 待ち合わせをしたそのバーは、最近の鏡子のお気に入りの店だった。

 外観はアイリッシュパブ風の煉瓦壁、ただし本物の煉瓦ではなくて煉瓦風タイル。中はごく普通のカウンターバー。テーブル席も二つあるが、使われているのを見たことがない。

 開店したばかりだという話だが、まるで流行っていない。

 飲み屋街の喧噪から切り離された、静かな店だ。


 梅酒ソーダのグラスをちびちび傾け、フライドポテトをむしゃむしゃ食べる。

 鏡子の見た目にはこれといって変化はない。相変わらずのキャスケットを被り、眼鏡をかけて童顔を隠しているつもりだがまったく隠せていない。

 カラン、とドアが開く音がした。いらっしゃいませ、とバーテン兼店長が出迎える。


「いやあ、お久しぶりっすねえ」

 振り向かなくても、誰だかわかっている。入ってきたのは桜下だった。

「うむ、久しぶり」

 隣に座ると、桜下はウォッカライムのソーダ割を注文した。

「へんなはなし、仮添江市ってけっこう遠いっすね」

「六星社からだと、そうかもな~。店はすぐわかっただろ」


 注文した酒が運ばれてきてから、軽く乾杯する。

 二人が最後に会ったのは、二ヶ月前、鏡子が下宿を引き払った時だった。

 大学の新年度が始まる前に、鏡子は仮添江市に戻ってきた。さしあたり、母の残した事務所に住んでいる。二部屋しかないが、鏡子一人が住む分には問題ない。持って帰ってきた蔵書類は、ガレージに箱詰めのまま放置してある。


 鏡子が欠席したまま、審査会は進行し、研究助手の座は西園が手にした。科研長には草野が選出された。順当な結末だ、と鏡子は思っている。


 諏訪路は、怒りはしなかった。ただただ、鏡子のことを心配してくれていた。一身上の都合で、博士課程後期には進学しない、と言うと、熱心に引き留めてくれた。鏡子の意思が固いと知って、あきらめてくれだが、共著は出そう、と約束させられた。

 第三次六星社文学について、いずれ時期を見はからって、公表したいという意向だった。それなら諏訪路先生が一人で本にすればいいですよ、と鏡子は断ったが、これだけは諏訪路が譲らなかった。「別に君のためじゃないんだよ? 弟子の手柄を横取りしたなんて思いながら余生を生きたくないってだけのことさ」という、ツンデレっぽいような温かいような言葉をいただいた。


 桜下はまだ六星社大に残っている。天河は少なくとも、今年の秋までは日本に戻って来ない。他にもいろいろと、学内の様子を聞かされたが、なにもかもが、遠い世界の出来事のようだった。

 桜下の友人、明石は最近婚約が決まったそうだ。別れた彼女とよりを戻したのだとか。

 そりゃめでたいね、と大した感慨もなく鏡子は相づちを打つ。鏡子に会うためにわざわざ審査会に押しかけてきていたそうだが、それきりついに顔を合わせる機会はなかった。

 婚約したことを聞いても別に、腹立たしいとか、そういう感情はない。相手をするのが面倒なので、むしろほっとしたくらいのものだ。

 ただまあ。

 ――え、もしかして。僕のモテ期って、これで終わりですか。こんなもんですか。

 そんなことに思い至ってがっくりしたくらいのものだ。

 


「最近は、なにしてるんです?」

「いやあ? べつになにもしてないよ。ニートだな。毎晩、ここで酒を飲んでいる」

「そりゃ優雅なことですねえ。仕事は探さないんです?」

「うーん、どうしようかなあ。なにもしたくない気分なんだよなあ。まだ貯金あるし。とりあえず、古物取引商の営業許可でも取ろうと思ってるけどもさ」

「はあ。なんでまたそんなものを」

「ネットオークションでいらない本とかを売ってるんだけどな? 営業許可を取ると、大規模な取引ができるようになるんだ。ちょっと本気を出して、せどりとかやってみようかな、なんて」

 桜下は失笑した。

「ははあ。ネット通販専門の古本屋を開業するわけっすか」

「うむ。資格取ったりしなくていいし、手っ取り早くニートを脱出できるかなと思って。僕には向いてるかもしれん」


「本気で言ってるんすか。がっかりですねえ」

「なんだよ」

「就活してないのは、別にいいです。会社員なんてやってる鏡子さんは、想像しにくいすから。でも、個人事業をやるなら、もっと向いてることがあるでしょうに。同じように資格いらずの、届出だけでできる職業なんだし。古本屋と兼業でもいいから、始めてみたらいかがです?」


「えええ? 僕が何を開業するんだよ」


 決まってるじゃないですか、と桜下は何をわかりきったことを言ってるんだ、と言いたげな顔をした。


「探偵ですよ、探偵。あなたに他に何ができるってえんです?」

「ひどい言いようだなあ」


 探偵業。

 それは考えないでもなかった、が。仮添江市には、すでに大手の全国チェーンの探偵社が進出している。とても個人が開業しても対抗できそうにない。

 開業よりはまず既存の探偵社に就職してみて、ノウハウを学ぶ、というのが本道なのだろうが、それはまるで頭になかった。もし探偵業をやるなら、雇われではなくて自分が主になるべき、と鏡子は無自覚に思い込んでいる。


「いや……そんな、それこそ金にならなそうだし……。この街にはGOLエージェンシーがでかいビルで営業してるしさあ」

「あのですね、鏡子さん。探偵業のほとんどは、家族経営なんすよ。地方都市には、代々探偵業、という家が必ずあって、地元の人は口コミでそれを利用するんです。大手に頼むのは、地縁のない人です。例えば、他所から移り住んできたサラリーマンとかですね」

「そういうもんなの? 知らなかったな……」

 わざわざ調べたんすよ、と桜下は口を尖らせる。

「とはいえ、そういう伝統的な探偵業も、すたれる一方です。都市化が進んでますからねえ。仮添江市だって、もうそんな古くからの住人は少ないんじゃないすか?」


「うーん、そうねえ。僕んちも、両親は周辺地域の出身だからな」

「だから、派手に看板出してる大手が人気なわけですが。大手は人をたくさん抱えてるから、料金も高いでしょう。そこで鏡子さんが、お手頃な値段で、お手頃な仕事をする探偵として売り込んでいけば、なんとか仕事になるんじゃないすかね」


「超隙間産業だな」

「もともと隙間産業でしょう、探偵なんて」

 桜下は笑い出した。


「事務所はあるけどさあ。そもそも広告打ったりする金がないよ。せめて地方紙には広告載せないと話にならないだろう」


 桜下は懐から一通の封筒を取り出した。

 すっと、差し出される。


「今日はこれを渡しに来たんです。美伶さんからっす」

「ほう?」


 中から、6桁の番号が四つ刻印されたカードが現れた。ロト6だ。


「換金期限にはまだ二週間くらいあります。当たりくじですよ。二等の」

「二等! 一千万だっけ?」

 鏡子はあわてて手にとる。

「どうぞ、存分に確認してくださいな」


 言われるまま携帯を起動して、カードに印刷された回の当選番号を確かめる。

「まじで当たってる……どうしてこれを僕に?」


 桜下はそのあたりくじの由来を説明してくれた。元々は美伶が、下宿人たちの誰かにあげるつもりだったという。


「彼らがいなくなったんで、わたしにチャンスが巡ってきまして。研究助手に選ばれたら、もらえることになってたんですけどね」

 ダメでしたからねえ、と桜下はぼやく。


「『負け犬にトロフィーはやれない』んだそうです。んで、鏡子さんに。御礼だそうですよ。六辻出流のノートを取り返してくれた御礼」

「はあ? あんなノート、何の価値もないだろ」


 葵が残していった六辻のノートは、美伶のもとに送り返した。第三次六星社文学は――いまさら文書館に返しても、怪しまれるだけだし面倒だ、と思い、鏡子は自分のものにした。事務所のデスクの上に置きっぱなしてある。ささやかな思い出の品、あるいは戦利品として。


「そこは美伶さんの気まぐれです。いや、理由はなんでも良かったんだと思いますよ。鏡子さんが大学を辞めたと聞いて、あげることに決めたんだと思います。まー卒業祝いとか。角出のお祝いとか。そんな感じっすかね。さあ、これを開業資金にすればいいですよ」


 もらえないな、と思ったが、葵の顔を思い出し、受け取ることにした。

 彼女からそんなものをもらう理由がないが、姉弟二人からだと思えば、受け取ってもいい気がした。

 葵に会わなければ、鏡子は大学を辞めることもなかっただろう。人生の道行きが大きく逸れた。一千万はそれに十分釣り合うのではないか。


「どうしたんです? こんな超高額報酬、それこそ名探偵にふさわしいじゃないすか」

「ありがたく、いただくよ。探偵をやるかどうかは、ちょっと考えるけど」

 そっとカードを財布に入れる。


「考えるだけ時間の無駄でしょう。あなたはきっとやりますよ。明日には公安局に行って、届出用紙をもらってくる。間違いないっす」

 決めつけんなよ、と苦笑がもれる。

「よくネコババしなかったな、桜下さん」

 ふと気付いてそう尋ねる。

「あっはははっはあ。いやあ来る途中、電車の中でその誘惑に耐えるのが大変でしたよ。ばっくれちゃおうかと思いました。でもまあ。わたしは結局、他人を出し抜くのは向いてないみたいなんすよ」

 桜下の言葉には、鏡子には知り得ない感慨が含まれているように思われた。


 あ、でも、換金してから山分けしていただけるとかなら、ありがたくいただきますよ、と抜け目のないことを言う。

「ふふ、だめだ。もらったからには僕のもんさ。……だが今夜は奢ってやるから、なんでも好きなものを頼めよ」

「へいへい。じゃあ酒の肴に、そろそろ葵くんの話を聞かせてくださいよ。今夜はそれが楽しみで来たんすから」

 あのクリスマスイヴのことは、桜下にもまだ話していなかった。

 今夜話すという約束になっていた。







 長い長い一人語りを終えて、鏡子はため息をついた。何杯目かの梅酒を飲んで、喉をうるおす。

「鏡子さんは、実に恋愛が下手ですね、知ってましたけど」

 呆れたような感想が返ってきた。

「うるさいな。いいじゃないか、僕が満足してるんだから」

「怪盗の動機を知ろうなんて無粋なことをするから、遊んでくれなくなるんですよ」

「はあ? 葵くんは怪盗なんかじゃなかったよ。少なくとも僕にとっては」


 酔いの回った目で、桜下はへらへらと講釈を垂れた。

 怪盗と探偵は、近代の産物だ。近代都市の闇が出現したからこそ、怪盗が生まれ、それを駆逐する探偵の物語が脚光を浴びた。近代の探偵は、怪盗を一時的に闇の世界に追い払うだけである。だから怪盗は死なない。何度も闇の中から蘇り、探偵に挑戦を繰り返す。探偵と怪盗は、あたかも二人で共闘して一つの芝居を演じているかのように、果てしない戦いを続けることになる……とまあそういった内容だった。


「ははあ。明智小五郎と怪人二十面相のことを想定してんのかな」

「むしろルパン三世と銭形警部なんすけどね。より、戯画化されていてわかりやすいモデルです。さて、鏡子さん。わたしは、『怪盗とは探偵に挑戦する者』と定義しやす」

「ほう。まあそう定義すれば、葵くんも怪盗だと言えるが」


「怪盗の動機なんて、ただその一点でいいんすよ。なぜ事件を起こしたか――探偵に挑戦したいから。ね、すでに立派な動機じゃないすか」


 それを、と桜下は冷たい、馬鹿にしたような笑いを浮かべた。


「あのね、明智小五郎が、怪人二十面相の生い立ちやら家族構成やら調べ上げて、二十面相が犯罪に走った理由を解き明かしたら、どうなりやす? 興ざめもいいところでしょう。二十面相は、悪のヒーロー、都市の闇に生きるダークヒーローではなくなってしまうんすよ。ただの犯罪者になっちゃいやす」


 いやあ、それはそうだが……と鏡子は言葉につまる。


「鏡子さんがやったことは、つまりそういうことっすよ。怪盗の抱える心の闇の隅々まで、光をあててしまったんです。そんなことされたら、怪盗はもう、探偵と追いかけっこをしてられないんです」


「葵くんはさ。第三次六星社文学の他に、僕と遊べるようなネタを持ってなかったわけだから。どうせ二度と会ってくれなかったよ」

 鏡子の抗弁に桜下は取り合わなかった。

「怪盗ごっこは一回きりだったでしょうけど、恋人にはなれたんじゃないすかね」


 それは考えもしなかった。

 あの夏の日、彼が怪盗文士として犯行声明を残した日までは、確かにそれを考えていた。だがそれ以後、彼が怪盗文士を名乗ってからは、葵と恋人になって末永くつきあう、というイメージは、鏡子の中から消え失せた。クリスマスイヴの夜にも、そんなことが可能だとは一瞬たりとも考えなかった。

 鏡子は黙ってしまった。


「それを思いつきもしないところが、あなたが探偵業をやるべき理由ですよ。あなたは生粋の、現代的な探偵だ。トランスモダンの権化です。あなたは怪盗が身を隠すべき闇の世界が存在することすら許さない、なにもかもを光で照らし出してしまう無粋な人です。怪盗に恋していたにもかかわらず、そうせずにはいられない。

 ……所詮、近代人の怪盗だった葵くんは、鏡子さんの敵ではありませんでしたね」


「トランスモダンだかトランス脂肪酸だか知らんけどさ。僕は、認めないゾ。葵くんなんか、怪盗であるものか。もっとこう、ワクワクするような事件を起こしてくれないとな。探偵をやっていたら、そのうち出会えるかもしれないな、そんな本物の怪盗に」

「おや、探偵業、やる気が出てきましたね」

「うむ、ここは一つ、僕も怪盗の好敵手になれるような、本物の名探偵目指してがんばってみよう」


 書を捨てて街に出よ、なんて天河が言ってたっけ。

 大学の中で探偵がやれてたんだから、この田舎街でもできるんじゃなかろうか。

 できる……と思う、よ?


 懐には一千万。事務所もある。

 絵に描いたような探偵じゃないか。


 酔いも手伝って、その馬鹿げた構想は、鏡子の頭の中で煌々と輝きを放ち始めていた。

 いつか、鏡子さんが満足するような、現代的な怪盗が出てくるといいっすねえ、と桜下は皮肉な笑みを浮かべた。

「じゃあ。わたしはこれで」

「もう遅いぞ。泊まっていくのか」

「ええ、ビジネスホテルでも漫画喫茶でも」

 そうそう、とついでのように桜下は言った。

「わたしも、大学を辞めることになりやした。佐富先生の口添えで、出版局に正式に雇ってもらえることになったんすよ」

「そうか。研究助手も取れなかったことだし?」

 ええ、と桜下はうなずく。


「わたしには、才能がなかった」

 やはり、その台詞だった。


 桜下が発表の直前になって着想したという、「草枕」を題材にした新しい論文のあらましは既に聞いていた。率直に言って、面白い。ずば抜けている。なるほど、その論文ならば、西園に勝てたかもしれない。

 だがあの日、桜下が手にしていたのはその論文ではなかった。

 必要とされている時に、ふさわしい成果物を提示できなかったということもまた、「才能がない」という表現に回収されてしまう。

 

「ああ、僕もそうだ。才能がなかった」

 ですね、と桜下はためらいなくそれを肯定した。


 鏡子は、自分の手札の中の最善手を出さずに戦おうとしていた。第三次六星社文学の真相に関わる論文は私的な用途にのみ用い、セカンドの手札である王炊章一論を発表するつもりだった。

 なんという舐め腐った態度だろうか。

 何様だよ、と自嘲する。

 出席していればあるいは、それでも西園に勝てたかもしれないが――それから先、文学研究の世界で生きていくことはやはり出来ないだろう、と結論している。

 それがいかなる理由であれ、勝負に最善を尽くせない人間は、いずれ淘汰されるしかない。やはり鏡子もまた「才能がない」のだ。

 

 合図すると、カウンターの上を伝票が滑ってきた。

 グラスにわずかに残っていた梅酒を、惜しむようにゆっくりと飲み干す。


 葵のことを話す夜は、今日が最後だ。


 これから先、他人には決して話さないだけでなく、鏡子自身、思い出さないようにするつもりだった。

 家に帰ったら、デスクの上の六星社文学も、ガレージの段ボール箱に詰めてしまおう。

 誰が覚えていてやるものか。

 さようなら、と鏡子はつぶやいた。

  (了)

 




 ※作中、西園の発表論文は西原志保氏の論文「女三宮の言葉」(「日本文学」二〇〇八年十二月号)より本人の許諾を得て使用させていただいております。


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怪盗のワイダニット ――Why was he there ?―― 桜下六妖城 @rock_yojo

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