とある司祭の記憶・11
不意に耳朶を打った幽かな物音に、アルセンは目を開いた。暗闇の中に、ぼんやりと少年の輪郭が立ち上がるのが見えた。
夜中、ユーリイがこうして起き上がることが増えていた。初めてユーリイが小屋の外に出て行こうとしたとき、アルセンは同じように起きあがり、こんな夜更けにどうしたのかと尋ねた。
「眠れないから」
ユーリイはそう答え、アルセンを起こしてしまったことを詫びた。暑さのやわらぐ夜になると、ユーリイは少し元気そうに見えた。そうして、彼は外の空気を吸ってくるといって、裏庭に出ていった。毎回そうなのだった。
一度、司祭はこっそりと後を追って、彼が深夜に何をしているのかを確かめたことがある。
ユーリイはただ、裏庭に一角に佇んでいた。そして、あのレッドロビンとヒイラギモクセイの生垣から、墓地を見つめていた。今度は、本当に天使像を眺めているのだ。最早、こうした静謐な夜に、物言わぬ石膏の像と語り合うことだけが彼の心の慰めなのかもしれなかった。
あれから、ユーリイが少女と会っている気配はなかった。少女が会う努力をしたのか、それとも諦めて、ユーリイの言うように忘れてしまったのかは分からない。少なくとも、日中の間は、ユーリイは墓地のほうへ近づくことはなかった。しかし、ふとしたとき──信徒に祝福を施すその一瞬や、祭儀のあと何とはなしにオルガンの鍵盤に指をかける一瞬──アルセンのまなうらには灼けつくような少女の瞳が蘇った。
──彼女は諦めないだろう。
頭の中に苦しげなユーリイの言葉が響きわたるたび、アルセンは焦燥感にも似た感情に急き立てられるようだった。もしかすると、このとき既にアルセンの直感はある予感を捉えていたのかもしれなかった。
重く霧の立ちこめるような大気のざわつき。
何かが起きるという予感を。
夏の終わり、アルセンは体調を崩した。突然に酷い熱が出て、その日の祭儀は取りやめとなり、神父は一日中小屋の中に篭っていた。冷ややかな秋の霧が連れてきたその病は重い頭痛と吐き気とを伴った。いつものように裏庭の面倒を見てやることができなかったので、この日はユーリイが代わりに草花に水を遣った。
きっと疲れが出たんだろうと青白い顔のユーリイが言い、アルセンもおおむねそれに同意した。日が傾いてもまだアルセンの気分は思わしくなかったので、早々に床に就くことにした。眠りに就く前、少年のつめたい手と中指の硬い指輪の感触を額に感じ、アルセンは朦朧とする意識の中でありがとうと言った。ユーリイがそれになんと答えたのかは分からなかった。ただ、手のひらがやさしかった。
酷い寝苦しさで目を醒ました。夜はすっかり更けていた。全身にびっしょり寝汗をかいており、風邪のせいばかりでなく、冷えを感じた。薄膜がかかったような意識を叩き起こし、アルセンは向こうのベッドを見た。そのベッドは空だった。
その瞬間、アルセンは唐突に激しい吐き気に襲われ、身体を丸めた。熱が下がっていないのだ、と思った。もう一度、眠らなくては。
しかし、眠ろうと思えば思うほど、奇妙な引っかかりがアルセンの胸をちくちくと突き刺した。アルセンは暫くの間黙って目を閉じていたが、けっして無視のできないその痛みに、彼はとうとう起き上がった。立ち上がると、ふらついた。アルセンは壁を支えにして歩き、覚束ない足取りで小屋の外に出た。
先ほどよりも強烈な違和感がアルセンを貫いた。
裏庭は静まりかえっていた。
あまりに静かすぎた。自然の草花の息遣いさえも凍りつき、凝として静止していた。
暗闇。
月の光さえも阻む圧倒的な暗闇が、粘つく液体となって辺り一帯を満たしているかのように。
妙な気配はあの生垣のあたりから浸み出していた。がんがんと頭蓋を打ち鳴らすような頭痛を堪え、アルセンはそちらへと踏み出した。三歩進み、司祭は呻き声を漏らした。
ヒイラギモクセイが引きちぎられていた。ぽっかりと空いていたあの隙間は、今は無残な爪傷のように引き裂かれ、大きく口を開けていた。
その下に、こちらに差し伸べられるかのように、白いものが投げ出されていた。それは華奢な腕のようにも見えた。そうして、その下に、レッドロビンよりもなお赤い血溜まりが広がっていた。血溜まりだった。それが土と下草とを濡らしていた。土と下草と、もつれた赤毛とを。
司祭はよろめきながら後ずさった。
彼の頭の中に、重々しい鐘の音が鳴り響いた。
倒れた草に、血痕が点々と付いていた。血溜まりを踏んだなにものかが、そこを歩いたという印だった。血痕は次第に掠れながら、礼拝堂のほうへ向かっていた。
アルセンは大音量で反響する鐘の音を振り払おうと、頭を抱えながら、ふらふらと礼拝堂へと向かった。棚の上のものをなぎ倒しながら香部屋をくぐり抜け、礼拝堂の重い扉を身体で押し開ける。
礼拝堂は無人だった。
ただ、内陣の中の燭台に火が灯っていた。
アルセンは何度も絨毯に足を取られかけながら、ぼんやりとした灯りの中を、礼拝堂の中央へとまろび出た。そして、掠れた声で叫んだ。
「ユーリイ」
薔薇窓のほうへと振り向いた瞬間、アルセンは引き攣った声を漏らした。
目と鼻の先に少年が佇んでいた。あのうつくしい金髪と顔の半分をおぞましい血の紅でしとどに濡らし、ただ亡霊のように立ち竦んでいた。いつもの彼ではなかった。その瞳に司祭の姿は映ってはいなかった。アルセンは浅い呼吸をし、彼のぎらぎらと異様な光を放つ金の双眸を見た。
次の瞬間、アルセンは床へと引き倒され、その上にユーリイが覆いかぶさった。少年の歯が喉に突き立てられ、皮膚が裂けた。鋭い痛みに、アルセンは呻き声を上げて藻搔いた。
「ユーリイ」
血が流れ出し、シャツをじわじわと染めていくのが分かった。押しのけようとした手首は掴まれ、獣のような力で床に叩きつけられた。既に言葉の通じる存在のようには思われなかった。ユーリイの歯が喉笛を噛みちぎらんばかりにきつく食い込んだ。強烈な痛みと嘔吐感、世界の回転するような酩酊感で視界が激しく瞬いた。
「ユーリイ」
ユーリイは返事をしなかった。
「やめてくれ」
そのとき、まったく突然に「私を殺してこの子どもはひとりぼっちになるのだ」という思いがどす黒い閃光となってアルセンを貫き、煌々と未来を照らし出した。ユーリイが往こうとするのは影さえ落ちない暗黒の路だった。
アルセンは絶望に息を詰まらせた。目の縁から涙がはたはたと零れた。死の恐怖ゆえではなく、ただこの子どもへの深い憐れみゆえに、アルセンは涙を流した。既に痛みは感じていなかった。あるのは途方もなく広がるかなしみ、そして苦しみだけだった。アルセンは力の入らない手を伸ばし、自らの喉を食い破ろうとする〈異形〉の髪にそっと触れた。
ユーリイの動きがはたと止まった。そうして暫くアルセンの首元に顔を埋めたまま、ユーリイは黙りこくっていた。長い時間が経って、アルセンの鼓膜を震わせたのは、彼の啜り泣きだった。
「どうしてあのとき殺してくれなかった」
ユーリイは涙に濡れた悲痛な声で呟いた。
「ぼくを見つけたときに……」
「殺せなかった」
アルセンは囁くように言った。耳元であの夜の雷鳴が轟いた。そのとき、司祭は全てを悟った。彼は茫然と呟いた。
「私の罪だ」
ユーリイは顔を上げた。ただひどくうつくしいだけの、温かい血の流れる、十四歳の少年の顔だった。ユーリイは震える手で自らの指輪を引き抜き、それをアルセンの指に嵌めた。ユーリイの手は乾きかけた血に塗れていた。
「アルセン、ぼくは神の息子ではない」
ユーリイの声は歌うようですらあった。
「どうして気づかなかったのだろう。ぼくはソドムであり、ゴモラだ。ぼくは天の火によって焼かれ、暗黒の洪水によって沈められるだろう」
アルセンの頭の下で、首から流れ出す血液が水溜りとなり、髪を濡らしていくのが感ぜられた。ユーリイはとめどなく涙を零しながら、口角を歪めた。ほほえみに似ていた。
「ぼくは死んでいたわけでも、いなくなっていたわけでもなかった。はじめからいなかったんだ。ねえ、どうして気づかなかったのだろう。ぼくもあなたも。神はぼくと契約を交わさなかった。ぼくのための契約ではなかった。アルセン、あなたの神はぼくを赦さないだろう。けっして。けっして!」
アルセンはユーリイの口元を自らの首に──生々しい傷口から血を流す喉へと押し付けた。ユーリイが全身を強張らせた。喉仏が大きく上下した。司祭は囁いた。
「ユーリイ、おまえを孤独にはしない」
彼の指から、ユーリイが嵌めたばかりの指輪が滑り落ちた。ユーリイが嗚咽を漏らした。肩を震わせて泣いていた。アルセンは、彼の中にいつかの小さな子どもの姿を見た。
「私はきっと、おまえとともに行こう。おまえとともに天の火を浴びよう。地の底にも行こう。私の神がおまえを赦さないのなら」
アルセンは安心させるようにそう言った。痛みも苦しみもなかった。彼を満たしていたのは、深い充足感だった。澄んだ歌声が、オルガンの音色とともに彼の耳の中で小さく鳴り響いていた。神を賛美する、子どものうつくしい歌声が。
聴こえていた。
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