とある司祭の記憶・1
半刻前から降り出した
ひと気のない木立を、なにものかが急いでいた。手入れがされていないために雑草の生い茂った小径を踏み分けるようにして、人影は歩いていく。痩身の男。傷を負っているのか、左足を庇うような足取りである。汚泥が飛び散って男の
男──アルセン・ベロワは司祭である。アルセンは祭服の上から羽織った黒い外套の襟を掴み、立てるようにしたが、その行いはほとんど意味を為さなかった。彼が急ぐのは雨を凌ぐためであり、彼が目指しているのは雨の向こうに白くけぶる廃屋であった。
廃屋に辿り着くと、彼は躊躇わずにその扉を開け、屋内へと滑り込んだ。すぐにぐっしょりと雨を吸い込んだ外套を脱ぎ、重い鞄を下ろす。
廃屋は打ち捨てられた教会であったらしい。天井は高く、信者のための長椅子が並べられたそこは広々とした空間である。かつては多くの信者を集めた絢爛豪華な教会であったのだろうが、今は見る影もない。埃と砂礫にまみれた絨毯はほとんど剥がれ、聖像の背後の薔薇窓からは何枚かの色硝子が欠け落ち、そこからわずかな雨が吹き込んでいるありさまだった。
アルセンは聖像に向かって跪き、簡素な祈りを捧げると、長椅子の一つに腰掛けた。左の革靴を脱いで、軋む跪き台へ足を乗せ、傷の様子を確かめる。雨と泥と血とに塗れた踝の傷に清潔な水を注ぎかけ、やはり湿っぽい布で拭う。軟膏と包帯が必要だが、この雨脚が弱まるまでは、ここを出ようとするのは無謀だろう。アルセンは、顔を顰めながら再び濡れた靴に傷ついた足を突っ込み、今度は鞄を開いてその中身を確かめた。獣脂をしっかりと塗り込んでおいた革は、この土砂降りにあっても水の侵入を阻んだらしく、内部は乾いていた。年季の入った革張りの聖書に小箱に入ったロザリオ、
アルセンは短剣を鞘から抜き、その刃を検めた。それは、拭われ磨かれたばかりである。つい
アルセンがちょうど荷物の検分を終えたころ、かすかな物音が彼の耳朶を打った。ほんの僅かな音であった。アルセンは立ち上がり辺りを見回したが、人影はない。しかし、注意深く確かめると、確かにここには生きた人間の気配があった。アルセンはこのようにいきものの気配を感じ取ることに長けていた。それは幼少期に強いられた特殊な訓練のためばかりでなく、彼の生まれ持った特性であった。この教会で、彼以外の誰かが息を潜めている。
アルセンは呼吸を整え、鞄の中から再び短剣を取り出した。左手に軽く携え、慎重に歩き出す。〈異形〉を刺し貫くためのものだが、暴漢から身を守ることに役立たないわけではない。それに……とアルセンは考えた。潜んでいるのは、本当に〈異形〉のものかもしれない。
歩を進めるたび、血と雨水とを含んだ革靴がグジュグジュと鳴った。薄赤い足跡が片方だけ残る。アルセンは油断なく左右に目を走らせ、やがて長椅子と長椅子の間になにかを──なにかきたならしい布の塊のようなものを見つけた。布が小柄な人物を覆っているに違いないことは、すぐに知れた。アルセンは敢えて殊更に靴音を立てるようにして歩み寄り、塊の前で立ち止まった。背を向けていたそれは、一度かすかに震え、それから躊躇いがちに此方を向いた。
アルセンは息を飲んだ。輝く金糸のような髪をした、うつくしい少年が蹲っていた。瞳は淡く透き通る琥珀の色。
アルセンは我に返り、それからこの少年を今すぐ殺すべきか否かを考えた。少年はすでに、明らかに〈異形〉のうつくしさを備えていた。この年若い司祭がこれまで目にしてきた〈異形〉のほとんどは、まだ年端もいかぬ赤子であるか、より艶美でしたたかな成人の姿をしていた。これほど幼若で、また成長した〈異形〉を目にしたのは彼にとって初めての経験だったが、それはほとんど直感的な確信であった。少年が自分の手元をじっと見つめているのに気づき、思わず左手の親指が短剣の鍔を押し上げ、硬い音を立てた。音に怯えたように、少年は両腕で抱いたなにかをますます強く抱え込んだ。アルセンは突然に、その正体に興味を惹かれた。何をそんなに大事に抱えているのだろう。彼は刹那の逡巡のあとで、結局しゃがみこんだ。
「それは」
アルセンは囁いた。胸の裡でいけないと叫ぶ声があった。教会の掟においては、〈異形〉の者と言葉を交わすことは禁忌であった。しかし、あどけないこの子どもの姿がアルセンの心を揺らがせた。
子どもは揺れる瞳で再びアルセンを見つめると、やがてふと警戒を緩め、胸にかたく抱いていたものをおずおずと差し出した。それは、ひどく傷んだ表紙の聖書であった。
春の雷鳴が遠く鳴り響いた。アルセンは思わず後ずさりし、息を詰まらせた。それは傷の痛みだけが理由ではなかったが、少年は彼の左足に目を留めた。
「怪我を……している」
子どもがぽつりと呟いた。繊細な硝子の杯を弾いたような声だった。おそるおそるというように白くすべらかな手が伸ばされ、彼の靴に触れるまで、アルセンは一歩も動くことができなかった。かすかにもつれた金の髪が揺れ、〈異形〉に特有の──嗅ぎ慣れた──甘やかな香気が漂う。まろやかに透ける膚が、内側から輝くようにその白さを増したかのように思われた。アルセンは足を引っ込め、再び短剣に手を掛けた。しかし、少年がまだ手元に置いている聖書に目を遣り、結局その短剣をそばの長椅子へと置いた。少年は硝子玉の瞳でそれを追っていた。
「親は」
アルセンは再び口を開いた。喉がひどくいがらっぽい。子どもは応えず、いとけない仕草でただ首を傾げた。アルセンは声の調子をやわらげ、根気強くもう一度尋ねた。
「お父さんとお母さんは、いないのかい」
「かあさん、が」
少年は囁くように言った。
「でも……」
彼はそこで戸惑ったように黙り込み、自分の爪先を見つめた。
「しばらく前から来なくなった」
アルセンは半ば確信をもって自分の思いつきを口にした。
「そうだね?」
子どもはやはり沈黙し、ややあって頷いた。アルセンは子どもを見つめ、再び自問した。そして、目を細めて銀の短剣へと再び手を伸ばした。
そのときだった。突然に、屋根にはげしく叩きつけていた雨がさあっと上がった。厚く空を覆っていた雲が見る間にほどけ、昇ろうとする月の清廉な光が、染み入るようなしずけさとともに薔薇窓から淡く射し込んだ。はっとして司祭は顔を上げた。光は、薄暗がりの中にあって、耳の欠けた聖像のしろい輪郭をぼんやりと浮かび上がらせた。すべてはまったく唐突だった。若き司祭は自分にこの子どもを殺すことができないと悟った。掠れた呻き声を上げ、片手で顔を覆ってしまった男を見て、子どもが不安そうに立ち上がった。危うげな足取りでアルセンへと近寄り、その手で彼のもう片方の手を掴んだ。〈異形〉の子どもの手はやわらかく、なめらかで、温かかった。
「痛むの」と子どもは呟いた。
「いいや」
アルセンは絞り出すように答えた。
「おまえの名前は」
「ユーリイ」
「ユーリイ、私と一緒に来なさい。私の教会に。おまえにあたたかい食べものと、乾いた寝床を与えよう」
ユーリイは一度戸惑いに琥珀の瞳を揺らめかせた。それから、そのうつくしい顔でほほえんだ。アルセンもほほえみかけようとしたが、それがうまくいったかどうかは分からなかった。笑顔をもう一度試みる代わりに、アルセンはユーリイの小さな手を握り直した。そして、もう片方の手に短剣を持ったまま鞄のところへ行き、それを元の通りに仕舞った。その間、子どもはぼろぼろの聖書をずっと左腕に抱えたままだった。そうして司祭は子どもの手を引いて、痛む足を引きずりながら、月のしらじらと照らすぬかるむ道を歩き出したのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます