とある司祭の記憶・8
四十日の四旬節と復活祭を終え、あのアジュガの茂みが瑞々しい緑に蘇り、うす紫の花々の咲き誇るころ、変化があらわれた。それは小さな変化ではあったが、ユーリイを決定的に作り変えたかに見えた。
彼の澄んだソプラノは明るい曲調の歌を口ずさむようになり、礼拝堂と裏庭とで構成された小さな箱庭には隅々にまでうらうらとした光が射し込むようだった。薄く日に焼けない膚はほのかに血の色を透かし、瞳は陽だまりの色をうつして輝いた。かすかに冷たさを含んだ微風が時折吹き抜けては、彼の絹糸じみた髪をいたずらに弄び、なめらかな頬と額とを彩った。彼の口元に上るほほえみはさながら咲きそめたばかりの二輪草だった。
春が来たのだ。
うつくしい春が。
春の穏やかな陽射しは灰青色の冬を地平線の彼方へと追いやり、しめった地面をあたためた。
このごろ、生垣のところにユーリイがぼうっと佇んでいるのを、アルセンは頻繁に見た。塀に囲われていないこの僅かな隙間には、目の覚めるような赤の新芽のうつくしいレッドロビン、そしてヒイラギモクセイが植えられていて、ユーリイはそのつやつやした葉の間から外をじっと見つめているのだった。 生垣の向こうには墓地がある。これは教会の持つ二つ目の──古いほうの──墓地であって、礼拝堂の西側にある墓地よりもかなりこぢんまりとしている。身寄りのないもののための古い共同墓地なので、今はもう墓参りに来るものはほとんどない。墓地のこちら側には年代物のセイヨウイチイが植わっていて、昼でもどこかうす暗く、鬱蒼とした雰囲気があった。
何をそんなに見つめているのかとある日とうとうアルセンが訪ねると、ユーリイはほほえんで、墓地の奥にある廟を指差した。ユーリイに倣って覗き込むと、そこには薄汚れた天使像があった。アルセンがこの教会に来たときからずっとそこにある像だった。元は白く輝いていたであろうその像は多くの人の手に触られて、既に顔立ちが不明瞭になっていた。
「彼女を見ている?」
「いいえ」
ユーリイが悪戯っぽく答えた。
「彼女と話しているんだ」
「像は喋らない」
「喋るよ」
アルセンが困惑の表情を浮かべるのを見て、近頃とみに大人びてきた子どもは笑い声を上げた。司祭は眉を顰めてユーリイのほうを向いた。
「彼女は笑ったり、悲しんだり、怒ったりする。アルセン、あなたと同じように……よく耳を傾けて」
「ユーリイ……」
「神父さま、ぼくは、きっと彼女に恋をしている」
ユーリイはもう一度おかしそうに声を上げて笑うと、小屋のほうへ走り去った。取り残されたかっこうのアルセンは、怪訝な気持ちでもう一度垣根の向こうを覗いた。暗がりの中の天使はほほえみかけているようにも、項垂れているようにも見えた。司祭はもう一度顔を顰めた。
天使はユーリイに似ていた。
ときどき、ユーリイはイベリスの花を指に挟んでいることがあった。それで、アルセンは次第に彼が誰かと──この教会の外の誰かと──ひそかに交流を持っていることに気がつきはじめた。というのも、裏庭にも礼拝堂の花壇にも、イベリスの花はないからだ。アルセンの心はひどく揺さぶられた。同じころ、ヒイラギモクセイの生垣に小さな隙間ができていることにもアルセンは気がついた。それは、女子どもの細い腕がやっと通るほどの大きさだった。アルセンが無理に腕を突っ込もうとしたなら、ヒイラギの葉の棘が彼の肌を引っ掻き傷だらけにするだろうと思われた。
子どもだろう。
アルセンはそうあたりを付けた。興味本位で墓地に入り込んだ子ども。きっと、彼女──彼かもしれない──は〈異形〉に関しての知識をなんら持たないのだ。その予測はアルセンを幾らか安心させはしたが、彼の気分はおおむね穏やかではなかった。彼は厳しく問いつめようと何度も考えたが、ユーリイの顔を見ると、どうしても切り出すことができないのだった。人としての当たり前の喜びをもとめる心を、どうして私が止めることができるだろう? この後ろめたさがユーリイの健やかな笑顔を曇らせることを司祭に躊躇わせた。子どもの心の機微に敢えて鈍感になれるほどに、アルセンは成熟してはいなかった。この若さが、彼をいっそう苦しめた。
ユーリイにいつも通り血を与えた夜のことだった。アルセンは傷の痛みと猛烈な不安感で寝つけず、ユーリイが眠りに就いたのを見計らって、そっとベッドを抜け出した。扉を押し開けると、月明かりとしめりけを帯びた夜気とがアルセンを包んだ。ここのところ、毎回ひどく身体が冷える。失血のために覚束ない足取りで、アルセンは再び礼拝堂へと舞い戻った。
礼拝堂は水を打ったように静まりかえっていた。それはアルセンを拒むようなひややかな静寂であり、重く密度のあるしずけさであった。
内陣へと足を踏み入れ、祭壇に手を乗せようとして、アルセンは思わず腕を押さえ呻き声を漏らした。小さな呻き声はかすかな反響をのこし、静寂の中に吸い込まれた。寝衣の袖をめくりあげると、包帯には既に血が滲んでいた。肘の内側はよく血が流れるうえに、服に隠れるので、都合がいい。アルセンは袖を元に戻し、薔薇窓と聖像とに向かい合った。そうして、祈りのためにこうべを垂れた。
これまで、迷いに心を乱されたときはいつもそうしてきた。司祭に平穏をもたらすのは、いつのときも祈りであった。しかし、今夜は祈るほどにアルセンの心は鈍色に逆巻き、
「私は過ちを犯しているのでしょうか」
無意識であったので声に出していたことにも気付かなかった司祭であったが、そこに突然答える声があった。
「あなたの神さまは答えてくれる?」
アルセンはびくりとして、弾かれるように声の方に視線を投げた。
戸口のところにユーリイが佇んでいた。
いつ入ってきたのかも分からなかった。あの扉はひどく軋むのに。
ユーリイはほほえんでいなかった。すべての感情が削ぎ落とされた、彫像のような表情をしていた。アルセンの心を一瞬にしてどうにもならない恐怖が塗り潰した。
そのとき、ユーリイがひそやかな声で囁いた。
「怖がらないで」
その声が人間らしい痛みと苦しみに満ちていたので、アルセンははっと自分を取り戻した。アルセンが後ずさろうとしていた右足を元の位置に戻したのを見て、ユーリイは縋るように続けた。
「お願い、神父さま……アルセン」
司祭は身体のこわばりを自覚した。言葉にならないかなしみがじわじわと彼の爪先から胸までを満たし、怖れの氷塊を溶かしていった。
アルセンは戸口のほうへ歩み寄った。足がふらついたが、それは失血のためであり、最早恐怖のためではなかった。司祭はすれ違いざまに、ユーリイの右手にそっと触れた。今も大きすぎる指輪は、彼の中指に引っかかっていた。ユーリイがなにか言う前に、アルセンは礼拝堂を出ていき、その夜はもう口をきかなかった。
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