とある司祭の記憶・9
唐突に突き飛ばされ、アルセンは否応なく倒れこんだ。痛みはそれほどでなく、ユーリイの突然の行動への驚愕が勝った。自ら付けた傷から床についた手のほうへ血液がゆっくりと伝い落ち、絨毯に染み込んでいくのがわかった。司祭は緩慢に少年を見上げ、瞳で何故かと問いかけた。
ユーリイは自分でも驚いたように目を瞠り、それから紅く色づいた唇を噛み締めた。何回か息を吸い込んだり吐き出したりしたあと、彼は小さな声で絞り出すように呟いた。
「もう、やめる」
それはひと月も前から予期していた言葉だったが、アルセンは
「何を?」
「こうして血を飲むのを……」
アルセンは立ち上がらないままにかぶりを振った。
「無理だ、ユーリイ、それは無理だ」
「でも、もういやなんだ」
ユーリイは床に膝をつき、アルセンと視線を合わせた。
「いつまでこんなことが続くんだろうと、そう思うと、ぞっとするんだ。神父さま……ぼくは、普通のひとみたいに生きていきたい。パンとみことばだけで、それだけで、ぼくは生きていきたい……」
「ネリのことを忘れたのか」
アルセンは厳しく言い放ち、ユーリイはすうと顔を白くした。そこにはほとんど糾弾の響きがあった。その響きの鋭さに、言葉を発したアルセン自身が驚愕した。アルセンはうさぎの一件を──あの腥い血と内臓のにおい──思い出していたが、それだけではなかった。それだけではない、なにか煮詰まった黒インキに似た、どろりとしたぬかるみを肺腑の底の方に感じた。アルセンはそれがなにものであるかを掴みかけ、恣意的にそれを手放した。司祭は未だ血を流し続ける自身の左腕に視線を落とし、再び首を振った。
「駄目だ、ユーリイ。そんなことを考えるんじゃない」
「だけど」
アルセンはユーリイの言葉を遮り、左腕を突き出した。ユーリイは嫌悪するように顔を背けた。その様子に、アルセンは自分の血潮がつめたく沸き立つのを感じた。説明のできない衝動に後押しされ、彼は静かに短剣を手に取った。まだ血の止まらない左肘に刃を当て、ゆっくりと押しつける。初めの傷よりも上に、長い線がついた。そこに、ぷつぷつと赤い玉が浮かび上がり、新しい血の筋を作る。
ユーリイは信じられないという目でアルセンを見て、「何を」と呟いた。しかし、その視線は確かに血の流れを追っていた。その顔には恐怖の表情を浮かべながら、血液が肘から滴り落ちて絨毯の上に染みを作るのを、彼は食い入るように見ていた。アルセンにはそれが分かった。アルセンは黙ったまま、再び腕に短剣をあてがった。
「やめて」
ユーリイが呻いた。
「アルセン、やめて!」
悲痛な声で訴えるのを聞き、司祭は手を止めた。ユーリイはぽたぽたと涙を零していた。両手でズボンを握りしめる仕草が幼かった。アルセンは呪縛から解かれたように、こわばった手から力を抜き、短剣を手放した。
ユーリイはしめった声でぽつりと呟いた。
「神父さま、ぼくは約束を破った」
司祭は目を瞑り、短く問いかけた。
「どんな子だ」
「知っていた?」
「ああ、知っていた……」
琥珀の瞳からとめどなく透明な雫を零しながら、ユーリイは「素敵な子だ」と言った。
「自分の脚で力強く森を駆ける、野うさぎのような子。うつくしく、逞しく棘をはり出すアザミのような子。ぼくとは違う、燃えるような赤毛の、そばかすの浮いた頬に、きれいな緑の目をして……」
司祭は沈黙を以って続きを促した。袖にぐっしょりと染み込んだ血液が冷え、不快だった。
「彼女がぼくを連れ出そうとした。ヒイラギモクセイの、あの棘のついた葉が、彼女の腕を傷つけた。血が流れ……ぼくは目が逸らせなくなった。ぼくは……彼女の膚を引き裂いて、その中に流れるあたたかい血潮を啜ってしまいたいと……ぼくは思った」
ユーリイの声は抑えられていたが、悲鳴じみていた。
「おそろしかった!」
アルセンは手を差し伸べようとしたが、その手は取られなかった。代わりにユーリイはかぶりを振り、両手で顔を覆った。
「彼女は諦めないだろう。アルセン、ぼくはおそろしい。ぼくの中に棲むこの化物が」
「彼女と会うのをやめなさい」
アルセンは呟いた。
「もう会ってはいけない」
「できない……できない、アルセン……」
ユーリイは再び子どもっぽい仕草で首を振った。
「……ユーリイ」
「それに、このままではいずれあなたを殺してしまう」
細く嫋やかな指の間から、ぎらつくユーリイの瞳がアルセンを射抜いた。
「ぼくは大人に近づいてゆく。ぼくの渇きは強まるばかりだ。人を死にいたらしめなくては癒されないほどに──」
「大丈夫だ」
「大丈夫?」
ユーリイが繰り返し、顔を覆っていた手を放した。そして、アルセンの膝にゆっくりと触れた。骨の輪郭を確かめるようなその触れ方に、アルセンはぞっとした。ユーリイの瞳はまだ濡れていたが、もう新しい雫を零してはいなかった。
「知っているくせに、アルセン、ぼくの優しい神父さま……」
ユーリイのまなざしは今は蠱惑的な色を帯びていた。アルセンは彼から目を逸らせなくなった。ユーリイはアルセンにうつくしい顔を近づけ、睦言でも囁くように問いかけた。
「どうしてこれまで人が〈異形〉と共存できなかったのかを。何人殺した? ぼくと同じものを」
司祭の表情の変化を見て取って、すぐにユーリイの顔は苦しげに歪み、か細い声で「ごめんなさい」と絞り出した。アルセンは自分が呼吸を止めていたことに気づき、ひどく狼狽しながら乱れた息をした。ユーリイは立ち上がり、アルセンを悲しげに見下ろした。
「神父さま、本当はぼくは知っているんだ。分かっている。彼女がぼくの腕を引いたとき、ぼくには分かった。ぼくはけっしてこの外に出ていけはしないのだと」
アルセンは返事ができなかった。その夜ユーリイが口にした最後の言葉が、いつまでも痛ましく胸の中に残り続けた。
ぼくはこの箱庭の中でしか生きられないのだ、と。
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