とある司祭の記憶・7
半島の冬は短い。
緩慢に続く霧に覆われた長い秋とは一転して、紺碧の空は鋭く晴れ渡る。磨き上げられたような、拭き清められたようなその空を、色のない木枯らしが吹きわたっては硬質な音を奏でるのだった。
雪は少し降る。街の石畳や教会の花壇をうっすらと覆う。控えめに花をつけたかわいらしいカランコエやシクラメンの上にも、そっと刷毛で乗せたように雪が彩りを添える。教会は忙しい時期であるので、時折窓の外から見る冬の花々がアルセンの心を楽しませた。
ユーリイが〈丘の上の教会〉へと身を寄せてから、二回目の冬が訪れようとしていた。その日、白い息を吐き出しながら裏庭に座り込んでいた彼は、アジュガの葉を一枚むしりとって、それを眺めていた。くすんでくしゃくしゃになった銅色のアジュガの茂みは、すっかり枯れて死んでしまったようにも見えた。しかし、そうではないことをアルセンもユーリイも知っている。
「ぼくは他の子とは違う?」
立ち上がったユーリイがそう訊ねた瞬間、アルセンは背骨に氷の針を突き立てられたような感覚を味わった。それは決定的な一言だった。ついに、という思いだった。
このごろは、ユーリイはかつて母親に与えられたぼろぼろの聖書ではなく、アルセンの与えた旧い聖書のほうに傾倒するようになっていた。彼は、確かに年齢に比してあどけない顔立ちに見える。しかし、十三ともなれば何も知らぬままではいられまい。アルセンは無意識的に目を背けつづけていたが、よく気をつけてこの子どもを見てみれば、言葉や仕草の端々に確かにその成長のしるしが現れているのだった。
「神父さま、ぼくはどうして血を飲むの。血を飲まなくてはならないの」
ユーリイ……羊の群れの中の山羊の子。アルセンは心の中でそう呟き、慎重にこう告げた。
「おまえは、おまえの思っている通り、確かに普通の人の子ではないよ」
ユーリイはそれを聞き、アルセンがそう答えるのを既に分かっていたように頷いた。しかし、そのあとの言葉は喉に引っかかるようで、なかなか出てこなかった。彼の口を閉ざし、彼に発言を躊躇わせるそれは、明らかに恐怖の感情だった。ユーリイは何度か息をしたあと、おそるおそる囁いた。
「ぼくが他の人と違っていても……それでも、神さまはぼくを救ってくださる?」
ユーリイの声はひそやかだったが、彼が大いなる勇気をもってこの質問を投げかけたのは明らかだった。もしかすると、この一年彼はずっとこの問いかけを抱えていたのかもしれなかった。自分が街に出て行くことを許されていない理由、かつて母親によって朽ちた教会に置き去りにされた理由、月に一度司祭の血を啜らなくてはならない理由……。一瞬間空気がしめりけを帯びて停滞したかのように思われたが、アルセンはこの沈黙を嫌った。彼は言葉を選びながら、ゆっくりと言い聞かせた。
「おまえは普通ではない。しかし、ユーリイ、神は誰もお見捨てになったりはしない……」
「ぼくの罪は赦される?」
急いたようなユーリイの言葉をアルセンは窘めて、
「聞きなさい。主はおまえの罪をもきっと贖われるだろう。神は……きっとおまえを赦し、お救いになるだろう」
司祭はそこで一旦言葉を切り、「放蕩息子のたとえ話を知っているかい」と訊ねた。ユーリイは小さく肯いたが、アルセンはもう一度話してあげようと言って、半ば有無を言わせずに話を始めた。
「ある人に二人の息子がいた。弟の方は、彼の父がまだ生きているうちに財産の分け前を要求した。そして、父は要求通りに与えた。彼はそれを全部金に換えて遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、あっという間に分け前を使い果たしてしまった。そんなときに大飢饉が起きて、彼は豚の世話の仕事をして生計を立てる。豚の餌さえも食べたいと思うくらいに、彼は飢えに苦しんだが、誰も助けてくれるものはいなかった……」
「そこで我に返って……」
ユーリイが口を挟んだ。
「気づくんだ。自分の帰るべきところは、父親のところだってことに」
「そうだ。父は帰ってきた息子を見て、彼に駆け寄り、首を抱いて喜ぶ。息子は心から悔い改めて、自分を召使いにしてくれるように頼むんだ。しかし、父親は息子の行いを赦し、彼にいい服を着せ、指輪をはめてやり、羊を屠って祝宴を開く。兄はそれを妬んで父親に不満をぶつけるが、父はこう言う。『子よ、おまえはいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』……」
若き司祭はこの〈異形〉の子の頭を撫ぜ、祈るように呟いた。少年の金糸のような前髪がさらさらと彼自身の瞼を掠め、彼は眩しそうに目を細めた。
「神はすべてのものを息子のように平等に愛してくださる。神は差別される者を受け入れ、神に逆らった罪人をも迎え入れてくださる。ユーリイ、おまえは生まれながらにして罪深い存在だ……しかし、それは私たちも同様だ。こんなにも深い神の愛が、おまえを受け入れてくださらないはずがない。私はそう信じている」
ユーリイは冬の陽光を透かす金の睫毛を伏せ、頷いた。アルセンは人差し指にはめていた聖職者の指輪を外した。装飾のないその指輪を、子どもの白い手のひらの上に乗せてやる。戸惑ったように、ユーリイが司祭を見上げた。
「このたとえ話で父が息子に与えた指輪──かつて、指輪は息子であるということの証明だった。私は神に仕える存在であるから、おまえを私の息子にすることはできない。だから、これは、おまえが神の息子であるというしるしだ。これをおまえに預けておこう。なくさずに持っていなさい。忘れないように……」
アルセンはユーリイの手を上から包み込むように握らせた。子どもの柔らかい手は冬の外気に晒され、すっかり冷えきっていた。
「信じなさい。祈りなさい。神はきっと見ておられる」
ユーリイは暫くの間黙って立ち尽くしていた。そのあとでもう一度頷き、簡単に十字を切ってみせた。手を握りしめたまま礼拝堂へと小走りに向かうその後ろ姿を、しかしアルセンは直視することができなかった。
──では、なんなのだ。
ひややかな声がアルセンに問いかけた。
私はなんなのだ。神に代わり──神に代わったつもりで──〈異形〉を裁く私は。私たちは。神がこれをお赦しになるのであれば、もしも本当にこれが……救われるべき存在なのだとしたら。
その矛盾を見つめてしまってはいけない気がした。アルセンは突然に吹き抜けた一陣の風に首を竦め、ユーリイの後を追って、礼拝堂へと続く扉を押し開けた。軋む扉の音を聞きながら、アルセンは先程自分が説いたばかりの「放蕩息子のたとえ話」のことを思い出していた。そして、ユーリイが本当に罪人であったらよかったと、そんな益体のないことを考えた。
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