とある司祭の記憶・3
アルセンの思いとは裏腹に、ユーリイは無邪気だった。町の子どもたちとの交わりが禁じられた彼には友だちができない。そのために、彼はうさぎのネリを殊更にかわいがった。やさしく話しかけ、熱心に水を取り換えてやるその姿を見るにつけ、アルセンは次第に心を落ち着かせていった。
たかが血液だ、とアルセンは自らに言い聞かせた。要するに、彼が生きていくのに血液が必要というだけだ。アザミの花の間をひらひらと
この考えは彼自身の精神に平穏を与えることに大きく貢献した。
そのうちに、夏が来た。
目の眩むような季節。〈霧の半島〉の夏はひどく蒸す。膚を貫き、臓腑まで焦がそうというような夏の陽。昼には日盛りのまぶしい光が地上に挑みかかり、土に濃い影を落とす。丘から臨む家々が乾いた銀灰色に灼ける一方で、教会の裏庭の夏草はいっそう盛んに生い茂り、むせ返るような草いきれを発した。ふたりの小屋はうだるような暑さだったが、時折涼しげな風が吹き込んでは、やすらぎを齎すのだった。
この年は格別に暑く、ふたりを悩ませた。このためにアルセンは例年のこの時期よりも起床の時刻を早め、まだ気温の上がりきらない日の出前に朝の仕事を済ませることとした。彼が礼拝堂の中を掃き清めたり花瓶の水を取り替える間、ユーリイはネリに食べものをやったり花壇に水を撒いたり、洗濯をしたりしていた。この頃にはユーリイにもできることが随分増えて、自分の分の洗いものくらいはできるようになっていた。
その日の夜明け、いつも通り硬い寝台の上で目を覚ましたアルセンは、ユーリイの寝台がもぬけの殻になっていることに気づいた。アルセンは顔を洗い、目を擦りながら外へ出た。裏庭にもユーリイの姿は見当たらなかったが、すでにうさぎ小屋の水は取り替えられていた。裏口から教会堂へと入り、ほとんど通路のようになった
ユーリイは礼拝堂か花壇のほうにいるのだろう。アルセンは考える。日が昇り、町が目覚めはじめれば、祭儀に参加するために大勢信徒がやってくる。あまり遅くならないうちに、呼び出さなくては。アルセンは知れずほほえみを浮かべた。このところ、ユーリイはよく笑う。その愛らしい頬のまろやかさと、ほのかに色づいた口元のあどけなさを、神父は思い出していた。
アルセンが木箱からメダイのついたロザリオを取り出したところで、ふとアルセンの耳が微かな声を捉えた。礼拝堂のほうから、声は切れぎれに響いてくる。アルセンはロザリオを親指に引っ掛け、礼拝堂へと続く重い扉をそっと押し開けた。
扉の開いた瞬間、アルセンは思わずその場に立ち尽くした。うつくしく澄みきった歌声が、三月のせせらぎのように彼の膚を通り抜けてゆき、その中身を雪ぎきよめた。
果たして、ユーリイはそこにいた。小柄な体が祭壇の前に佇んでいたが、彼は此方に気付かぬようだった。彼は歌っていた。
聴いていたのか。信徒の歌う祭儀の歌を。あの小屋で、裏庭で、香部屋で。
彼をこの教会に連れてきてから、讃美歌を教えたことは一度としてなかった。それは、どこか後ろ昏い思いがあったからだ。アルセンは、きっとずっと恥じていた。彼を匿ったことを。きっと疚しさを覚えていた。
この子どもは生まれながらに主に背く存在なのだと。
彼の唇が新しい旋律を口ずさむのを聴いて、一瞬アルセンは自分でも思いがけない、相反するふたつの感情に支配された。〈異形〉の子の唇を震わせる神への讃美。耳を塞いでしまいたいという思いと、その眩いまでのうつくしさの前にただ平伏してしまいたいという思い。しかし、アルセンの身体はどちらにも動かず、痺れたように動かなかった。
こわばった指から重たい扉が滑り、大きな音を立てて閉まった。ピタリと旋律が止まり、ユーリイが弾かれたように此方を見た。尋常ならざるアルセンの様子に、ユーリイの瞳の上を不安の影が掠めた。
「神父さま……」
うつくしい子どもは両手を体の前に持っていき、指先をもぞもぞと弄った。茫然と立ち尽くしていたアルセンは、それで我に返った。
アルセンはぎこちない足取りでユーリイのところまで歩いていき、彼に視線を合わせた。
「聴いていたのか」
信者たちの歌を、という問いかけに、ユーリイは黙って頷いた。絹のような髪が揺れ、子どもらしい丸みを帯びた頬にさらさらと零れかかった。続けて、アルセンは「歌を歌うのは好きかい」と尋ねた。彼は再び首肯した。
アルセンは彼の手を引き、普段祭儀で使うオルガンのほうへと連れていった。自分はその前に座り、ユーリイを脇に立たせる。楽譜を広げると、ユーリイは興味深そうに目を丸くし、それを覗き込んだ。
「楽譜だよ」
アルセンは教えてやった。
「ユーリイ、おまえの声はうつくしい。とてもね。おまえにもっとたくさんの歌を教えてあげよう」
「そうしたら……」
ユーリイがぱっと顔を輝かせ、小さな声で言いかけた。アルセンは首を傾げ、その続きを促した。
「神さまは、お喜びになる?」
楽譜の頁を捲ろうとしていたアルセンの指が止まった。一拍おいて、彼はほほえむことに成功した。
「きっと」
週に一度教えてやると、ユーリイの歌はどんどん上達した。信徒たちに聴かせることができないのが、心底惜しいと思うほどに。ユーリイのうつくしい讃美の声を聴くたびに、朝の無垢な光に照らされる清らな横顔を見つめるたびに、アルセンの中には答えのない問いかけが降り積もっていった。
どうして、このように完成された存在が、神に背くはずがあろうか。この子どもの、一点の曇りもない純真さこそが、まさに神の思し召しではないか。
ときに、アルセンは全てが自分自身の勘違いなのではないかと思うことがあった。しかしそれが自らの都合のいい願望にすぎないということは、月に一度指先に現れてはじくじくと痛む小さな傷が、何度でも彼に思い出させた。
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