とある司祭の記憶・5
霧雨が降っている。
アルセンは小屋の窓を閉め、外へ出ると、足早に裏庭を通り過ぎた。
夏の間にすっかり枯れ上がってしまったラムズイヤーの茂みのところは、暫くの間ぽっかりと空いていたが、アルセンはそこにアジュガと斑入りのグレコマを植えた。今は銅葉が暗い光沢を放つアジュガだが、春になればきっと青むらさきの美しい花を咲かせてくれるだろう。
アルセンが香部屋に入ると、子どもが足をぶらつかせながら木の椅子に腰掛けて、何かを熱心に見つめていた。古いパティニールの画集だった。
それを目にするや否や、アルセンは胸をつくような懐かしさに襲われた。それはかつて彼が神学校に在籍していたころ、上級生から譲り受けたものであったからだ。司祭は子どもに近づき、彼の横に立ってその開かれた頁を見た。
アルセンの存在にも気がつかないほどに彼が集中して見入っていたのは、燃え盛る炎に包まれる街の絵であった。老いた男と若い二人の女が羽根の生えた天使に手を引かれ、遠く離れたこちら側へと逃げ出そうとしていた。
「それは、ソドムとゴモラの絵だ」
そう静かに教えてやると、少年は振り向いた。
「ソドムと……」
「ゴモラ」
アルセンは別の椅子を引き寄せて、ユーリイの隣に座った。少年は再び絵の上に視線をうつした。そして、「おそろしい絵」と呟いた。
「これはかつて神が滅ぼした罪深い街だ。天の火によって……」
「天の火?」
「天からの硫黄と火が、このソドムとゴモラ、二つの街を灼きつくしたと言われている」
ユーリイは少しの間逡巡し、それからおそろしげに問いかけた。
「ソドムとゴモラはどんな罪を犯したの」
「色欲、傲慢、強欲……」アルセンは途中で挙げるのをやめ、「聖書に書いてある」
「書いていなかった」
ユーリイが自分のぼろぼろの聖書を取り出した。劣化した革の表紙はとっくに剥がれてしまっていたが、ユーリイはそれでもそれを大切に持っていた。
「それよりも旧い聖書だ」
アルセンは椅子を軋ませながら立ち上がると、棚の一番下の段に入った分厚い古書を引き出し、それを机の上に載せた。埃が舞い上がり、ほの暗い香部屋の中にちらちらと光った。アルセンは日に焼けた小口に指をかけると、乾いた音を立ててソドムとゴモラの頁を開いた。ユーリイが机に手をつき、覗き込んだ。ユーリイは尋ねた。
「違う神さまなの?」
「どうしてそう思う?」
「厳しく見えるから」
彼は透き通る睫毛を跳ねあげ、その蜜色の双眸でアルセンを見つめた。
「神さまは、なにもかもをお救いになるのではないの。なんびとをも殺すことを禁じているのではないの。ぼくの知っている神さまは、どんな理由があってもこうして街を焼き払ってみんなを殺したりしない。神父さま……その神さまとあなたの神さまは、同じ神さまじゃあないんでしょう。それは別の聖書だ」
旧い聖書と現在の聖書との繋がりと歴史的な経緯をこの子どもに理解させるのは、まだ困難なことのように思われた。信徒の中にも、ユーリイのように「それは別の聖書だ」と主張するものは多くいた。司祭の中でさえも、この旧い聖書については意見が対立することがあった。
「街に火を降らせる神さまのことを書いてある聖書なら、ぼくはそっちの聖書は好きじゃない。アルセンは……神父さまはそうじゃないの」
ユーリイがそう言うのを聞いて、アルセンはしばらく考え込んだ。それから「これは私ひとりの考えだから、聞いたら忘れてしまってもいい」と前置きし、彼は言葉を選びながら喋りはじめた。
「ユーリイ、私が思うのには……おまえが知っている今の聖書が赦しの物語だとすれば、この旧い聖書は罪の物語なんだ」
ユーリイは首を傾げた。アルセンは古びた頁のインクの上に目を落とした。
「確かに、この旧い聖書の神は、今私たちの知っている神とは全く別のもののように思える。厳格で、容赦がなく、おそろしい。洪水を起こし、病を流行らせ、天から火を降らせる……」
「それは……」
「それは、私たちが何度でも過ちを繰り返すからだ。この物語の中で、私たちは何度でも欲に溺れ、善なるものを敬うことを忘れ、享楽に耽る。ユーリイ、旧い聖書を読むものは、みな神の裁きのおそろしさにばかり目を向ける。しかし、おそらく、私たちがこの聖書から学ぶべきことは……」
アルセンはここで言葉を切り、乾いた唇を湿らせた。自分の口にしていることは、教会の解釈でない。アルセンは自分自身の言葉が司祭として逸脱しつつあることに気づいた。この旧い聖書に関するアルセン自身の解釈を誰かに率直に語ったのは初めてのことだった。
「私たちが生まれながらにして、本質的に罪深い存在だということだ。私たちの罪は、自分自身で贖うにはあまりに大きすぎる」
「それなら、ぼくたちはどうしたらいいの」
「自分では贖えない。だが、赦す。私たちの主が赦す」
アルセンは続けた。
「神は私たちと契約を交わされ、そして、主は神の子として──神の意思そのものとしてお生まれになった。沈められ焼き払われた、罪深い私たちをお救いになるために。私たちは主によって救われ、赦される。そしてこれこそが……この聖書こそが、その契約の証そのものなんだ。ユーリイ、私はこれが嫌いではないよ。私たちに罪を思い出させ、約束を思い出させる……」
アルセンはそう結んだが、ユーリイは分かったような分からないような、なんともいえない表情をしていた。そこで、アルセンは簡単にこう言った。
「私たちは赦される。しかし罪を忘れてはいけない」
子どもは首肯いた。そこで、司祭は腰をあげ、聖書を閉じた。そしてそれを元通り仕舞おうとしたが、子どもが突然彼の袖をひいた。
「なんだい」
「神父さま、ぼく、それを読みたい」
「しかし、ユーリイ……きっとまだおまえには難しいだろう」
アルセンはそう言ったが、ユーリイは彼の袖を離さないままだったので、結局この旧い聖書を与えることにした。重い聖書を抱き締めて──濡らさないように──裏口から出て行った子どもの姿を、アルセンは一種特別な思いで見つめた。
机の上には、画集が開かれたまま置き去りにされていた。それを片付けてしまう前に、アルセンはふと、その絵をもう一度よく眺めてみた。その絵の中には、神の言いつけに背き塩の柱に変えられたはずのロトの妻の姿がないことに、彼は初めて気づいたのだった。
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