鎌倉の何処かには

穂実田 凪

鎌倉の何処かには

 気絶をしたのは初めての経験だった。

 気を失うときというのは、漫画や小説のように綺麗にぱたりと倒れるわけではない。そのことを身を以て学ぶ羽目になった。勢いよく後ろに倒れ、頭を床にぶつけたらしい。幸い脳に異常は無いようだが、ズキズキと二日酔いのように痛む。


 過労だった。


 これまでの仕事振りを評価され、会社の中枢部署に異動した。そこまでは良かった。

 責任のある仕事を任された重圧プレッシャー重荷ストレス。それに抗うための超過勤務サービス残業。つまり、根を詰め過ぎていた。

 体力には自信があるし、まだ若いから多少は無理が利く。そんな油断があったのかもしれない。半年後、自分が倒れることになるなんて、夢にも思わなかった。


 会社からはしばらく休養するように指示があった。だけど、休みをもらったところで、仕事以外にすることなんて、何も思い付かなかった。やりたいことなんて、何も無くなっていた。

 いつからだろう。趣味のお菓子作りもテレビゲームも全くしなくなったのは。あんなに好きだったのに、最後に作ったケーキも、最後にプレイしたゲームソフトも思い出せない。

 ふと、自分の周りの風景が色褪せて見えていることに気付く。世界が、薄い。

 最初は気のせいだと思った。でも、一晩経っても変わらない。まるでもやがかかったように視界がぼやける。自分の影ですら、妙に薄い。頭の中にまで靄がかかっているのか、考えも纏まらない。

 とにかく休養を取るように。医者に言われたことはそれだけだった。

 休養? 休養ってなんだよ?

 何もしないことか? 寝て過ごすことか?

 何もしたくない。何もしないことすら、したくない。

 --自分に異常が起きているのだと、ようやく自覚した。


 このままでは駄目だ。駄目になってしまう。とにかく、外に出よう。

 言い様のない危機感に駆られ、思い切ってバイクにまたがった。社会人になってローンで買った大切なバイク。こいつも最後に乗ったのはいつだったろうか。バッテリーはもちろん上がっている。だが、幸いキックスタートでエンジンをかけられるタイプだ。ヤマハの単気筒SR400。息の詰まる自分の部屋から逃げるように家を出たのは午前5時。


 大学入学のとき上京して、そのまま東京で就職をした。

 帰省以外で東京から出るのは久しぶりだ。数年前に卒業旅行で伊豆に行ったのが最後だから、久し振りの旅行になる。これを旅と呼べるのなら、だけれども。

 近くのICインターチェンジから首都高速に乗り、緑色の案内板を見るともなしに適当に進む。何度目かの岐路を過ぎ、ふと目に飛び込んだ文字が心に引っかかった。


鎌倉かまくら


 その地名はもちろん知っている。歴史の授業で何度も出てくるし、テレビの旅番組なんかでもよく見かける。でも、ただの観光地には興味が湧かなくて、これまで一度も訪れたことがない。

 けれど、今は何故だかその地名に吸い込まれるような気がした。

 確か神奈川県の海の方だ。おぼろげな記憶を辿り、関東の地図を思い浮かべる。都内からでも数時間で行けるはず。朝焼けを眺めながら、湾岸の高速道路をバイクで駆ける。


 鎌倉には二時間足らずで着いた。途中で通り抜けた駅前の大通りは車で溢れていたけれど、駅から離れると問題なく走ることができた。

 鎌倉には神社仏閣がたくさんある。そういうイメージは確かにあった。だけど、まさかここまで多いとは思わなかった。

 どこまで行っても、〇〇寺、〇〇寺、という看板がひっきりなしに流れていく。

 ふと思い立ち、その中の一つに立ち寄ることにした。その寺を選んだ理由も特に無い。強いて言えば、バイクを停めやすそうだったから。


 駐車場とおぼしきスペースの端にバイクを停める。ヘルメットを脱ぐと、冷たい風が耳を撫でた。

 そこは寺というよりのような場所だった。

 平日だからなのか、駅から離れているからなのか、思ったよりも観光客は少ない。まばらな人影を横目に、脇道に入って行く。どこかで少し座りたかった。


 土と木で造られた階段を登ると、脇にちょうどいい大きさの岩が佇んでいた。

「失礼します」

 誰に言っているのか自分でもわからないまま、腰を下ろす。


 その瞬間。


 身体が岩に溶け込む。

 そんな錯覚に襲われる。


 自分が岩の一部になったかのような。

 自分がただの出っ張りになったかのような。

 この世界にきちんと存在している。

 しっかりと足がついている。

 自分の足が大地を掴んでいる。

 自分の足で立っている。


 錯覚が実感に変わっていく。


 我に返る。恐らく数秒間しか経っていない。

 ゆっくりと腰を上げ、自分の体重を踏み締める。

 ゆっくりと掌を広げ、自分の感覚を染み渡らせる。

 広げた掌に落ちてくる一枚の紅葉もみじ

 見上げると、真っ赤な紅葉こうように囲まれていた。

 空は高く、肌に触れる風は心地良い。

 季節は、いつのまにか秋になっていた。

 秋になっていたことを、


 階段を登ると本堂と思われる場所があった。

 不思議と観光客は見当たらなかった。


 もう大丈夫です。ありがとうございます。


 心の中で御礼を述べて、急いで帰路に就くことにした。

 布団の中でゆっくりと眠りたい。そんな欲求が久し振りに戻ってきた。

 風の匂い。空の青さ。雲の高さ。バイクの重さ。ヘルメットの窮屈さ。

 色んなものを返してもらって、色んなものに囲まれながら、僕は帰った。



 会社を休んでいる間、思い切って転職活動をすることにした。

 そして無事に採用された会社での配属先は、神奈川県の支店だった。

 当時住んでいた所から通えなくはなかったが、これも縁だろうと引っ越しをした。

 引っ越し先は、もちろん鎌倉。


 そして毎週のように色んな寺や神社を巡った。だけど、あの場所はまだ見つけられていない。

 バイクを走らせてみても、どうやってあそこに辿り着いたのか思い出せない。


 そういう場所があっても不思議じゃない。

 鎌倉に住んで三年目の今では自然とそう思える。


 来月、異動のため僕は鎌倉から離れる。


 これまで、ありがとうございました。

 おかげで、ここまでやってこれました。



 鎌倉の何処かに在るあの場所に捧ぐ。

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鎌倉の何処かには 穂実田 凪 @nagi-homita

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