流れる恋(6)

 その春の日、小久保家の室・津也つやの遺体が川から上がった。

 藩主・滋虎しげとらは、知らせを受けたその場で倒れ、目覚めてからもさめざめと泣いたのだという。そして、「気分がふさぎ、体調も優れなくなってしまった」と言って、当主の座を嫡子に譲ってしまったのだ。

 彼は「妻は一人で済むならそれが良い」との至言を残し、国許の寺で髪を落として亡き妻の菩提を弔う日々を送っているのだという。

 新しく大田原藩の長となった小久保文虎あやとらは、つつがなく将軍との拝謁を済ませ、方々に認められる存在となった。



 そうして季節が巡って、また、春。



 屋敷は騒がしい。間もなく、藩主の行列が国許に向けて出立するからだ。

 その当の主は、新調されたばかりの衣をまとって、畳の上で大の字になって暴れている。

「いーきーたーくーなーいぃぃぃぃぃ!」

 その額を、美緒はぺしっと叩いた。

「これが参勤交代の制度だ、仕方ない。そうおっしゃっていたのはどなたですか?」

「僕です」

 腫れた額を押さえて、椿は転がった。

 ごろごろと床を移動してきて、頭を美緒の膝に乗せる。

「父上の気持ちが分かったよ」

 両手を美緒の腰に回して、彼は呟いた。

「そこに行けば愛しい人と会えるっていうのは、すごい楽しみだったんだなって思うし。離れるのが厭でグズグズしてたのも、すっごく分かる」

 言うだけ言って黙った彼の頭を、美緒はそろりと撫でた。

 上等の絹よりも滑らかなこの髪としばらくお別れかと、口を引き結ぶ。

 この感触は、初めて江戸に向けて旅立った時と同じだな、と思い。

「国に行ったら、弟や妹たちに会ってくださいますか?」

 言うと、椿はひょこっと顔を上げた。

「勿論」

 ふにゃりと笑う。

「今度は正々堂々、義兄上あにうえと呼ばれるんだ」

「そうですか」

 美緒も頬を緩めた。

「彼らが望むのなら、次の春に江戸に連れて帰ってきてもいい。 姉君の傍仕えにでもって誘ってみようか?」

「来てくれるかしら」

「ふふふ。どうだろうね」

 もう一度頭の後ろを撫ぜてやると、彼は少しずり上がってきた。

「家族かあ…… やっぱりいいなあ、家族」

 言って、頭を美緒の肩に乗せる。

「子どもがいれば、君も寂しくないのだろうけど」

 そっと腹を撫でてきた手に自分の手を重ねて、美緒は首を振った。

「こればかりは授かりものですから」

「うん」

 椿が目を伏せる。美緒は逆に笑んだ。

「貴方の子、どんな子が生まれるでしょうね」

「頭でっかちも剣の道一筋もお断りだね」

「そうですか? ……私は多恵様と津也様が、お二人それぞれに願いを託した気持ちが分かります」


 特に津也だ。

 相手より多くの愛を得たいと、優れた子を育てようと競ってみただけ。ただ、それは、全く必要のない争いだったわけだけど。


 その争いの果ての日から、武虎たけとらの行方はようとして知れない。

 そのまま溺れてしまったのか、はたまた。


「どんなことになってようが、まあ、もう何もないと信じたいけど」

 椿が溜息を吐いて、体を超こす。

くぬぎとはちゃんと連絡をとってね」

「はい。さくらがいますので大丈夫です。かしわも時々遊びに来てくれますし」

 頷いても、彼はまだ溜め息をついている。

「君が何かをする必要はないけど、知っておくべきことは知っていないといけないから」

「心得ています」

 それきり、二人とも黙る。

 廊下の向こうの賑わいも少し収まったようだ。

「出発かな」

「そうかもしれませんね。さあ!」

 ばしっと背を叩く。霞む目で横を向く。

「美緒」

 するりと腕が伸びてきた。もう一度、椿が体を寄せてくる。

「離れたくない」

 一度口を開いて、閉じて、捻じ曲げる。

「ならば、私を江戸に置いておく必要がなくなるよう、側室の扱いになさいますか」

「それもいや

 うう、と椿は呻いた。

「美緒は?」

 何度も瞬いて、滲む涙を誤魔化して。

「私は椿殿の唯一でありたいです」

 笑う。

 椿も笑った。

 両手で頬を包まれて、唇が触れ合う。

 静かに立ち上がり、二人手を取り合って、表へ向かった。

「じゃあ、行ってきます」

 するりと手は解けても、温もりは、覚悟はこの胸にしっかりと残っている。


 庭では、今年最後の椿の花が、真っ赤に大きく開いていた。




(了)

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椿の花のごとく死ね 秋保千代子 @chiyoko_aki

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