エピローグ
エピローグ
しとしととそぼ降る雨の中を歩き続けた僕は、年季の入った真鍮製のドアノブを回し、アンティークの家具や古書が詰まった本棚が立ち並ぶ店内へと足を踏み入れる。
「いらっしゃいませ」
澄み渡る青空の様に綺麗な、それでいて少し妖艶な香りが漂う声でもって、僕は歓迎された。ここはチ・ホアが経営する彼女の店、『Hoa's Library』。フォルモサの南天地区の骨董街に店を構えるチ・ホアは、歪みガラスが嵌め込まれた飴色に光る扉を潜って入店した僕に、レジカウンターの中から笑顔を向ける。
「あら? 霧島くん、今日は一人? 珍しいじゃない」
そう言って微笑むと、白いアオザイを着たチ・ホアは手招きし、レジカウンターへと歩み寄るように僕に促した。阿杏も宮路さんも連れずに一人で来店した僕は、彼女の誘いに従い、店の奥のカフェのカウンター席に腰を下ろす。
「よく来てくれたじゃないの、霧島くん。一人で店番をしていると暇で暇で仕方が無いから、丁度良かった。それで、学校はもう終わったのかしら? ベトナムから新しい蓮花茶を入荷したんだけれど、飲む?」
「……いただきます」
僕の返答に気を良くしたチ・ホアは、レジカウンターの奥の厨房内へと一旦姿を消すと、蓮花茶を湛えたティーポットとティーカップを持って再び姿を現した。
「それで、今日は何の用かしら? もう一週間も誰も姿を見せないから、皆どうしているのかと思って、心配していた頃なのよ?」
ニコニコと微笑みながら、僕の眼前に置かれたティーカップに甘い香りが漂う蓮花茶を注いだチ・ホア。彼女の言う通り、僕達が貧民街の地下へと下りて渾沌と戦い、その翌日に皆で雪花冰を食べてから、既に一週間が経過している。
「今日は、あなたに聞きたい事があって来ました」
「あら、何かしら? でもその前に、最近の阿杏と宮路さんの二人はどうしているのかを、教えてくれない?」
話を切り出した僕に、逆にチ・ホアは問い返した。
「……阿杏は女子サッカー部の特待生の地位を返上してからは、真面目に授業に出るようになりました。でもこれまでサボり過ぎていたせいで、正直言って、進級も危うい状態です。それと麻痺した彼女の右膝ですが、病院でのリハビリを開始して、少しだけですが感覚が戻りつつあるとも言っていました。サッカーは無理でも、もしかしたら普通に歩く事が出来る程度には回復するかもしれないと診断されて、喜んでましたよ」
「ふうん。それで、宮路さんは?」
「宮路さんとは、改めて一緒に夜市で晩飯を食べる仲になりました。今日は用事があるからと言って、僕だけがここに来たんですけどね。それで彼女、不思議がっていましたよ。これまでもなんだか誰かと一緒に夜市で晩飯を食べていたような気がするんだけれど、それが誰だったのかがどうしても思い出せないって。もしかしたら彼女も、いつか僕の事を思い出すのかもしれません。そう考えると、渾沌が求めた代償も、決して恒久的なものではないんでしょうね」
「そう? それは僥倖ね」
事も無げにそう言ってのけたチ・ホアに、僕は改めて問う。
「それでは、本題です。今回の一件、あなたは一体どこまでを熟知した上で、僕達の行動に介入していたんですか? 阿杏が父親との不和に悩んでいるのを知った上で願いを叶えてくれる妖が存在すると言う都市伝説を教え、地下に下りてからはここぞと言う瞬間に姿を現し、渾沌との交渉を買って出た。全ては貴方の目論見通りで、偶然ではないんでしょう?」
僕の問いに、チ・ホアはその顔に張り付かせた満面の笑みをより一層深めながら答える。
「霧島くん、あなた鈍感な阿杏や純朴な宮路さんとは違って、随分と勘の良い子なのね? それであたしに、事の真相を問い質しに来たと、そう言う事でしょう? でもあまり物事に深入りし過ぎるのは、感心出来ないんじゃないの? ほら、こう言うの、何て言ったかしら? 好奇心は猫をも殺す? あの諺通りに、いつかその無用な正義感と猜疑心が、あなたの命取りになるかもしれなくてよ?」
「誤魔化さないでください!」
僕は声を張り上げ、カウンターの天板を叩いた。しかしチ・ホアは動じる様子も無く、ニコニコと微笑み続けながら口を開く。
「それじゃあ霧島くん、あなたの質問に答えてあげようかしら? まず初めに結論から言わせてもらえれば、お察しの通り、全てはあたしが仕組んだ事なの。とは言っても、この街の地下に渾沌が棲み付いていた事だけは、本当に只の偶然なのよ? でもそこにあなた達三人を送り込んで、渾沌に願いを叶わせたらどんな結末を迎えるかを観察していたのは、完全にあたしの趣味。まあ結果として、阿杏と宮路さんの願いは予想の範疇だったけれど、あなたが何も願わなかったのは計算外だったのよ、霧島くん? てっきりあたしは、あなたが渾沌に、父親との不仲を解消してもらえるようにお願いするものとばかり思っていたのにね?」
そう白状してのけるチ・ホアに、悪びれた様子は無い。
「でもね、あたしも鬼じゃないから、あなた達三人を見殺しにする気は最初から無かったのよ? その証拠に阿吽の二人を紹介してあげたし、最終的には渾沌に掛け合って、ちゃんと助けてあげたでしょう?」
「よくも、そんな恩着せがましい事が言えたもんだな、この女狐が」
「おお、怖い怖い。それに、子供がそんな汚い言葉を使っちゃ駄目よ、霧島くん?」
拳を握り締め、奥歯を噛み締めて怒りと屈辱に震える僕を、チ・ホアは大袈裟に怖がってみせた。
「あなたが言う通りに全てが仕組まれた事だとしたら、どうしてあなたは、そんな事をしたんですか?」
新たな僕の問いに、チ・ホアは答える。
「そうねえ、特に深い理由は無かったんだけれど、強いて挙げるなら人間観察ってところかしら? あたしみたいに永く生きているとね、大抵の物事には動じなくなって、感情の起伏が無くなっちゃうの。熱力学的に言うと、エントロピーが増大し切った状態って言うのかしら? そうなっちゃうとね、自分とは違う他者、特に若い人間を観察する事で自分の感情を取り戻すのよ? 中でも人としての『業』にまみれた人間の行動は、最高にエキセントリックで刺激的じゃない?」
そう言ってクスクスと笑うチ・ホアの姿に、僕は怒りを通り越して、絶望を禁じ得ない。そして笑い続ける彼女に、僕は最後の問いを投げかける。
「一体、あなたは何者なんですか?」
「知りたい?」
その言葉と共にカウンターの奥から身を乗り出し、僕の眼前へと顔を寄せたチ・ホアは、左眼を覆っていた医療用の眼帯を外してみせた。そして僕は、彼女の正体の一端を目撃する。
「な……」
木の洞の様に口を開けた彼女の左眼窩の奥には、まるで得体の知れない、僕が知っているチ・ホアとは全く別の何かが蠢いていた。乱杭歯の生えた口を開けてニヤニヤと笑っているその何かは、口の中で真っ赤な瞳をらんらんと輝かせながら、僕をジッと見つめる。するとその瞳を見つめ返していた僕は、胸の奥底から魂を抜かれるような感覚に陥って、次第に気が遠くなり始めた。このままでは命そのものがチ・ホアの中の何かに吸い取られ、正気を保てない。
「はい、ここまで。これ以上見せちゃうと、あなたの気が狂っちゃうから」
そう言いながらチ・ホアが眼帯で左眼を覆い直すと、魂を抜かれるような感覚が消え去ると同時に、僕はハッと我に返った。気付けば全身に冷たい汗をかいており、背筋がゾッとして、鳥肌が立つ。
「今のは一体?」
激しい動悸に襲われながら、僕は問うた。
「渾沌が四凶の一角を占める存在なら、あたしは旧支配者の一角を占める存在なの。だから渾沌は、勝機は薄いと判断して、あたしと正面切って殺し合うのだけは避けたのよね? でも残念ながらこれ以上は教えてあげられないし、あなたも詮索しちゃ駄目よ? そうでないと、あたしがこの街で平穏無事に生きて行くためには、あなたを殺さなくちゃならないから」
不穏な言葉を吐きながら、クスクスと笑うチ・ホア。彼女の正体についてこれ以上詮索するのも、また今しがた見知った事を口外するのも、どうやら僕にとっては得策ではないらしい。もし詮索や口外を選択すれば、おそらくチ・ホアは、本気で僕を殺す気だ。そう考えると僕の背筋には、大量の冷水を浴びせかけられたかのように、再びゾッと怖気が走る。
「……帰ります」
「あら、もう帰っちゃうの? もうちょっとゆっくりして行ったら? 蓮花茶のお代わりもあるし、お茶菓子も出そうかと思っていたところなのよ?」
おそらくは本気で引き止める気も無いチ・ホアの言葉を意に介さず、僕は自分の鞄を背負うと席を立ち、そのまま飴色に光る扉を潜って彼女の店を後にした。そして扉と同じく飴色に光る手摺を撫でながら急傾斜の階段を下り、雑居ビルの一階に辿り着くと、骨董街の裏通りにその身を晒す。
「これがフォルモサか……」
僕は呟き、ビルの隙間から覗く曇天の空を見上げた。今日も常雨都市フォルモサに、雨は降り続ける。
了
フォルモサに雨は降る 大竹久和 @hisakaz
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