第四幕


 第四幕



 枕元に置いたスマートフォンから聞こえて来る起床のアラーム音に、僕は自室のベッドの上で緩やかに覚醒した。そして未だ眠い眼を擦りながらベッドから這い出ると、背筋を伸ばして大きなあくびを漏らす。阿杏と廃アパートで一夜を共にしたのが土曜日で、明けて日曜日の朝には僕達は警察によって保護された。そのまま丸一日間は父さんによって自宅謹慎を言い渡され、やがて訪れた今日はもう月曜日なので、早く登校しなければならない。

 自室を出た僕は、寝間着姿のままキッチンへと向かう。そしてコーヒーメーカーから自分のマグカップに注いだコーヒーに砂糖と牛乳を投入し、テーブルの上に置かれた買い置きの菓子パンの中からカレーパンを選択すると、それらを持ってリビングのソファに腰を下ろした。

 テレビを点け、ニュースと天気予報を確認しながらコーヒーとカレーパンの簡単な朝食を賞味する。当然だが、今日もフォルモサの天気は終日100%の確率で雨模様だ。そして朝食を終えた僕は洗面所で顔を洗ってから歯を磨き、寝癖だらけの頭髪を整えると、自室へと引き返した。

 着替えを終えて鞄を携え、スマートフォンと財布をポケットに突っ込み、忘れ物が無いか最終確認を終える。仕事部屋の父さんは未だ寝付いたばかりの筈なので、うっかり起こしてしまわないように静かに廊下を歩くと、玄関で靴を履いてドアを開けた僕は戸外へと足を踏み出した。戸外の空気は未だ冷たかったが、日一日と暖かくなる風に、春の気配を感じる。

「行ってきます」

 誰に言うでもなく小声で呟いた僕はドアに鍵を掛け、エレベーターで団地の一階へと下り、住宅街の街路を歩き始めた。そしてそのまま五分ほども歩くと、やがて毎夜夜市が催される通りへと達する。しかし勿論、今は朝なので露店の多くは営業しておらず、行き交う人も少ない。それでも数少なく開いている露店では小さな行列が出来、出勤前の朝食として粥や麺を求める客で賑わっていた。おかずの豊富なフォルモサの粥はやけに美味そうで、毎朝ここを通って粥を啜る客の姿を目撃する度に、ゴクリと唾を飲み込まざるを得ない。

 そうこうしている内に夜市の通りを抜けると、街の中心を縦断する広い国道が眼の前に姿を現す。僕の通う国立南天大学付属高等学校に至るには、後はこの国道沿いを南下するだけだ。

 僕と同じ国立南天大学付属高等学校に通う生徒や、更に南にそびえ立つ国立南天大学に通う学生達に混じって国道沿いの歩道を歩き始めると同時に、背後からドコドコドコと特徴的なエンジン音が聞こえて来た。そして夜市の入り口で立ち止まった僕のすぐ隣に、良く見知った女子生徒を乗せた一台のミニバイクがゆっくりと近付いて来るとブレーキを掛け、静かに停車する。

「おはよう、霧島くん」

「おはよう、宮路さん」

 ハーフヘルメットを被ってミニバイクに跨ったままの宮路さんと、僕は挨拶を交わした。黒縁眼鏡の奥の眼を細めながら、今日も彼女は子犬の様な笑顔を浮かべる。

「昨日電話でも謝ったけれど、一昨日の夜は、本当にごめん。僕の自分勝手な都合に宮路さんまで巻き込んじゃって、本当に申し訳無い事をしたと思っているから、この通り許してほしい」

 僕はそう言いながら頭を下げ、手を合わせて宮路さんに謝罪した。すると彼女は、拝むような体勢で合わせられた僕の手を制しながら言う。

「いいって、そんなに謝らなくても。それにしても、本当にビックリしたんだからね? だって夜中にテレビを観ていたら、急に警察から電話が掛かって来るんだもん。しかもそれで、霧島くんが夜市に出かけたまま行方不明だって言うでしょ? てっきり怖い人達に絡まれてどこかに連れて行かれたんじゃないかと思って、心配しちゃった」

「まあ、その結末だけは避けられたけどね」

「でも結局、あたしが警察に阿杏の事を伝えたのは正解だったのか失敗だったのか、良く分かんないよね。警察は虐待の件に関しては取り合ってくれなかったし、警察署に呼ばれた事で、阿杏は彼女の父親から殴られちゃったんでしょ? あたしが余計な事をしちゃったのかと思うと、なんか、責任を感じちゃうな」

「そんな、宮路さんは悪くないよ。警察に捜索願が出されるような迂闊な行動を取った僕が悪いんだ」

 僕も宮路さんも、警察署で父親から殴り飛ばされた阿杏の身を案じていた。しかし残念ながら僕達は、彼女の携帯電話の電話番号もメールアドレスも知らない。いやそもそも、暴力を振るうような父親から携帯電話を与えられていない可能性の方が、与えられている可能性よりも高いだろう。未だ子供でしかない僕達に出来る事は少ないが、とにかく今は彼女に会って、今後の解決策を探り合いたい。

「阿杏?」

 考えあぐねる僕の眼前で、不意に宮路さんが阿杏の名を口にした。彼女は爪先立ちで背伸びをしながら、僕の肩越しに夜市の方角を凝視している。

「?」

 僕もまた振り返って宮路さんの視線の先を追うと、百mばかり向こうに、夜市の通りを横切る阿杏の姿が確認出来た。勿論一瞬チラリと垣間見えただけだが、あのサッカークラブのジャージとショートカットの組み合わせは間違い無い。

「霧島くんにも見えた? 今の、阿杏だよね? こんな時間に学校とは逆の方角に向かって歩いていたけど、どこに行く気なんだろう?」

「……追ってみる」

「ちょっと待って、あたしも一緒に行くから」

 ビルの狭間に消えた阿杏を追って、僕達は歩き始めた。今から寄り道をしていては学校に遅刻する事は避けられないが、きっと担任の周教諭も理解してくれるに違い無い。

「確か、この路地に入って行った筈だけど……」

 阿杏が姿を消した路地を、僕と宮路さんは足早に駆け抜けた。すると路地を抜けた先で、夜市とは並行して走る裏通りを歩く阿杏の姿が眼に留まる。そして彼女は僕達に気付かないまま、裏通りの一角に建つビルの階段を上って行った。

「この通りは?」

「ここは、骨董街。フォルモサの伝統的な骨董品とか民芸品を扱うお店が集中している場所で、夜市の露店よりも上等な高級品が買える場所なの。観光客向けのお店よりも、地元の富裕層向けのお店が多い通りかな」

 初めて足を踏み入れた通りの詳細を教えてくれた宮路さんと共に、僕はそのビルの前に立つ。小奇麗で堅牢な造りだが、やや古風な意匠による装飾が施された雑居ビル。それは随分と築年数が経過していそうで、もしかしたら戦前からの物件なのかもしれない。

「何階かな?」

 雑居ビルの前に停めたミニバイクを三つのチェーンロックで施錠した宮路さんが、阿杏が上って行った階段を見上げながら尋ねた。雑居ビルの入り口に掲げられた看板と郵便受けを確認した僕が答える。

「テナントは、一階と二階にしか入っていないみたいだ。とりあえず、二階の店を覗いてみよう」

 狭くて暗くて傾斜が急な、いかにも古風な造りの階段。その階段をゆっくりと上り、僕達は雑居ビルの二階に入居する店舗の前に辿り着いた。階段の手摺は木製で、何十年もの永きに渡って人の手により触れられて来たせいか、鈍い飴色に光っている。そして手摺と同様に店舗の入り口である木製のドアもまた、飴色に光っていた。

 レトロな歪みガラスが嵌め込まれたドアに掲げられた店名は、『Hoa's Library』。その歪みガラス越しに店内をうかがえば、大きな本棚が幾重にも並び、一見したところでは本屋か古本屋かと思われる。そしてノブに手を掛けて回すと、ドアは施錠されておらずに、簡単に開いた。そこで僕と宮路さんは、恐る恐る店内へと足を踏み入れる。

「いらっしゃいませ」

 澄み渡る青空の様に綺麗な、それでいて少し妖艶な香りが漂う声でもって、僕達は歓迎された。首を巡らせて声の主を探せば、店の奥のレジカウンターの前にアオザイを着た一人の女性が立っており、入店して来た僕と宮路さんを見つめながらニコニコと微笑んでいる。

「あ……どうも」

「どうぞ、こちらへいらっしゃい」

 やや狼狽しながらかしこまる僕達に向かって、アオザイ姿の女性はレジカウンターへと歩み寄るように手招きでもって促した。言われるがままに店の奥へと足を向ければ、そこには数脚の椅子とテーブルが並べられており、どうやらこの店はアンティークな古物店と小さなカフェを掛け持ちで経営しているらしい。そしてそのカフェの一角であるテーブル席には、この雑居ビルの中へと姿を消した阿杏が腰を下ろしていた。彼女の頬には大きな絆創膏が張られ、警察署で父親に殴られた際の傷を隠しているのだろう。

「やあ、阿杏」

「どうしたの尊くん、こんな時間にこんな場所に現れるなんて? それも、美恵まで一緒に」

 驚く阿杏に、僕と宮路さんは苦笑いを浮かべながら手を振った。決して気付かれないように尾行していた訳では無いのだが、なんだかひどく気不味い。

「二人とも、学校はどうしたの?」

「いや、その、まあ遅刻と言うか、サボりと言うか。そこの夜市の入り口で阿杏を見かけたんでどこに行くのかと思ったら、このビルに入って行ったからさ。追って来ちゃった」

「右に同じく」

 阿杏の問いに、僕と宮路さんは答えた。すると彼女は、呆れたかのように天を仰ぎながら嘆息する。

「あたしを追って来て、それで二人して学校をサボるつもりなんだ? 悪い高校生だね」

「そんな事を言ったら、阿杏だってサボりじゃないの」

「あたしは放課後の部活にさえ出ていれば何も言われないけれど、キミ達はそうも行かないでしょ?」

 阿杏の嫌味に宮路さんが抗言するが、正論でもって返されてしまい、ぐうの音も出ない。するとレジカウンターから出て来たアオザイ姿の女性が、僕と宮路さんにもテーブル席に腰を下ろすように促す。

「お二人とも、いつまでもそんな所に立っていないで、お座りなさい? 今、お茶を煎れてあげますからね?」

 それは、不思議な雰囲気の女性だった。背が高く、やけに華奢で線が細いが、血色が良いせいか病弱や不健康と言った印象は無い。漆黒の様な黒髪は長く艶やかで、その身を包んでいるベトナムの民族衣装であるアオザイの白色とは鮮やかな対比を成す。また端正で清楚ないかにもアジア人らしい美人でもあったが、何故か左眼には医療用の眼帯を当てており、外見からだけでは実年齢が知れなかった。それでも無理に年齢を推測すれば、二十代後半から三十代前半と考えるのが妥当だろう。

「あ、どうも」

 僕と宮路さんはそのアオザイ姿の女性に会釈をしながら、阿杏と同じテーブル席に腰を下ろした。店の中央に置かれたベトナム様式の香炉ではお香が焚かれ、店内には白檀の香りが仄かに漂っている。

「このお店は?」

 僕は、阿杏に尋ねた。すると彼女は店をぐるりと見渡しながら答える。

「ここは、『Hoa's Library』。チ・ホアが経営する、古い本や家具なんかの雑貨を扱うお店なの。そしてこの人が、その経営者である店主のチ・ホア」

「どうも、グエン・チ・ホアです。気軽にチ・ホアと呼んでくださいね?」

 阿杏に紹介されたアオザイ姿の女性はそう名乗ると、僕と宮路さんに上品な笑みを向けた。その笑みのたおやかさに魅了されながら、僕と宮路さんもまたチ・ホアに自己紹介をする。

「あ、えっと、僕は霧島尊です。未だ転校して来たばかりですが、一応、阿杏とは同じ学校の同級生です」

「あたしは、宮路美恵です。二人と同じく、あたしも同じ学校の同級生です」

「そうなの、お二人とも、阿杏の同級生なのね? 出来れば何か買って行ってくれると嬉しいんだけれど、うちのお店で扱っている商品は、学生さんにはちょっとばかり高価かしら? だけどお近付きの印として、せめてお茶でも飲んで、ゆっくりして行ってちょうだいね?」

 チ・ホアは語尾が上がる少し癖のある喋り方でそう言うと、彼女と阿杏の分に加えて、僕と宮路さんの前にもお茶の注がれた茶器を置いた。僕は「いただきます」と一言断ってから自分の分の茶碗を手に取り、熱いお茶を一口飲み下す。すると仄かに甘い独特の香りが口から鼻に抜け、緊張していた肩の力がすっと抜けるのを実感した。

「ベトナムの蓮花茶なの。お気に召して?」

 クスクスと笑いながら、チ・ホアもまた流麗な手付きと作法でもって、自分の分のお茶を楽しんでいる。

「ところで阿杏、あなたこんな所で、何をしているの?」

 蓮花茶を飲みながら、宮路さんが阿杏に尋ねた。

「ここはね、一昨日あたしが逃げ込んだアパートと一緒で、あたしにとっての隠れ家みたいな場所なの。疲れた時とか嫌な事があった時にはここに来て、チ・ホアが煎れてくれたお茶を飲みながら、ゆっくりと時間が過ぎて行くのを楽しむんだ。それにチ・ホアは、相談にも乗ってくれるからね」

 穏やかな笑顔でそう言った阿杏の言葉を、チ・ホアが補足する。

「あれは、もう一年くらい前かしら? たまたまこのお店の看板を見た阿杏が、自分の運勢を占ってくれとやって来てね? ああ、このお店では、お客様を相手に占いもやっているの。それでこのお店を気に入ったらしい阿杏が、時々このお店を訪れるようになったのね? あたしも暇な時のお喋り相手が出来て、助かっているの」

「そうなんだ」

 僕と宮路さんは得心した。

「そうだ、良ければあなた達の運勢も、占ってあげましょうか? ね、そうしましょ?」

 嬉しそうにそう言ったチ・ホアは、僕達の了承を得る間も無く僕の向かいの席に腰を下ろすと、占いの準備を始める。

「まずは、霧島くんだったかしら? あなたの運勢から占ってあげる」

「あ、はい」

 有無を言わせる間も無く、チ・ホアは優美なレリーフ模様が彫られた木製の箱をテーブルの上に乗せると、その中からやはり木製の薄い板を十数枚とサイコロの様な幾何形体の小道具を数点取り出した。そして薄い板をトランプかタロットカードの様にシャッフルすると、僕に質問する。

「名前は、霧島尊くんね? お誕生日はいつかしら?」

「一九九九年の、十月十九日です」

 僕の名前と誕生日を確認すると、チ・ホアは流麗な手付きでもって木製の板を並べ、サイコロ状の小道具を転がした。そして板をひっくり返したり並べ替えたりしながら、意味深に頷いたり首を捻ったりしている。

「霧島くん、あなた、家族の事で悩みを抱えているのね?」

「え? あ、はい」

 唐突に核心を突かれて僕は戸惑うが、そんな僕には構わずに、チ・ホアは占いを続ける。

「最近、近しい親族が亡くなっているのね? それが原因で、家庭内で不和が発生しているみたい。でも大丈夫、その悩みは近い内に解決するから、安心してね? ……でも残念ながら、あなたにはまた新しい不運が降りかかるから、注意が必要だそうよ?」

「……その新しい方の不運は、どうすれば解決するんですか?」

 僕は、訝しみながら問うた。

「そうね、占いの結果によれば、新しい不運は身近な女性が運んで来ると出ているの。でもその不運を解決するのも身近な女性であり、またあなた自身でもあると、占いは告げているのかしら?」

 幸とも不幸とも取れる、曖昧な結果。その結果を告げながら、チ・ホアはニコニコと微笑んでいる。

「さて、次はあなたを占ってあげましょうか?」

 そう言いながらチ・ホアは、今度は僕の隣に座る宮路さんの方を向くと、木製の板を再びシャッフルし始めた。一方で占われる対象である宮路さんは満更でもないらしく、期待に胸を膨らませているようにも見える。

「宮路美恵さん、お誕生日はいつかしら?」

「あ、霧島くんと同じ一九九九年の、十一月二日です」

 宮路さんの名前と誕生日を確認したチ・ホアは、再び木製の板をテーブルの上に並べてサイコロ状の小道具を振ると、その出た目に従って板を複雑にひっくり返したり並び替えたりを繰り返した。そして一通りの作業を終えると、少し驚いたのか、尖らせた口元に手を当てながら声を漏らす。

「ふうん?」

 占われている宮路さんが、身を乗り出しながらゴクリと唾を飲み込んだ。

「あなた、近々ちょっとした事件に巻き込まれるらしいの。そしてそれは、恋に関係がある事件ね?」

「恋に関係があるんですか? それで? それで、どうなるんですか?」

 宮路さんが、顔を真っ赤にしながら興奮気味に食い付く。

「その恋の結末は分からないけれど、前途は多難みたい。そして事件に巻き込まれた結果として、あなたは一番大切なものと引き換えに、二番目に大切なものを失うらしいの。残念だけれど、あまり良い運勢とは言えないみたいね?」

 チ・ホアが告げた占いの結果を聞いた宮路さんは、頭を抱えながらテーブルに突っ伏し、奇妙な呻き声を上げた。あまり良くない運勢と言われたのが、よほど堪えたらしい。

「それじゃあついでに、阿杏の運勢も占ってあげようかしら?」

「え? いいよ、あたしは。以前に占ってもらっているし」

「そんな事を言わないで。運勢なんて言うものは、日々刻々と遷り変わって行くものなのよ? だから今日と明日では同じ占いでも違う結果が出るし、占う人によっても千差万別の結論に至るものなの。だから宮路さん? あなたもそんなに落ち込まないで、悪い運勢を自分の力で逆転させてやるくらいの前向きな気持ちでいなきゃ駄目よ?」

「……ひゃい。がんばりまひゅ……」

 テーブルに突っ伏したままの宮路さんが、手を上げながら力無く返事をした。そしてチ・ホアは阿杏に向き直ると、木製の板とサイコロ状の小道具でもって彼女の運勢を占う。

「あら? 以前とは随分と違う結果が出たじゃないの」

「違う結果? どんな?」

 占いを終えたチ・ホアの意味深な言葉に、阿杏もまた身を乗り出しながら興味深げに尋ねた。先程は占われる事を拒否していたのに、やはり彼女も巷の女の子らしく、占いやおまじないの類には人並に関心があるようだ。

「阿杏、あなたも霧島くんと同じで、家族の事で悩みを抱えているのね? この点に限って言えば、以前占った時と全く同じ結果かしら?」

 阿案の表情が曇り、きつく唇を噛む。

「でも安心して? 今回の占いの結果によれば、その悩みは近々解決されるらしいから」

「本当に?」

 更に身を乗り出した阿杏が、眼を輝かせながら問うた。するとチ・ホアは、占いの結果を語り続ける。

「ええ。でもやっぱりあなたも宮路さんと同じで、悩みが解決する代償として、それ相応の対価を要求されるそうよ? それに悩みが解決する過程において、新たに大切なものを得るとも占いは告げているの。まあ総じて言えば、プラスマイナスゼロに、ちょっとだけプラスが多いかなってくらいの運勢かしら? それとついでだけれど、学業の運勢が相当に悪いわよ、あなた」

「なあんだ、ちぇっ」

 最終的な占いの結果に落胆した阿杏は椅子に座り直し、浅く腰掛けただらしない姿勢で天を仰ぐと、天井に向かって深い溜息を吐いた。そしてそんな彼女を上品な笑顔で見つめながら、チ・ホアは占いの道具一式を木製の箱へと納め直す。

「さて、それじゃあ話を本題に戻すけれど、阿杏、キミはこんな所で何をしているの?」

 改めて、僕は阿杏に尋ねた。

「何をしているの、か。多分、何もしていないんだと思う。この店は時間が止まったような静かな空間で、ここにいるととても落ち着くんだ。だから辛い事があった時には、ここに来るの。まあ一種の、現実逃避なんだろうね」

「その逃れたい現実って言うのは、やっぱり、父親からの暴力の事なの?」

 宮路さんの問いに、阿杏はとても寂しそうな表情を浮かべると、椅子の上で膝を抱える。

「うん、そう」

 ボソリと呟くように、彼女は答えた。暫しの間、チ・ホアの店の店内には静寂が訪れ、壁に掛けられたアンティークの壁掛け時計の秒針が刻むコチコチと言う機械音だけが。微かに漂う。

「一昨日も話したけれど、施設に逃げ込むって言うのは嫌なんだよね?」

「うん。あたしが施設に逃げ込んだら、今度は残されたお母さんと弟が、暴力の標的になると思うから。かと言ってあたし達三人が同時に施設に逃げ込んだら、今度はお父さんが独りぼっちになっちゃう。そうなったらきっと、家族に暴力を振るわざるを得ないほどのストレスの捌け口が無くなっちゃって、お父さんが壊れてしまうと思うの」

 今度は僕の問いに、阿杏は答えた。やはり彼女の家族に対する愛情が、彼女自身を苦しめている。

「ついでに警察も、まるで頼りにならないと来たもんだ」

 僕は溜息混じりに呟き、肩をすくめた。そして僕と阿杏と宮路さんの三人は解決策を模索するが、三人寄れば文殊の知恵などと言うのは諺の中だけでの事象で、現実には一介の高校生が三人集まったところで妙案など浮かぶべくも無い。

 すると不意に、何かを閃いたらしいチ・ホアが、パンと手を打ち鳴らしてから提案する。

「そうだ、思い出しちゃった。あなた達、都市伝説とかは信じる方かしら?」

「都市伝説?」

 僕と阿杏と宮路さんが、同時に問い返した。

「そう、都市伝説。このフォルモサでの都市伝説が、他の国や街での都市伝説とは違って信憑性が高い事は、知っているでしょう?」

 チ・ホアの言葉に僕は眉根を寄せたが、阿杏と宮路さんはコクコクと頷きながら、熱心に耳を傾けている。

「あたしが聞いた都市伝説によるとね、このフォルモサの貧民街の地下深くに、一匹の妖が住み着いているらしいの。それでその妖に望めば、どんな願いでも叶えてくれるんだそうよ? だから物は試しでさ、その妖に会いに行って、阿杏が抱えている悩みが解決するようにお願いしてみるのはどうかしら?」

 提案し終え、ニコニコと微笑むチ・ホア。とてもじゃないが彼女の提案は、大の大人が真剣な討論の場で発言すべき内容ではなかったので、僕は少しばかり呆れた。しかし隣に座る阿杏と宮路さんの二人は、真剣な表情でもってチ・ホアの提案を検討している。

「……駄目元で、行ってみようか」

「賛成」

 阿杏が提案を受け入れ、宮路さんがそれに賛同した。

「ちょっとちょっと、待ってくれよ、二人とも。そんな何の根拠も無い都市伝説の類を、そんなに簡単に信じてしまってもいいのか? もう少し、冷静に考えてみようよ? そもそもそんな妖が実在するのかどうかも怪しいし、仮に実在していたとしても、そんな得体の知れない存在がそう易々と願いを叶えてくれる訳が無いだろう?」

 至極現実的な意見を述べる事によって、阿杏と宮路さんの両名を思い留まらせようとする僕。しかしそんな僕の意見は、二人の女子高生を転向させるには説得力が足りなかったらしく、逆に彼女達は僕を説得しようと口を開く。

「尊くんは、あたしと初めて会った時に、烟鬼を見たよね?」

「あたしと夜市で肉粽を食べていた時にも、饿鬼を見たでしょ?」

「うん……確かに見た……けど?」

 僕は恐る恐る、妖の存在を認めた。路地裏で烟鬼、夜市で饿鬼を目撃したのは厳然たる事実なので、否定は出来ない。

「だったら霧島くんにも、分かるでしょ? このフォルモサは内地と違って、そう言った妖の類が頻繁に発生しながら、人間と共存している街なの。だから願いを叶えてくれる妖が存在したとしても、何の不思議も無いのよね?」

 そう言ってクスクスと上品に笑うチ・ホアと、彼女に賛同する阿杏と宮路さん。三人とは見解を異にする僕はひどい疎外感に苛まれ、討論の主導権を失う。そして暫し考えあぐねた末に、折れたのは少数派である僕の方だった。

「分かったよ。その都市伝説が事実なら、このフォルモサの地下にはどんな願いでも叶えてくれる妖が住み着いているんだろ? それで、その妖に阿杏が抱えている悩みを解決してもらいに行く、と。これでいいかい?」

「うん。それで勿論、尊くんも一緒に来てくれるよね?」

 僕も同行するのがさも当然と言った口調でもって、阿杏が尋ねた。僕は肩をすくめて嘆息しながら答える。

「毒を食らわば皿までか、それとも乗りかかった船か。こうなったら、どこまでもお供しますよ」

 全てを諦め切って投げ遣り気味にそう言った僕に向かって、阿杏は嬉しそうに微笑んだ。彼女の隣では宮路さんもまた、いつもの子犬の様な笑顔で微笑んでいる。そしてチ・ホアは急須を持って一旦レジカウンターの奥の厨房へと消えると、暫くした後に、再び急須を持って戻って来た。

「さてと、それじゃあ話がまとまったところで、お茶のお代わりにしましょうか? 確かお客様から頂いたお茶菓子のBanh Dau Xanh《バインダウサイン》が未だ残っていた筈だから、皆で一緒に食べましょうね?」

 そう言ったチ・ホアが、空になっていた僕の茶碗に新たに煎れ直した蓮花茶を注いでくれたので、僕はそれを一口飲み下す。蓮花茶の仄かに甘い香りは心地良かったが、僕はなんだか色々な事が納得行かずに、憮然としていた。そしてそんな僕を眺めながら、チ・ホアもまた上品に微笑んでいる。

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