第五幕


 第五幕



 僕と阿杏は二人並んで、南天地区の夜市の入り口に立っていた。現在の時刻は、正午を少し回った頃。当然だが夜市は未だ本格的には開催されておらず、人通りも疎らで、営業している露店も少ない。

「宮路さん、遅いね」

「うん、そうだね」

 スマートフォンで時刻を確認しながら発した僕の言葉に、阿杏が同意した。そして僕達は二人揃って、夜市の前を走る国道の北地地区の方角を見遣る。すると程無くして、ドコドコドコと特徴的なエンジン音を唸らせながら、ハーフヘルメットを被った宮路さんを乗せたミニバイクがその姿を現した。

「ごめん、ちょっと遅れちゃった。霧島くんも阿杏も、待った?」

「いや、僕達もさっき来たところだから」

「うん、それほどは待ってないよ」

「そっか。それじゃあちょっと待っててね。バイク停めて来るから」

 僕と阿杏の眼前で停車した宮路さんはそう言うと、エンジンを切ったミニバイクを押しながら、夜市の駐輪場へと向かう。そして三つのチェーンロックでもってミニバイクを施錠し終えた彼女は、僕達に合流した。

「お待たせ」

「それじゃあ全員揃った事だし、そろそろ行こうか?」

 僕はそう言うと、阿杏と宮路さんに、貧民街の方角へと出発するように促す。僕達三人の内で特に誰がリーダーかと言う取り決めは無いのだが、なんとなく僕が先導しなければならないような雰囲気だったので、それに従ったまでだ。しかし本来ならばこの妖探しに一番消極的なのが僕だった筈なのに、その僕がどうして先導しなければならないのかと、少し納得が行かない。

「さて、と」

 気を取り直して、僕は歩き始める。ちなみに今日は、土曜日。骨董街のチ・ホアの店で僕達三人とチ・ホアが邂逅し、貧民街の地下に住み着いていると言う妖探しをする事が決定した月曜日から、既に五日が経過していた。

 何故五日もの間、やきもきしながらも地下へと下りて妖探しを敢行しなかったのかと言えば、それは偏に、僕達のスケジュールが合わなかったからに他ならない。平日の放課後までは僕と宮路さんは授業に出席しなければならないし、放課後以降は部活動のため、阿杏の都合が悪かった。かと言って部活動が終わってからの夜半過ぎに貧民街の地下へと下りるのは、いくらなんでも危険過ぎる。これらの理由から、阿杏の部活動が休みである今日まで、妖探しは延期されていたのだ。

「あ、霧島くん、ちょっと待って」

 貧民街へと足を向けて一歩を踏み出した途端に、宮路さんが僕を呼び止めて出鼻を挫く。

「何、宮路さん? 何か問題でも起こった?」

「あたし今日は寝坊しちゃって、それで眼を覚ましてから急いでここに来たから、朝ご飯もお昼ご飯も食べそびれちゃったの。だからさ、そこの開いているお店で、ちょっと何か食べる物を買って来てもいい?」

 これから危険を冒して地下への探検に挑もうと言うのに、随分と呑気な事を言い出す宮路さん。しかしとりあえずは断る理由も無いので、僕は彼女の要望を呑む事にした。

「まあ、未だ時間はあるから、別にいいけどね」

「本当? それじゃあそこのお店まで行って大鶏排ダージーパイを買って来るから、ちょっと待っててくれるかな? あ、それとも霧島くんと阿杏も、一緒に来る?」

 これまた特に断る理由も無いので、先導する宮路さんに付き従って、僕と阿杏もその大鶏排とやらが売っている露店を目指して歩き始める。良く見れば阿杏もまた、食い意地が張っている上に能天気な宮路さんの言動には、ややもすれば呆れ顔だ。

「あ、ここだ、ここ。このお店の大鶏排が美味しいの」

 そう言って宮路さんが指差す露店の店先には、小規模ながらもずらりと客が並んで行列が出来、厨房の中からは油が弾ける軽快な音と共に香辛料の芳醇な香りが漂って来る。そして行列に並んでいる間に厨房内を観察すれば、未だ若い男性の店員が衣をつけた鶏肉を次々と煮え滾る油の中へと投入し、内地で言うところのフライドチキンを量産していた。

 しかし内地のフライドチキンとは違って、この店の大鶏排はでかい。でか過ぎる。鶏の胸肉を叩いて拡げてから揚げているので厚さはそれほどでもないのだが、一見すると成人男子の顔くらいにまで拡げられたそれは、圧巻の大きさだ。

 そしてその特大のフライドチキンである大鶏排を宮路さんは一人で一枚、僕と阿杏もついでなので、二人で一枚を購入する。

「あひ、あひ、あひ」

 注文と会計を終えた宮路さんは、手渡された揚げたての大鶏排にさっそく齧り付き、その熱さと美味さに地団太を踏みながら身悶えする。そして僕もまた自分の分の大鶏排を受け取ると、阿杏と折半するために、それをちょうど半分ずつの大きさになるように手で千切って切り分けた。

「はいこれ、阿杏の分」

「ん、ありがと」

 半分に切り分けた内のやや大きい方を阿杏に手渡すと、僕もまた宮路さんに倣って、自分の大鶏排に齧り付く。

「あひ」

 やはり揚げたての大鶏排は舌が火傷するほど熱かったが、それにもまして、身悶えするほどに美味い。カリカリサクサクな衣の食感と肉汁溢れるジューシーな鶏肉の旨味が口の中に広がり、思わず頬が緩んでしまった僕は、思わず歓喜の笑みを漏らす。特に美味くて堪らないのが、鶏の脂と交じり合う事によって更なる旨味を増す、スパイスの効いた甘辛いタレの存在だ。

「ね? ここの大鶏排、美味しいでしょ?」

「うん、これは美味い」

「美味しいね」

 僕達三人はその美味さを確認し合いながら、無心で大鶏排を食べ続ける。そして宮路さんが大鶏排一枚の半分方を、僕が一枚を半分に千切った自分の取り分を全て食べ終えたところで、阿杏が小さな可愛らしいゲップを漏らして手を止めた。その手には未だ、彼女の取り分の三分の一ほどが残っている。

「ここに来る直前にお昼ご飯を食べたから、もう食べられないや。勿体無いから、これ、尊くんが食べてくれる?」

「いいの? それじゃあ遠慮無く」

 昼食を菓子パン一個で済ませていた僕は未だ少し胃の容量に余裕があったので、阿杏の提案を快諾した。そして彼女の食べかけの大鶏排を受け取ると、以前に廃アパートで僕の珍珠奶茶を阿杏が飲んだ特とは逆の立場での関節キスだなと思いながら、齧り付く。

「あ」

 僕が阿杏の大鶏排に齧り付くのを見て、宮路さんが声を上げた。僕は揚げたての鶏肉を咀嚼しながら、僕の口元をジッと見つめる彼女に問う。

「ん? どうしたの、宮路さん? 何か付いてる?」

「……ううん、何でもない」

 そう言って答を誤魔化すと、宮路さんは眼を逸らした。僕は彼女が何に驚いたのかが理解出来ないまま、大鶏排の最後の一欠片を口に放り込む。

「さて、それじゃあ改めて、出発しようか?」

 宮路さんが食事を終えたのを確認した僕達三人は、貧民街の方角へと足を向けた。今度は出鼻を挫かれる事も無く、夜市の脇道から路地裏に足を踏み入れる。そして夜市と平行して走る何本かの通りを横断し、次第に人影も疎らになり始めると、やがて生活排水が垂れ流しになったドブ川に突き当たった。このドブ川を一歩でも越えれば、そこから先は南天地区の貧民街だ。

「やっぱりこれから貧民街に行くんだって思うと、ちょっと怖いね」

 宮路さんが、ブルっと身体を震わせながら同意を求めた。

「そう? あたしは二年前まで住んでいたから、それほど怖くはないけどね」

 阿杏はそう言って、余裕の表情を見せる。確かに彼女は以前、ほんの二年前まであの廃アパートに住んでいたと言っていたので、かつての地元である貧民街に足を踏み入れる事に対して抵抗は無いようだ。

「それでも、地下にまで下りた事は殆ど無いけどね」

 だがそんな阿杏にとっても、貧民街の地下世界は未知未踏の領域らしい。

「臭いな」

 ドブ川に掛かる老朽化した橋を渡りながら、僕は呟いた。下水の排水口から垂れ流しにされた生活用水によって濁り、油が浮き、良く見れば何台もの盗難自転車が投げ込まれているドブ川。その川面には底に溜まったヘドロから発生したガスによって気味の悪い色の泡が沸き立っており、眼に染みるような異臭が漂う。かつては工事用の大型車輌が頻繁に行き来した名残なのか、川のこちら側とあちら側を繋ぐ橋は、不必要に幅が広い。そしてドブ川を越えて貧民街へと至った僕達は、チ・ホアから教えてもらった地下への入り口を目指して、碌に補修工事もなされていない亀裂だらけの舗装道路を歩き始めた。

 ドブ川沿いの通りを越え、治安の悪い裏道を可能な限り避けた結果、貧民街の中央を走る大通りへと至る。目的地までは少し遠回りになるが、危険を回避するためには致し方無い。しかしその大通りも殆どの店舗がシャッターを下ろし、人影も少なく、活気に満ちているとはお世辞にも言い難い惨状だ。こんな所で阿杏は二年前まで生活していたのかと思うと、僕は驚きを隠せない。

「ここか」

 やがて大通りと交差する二車線道路沿いの歩道を少しばかり歩いた後に、遂に僕達は、目的地である地下への入り口に辿り着いた。その入り口とは、現在では使われていない地下鉄の駅へと繋がる、地下街の入り口。数年前の路線廃止と同時に打ち捨てられたその駅は、雨風を凌げる上に広くて頑丈だとあって、現在では浮浪者の巣窟と化している。

 ここフォルモサとその周辺地域一帯は、数十年前の戦時中に大規模な地殻変動に襲われた。その結果として常に雨が降り続ける特殊な気候に変化したこの地域では、残念ながら農業等の第一次産業は成立しない。しかしそんな過酷な条件下にもかかわらず、フォルモサの人々は日本本土からの支援を礎として先見的な都市計画を打ち出し、この地にハイテク産業の一大拠点を築き上げる事に成功した。その証拠に、フォルモサ一都市だけの半導体の生産数は、実に内地全体の生産数とほぼ同等を誇る。

 そしてフォルモサを一大工業都市へと変貌させたこの地殻変動は、気候の変化とはまた別に、この地に大きな恩恵をもたらした。それは奇跡的に岩盤が安定した事によって、かつては頻発していた地震の発生件数が、ほぼ皆無となった事である。この事実は世界の半導体産業がフォルモサに進出する際にも有利に働き、都市の発展に一役買った。

 しかしながら、フォルモサの都市計画の全てが成功に終わった訳では無い。歴史は残酷であり、栄光もあれば挫折もある。内地がバブル景気を謳歌していた80年代後半から90年代初頭にかけて、フォルモサもまたバブル景気に沸いていた。そしてこの時期に潤沢な国費が投入されて行なわれた公共事業こそが、地盤の安定したこの地の地下開発計画に他ならない。それは地上の都市部とほぼ同規模の空間を地下にも開発し、限られた土地を有効活用しようと言うものであった。

 だがこの計画は、バブル景気の終焉と共に頓挫する。結局は一部のゼネコンが特需に沸いただけで、他の大多数の企業や投資に失敗した一般市民が莫大な負債を負う破目となった。そしてその開発計画の残滓こそがこの貧民街であり、また今現在の僕の眼前にそびえ立つ入り口から先に広がる、今や誰にも省みられる事も無くなった地下街でもある。

 その地下街は迷路の様に入り組んだ構造をしており、地元民でも一度迷えば二度と出て来られないとも噂されているが、その噂の信憑性は如何ほどだろうか。僕は暗く冷たい迷路の奥底で朽ち果てる自分自身の姿を想像して、背筋に悪寒を走らせる。

「行くよ」

 最初にそう言って一歩を踏み出したのは、阿杏だった。その表情はいつにも増して凛々しく、使命に燃える瞳にも凛とした光が宿っている。この妖探しが成功した暁には彼女の切なる願いが叶うかもしれないのだから、その胸中に渦巻く期待と不安は計り知れない。

「ねえ、霧島くん。手を繋いでもいい?」

 気付けば僕の隣に立つ宮路さんが、手を差し出しながら懇願するような瞳でもって、上目遣いに僕を見つめていた。きっと育ちの良い彼女にとっては、こんな危険な貧民街の地下に下りて行くなどと言う行為は生まれて初めての冒険であり、不安で仕方が無いのだろう。

「いいよ」

 快諾した僕は、宮路さんと手を繋いだ。彼女の手は小さくて柔らかくて、温かい。そしてゴクリと唾を飲み込み、覚悟を決めた僕達は、先行する阿杏の後を追って地下街へと足を踏み入れる。

 階段を下りた先の地下街の第一層は、当然だが真っ暗だった。駅の閉鎖に伴って周辺一帯の電気も止められたので、非常灯も含めた全ての照明が落とされ、エスカレーターも停止している。

「二人とも、懐中電灯は持って来た?」

 阿杏が僕らの方を振り返りながら尋ねたので、僕は頷くと、肩に掛けたワンショルダーバッグの中からフラッシュライトを取り出した。自宅の非常袋の中に入っていた、LED電球とリチウム電池で作動する強力な代物で、稼働時間も長い。そして尋ねた本人である阿杏と宮路さんもまたそれぞれが背負った鞄の中からフラッシュライトを取り出し、スイッチを入れた。途端に僕らが手にした三つの光源が、暗い地下街の惨状を詳らかに照らし出す。

「酷いな」

 僕は、思わず呟いた。床にはゴミやガラス片が散乱し、金目の物を狙った盗難者の仕業なのか、テナントとして入居していた店舗のドアや窓ガラスの大半が破壊されている。そして満足な排気と排水もされていないために、湿った空気は淀んでいてカビ臭く、所々の床には壁から染み出した雨水によって水溜りが出来ていた。

「何、この匂い? 鼻が曲がりそう」

 宮路さんはそう言うと、顔を背けて鼻を摘んだ。彼女の言う通り、この地下街はとにかく臭い。湿気によるカビ臭さに加えて、そこら中に転がった野良犬や野良猫やネズミの排泄物、そしておそらくは浮浪者の排泄物の臭いが充満している。しかもそこに、おそらくは腐った食品から発生した腐敗臭と安酒のアルコール臭が加味されているのだから、堪らない。

「匂いが、眼に染みるね。涙が出て来た」

 阿杏もまたそう言って口と鼻にハンカチをあてがうが、既に及び腰になっている宮路さんとは違って、彼女は怯む事無く地下街の通路を歩き続ける。

「とにかく先へ進もう、宮路さん」

「……うん」

 ここに来た事を後悔しているらしい宮路さんの手を引いて、僕もまた地下街第一層の通路を歩き始めた。利用されなくなって久しい案内看板を確認し、地下鉄の駅へと向かうために、連絡通路を直進する。左右の壁に並んだ企業や店舗の広告は大半が破壊されるか、もしくはスプレー塗料による落書きによって見る影も無い。

「あった。改札だ」

 連絡通路を二百mばかりも歩くと、フラッシュライトの光の中に、地下鉄の駅へと進入するための自動改札が姿を現した。ここに至るまでの道中、通路の壁沿いにはダンボール箱やベニヤ板で作られた浮浪者の寝床が散見され、今も寝ている彼らのいびきや呻き声が耳に届く。しかも一度などは徘徊する浮浪者と至近距離で対峙する破目となり、僕が手にしたフラッシュライトの光を反射した彼の瞳は爛々と輝いていて、思わず悲鳴を上げそうになった。僕達の眼前に、柱の影からその浮浪者が不意に現れたので、気付くのが遅れたのだ。だが彼は、死んだ魚の様な眼で立ち竦んでいる僕達を暫く凝視した後に、興味無さげにフラッシュライトの光の外へと歩み去ってしまった。あんな体験は、二度とご遠慮願いたい。

「チ・ホアから教えてもらったメモによると、この改札を通って駅のホームへと下りるんだって」

 阿杏が、ジャージのポケットから一枚のメモ用紙を取り出しながら言った。そのメモ用紙には、チ・ホアから教えてもらった、願いを叶えてくれる妖の住み処まで辿り着くための順路が書かれている。ちなみにその道順を教えてくれたチ・ホア本人は、彼女が経営する店を留守にする訳には行かないとの理由から、僕達と同道してはいない。発起人でありながら不在とは、少し無責任なのではないかと僕は思う。

「宮路さん、足元に破片が散らばっているから、気を付けて」

 自動改札機を踏み越えた僕は、宮路さんに注意を促した。パンツルックの阿杏とは違って彼女はスカート履きなので、足元が若干危うい。かつては多くの人が利用していたであろう自動改札機は全て破壊され、内部が剥き出しになった状態で、今はタイル張りの床に転がっていた。おそらくは中に詰まっている電子回路や銅線を目当てに、浮浪者か違法な廃品回収業者が破壊したのだろう。

「次は、こっち。ここからホームに下りるんだって」

「ここから?」

 先行する阿杏が指差す先を、僕はフラッシュライトで照らした。それは改札の在る第一層からホームへと至るための下り階段で、かなり深くまで続いているらしく、フラッシュライトの光もそこまでは届かない。

「足元が暗いから、転ばないようにしっかりと手摺を握っていてね」

 阿杏はそう言うと、その言葉通りに手摺をしっかりと握りながら、階段を下り始めた。僕と宮路さんも少し遅れて、彼女に続く。当然だがエスカレーターもエレベーターも作動していないので、この階段以外にホームまで下りる方法は無い。

「きゃっ!」

 背後から突然、宮路さんの悲鳴が聞こえた。すると次の瞬間、振り返る間も無く彼女の身体が僕の背中に圧し掛かって来る。

「うおっ! たっ! とっ!」

 僕は変な声を喉から漏らしながら、必死で手摺に掴まって、背後から圧し掛かって来る宮路さんの全体重を支えた。あと少しで僕もろとも階段を転げ落ちると言うところで、何とか彼女の身体をその場に押し留め、足を踏ん張る。

「どうしたの?」

 何事かと心配した阿杏が階段を引き返して来ると、僕と宮路さんをフラッシュライトで照らした。僕は奇妙な体勢で足を踏ん張りながらしゃがみ込み、その背中には宮路さんが覆い被さっている。彼女の豊満な胸がちょうど僕の後頭部に押し付けられていたが、その柔らかさを堪能しているような余裕は、今の僕には無い。

「霧島くん、大丈夫? 本当にごめんね? ゴミか何かに足を引っ掛けて、転んじゃったの」

「いいよ、そんなに謝らなくても。それよりも、宮路さんの方こそ大丈夫?」

 体勢を立て直した僕と宮路さんは、互いの身を案じて、無事を確認し合った。こんな真っ暗闇の中で二人揃って階段を転げ落ちていたかもしれないと思うと、生きた心地がしない。

「二人とも、大丈夫? 少し休む?」

「ああ、大丈夫。こんな所で休むよりも、今は前に進んだ方がいい」

 心配する阿杏の問いに答えると、僕はフラッシュライトを握り直し、階段の先を照らした。先程転げ落ちかけた際には手摺に掴まる事で一杯で、フラッシュライトを握っていた手を放してしまったのだが、幸いにも手首に巻いたストラップのおかげで貴重な光源を取り落とさずに済んだのだけは不幸中の幸いだ。

「それじゃあ、先を急ごう」

 そう言うと、僕と宮路さんを先導して階段を下り始める阿杏。彼女の背中を追って、気を取り直した僕達もまた階段を下り始める。勿論宮路さんは、二度と転げ落ちたりしないように、今度はしっかりと手摺を握っていた。そして僕もまた、彼女が再び圧し掛かって来ても支えられるように、重心を少し後ろに傾けながら階段を下りる。

 やがて階段を無事に下り切った僕達三人は、今は使われていない地下鉄のホームへと辿り着いた。当然だが電気が止められているので暗く、より地下深く潜ったためか、改札の有った第一層よりも更に湿度が高い。その証拠に壁や柱は結露によって濡れ、そこかしこの天井からポタポタと水滴が滴り落ちて来る。

「これはまた、酷いな」

 ホームを歩きながら、売店を発見した僕は呟いた。と言うのもその売店は、シャッターやショーケースが見るも無残に、跡形も無く破壊されていたからだ。おそらくは現金や商品が残されているかもと考えた浮浪者によって破壊されたのだろうが、そんな物が残されている筈も無いし、無いと分かった後には腹いせでもって更に破壊されたに違い無い。

「ここの二番線、下り側のホームの端から、線路の上に降りるんだって」

 チ・ホアのメモを見ながら、阿杏が言った。彼女の言葉に従い、二番線のホームの端まで歩いた僕達は、点検用の鉄階段を使ってホームから線路へと降り立つ。

「実は一度、地下鉄の線路に下りてみたかったんだ」

「あたしも」

 少し不謹慎かと思いながらの僕の告白に、宮路さんが同意した。やはり普段は禁忌とされている行為を実行すると言うのは、妙な背徳感があって、胸が躍る。

「線路に下りたら、次は新南天駅の方角に向かって線路沿いを五百mばかり進む」

 興奮する僕と宮路さんを尻目に、阿杏はチ・ホアのメモを淡々と読み上げた。そして彼女を先頭にした僕達三人のパーティーは、駅の構内からトンネル内へと進入すると、線路沿いの通路を一路北上し始める。

「なんか、ちょっと怖いね」

「そうだね。来る筈が無いと分かっていても、もしかしたら電車が来るかもしれないと考えると、ちょっとね」

 今度は宮路さんの言葉に、僕が同意する番だった。地下鉄のトンネル内は狭く、駅の構内よりも更にジメジメと湿っていて、蒸し暑い。僕はワンショルダーバッグの中から緑茶のペットボトルを取り出すと、その中身を一口飲み下して喉を潤した。暑さと緊張で、額にじわりと汗が滲む。

「ねえ、阿杏」

「何?」

 僕はトンネル内を歩きながら、阿杏に問う。

「本当に、どんな願いでも叶えてくれる妖なんかが、この先にいると思うの?」

「……分からない。正直に言えば、いくらチ・ホアのお墨付きだとは言っても、胡散臭い話だと思う。でも今のあたしが置かれている状況は、そんな胡散臭い都市伝説に一縷の望みをかけるくらいに、切迫しているの」

 そう言った阿杏がどんな表情をしているのかは、暗くて見えない。

「それに、さ」

 彼女は続ける。

「たとえ胡散臭くても、何かしらあたしにも出来る事があるのなら、それをやり遂げておきたいの。……何もしないまま状況が悪化して、後からあの時にああしておけば良かったと後悔するのだけは、避けたいからね」

「……そうか」

 僕は得心するように頷いたが、内心ではあまり納得していなかった。こんな都市伝説に頼るような非科学的な行為が、果たして彼女が、そして僕達が取り得る最善最良の手段なのだろうか。勿論、藁にもすがるような思いでここまで来た阿杏の胸の内も理解出来る。しかし僕は、もっと簡潔で効果的な解決方法が残されているような気がしてならず、また自分自身が未だ全力を尽くし切れていないような気がして、己の不甲斐無さに歯噛みせざるを得ない。

「どうしたの、霧島くん? なんか、さっきから怖い顔してるよ?」

「え? ああ、いや、何でもないよ」

 不機嫌になる僕を心配した宮路さんに愛想笑いを向けながら、僕達三人は真っ暗なトンネルを、フラッシュライトの光だけを頼りにひたすら歩き続ける。

「有った。34-Sの作業用通路のドア。これだ」

 危うい足元に注意しながらトンネル内を十五分ばかりも歩いた末に、僕達は一枚の鉄扉を発見した。『34-S』と書かれたその鉄扉のノブに阿杏は手を掛け、ゆっくりと手前に引く。するとギギギと錆びた鉄同士が擦れ合う不快な金属音をトンネル内に反響させながら、鉄扉は開いた。そしてぽっかりと口を開けた作業用通路の先には、更に地下へと下りるための鉄階段が姿を現す。

「また階段か」

「そう。この階段を下りると、別の路線のトンネルに繋がっているんだって」

 階段には少し懲りている僕にそう言うと、阿杏は先陣を切って、その作業用通路内の急傾斜の鉄階段を下り始めた。四方をコンクリート製の壁に囲まれた通路は先程まで僕達が歩いていたトンネルよりも更に狭く、成人男子二人がすれ違うのがやっとと言うほどの幅しか無い。僕は自分が閉所恐怖症でなくて本当に良かったと、心から思う。

「それで、ここからまたトンネルに出る、と」

 阿杏はそう言うと、鉄階段で地下三層分も下りた先に姿を現した、新たなる鉄扉を指差した。そしてノブを握ると、再びギギギと不快な金属音を反響させながら、その鉄扉を開く。

「あれ?」

 先頭に立つ阿杏に続いて鉄扉を潜った僕は、妙な違和感に襲われて小さく声を上げた。今現在の僕達が立っているのは、先程までとは別の路線のトンネルの中。そして僕は、すぐに違和感の正体に気付く。

「明るい……?」

 少なくとも地下第五層よりも深く潜ったと言うのに、足を踏み入れたトンネル内は、完全なる暗闇ではなかった。僕達の足元を走る線路の先に、ボンヤリと揺らめきながら光るオレンジ色の光源が見て取れる。その光源が存在するのは、おそらくは新たなる地下鉄の駅の構内。先程までの未だ浅い層の駅でも浮浪者は居なかったと言うのに、こんな深い層の駅に住み着いている者が、果たして居るのだろうか。

「阿杏、チ・ホアのメモには、ここから先はどっちの方角に進むと書いてある?」

「ええと、階段を下りてから左、方角で言うと南西だってさ。それで、駅を一つ通過するんだって」

 僕はスマートフォンのアプリで、方角を確認する。すると予想通り、これから僕達が向かわなくてはならない方角こそが、あの正体不明の光源が揺らめいている方角だった。

「阿杏、宮路さん、二人とも明りを消して」

 僕の指示により、各自が手にしたフラッシュライトが消灯される。そして僕達三人は姿勢を低くすると、今度は僕が先頭に立って、トンネルの壁沿いを忍び足でもって歩き始めた。

 可能な限り足音を立てず、枕木につまずいて転ばないように気を配りながら、息を殺して歩き続ける。フラッシュライトを消しているせいで足元が覚束無いが、今はこうするより他に方法は無い。そして一歩前進する毎に、次第にオレンジ色の光源の正体が判明し始める。

「火か……」

 それは、焚き火の明りだった。にわかには信じ難い事だが、こんな碌に排気もされていない閉鎖された地下鉄の駅の中で、火を焚いている者が居る。一歩間違えれば一酸化炭素中毒で命を落としかねないと言うのに、そんな無謀な事をする者が、はたして存在するのだろうか。そんな事を訝しみながら駅のホームの手前の端に辿り着いた僕は、そっと頭を上げると、ホーム上の様子をうかがう。

「何だあれは?」

 僕は小声で驚くと、素早く頭を引っ込めた。それもその筈、ホーム上に居たのは明らかに人間ではない異形の存在だったのだから、誰も僕を責められはすまい。そして僕は一度引っ込めた頭を再び上げると、改めてその異形の存在を確認する。

 それは肌が爛れた様に赤黒く濡れた、一見すると人間にも似た小人達だった。勿論小人とは言っても、童話に出て来る一寸法師や親指姫の様な、手の平に乗るほどの可愛らしい小人ではない。身長はおよそ一m前後の、人間で言えば小柄な小学生くらいの大きさの小人だ。しかし背丈の低さに対してその体格は異様に筋肉質で、特に皺だらけの顔立ちは醜悪極まり無く、吐き気をもよおすほどに気味が悪い。また脚は短いくせに腕は妙に長く、そのシルエットは皮膚を剥かれて筋繊維が剥き出しになったチンパンジーかオランウータンの様な類人猿を連想させる。そしてその赤黒い肌をした類人猿の様な小人達が、駅のホーム上に焚かれた焚き火を囲んで、いびきを掻きながら眠っていた。その小人の総数は、ざっと数えて二十体から三十体。未だ誰も、こちらには気付いていない。

「……魔神仔モシナだ」

「モシナ?」

 小声で囁かれた阿杏の言葉に、僕も小声で問い返した。気付けばいつの間にか、僕と同様に後進の二人もまた駅のホーム上に頭を覗かせて、眠れる小人達の様子をうかがっている。

「赤い小人、魔神仔。昔からこのフォルモサとその周辺一帯に出没する、妖の一種だよ。奴らに襲われた人間は、運が良ければちょっとした悪戯をされるくらいで済むけれど、最悪の場合だと殺された上に全身の生皮を剥かれるんだってさ」

「ちょっとした悪戯って?」

「馬糞や牛糞を食わされたり、池や沼に引きずり込まれたりするらしいよ」

「それは充分に、悪戯の域を超えていると思うんだが」

 阿杏の解説を聞いた僕は、牛馬の糞便を食わされる自分の姿を想像して、虫唾を走らせた。そんな悪趣味な悪戯をされるくらいなら、いっそ一思いに殺されて全身の生皮を剥かれた方が未だマシだと、僕は思う。

「へえ、あれが魔神仔なのか。あたし、初めて見た」

 宮路さんが、妙に呑気な口調で言った。そんな彼女を、もっと緊張感を持てとでも言いたげな視線で見つめながら、阿杏は言う。

「あたしだって、見るのは初めてだよ。でもまさか、こんな身近な地下鉄の駅の中に、魔神仔が住んでいるとは思ってもみなかった。もっと田舎の山とか河とか、そう言った人里離れた静かな場所に住んでいるものとばかり思っていたからさ」

「意外と、灯台下暗しだね」

 そう言う宮路さんは、やはり緊張感が少し足りない。

「それで、どうする?」

 僕は、隣に並ぶ二人に尋ねた。どうすると言うのは勿論、眼前のホームで寝ている魔神仔達に気付かれないように駅を通過するにはどうするか、と言う意味である。

「迂回して、別の道からホームの反対側に回る事は出来ないの?」

「出来ればそうしたいけれど、チ・ホアから貰ったメモには、この駅を通過する順路しか書かれていないの。それに別の道を選んで、万が一道に迷いでもしたら、無事に地上まで戻れる自信はあたしには無いからね? 懐中電灯の電池だって、いつまでも保つ訳じゃないしさ」

 宮路さんの問いに、阿杏が答えた。

「それじゃあ、決まりだな」

 そう言うと僕は四つん這いになり、駅のホームと線路の間の窪み、所謂『退避ゾーン』と呼ばれる空間を静かに這い進む。要はこのまま物音を立てず、魔神仔に気付かれないままホームの反対側まで辿り着けば良いのだから、こうするのが最も簡潔明瞭な得策だ。そして背後を振り返れば、僕に倣って阿杏と宮路さんの二人もまた、退避ゾーンを静かに這い進んでいた。

「大丈夫かな?」

「今のところ、気付かれてはいないみたい」

 小声で囁き合いながら、僕達三人は犬猫の様に四つん這いの体勢で這い進み、ホームの反対側を目指す。頭上では焚き火の炎が揺らめき、その度に壁に映る魔神仔達の影もまた揺らめいて、奴らが眼を覚ましたのではないかと肝を冷やした。また奴らに最接近した際にはわざとらしいほどに大音量のいびきが至近距離から聞こえ、もしかしたら寝たフリによって自分達はまんまとおびき寄せられたのかもしれないと邪推してしまい、生きた心地がしない。そしてたっぷり三十分ばかりの時間を費やしてホームの反対側へと無事に辿り着いた僕達は、そこで一旦、小休止を摂る。

「ふう」

「なんとか、気付かれずにここまで来れたね。ご苦労様」

 一息ついた僕を、阿杏が労った。気付けば僕達三人は呼吸も荒く、全身にびっしょりと汗をかいている。ここが地下深くであるが故の高い湿度と気温もその要因だが、それにも増して四つん這いのまま身の危険を感じながら百m以上も這い進み続けた事による肉体と精神への疲労は、予想以上に過酷だった。こんな経験は二度とご遠慮願いたいが、帰りもこの順路を辿らなければならないと考えると、最低でもあと一回は同じ経験を積まなければならない。

「もうあたし、膝がガクガク」

 宮路さんはそう言うと、自身の鞄の中から取り出した紅茶のペットボトルを開け、その中身をゴクゴクと飲み下した。僕と阿杏もまた彼女に倣って、各自の用意した飲料でもって喉を潤すと、額の汗を拭う。

「さて、ここからはまた線路沿いを進む訳だけれど、アイツらは未だ寝てるかな?」

 僕は小声で呟きながら、ホームの端からそっと頭を上げて、魔神仔達の様子をうかがった。幸いにも赤い小人達は全員熟睡している様子だったが、僕は異様な物を発見して、思わず声を上げる。

「げ」

「どうしたの、尊くん? 何かあったの?」

 そう言うと、うっかり声を上げてしまった僕の隣に座る阿杏もまた頭を上げて、ホーム上をうかがった。すると彼女は僕と違って声を上げはしなかったものの、その表情からは、僕と同様に驚いている事が見て取れる。

「何あれ……。大きい……」

 今までは死角になっていて見えなかったが、焚き火から少し離れた柱の影に一体だけ、異様に大きな魔神仔が眠っていた。その魔神仔は推定でも身長が二mを優に越え、もはや小人と称されるような体格ではなく、どちらかと言えば全身の毛を剃った巨大で赤黒いゴリラと形容すべきだろう。

「他の魔神仔ならたとえ気付かれても、一対一なら戦うなり逃げるなり出来そうだったけれど、あれの相手をするのは絶対に無理だ」

「うん。やっぱり気付かれないようにホームの下を這って来たのは、正解だったね」

 意見が一致した僕と阿杏は、互いに頷き合った。

「あれって、他の魔神仔のお父さんかな? それとも、お母さん?」

 僕達に遅れて頭を上げた宮路さんの発言だけは、相変わらず緊張感が足りない。やはり彼女は僕や阿杏とは違って、少しばかり浮世離れしたお嬢様育ちなのだろう。

「とにかく、長居は無用だ。さっさとここから離れよう」

 僕がそう言うと、阿杏と宮路さんも頷いて同意し、僕達は身を屈めたまま静かに歩き始める。勿論魔神仔達に気付かれないように、未だフラッシュライトは消したままなので、足元は暗く覚束無い。そして駅から充分に距離を取り、トンネルが緩やかに湾曲して光が届かない死角に入った事を確認すると、ようやく僕達はフラッシュライトのスイッチを入れた。やはり灯りが有ると、それだけでホッと安心する。

「それで、次はどうするんだっけ?」

「このまま線路沿いに真っ直ぐ進むと、大きな空洞に出るんだって。なんでも新しい駅を作る予定で掘削していたんだけれど、地下都市の開発計画が工事の途中で頓挫したせいで、放棄されたらしいの。そしてチ・ホアによれば、あたし達が探している妖はその空洞を住み処にしているの」

 僕の問いに、阿杏がチ・ホアのメモを確認しながら答えた。

「そうか。それじゃあもう、目的地は近いんだね」

「うん。これでその妖があたしの願いを叶えてくれれば、万々歳だ」

 そう言った阿杏の瞳は輝き、希望に胸を高鳴らせている事がありありと見て取れる。

「あとちょっとだね、阿杏」

 宮路さんもまた、旅の終わりが近い事を喜んでいるようだ。

「さて、それじゃあ改めて、先を急ごう」

 僕はそう言うと、阿杏と宮路さんを先導して、暗いトンネル内を歩き始める。最初に歩いた浅い層のトンネルとは違い、新たな路線のトンネルは緩く湾曲していて、自分がどちらの方角に歩いているのかが判然としない。すると百mも歩かない内に、線路に敷かれていたレールが途切れ、そこから先は未だ路線が開通していない事を暗に語る。そして遂に、それまではコンクリートによって塗り固められていたトンネル内の床や壁が、荒々しい岩肌が剥き出しの粗野な状態に遷り変わった。とうとう僕達は、掘削途中で放棄されたトンネルの最奥部へと足を踏み入れたのだ。

「それにしても、暑いね」

 そう言って、宮路さんがペットボトルに入った紅茶をゴクゴクと飲み下した。僕も、持参した緑茶を飲み下して喉を潤す。気付けば阿杏もまた、自身の鞄から水の入ったペットボトルを取り出していた。

「こんなジメジメとした蒸し暑い場所に好き好んで住んでいる妖なんて、本当に実在するのかな? とてもじゃないけれど、僕だったらほんの半日だって、こんな場所には留まりたくないよ」

 僕は誰にともなく疑問を呈するが、それも無理は無い。今は冬だと言うのにトンネル内は気温も湿度も高く、岩肌から染み出す地下水によって至る所に水溜りが出来ており、まるで水をぶちまけたサウナの様な有様だ。そしてそんなサウナ同然のトンネル内を歩き続けた僕達の眼前に、不意に広大な空間が姿を現した。

「これが、駅を作る筈だった空洞か」

 僕はそう呟きながら、手にしたフラッシュライトで空洞内を照らす。しかし予想以上に空洞は広いらしく、反対側の端や天井までは光が届かなかった。どうやら単なる地下鉄の駅舎とホームだけでなく、それに付随した商業施設等も併せて建設する予定だったのだろう。予想を超える空洞の規模に、僕達三人は驚きを禁じえない。

「ねえ、あれ見て」

 僕の肩を叩きながら、宮路さんが空洞の一点を指差した。その指差した先を凝視すると、暗闇の中に小さなオレンジ色の光点が一つ、ボンヤリと浮かび上がっている。

「……行ってみよう」

 その光点を目指して、僕達三人は歩き始めた、すると程無くして、その正体が判明する。広大な空洞の、ちょうど中心部。そこには廃材や瓦礫を積み上げて作った、奇妙な掘っ立て小屋が建っていた。そしてその掘っ立て小屋の軒先に吊るされた一個の小さなランプこそが、オレンジ色に輝く光点の正体に他ならない。

「阿杏、チ・ホアのメモには、この小屋については何か書かれている?」

「ううん、何も。この空洞に、どんな願いでも叶えてくれる妖が住んでいるとしか書かれてないの」

 僕の問いに、チ・ホアのメモを確認しながら阿杏が答えた。四方八方どの方角にフラッシュライトを向けても、壁や天井まで光が届かない広大な空洞。その中心部の暗闇の中にポツンと建っている小屋の前で、僕達は立ち尽くす。果たしてこの小屋の中に、件の妖が居るのだろうか。

 やがて意を決した僕は、小屋の入り口と思われるボロ布が垂れ下がった戸口に向かって一歩を踏み出すと、呼びかける。

「あの、すいません。誰か居ますか?」

 訪れる静寂。返事は無い。

「すいません、誰か居ませんか?」

 再び僕は、今度は先程よりも大きな声でもって、小屋に向かって呼びかけた。すると一泊の間を置いてから、暖簾の様に戸口を覆っていたボロ布の隙間から、小さな手がヌッと現れる。そしてその手によってボロ布が捲くり上げられると、小屋の中から小さな人影が姿を現した。しかし次の瞬間、僕は強烈な悪臭に襲われる。

「うっぷ」

 臭い。あまりにも臭い。生ゴミと糞便をアンモニアで煮しめて発酵させたかのような強烈な悪臭に、僕は耐え難いほどの吐き気をもよおして、ひどくえずいた。僕の背後に立つ阿杏と宮路さんもまた、鼻を摘んで顔を背ける。この空洞に辿り着くまでの道程でも、浮浪者のねぐらと化している地下街や駅の構内は充分に生臭かったが、小屋の中から現れた人影が発する体臭は桁違いの臭さだった。

「臭っ」

「臭いよう」

 文字通り鼻が曲がるほどの匂いに、女性陣が後退る。男の僕ですら今にも嘔吐しそうな匂いなので、彼女達が及び腰になるのも無理は無い。

「良く来たな」

 しわがれた声でそう言うと、地面に胡坐を掻いて腰を下ろす人影。それは皮脂と垢で茶褐色に染まったボロを纏った、小柄な老人だった。そしてその老人は、開いているのかどうかが判然としないほどの細い眼で僕を見据えると、ニタニタと湿った笑みを漏らす。軒先に吊るされたランプの光に照らされた彼の姿は、確かに少し風変わりであるが、一見した限りではただの小汚い浮浪者にしか見えない。

「あの、あなたは……」

 何者ですかと聞こうとした僕を制して、老人は言う。

「わしの正体など、今はどうでもよい事だ。お前さんがたには、わしに叶えてほしい願いがあるのだろう? だったらそれを、遠慮せずに言ってみるがいい」

「はあ……」

 僕は拍子抜けして、肩を落とした。どんな願いでも叶えてくれる妖と言うからにはもっと神々しい姿を想像していたのに、僕の眼前に胡坐を掻いて皺だらけの顔をニヤつかせているのは、どう見てもただの老いた人間だ。年長者に向かってこう言うのもなんだが、他人の願いを叶えている暇があったら、まずは自分の身なりをどうにかしろと言いたい。想像するに、多分この老人は、自分がどんな願いでも叶えられると思っている可哀相な狂人なのだろう。そしてその架空の能力を周囲の浮浪者仲間に吹聴している内に、件の都市伝説が出来上がってしまったに違い無い。いくらチ・ホアのお墨付きだとは言っても、都市伝説は所詮都市伝説でしかなかったのかと納得した僕は、気勢を削がれた格好となって嘆息する。

 だが阿杏は、僕とは違う結論に至ったらしい。

「願いを言えば、本当に叶えてくれるんですか?」

 老人の身体から発される悪臭にも慣れて来た阿杏は、そう言いながら一歩前に進み出て、僕と並んだ。その眼差しは真剣そのもので、どうやらまだ都市伝説を、この老人がどんな願いでも叶えてくれる妖であると信じているらしい。

「叶えてやろう。ただし、どんな願いでもと言う訳には行かない。わしの力の及ぶ限りで叶えてやるまでだ」

 そう言う老人を、期待に満ちた眼差しでもって見つめる阿杏。僕は彼女を思い留まらせようと考え、説得の言葉が喉元まで出かかったが、それをあえて飲み込む。たとえ全てが徒労に終わったとしても、この老人に願いを、そして悩みを聞いてもらう事によって彼女の心が少しでも軽くなるのなら、それもまた是であるかなと思ったからだ。

「それで構いません。願いを叶えてください。あたしの家族を、以前の様な幸せな関係に戻してください」

 老人に向かって、切なる願いを口にする阿杏。しかしそんな彼女の願いを、老人は首を横に振りながら拒絶する。

「それは、出来ない」

「どうしてですか? どうして駄目なんですか?」

「願いが抽象的過ぎる。如何なる状態を幸せだと捉えるかは、人それぞれだからな。もっと具体的な願いでなければ、わしには叶える事が出来ない」

 食い下がる阿杏の問いに、老人は諭すように答えた。

「具体的な願いか……。それじゃあ、お父さんがもうこれ以上、暴力を振るわないようにしてください。勿論あたしに対してだけじゃなくて、お母さんにも弟にも、二度と暴力を振るわないようにしてください」

 阿杏がそう願うと、老人は静かに眼を閉じ、ゆっくりと両手を挙げる。そして土俵入りの際に塵手水を切る力士の様に、パンと一回、大きな拍手を打った。破裂音が、空洞の中を反響する。

「よろしい。お前さんの願いを聞き届けてやったぞ」

 老人はそう言うが、彼の身にも阿杏の身にも、特に変化は見受けられない。

「……それだけ? もっとこう、神社の神主みたいに祝詞を唱えたりはしないの?」

 僕は再び拍子抜けし、老人に問うた。すると彼は呆れたような表情と口調でもって、僕を諭す。

「なあに、心配するな。派手な演出など、このわしには必要無い。この場で今すぐにと言う訳には行かないが、必ずや願いを叶えてみせよう。安心せい」

「本当ですか? 本当に、あたしの願いを叶えてくれるんですか?」

「本当だ。わしは然諾を重んずる。少しばかり時間を要するが、任せておけ」

 確認を取る阿杏に、老人は頷きながら諾った。そして彼は一息置くと、今度は阿杏の隣に立つ僕の方へと向き直り、改めて問う。

「それで、次はお前さんの番だ。お前さんは、このわしに何を願う?」

「僕は……」

 老人の問いに、僕は言い淀んだ。僕が叶えてほしい願いとは、一体何だろうか。何を願うのかと言う事は、裏を返せば、何を思い悩んでいるのかと言う事に他ならない。今の僕が、一番思い悩んでいる事。それを自分自身に問いかけた時、僕の脳裏に浮かんだのは父さんの顔だった。

「僕の願いは、僕と父さんとの関係を……」

 そこまで言いかけたところで再び僕は言い淀み、視線を落とす。脳裏に浮かんだ父さんの顔が、先週の日曜日に警察署の待合室で僕の頬を叩きながら泣いていた時の顔へと遷移したからだ。あの時の父さんの顔を思い出した僕は、確信する。僕と父さんとの関係は、きっともう、僕達二人だけの力で解決出来る筈だ。こんな所で胡散臭い妖や、自分自身を妖だと思い込んでいるただの浮浪者に頼る必要など無い。そう決意した僕は顔を上げ、老人の瞳を真正面から見つめ返しながらきっぱりと言い切る。

「僕には、あなたに叶えてもらいたいような願いはありません。自分の力で、解決してみせます」

 僕はそう言うと、威風堂々と胸を張った。すると老人はニタリと一層湿った笑みを漏らした後に、かんらかんらと声を上げて高らかに笑う。

「そうかそうか、願いが無いのならば、これに勝る果報も無し。お前さん、その心意気を良しとして、日々の精進に励むが良い」

 本当に嬉しそうに笑いながらそう言った老人は、今度は僕と阿杏の背後に立つ宮路さんを指差した。そして彼女にも、僕達と同様に問う。

「そこのお前さんは、何を願う? 一体どんな願いを、このわしに叶えてほしい?」

「え? あたし? あたしの願いも、叶えてくれるの?」

 問われた宮路さんはきょとんとした表情を浮かべると、自分の顔を指差しながら問い返した。自分の願いも叶えてもらえるとは微塵も思っていなかったらしい彼女は、腕を組んで小首を傾げると、本気で思い悩んでいる。どうやら宮路さんは育ちが良いだけでなく、かなりのお人好しでもあるようだ。

「あたしの願いは……」

 そこまで言い終えたところで言葉を切ると、彼女は僕の方にチラリと視線を向けた。そして少し頬を赤らめると、今度は阿杏の方へと視線を向け、益々をもって首を傾げながら思い悩む。その姿はまるで、蓄音機から聞こえて来る主人の声を不思議がっている、某音響機器メーカーのトレードマークの犬の様だ。

「ごめんなさい。あたしも霧島くんと同じで、特に願いはありません。だからなんて言うか、その、パスしてもいいですか?」

 何かを誤魔化すかのように笑いながらそう言って、宮路さんは老人に願いを叶えてもらう事を拒否した。そしてポリポリと頭を掻く彼女を見据えた老人は、再びニタリと湿った笑みを漏らす。

「そうかそうか。まあ、それも良かろう。それではこれで、わしの役目は終わった事になるな。お前さんがた、気を付けて帰るが良い」

 そう言い終えるや、老人は胡坐を掻いていた地面から腰を上げた。そして戸口に垂れ下がったボロ布を捲り上げると、出て来た時とは逆の仕草でもって、小屋の中へと姿を消す。後に残された僕達三人は、なんだか狐に摘まれたような表情を揃って浮かべながら、小屋の軒先に吊るされたランプの光に照らし出されていた。

「終わったんだよ……ね?」

 阿杏が誰にともなく問いかけたので、僕は答える。

「うん……。終わったんだと……思う」

 それは、不思議な体験としか説明のしようが無かった。真っ暗な地下世界を探検した後に、広大な空洞の中心に建てられた掘っ立て小屋に住む得体の知れない老人に出会って、彼に願いを告げた阿杏。その浮浪者にしか見えない悪臭漂う老人は、彼女の願いを聞き届け、それを必ずや叶えてみせると言ってのける。しかし果たして、そんな事が有り得るのだろうか。何やら現実感の無い体験を終えた僕達は、その場にぽかんと立ち尽くす。

「……帰ろっか?」

 暫しその場に立ち尽くした後に、宮路さんがボソリと呟くように提案した。

「……うん、帰ろう」

 僕は同意し、阿杏もまた無言で頷いたので、僕達三人は踵を返して帰路に就く。なんだか地下に下りてから今に至るまでの全ての事象が夢か幻の様に曖昧模糊としていて、上手く言葉では言い表せないが、僕はひどく納得が行かない。しかしこの空洞に漂う老人の体臭と蒸し暑さが、全てが現実であった事を思い知らせる。


   ●


「ふう」

 地下街への入り口から地上へと無事生還を果たした僕は、安堵の溜息を漏らした。そして何度も深呼吸を繰り返し、肺の中の空気を入れ替える。やはり蒸し暑くて生臭かった地下とは違い、地上の外気は格段に清涼で、美味い。また隣に立つ阿杏と宮路さんの二人も僕と同様に、地下街の入り口前で何度も深呼吸を繰り返している。

 結局僕と阿杏と宮路さんの三人は、地下の空洞で出会った不思議な老人に願いを伝え終えると、そこに至るまでの順路を引き返してここまで戻って来た。途中の駅のホームで寝ていた魔神仔達も、往路と同様にホームの下を這い進む事によってやり過ごし、特にトラブルも無いまま復路も完走したのだ。こうして地下深くから地上へと帰還すると、フォルモサのそぼ降る雨も懐かしく、心地良い。

「やっと地上まで戻って来れたね、尊くん」

「そうだね、阿杏。それじゃあ、長居は無用だ。さっさとこんな所からは立ち去って、家に帰ろうか」

 僕の言葉を合図に、僕達三人は各自のフラッシュライトを鞄に納めると、南天地区の繁華街を目指して歩き始める。そして貧民街の大通りを抜け、ドブ川に掛かる橋を越えると、そこには小さな人影が立っていた。

「姐姐!」

 そう言った小さな人影は、阿杏の弟である、忠信くん。彼は僕達に気付くとこちらに駆け寄って来て、姉である阿杏に抱き付き、尋ねる。

「姐姐、大丈夫だった? 無事に、妖には会えた?」

「大丈夫だよ、忠信。妖にもちゃんと会えたし、願い事も、ちゃんと伝えたから。だからきっと、これからは以前の様に家族皆で仲良く暮らせるよ」

 阿杏もまたそう言って、弟を抱き締めた。どうやら阿杏は、今回の妖探しの詳細を、忠信くんにも教えていたらしい。そして地下へと下りた姉の身を案じた彼は、この橋の袂でずっと、彼女の帰りを待っていたのだろう。

「霧島さんも宮路さんも、今日は本当に、姉がお世話になりました。本当に、ありがとうございます」

 やはり年相応ではない礼儀正しさでもってそう言うと、忠信くんは僕と宮路さんの方に向き直ってから、深々と頭を下げた。大人びた彼の言動に、なんだか僕達二人の方が、逆にかしこまってしまう。

「それじゃあ忠信、お家に帰ろう」

 そう言うと阿杏は弟と肩を抱き合い、歩き始めた。僕と宮路さんもまた、彼女達に続いて歩き始める。そして何本かの裏通りを横断し、次第に道を行き交う人影が増え始めると、やがて僕達は南天地区の夜市へと辿り着いた。ポケットから取り出したスマートフォンで時刻を確認すると、夕方の五時を少し回った頃。空には宵闇が迫り、夜市の露店も営業を開始している。

「一仕事終えたら、お腹が空いちゃった。ちょっと何か、甘い物でも食べて行こうよ?」

 食い意地の張った宮路さんが、提案した。

「いいね、賛成」

 僕は彼女に同意し、阿杏と忠信くんも頷く。

「地下は蒸し暑かったから、何か冷たいデザートが食べたいな。豆花トウファとか、忠信くんは好きかな? ん?」

「……はい、好きです」

 笑顔の宮路さんに尋ねられた忠信くんが、少し照れながら答えた。その表情は年相応の幼さで、僕はホッと安堵する。きっと彼は一日も早く一人前の男になって姉を守りたいのだろうが、あまり子供の頃から背伸びをし続けると言うのも、息苦しい生き方に違いない。

「それじゃあ、あたしが知っている美味しいお店があるからさ、そこに行こ?」

 そう言って先導する宮路さんに従い、僕と亜杏と忠信くんは夜市を歩き始める。行き交う人混みをすり抜け、やがて辿り着いた一軒の露店に入ると、僕達はテーブル席を確保した。そして四人で店先の行列に並び、自分達の順番を待つ。

「豆腐?」

 厨房内で店員が紙製のカップに盛っている白くて柔らかい塊を眼にした僕は、疑問を口にした。すると前に並ぶ宮路さんが、教えてくれる。

「うん、大体同じような物。でもこっちの豆花は内地の豆腐とは違って、甘いシロップをかけてデザートとして食べるの」

「ふうん」

 僕は得心し、自分の順番が回って来ると、店員から冷たい豆花が盛られた紙カップを受け取った。更にこの店では、その豆花に乗せるためのトッピングが、自由に選べるらしい。そこで僕は芋圓と呼ばれる芋の団子と小豆をトッピングし、内地のあんみつ風にして食べる事にする。

「尊くんは、芋圓を乗せたんだ」

 テーブル席に戻った僕の紙カップの中身を見た阿杏が、少し意外そうな表情でそう言った。彼女の紙カップの中の豆花には、マンゴーとタピオカがトッピングされている。また彼女の隣に座る弟の忠信くんは蒸し暑い地下に潜らなかったので、一人だけ暖かい豆花を選び、僕と同じ芋圓とピーナッツをトッピングしていた。先程阿杏が僕の紙カップの中身を見て意外そうな顔をしたのは、僕と忠信くんが同じトッピングを選んだからだろう。

「お待たせ」

 そう言って最後にテーブル席に戻って来た宮路さんは散々迷った結果、苺とタピオカをトッピングした豆花の上に甘い練乳とチョコチップをたっぷりとかけて、至極ご満悦の様子だった。

「いただきます」

 テーブル席に着いた僕達四人は、各自の豆花を食べ始める。甘いシロップをかけて食べると言う点を除けば確かに豆花は内地の豆腐とそっくりで、濃厚な大豆の風味とプルプルとした舌触りや喉越しは、ほぼ絹ごし豆腐と同じ物だ。しかしそんな絹ごし豆腐同然の食べ物が甘い事に、醤油味の豆腐に慣れた僕の脳は少し混乱する。

「あれ? どうしたの、霧島くん? 豆花は美味しくなかった?」

「いや、美味いんだけれど、なんだか甘い豆腐を食べているようで慣れないと言うか不思議と言うか……」

「そっか。確かに内地の甘くない豆腐しか食べた事が無い人には、ちょっと不思議な食べ物かもね」

 スプーンを持つ手が止まっていた僕にそう言いながら、宮路さんは苺とタピオカと一緒に甘い豆花を頬張っていた。阿杏と忠信くんの姉弟も、各自の豆花を美味そうに口に運んでいる。なんだか僕一人だけが豆花の本来の美味さを素直に味わえず、他の三人と比べると損しているような気がして、少し複雑な心境だ。

「ごちそうさま」

 やがて僕達は、豆花を食べ終えて一息つく。結局何やかやで、僕も自分の豆花を堪能した。慣れてしまえば甘いシロップで食べる豆腐も「あり」な気がして来て、これはこれで美味い。考えてみれば中華料理には甘い杏仁豆腐があるのだから、豆腐が甘くても何の不思議も無いではないか。

「それじゃあ、そろそろ帰ろうか」

「そうだね、もう陽も暮れちゃったし、これで解散にしよう」

 阿杏の提案に、僕は同意した。そして露店のテーブル席から腰を上げると、四人で連れ立って、本日の集合場所であった夜市の入り口へと足を向ける。南天地区の夜市は今夜もまた盛況で、どこもかしこも行き交う人混みでごった返していた。

「それじゃあまたね、尊くん、美恵。今日はあたしの妖探しに付き合ってくれて、本当にありがとう」

「霧島さんも宮路さんも、本日は姉の我侭に付き合ってくださいまして、本当にありがとうございました。弟である僕からも、お礼を述べさせていただきます」

 僕と宮路さんに礼を述べた阿杏と忠信くんの姉弟は、夜市の入り口で僕と宮路さんと別れると、彼女らの家の方角へと歩き始める。僕達は消え行く姉弟に手を振って、二人を見送った。

「霧島くん、今夜もこのまま一人で、夜市で晩御飯を食べて行くの? だったら、あたしも一緒に食べて行ってもいい?」

 宮路さんが尋ねたので、僕は答える。

「いや、今夜は一旦家に帰ってから夜市に戻って来て、父さんと二人で晩飯を食べる約束なんだ。父さんの仕事が昨日で一段落ついたから、たまには一緒に食べようじゃないかって話になってね」

「そうなんだ。それはちょっと残念、かな」

 意味深にそう言った宮路さんは、ミニバイクが停めてある駐輪場へと足を向けた。そして三つのチェーンロックを外してからミニバイクに跨り、ハーフヘルメットを被るとエンジンを掛け、僕に別れを告げる。

「じゃあね、霧島くん。また来週、学校で会おうね」

「うん。それじゃあまた来週、宮路さん」

 宮路さんは手を振りながらバイクを発進させ、夜市の前を走る国道を北上すると、やがて僕の視界から消えた。後に残された僕は空を見上げ、そぼ降る雨に暫し顔を打たせてから、自分の住む団地の方角へと足を向ける。久し振りに父さんと一緒に食事を摂れる事が、なんだかやけに嬉しい。

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