第六幕


 第六幕



「ただいま」

 自宅の自室へと帰還した僕は、誰に言うでもなく小声で呟いた。そして教科書とノートが詰まった鞄を板敷きの床に放り投げると、大の字になってベッドの上に寝転び、天井を見上げる。晩飯を少し食べ過ぎたせいか、若干だが腹が苦しい。ちなみに晩飯は、今日も宮路さんと一緒に夜市の露店で食べて来た。献立はシンプルに、蝦仁炒飯シャーレンチャオファン。要は内地で言うところのエビチャーハンであり、当然ながら持ち帰った父さんの分の晩飯もまた、同じ蝦仁炒飯だ。

「もう、あれから二日か……」

 僕は窓の外を眺めながら、独り言ちた。その言葉通り、僕と阿杏と宮路さんの三人が地下深くで妖を名乗る老人に願いを叶えてもらいに行ってから、既に二日が経過している。あれが土曜日の出来事だったから、即ち今日は、月曜日。そして僕はつい今しがた、学校から帰宅したと言う訳だ。

「やっぱりあの老人はただの頭のおかしいボケ老人で、願いを叶えてくれるって言うのも、結局は単なる都市伝説に過ぎなかった訳だ」

 再び僕は、独り言ちた。あの老人が願いを叶えてくれると言ってからのこの二日間、阿杏の身にも、また彼女の父親の身にも、何の変化も現れていない。何故なら昨夜もまた阿杏の父親は暴力を振るい、彼女は頬に絆創膏を張って登校して来たからだ。

「所詮、都市伝説は都市伝説に過ぎなかったって訳か。チ・ホアの情報も、あまり当てにはならないな」

 三度そう独り言ちた僕は、枕を胸に抱える。そして瞼を閉じると、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。すると次第に、意識が深い闇の底へと落ちて行く。このままだと寝てしまう事は分かっていたが、この眠りに落ちるまでの幸福感から逃れる術は無い。


   ●


 ドンと言う轟音と団地が揺れるほどの衝撃に、僕は全身をビクッと痙攣させて飛び起きた。ガラス窓がビリビリと震え、戸外からは人の叫び声も聞こえて来る。

「何だ?」

 僕はベッドから身を起こすと、急いで音のした方角の窓に駆け寄り、戸外を見遣った。するとここからでは詳細は確認出来なかったが、少し離れた別の街区の方角がオレンジ色に輝き、そこから黒煙が立ち上っているのが見て取れる。どうやら今の轟音は、その街区で発生した火事か何かが原因らしい。

「今の音は何だ、尊?」

 僕が廊下に出ると、ちょうど父さんも仕事部屋から出て来たところだった。仕事部屋の窓からでは、火事の方角は死角になっている。

「近くで火事みたい。ちょっと僕、行って見て来る」

 父さんにそう言うと、僕は玄関で靴を履いてから、雨のそぼ降る戸外へと飛び出した。ついでにポケットからスマートフォンを取り出して現在の時刻を確認すると、既に深夜の一時過ぎ。どうやら軽く食後の仮眠を取るだけのつもりが、完全に熟睡してしまっていたらしい。そしてエレベーターで一階へと下り、エントランスから団地の外に出ると、火事が発生している街区へと足を向けた。すると僕の他にも火事を見物しようと言う野次馬が大勢集まって来ていて、目指す街区にはちょっとした人だかりが出来つつあり、消防車や救急車のサイレンも聞こえて来る。

「うわあ」

 火事の現場に辿り着いた僕は、思わず驚愕の声を上げた。そこは僕が住んでいるのとさほど変わらない団地の一室で、先程の轟音はガスか何かが爆発したのか、窓がサッシごと完全に吹き飛んでいて跡形も無い。そしてごうごうとオレンジ色の炎と黒煙を夜空に噴き上げながら燃え盛るその部屋に、駆けつけた消防士達がホースと管鎗を使って放水し、消火作業に勤しんでいた。

「凄いなあ」

 僕は他人事の様に呟き、ワクワクと心が躍って、興奮を隠せない。吹き上がる炎は団地の壁を焼き、そこから発される放射熱と火の粉がここまで届いて、僕の顔も焼く。消防士達は必死の消火活動に懸命だが、火の勢いは衰える事を知らず、僕はその猛々しさに魅了されていた。

 だが次の瞬間、人垣を越えた先の燃え盛る火災現場のすぐ傍で、よく見知ったジャージ姿の少女が二人の消防士達によって行く手を阻まれている事に気付く。

「阿杏?」

 それは見間違えようもなく、阿杏の姿だった。彼女は泣き叫びながら火災現場に飛び込もうとするのを、消防士達によって力尽くで、その場に押し留められている。

「すいません、ちょっと、通してください!」

 僕は野次馬を掻き分け、警察による規制線も越えて、彼女の元へと駆け寄った。

「阿杏!」

 僕の声に気付いた阿杏が、こちらを振り向く。その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃに濡れ、凛々しい筈の眉は悲嘆に歪み、いつもの凛とした表情の面影も無い。

「尊くん……」

 彼女は駆け寄った僕の名を呼ぶと、その場に泣き崩れた。雨に濡れた地面に、涙がポロポロと零れ落ちる。

「まさか、あの燃えている部屋は……?」

「……あたしの……家……」

「両親と忠信くんは……?」

「まだ……あの中に居る筈……」

 僕は、言葉を失った。火災現場を見物して心が躍っていた先程までの自分を恥じて、きつく唇を噛む。そして燃え盛る阿杏の自宅を眺め、この火勢では誰も助かるまいと冷静に判断を下し、絶望感と無力感でもって胸が痛い。すると僕の足元で、阿杏が幼い子供の様にわあわあと声を上げて泣きじゃくりながら、嗚咽交じりに悲嘆の言葉を漏らす。

「なんで……なんでこんな事になっちゃったの……」

「阿杏……」

「本当だったら……願いが叶って……家族全員で仲良く暮らせる筈だったのに……」

 そう言い終えるのと同時に、一層の大声でもって泣きじゃくり始める阿杏。地面にへたり込んだまま慟哭する彼女にかけるべき言葉が、いくら考えても一向に見付からない。そんな今の僕に出来る事と言えば、しとしととそぼ降る雨に打たれながらその場に立ち尽くし、燃え盛る阿杏の自宅をただじっと眺め続ける事だけだった。

「どうかな、お前さんがた?」

 不意に背後から声をかけられ、僕と阿杏は振り返る。するとそこには、二日前に地下の空洞で出会った、願いを叶えてくれる妖を自称する得体の知れない老人が立っていた。そして老人は泣き崩れている阿杏を指差すと、ニタリと湿った笑みを漏らしながら言う。

「お前さんの願い、確かに叶えてみせただろう?」

 その言葉に、僕はキレた。そして大股で老人の元に歩み寄ると、彼の襟首を掴み上げるべく手を伸ばしながら、怒鳴りつける。

「このジジイ、何言ってやがる!」

 しかし威勢の良さとは裏腹に、老人の襟首を掴み上げた筈の僕の手は、空しく空を切った。そこでもう一度手を伸ばすが、やはり老人の襟首が掴めない。まるで実体の無い幻を相手にしているかの如く、幾度と無く試みても、僕の手は老人をすり抜ける。いや、単にすり抜けているのではなく、触ると言う概念自体が拒否されているような奇妙な感覚だ。

「無駄だよ、止めておけ。わしはここに居るようで、ここには居ない。居ない者は、どんなに頑張っても触る事は出来んからな」

 そう言って、老人はかっかと笑う。僕は口惜しさと怒りでもって顔を真っ赤に滾らせながら歯噛みするが、触る事が出来ないのでは、文字通り手が出せない。すると泣き崩れていた阿杏が、老人に向かって叫ぶ。

「何が願いを叶えてみせただ! あたしは、こんな事を願った覚えは無い! こんな、お父さんもお母さんも、それに忠信も死ぬような結果を望んだ覚えは無い!」

 彼女の抗弁を聞いた老人は、再びニタリと湿った笑みを漏らしながら言う。

「お前さんにとっては残念な結果かもしれないが、これがわしのやり方だ。わしは、人の死によってのみ願いを叶える妖なのだよ。そしてお前さんはわしに、父親が暴力を振るわなくなるようにしてくれと願った。母親にも弟にも、暴力を振るわないようにしてくれと願った。わしはその願いを、暴力を振るう者と振るわれる者の死によって叶えたのだよ。単に、それだけの事だ」

「そんな……」

 阿杏が、ガクリと項垂れた。

「こんな事になるのなら、あたしが死んだ方が、まだマシだった。あたしが願い事を叶えてもらいになんて行かない方が、まだマシだった。あたしが、あたしが……」

 力無くそう言い続ける阿杏は、その凛々しかった筈の顔を涙と鼻水でびしゃびしゃに濡らしながら、再び慟哭する。そしてそんな彼女の姿を見た老人は、空に向かってかっかと高笑いを上げ続け、嘲笑する事を止めようとはしない。

「まさか、本物の妖だったのか……」

 今更ながら、僕は気付いた。この老人は決して、自分を妖だと思い込んでいる可哀相な狂人などではない。人の死によってのみ願いを叶える、正真正銘の妖だったのだ。

「今頃気付いても、遅いよ」

 老人はそう言って笑い続け、阿杏は地面にへたり込んで慟哭し、僕はその場に立ち尽くす。その間にも阿杏の自宅である団地の一室はごうごうと燃え盛り、火の粉と灰燼が風に舞って、周辺一帯に薄く降り積もりつつあった。また何事が起きているのか理解出来ない消防士達は、僕達三人を見つめながら、ぽかんと口を開けている。火事の当事者らしき少女と少年と老人が訳の分からない問答を繰り広げているのだから、無理も無い。そして僕はふと思い立ち、一縷の望みに賭けて、老人に懇願する。

「頼む! 何とかして、阿杏の家族を助けてやってくれ! それが、僕が叶えてほしい願いだ! あの時の僕は何も願わなかったが、その分の願いを、今ここで叶えてくれ! 頼む!」

 そう叫ぶと、僕はその場に跪き、老人に向かって土下座した。これまでの人生で、初めての土下座だ。

「ふむ」

 すると老人は笑い止み、顎に手を当てて思案する。

「よろしい。確かにあの時、お前さんはわしに何も願わなかった。わしに願わずに、自分の力で解決してみせると言った。その心意気や良し。故にお前さんの心意気に免じて、そちらのお前さんの願いを、無かった事にしてやろう」

 老人はそう言いながら、最初は僕を指し示していた指を、途中から阿杏へと向けた。そしてその場に胡坐を掻いて腰を下ろすと、静かに眼を閉じ、ゆっくりと両手を挙げる。するとどこかで見た光景だなと僕が思う間も無く、願いを叶えた時と同様の仕草でもって、老人はパンと一回大きな拍手を打った。破裂音が、夜の闇に消える。

「これで、お前さんの願いは無かった事になったぞ」

 阿杏を指差しながら老人はそう言うが、僕と彼女には彼の言葉の意味が理解出来ない。だがすぐに、燃え盛る火災現場の方角から聞えて来た声に、その意味する所を知る。

「生存者三名救助! 大人二名! 子供一名! すぐに救急車を回せ!」

 火災現場から出て来た消防士が叫び、救急車を呼んだ。すると遠巻きに停車していた救急車がにわかにサイレンを鳴らし、現場へと近付く。そして団地の中に担架が運び込まれてから暫くすると、それぞれ一名ずつの負傷者を乗せた担架が三つ、団地内から戸外へと運び出されて来た。

「お父さん! お母さん! 忠信!」

 救急車に運び込まれるそれぞれの担架に駆け寄った阿杏が、泣きながら叫んだ。その涙は悲嘆の涙から、安堵の涙へと遷り変わる。

「三人は、あたしの家族なんです! 無事ですか? 助かりますか?」

 阿杏は、担架を運ぶ救急隊員にすがりついて問うた。

「ええ、おそらくは大丈夫です。軽い火傷を負っていますが、呼吸も安定していますから。命に別状は無いでしょう」

「良かった……」

 救急隊員の返答に、阿杏は安堵の笑みを漏らしながら、全身から脱力してその場に再びへたり込んだ。しかし今の彼女はもう、絶望する事も慟哭する事も無い。ただ泣きながら、家族の無事を喜ぶ。

「ほれ、お前さんの願いは、無かった事になっただろう?」

 救急車が走り去り、消防隊員が消火作業に奔走する中で、残された僕と阿杏に向かって老人が言った。その顔からはやはり、ニタリとした笑みが漏れている。

「全ての出来事に対して納得出来る訳ではないけれど……とりあえずは良かった……のかな?」

 僕は小首を傾げながら、呟いた。この妖である老人の力によって阿杏の家族は死に至り、また同じく彼の力によって死を回避出来たと、老人は言う。なんだか彼の自作自演、マッチポンプに踊らされたとしか考えられず、僕はひどく納得が行かない。しかも阿杏の自宅が火事に遭った事は厳然たる事実として残されているので、こちらの被害は甚大だ。

「さて、お前さんがた。まだ話は終わってはいないぞ?」

「未だ、何か?」

 不敵な笑みを浮かべる老人を、僕は訝しむ。そして家族が乗せられた救急車を見送り終えた阿杏も、へたり込んでいた地面から立ち上がると、老人の元へと歩み寄って来て僕と並んだ。すると老人は阿杏を指差しながら、彼女に新たな要求を突きつける。

「お前さんの願いを無かった事にしてやったが、それも、タダでと言う訳には行かない。それ相応の代償を支払ってもらおう」

「代償?」

 不穏な単語に、僕は問い返した。

「そうだ、代償だ。一度は叶った願いを無かった事にした結果、お前さんは一番大事なものを取り戻した。だからその代償として、二番目に大事なものを奪わせてもらおう」

 そう言うと老人は再び眼を閉じ、両手を挙げ、パンと一回大きな拍手を打つ。その破裂音が僕達の耳に届くのと同時に、僕の隣に立つ阿杏が、まるで糸が切れた操り人形の様にその場に崩れ落ちた。

「え? あれ?」

 雨に濡れた地面に崩れ落ちた阿杏が、不思議そうな表情を浮かべて困惑しながら、立ち上がろうとする。しかし身を起こしたところで再びバランスを崩し、立ち上がる事が出来ない。

「阿杏、どうした?」

「……膝が動かない。右の膝の感覚が突然無くなって、動かないの」

 彼女の身に何が起きたのかと案ずる僕にそう答えた阿杏は、感覚が無くなったと言う右膝を叩いたり擦ったりしながら、顔を蒼褪めさせて狼狽する。

「この! 動け! 動け!」

 必死で右膝を動かそうとする阿杏だったが、彼女が再び立ち上がれる気配は無い。すると僕らの前に胡坐を掻いて座ったままの老人が、かっかと高笑いを上げながら言う。

「無駄だよ。そんな事をしても、お前さんの膝の感覚は戻らん。どうやらお前さんにとって二番目に大事なものは、その右膝だったようだな。だから一番目に大事なものを取り戻した代償として、右膝は奪わせてもらった。悪く思わん事だな」

「そんな……」

 顔面蒼白の阿杏が、絶望するかのようなか細い声を漏らした。怒り心頭の僕は怒声を浴びせながら老人の元に駆け寄ると、懲りずに彼を捕まえようとする。

「ジジイ! なんて事をしやがる! 阿杏の膝を戻せ!」

 しかしやはり、老人を捕まえようとした僕の手は空しく空を切り、彼に触る事すら出来ない。悔しさで歯噛みする僕を、老人は嘲笑する。

「さてと、それではそろそろ、御暇させてもらおうか」

 そう言うと、老人は立ち上がった。すると彼の身体が、ゆっくりと夜の闇に溶けて行くかのように、曖昧になり始める。

「待て! 未だ話は終わってないぞ!」

 僕は叫ぶが、老人は湿った笑みを漏らすばかりで、要領を得ない。そして最後に、彼は僕を指差しながら忠告する。

「次は、お前さんの番だからな。首を洗って待つが良い」

 その言葉を最後に、老人の姿は虚空へと掻き消えた。彼が立っていた筈の場所には、一切の痕跡が残されておらず、老人の実在を証明するものは何も無い。後に残されたのはやり場の無い怒りを抱えて立ち尽くすばかりの僕と、雨に濡れた地面に崩れ落ちたまま、動かない右膝を抱えて茫然自失とするばかりの阿杏の姿だった。

 夜空には未だ、火の粉と灰燼が舞っている。

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