第七幕
第七幕
早朝、僕は南天地区の夜市の前を走る国道沿いの歩道に立っていた。この国道を真っ直ぐ南下すれば僕の通う国立南天大学付属高等学校に辿り着くので、転校して来て未だ二週間足らずではあるが、既に通い慣れた道だ。しかし今日はいつもよりも少し早めに家を出て、車道を走る車やバイクを歩道からジッと観察しながら、一台の車輌を待ち続けていた。するとドコドコドコと特徴的なエンジン音と共に目的のミニバイクが走って来たので、僕は手を振って停車を促す。
「おはよう、宮路さん」
「おはよう、霧島くん」
減速させたミニバイクを歩道に乗り上げてから停車させ、イグニッションキーを回してエンジンを切った宮路さん。彼女と僕は、朝の挨拶を交わした。
「どうしたの、こんな所で立ち止まって? 誰か待ってたの?」
「ああ、ちょっと話したい事があってね。宮路さんを待ってたんだ。」
「あたしを?」
宮路さんの問いに答えると、僕の待ち人が他ならぬ自分である事を知った彼女は、嬉しそうに微笑む。しかしそんな宮路さんとは対照的に、僕の表情は冴えない。
「未だ始業までは時間があるから、ここで話そうか」
「うん。何、話って?」
跨っていたミニバイクから降りた宮路さんは、サイドスタンドを立てて車体を固定すると、僕と向き直った。彼女の表情は明るく、何故かやけに期待に満ちているようにも見える。
「昨日の深夜、阿杏の家が火事とガス爆発に遭った」
「え?」
前置き無く発された僕の真剣な言葉に、宮路さんの表情が曇る。
「火元は未だ特定されていないらしいけれど、どうやら台所から出火して、それがたまたま漏れていたガスに引火したらしい。結構な爆発だったんでウチの周りは騒然としたんだけれど、さすがに北地地区に住んでいる宮路さんの所にまでは、爆発音は聞こえなかったのかな?」
僕の問いに、宮路さんはコクコクと頷いた。件の火事とガス爆発はテレビの地方局が朝のニュースでも取り上げていたのだが、どうやらそのニュースを観ていない彼女にとっては、これが初耳らしい。
「それで、阿杏はどうなったの? 無事なの?」
「その時間、阿杏はたまたま外出していたんで無傷だよ。……少なくとも、火事ではね」
僕は少しだけ思わせぶりに言葉を切ってから、続ける。
「ただし彼女の両親と弟が、火事に巻き込まれた。そして三人は助からないと誰もが思った時に、現れたんだ。三日前に地下で出会った、あのどんな願いでも叶えてくれると言う妖がさ」
「あの、酷い匂いのお爺ちゃんが?」
どうやら宮路さんにとってのあの妖の印象は、「酷い匂いのお爺ちゃん」らしい。育ちが良くてお人好しな彼女らしい間の抜けた表現に、僕は少しだけ笑いそうになるが、今は堪える。
「あの老人は、ただの臭い老人ではなく、本当に願いを叶えてくれる妖だったんだ。ただし願いを叶えてくれるとは言っても、無償でそうしてくれるような、都合の良い妖なんかじゃない。彼は人の死によってしか願いを叶えられない、ある意味ではこの上無く迷惑な存在だったんだよ」
「人の死?」
「そう。人の死によってのみ願いを叶える妖。それが、あの老人の正体だ。そしてそんな妖である老人が阿杏の願いを叶えた結果として、彼女の両親と弟の三人は火事でもって死ぬ事となった。暴力を振るう者と振るわれる者の両方が死んでしまえば、自動的に阿杏の願いは成就するからね。しかし勿論、それは彼女が思い描いていたような、理想的な結末じゃない。だから阿杏と僕は、老人に再度願ったんだ。この結末を、無かった事にしてくれと」
「うん、それで?」
宮路さんの顔色が、若干優れない。
「老人は、僕が地下で何も願わなかった事に免じて、阿杏の願いを無かった事にしてくれたよ。要は、キャンセルさせてくれたんだ。……それとも、クーリングオフさせてくれたと言った方が良いのかな? とにかくそのおかげで、間違い無く死んだと思われた彼女の両親と弟は、奇跡的に軽傷を負っただけで助かったんだ。……ただしその代償として、阿杏は高額なキャンセル料を支払う事になったけどね」
「何なの? その高額なキャンセル料って?」
「今、阿杏は両親と弟と一緒に、病院に入院している。彼女にとって一番大事なものである家族の命と引き換えに、二番目に大事なものである右脚を失ったんだ。つまり老人が阿杏の願いを無かった事にしてくれたのと同時に、彼女の右膝は動かなくなって、麻痺してしまったんだよ。勿論病院で医者に診てもらって、脊椎の損傷によるものか火事による精神的なショックが原因との診断が下されたけれど、要は原因不明だってさ。まあ、いくらフォルモサの医者だからと言っても、願いをキャンセルした代償として妖に右膝を奪われたなんて、カルテに書けやしないよね」
そこまで言い終えた僕は、深く嘆息して天を仰いだ。眼前に立つ宮路さんがガクガクと膝を震わせている事に、僕は未だ気付かない。
「とにかく、火事に遭った事は災難だけれど、幸いにも阿杏の家族は無事だった。ただしその代償として麻痺してしまった彼女の右膝は今も動かないし、今後も治癒するかどうかは医者にも分からない。つまり当面サッカーは出来ないし、特待生としての地位は返上せざるを得ないそうだ。……で、この事を伝えるために、僕はここで宮路さんを待ってたんだよ。本当なら昨夜の内に電話で伝えるべきだったのかもしれないけれど、なにぶん、深夜だったからね。それに電話で伝えるよりも、直接会って話した方が良いと思ってさ。まあこれで、もうあの妖と会う事も無いだろうね。宮路さんも、何も願わなくて正解だったよ」
僕がそう言い終えるのと同時に、宮路さんがグラリと体勢を崩して、背後に停めてあった彼女のミニバイクにもたれかかった。幸いにもミニバイクは倒れなかったが、宮路さんはその場に膝から崩れ落ちると、全身から脱力したかのように地面にへたり込む。また良く見れば血の気を失った彼女の顔面は蒼白で、額にはジワリと冷や汗が浮かび、眼の焦点が合っていない。
「宮路さん、大丈夫?」
僕はしゃがみ込んで、今にも気を失いそうな彼女の身を案じた。周囲を行き交う学生達が、遠巻きに好機の眼差しでもって、僕達二人を眺めている。
「阿杏の事なら、心配しなくても大丈夫だよ。右膝は麻痺してしまったけれど、意外と彼女、病院でも元気そうだったからさ」
僕は当初、友人である阿杏の右膝が動かなくなった事にショックを受けた宮路さんが、昏倒しかけたものとばかり思っていた。しかしどうやら、事実はより深刻らしい。
「……どうしよう、霧島くん……」
「ん? 何が?」
「どうしよう、あたしあのお爺ちゃんに、願い事を言っちゃったの」
「何だって? でもあの時、宮路さんも僕と同じで、特に願いは無いって言ってたじゃないか。そうだろう?」
確認を取る僕に、宮路さんは予想外の返答を返す。
「あたしね、あの次の日に、一人だけで地下に下りてあのお爺ちゃんに会いに行ったの。そしてそこで、本当は願い事がありますって、叶えてほしい願いを言っちゃったの」
「一人だけで地下に下りたって……なんでそんな危険な事をしたんだ?」
「だって、霧島くんにも阿杏にも、その願いの内容を聞かれたくなかったんだもん! 二人の前じゃ、とても言えないような事を願っちゃったんだもん!」
僕の問いに、宮路さんが叫ぶような口調でもって答えた。先程までは蒼白だった彼女の顔は紅潮し、その瞳には涙を湛えている。
「……何を願ったの?」
「霧島くんと阿杏とが疎遠になって、その代わりに、あたしが霧島くんと結ばれますようにって願っちゃったの。あのお爺ちゃんって、誰かが死ぬ事によって願いを叶える妖なんだよね? だとしたら、このままだと霧島くんか阿杏が死ぬ事によって、その願いが叶っちゃうよお……」
そう言うと、宮路さんはぽろぽろと涙を零しながら、嗚咽を上げて泣き始めた。僕は彼女の願いの内容に、暫し呆然とする。
「なんで、そんな事を願ったの?」
「だってあたし、霧島くんの事が好きなんだもん! 霧島くんが阿杏の事を心配してばかりいるのが、羨ましかったんだもん! だからあたし、阿杏と疎遠になれば、霧島くんがあたしに今よりも興味を持ってくれると思って……。だから……。だから……」
言葉を詰まらせながら泣き続ける宮路さんを前にして、僕は自分の愚かさを呪った。こんなにも近くから自分に向けられていた、彼女の一途な想い。それに全く気付いていなかった自分の鈍感さに、今はただひたすらに腹が立つ。そしてまた同時に、僕は思い出した。昨夜、妖である老人が夜の闇に掻き消える寸前に発した、最後の言葉を。
「あれは、そう言う意味だったのか……」
あの老人は言っていた。次は、僕の番だと。つまりおそらくは、宮路さんの願いを叶えるために、今度は僕が死ぬ番なのだろう。
「大変だ」
僕は呟き、顔から血の気を引かせながら、額に冷や汗を滲ませた。このままでは僕が死んでしまう事も勿論一大事だが、自分の願いが原因で想い人が死ぬと知った宮路さんが心に負う傷の深さもまた、看過出来ない。そして僕は足元でおいおいと泣き続ける宮路さんを横目に、ポケットからスマートフォンを取り出すと、アドレス帳から阿杏が入院している病院の電話番号を選択した。病床の彼女が既に起きている事を、切に願う。
●
南天地区の夜市と平行して走る、骨董街。その一角の雑居ビルの前に立つ僕は、宮路さんがビルの前に停めたミニバイクを三つのチェーンロックでもって施錠し終えるのを待ってから、彼女と共にそのビル内の狭くて暗くて傾斜が急な階段を上り始めた。そして辿り着いた二階の店舗のドアに掲げられた店名は、『Hoa's Library』。僕達はその飴色に光るドアを開け、店内へと足を踏み入れる。
「いらっしゃいませ」
やはり澄み渡る青空の様に綺麗な、それでいて少し妖艶な香りが漂う声でもって、僕達は歓迎された。声の主は当然、店の奥のレジカウンターの前に立つアオザイを着た一人の女性、チ・ホア。彼女は以前と同じく、入店して来た僕と宮路さんを見つめながら、ニコニコと微笑んでいる。
「チ・ホア」
僕は彼女の名を呼ぶと、背後に宮路さんを従えて、チ・ホアが立つレジカウンターへと歩み寄った。そしてややもすれば昂ぶらせた感情的な口調でもって、彼女に詰め寄る。
「あなたは知っていたのか? あの妖が、人の死によってしか願いを叶えられないと言う事を」
「あら? そうだったの? と言う事は、あなた達はあたしが教えた都市伝説を信じて地下に下りて、その妖に会って来たのね? それで願いを叶えてもらえると思ったら、人の死によってしか叶えられないと、そう言われたのかしら?」
「何を白々しい……」
上品かつ妖艶な仕草でもって口に手を当てながら、わざとらしく驚いてみせるチ・ホア。そんな彼女の姿に僕は歯噛みし、苛立ちを隠せない。果たしてこのベトナム女が、どこまであの妖の正体を知りながら僕達に地下へと下りる事を勧めたのかと思うと、腹の底から怒りがこみ上げて来る。
「それで、今度はあたしに何を聞きたいのかしら?」
「決まっている。あの妖に告げた願いを、どうすればキャンセル出来るか、その方法だ。あなたはその方法を知っているんだろう?」
僕はチ・ホアの顔に僕の荒い鼻息が吹きかからんばかりの距離にまで顔を近付けて、問い質した。しかし彼女はのらりくらりと、僕の追及をかわす。
「さあ? あたしはあなた達に、あたしが聞いた都市伝説を教えてあげただけで、それ以上の事は知らないけれど? 勿論その妖が人の死によってしか願いを叶えられない事も知らなかったし、その願いのキャンセル方法も知らないからね?」
その綺麗な顔に困惑するような表情を浮かべながらそう言ってのけるチ・ホアだったが、僕には彼女の本心が読めない。仮に彼女が本当に何も知らなかったのだとしたら、こんな不確定要素だらけの都市伝説を教えたチ・ホアは、あまりにも無責任に過ぎる。しかし逆に彼女が全てを知っていて都市伝説を教えたのだとしたら、それはそれで、一体チ・ホアに何の得があって僕達を欺いたのかが知れない。ただどちらにしても確かな事は、僕達は彼女に嵌められたと言う事だ。
「待ってよ、霧島くん。チ・ホアは、本当に何も知らなかったのかもしれないよ?」
お人好しの宮路さんは、どうやら性善説を信じる性質らしい。だが僕は性悪説を信じる性質なので、拳を握り締めてチ・ホアと対峙するも、肝心のベトナム女はニコニコと上品な笑みをその綺麗な顔に浮かべていた。
「それで霧島くん、あなたは、願いをキャンセルする方法を知りたいのね? だったらもう一回地下に下りて、その妖に直談判してみたらどうかしら? 彼だって、決して鬼じゃないと思うの。だから誠心誠意頼み込めば、もしかしたら何の代償も支払わずに、願いをキャンセルさせてくれるかもしれないじゃない?」
「そんな都合良く行くのなら、今頃は阿杏の脚だって……」
僕はチ・ホアの提案に、握り締めた拳に更なる力を込めて歯噛みする。しかし眼前のベトナム女の眼帯を当てた瞳からは、彼女の言葉以上の情報はまるで読み取れない。本当に本気で妖への直談判を提案しているのか、それとも何か裏があるのか、僕には皆目見当が付かなかった。
「……分かった。それしか方法が無いのなら、もう一度地下に下りて妖に直談判してみよう。もしかしたら、未だ交渉の余地が残されているかもしれないからな」
今はとりあえず、チ・ホアの提案に乗る以外の選択肢が無い。
「霧島くん、あたしも一緒に行くから。あたしが余計な事を願っちゃったせいで霧島くんの命が危険に晒されているんだから、あたしが責任を負わなくちゃいけないの。だからあたしも、その直談判に同行するからね」
鼻息も荒い宮路さんが僕のパーカーの裾を握り締めながら、毅然とした態度で宣言した。その瞳からは頑とした決意が見て取れ、子犬の様におっとりとしたいつもの彼女の柔和な表情は、今は鳴りを潜めている。
「待って。もう一度地下に下りるのなら、あたしも一緒に行くから」
不意に背後から聞こえて来た声に、僕と宮路さんはドアの方角へと振り返った。するとそこに立っていたのは、いつの間にかこのチ・ホアの店に入店していた、いつものジャージ姿の阿杏。彼女の登場に、僕達は驚きを隠せない。
「阿杏?」
「嘘、本当に阿杏?」
「あら阿杏、いらっしゃい」
僕達は三者三様に、阿杏を言葉でもって出迎えた。そして彼女を歓迎すべく、顔を綻ばせながらその来訪を待ち受ける。しかし阿杏は、まるで老人か赤子の様なたどたどしい足取りでしか、こちらに歩み寄って来る事が出来ない。その原因は勿論、彼女の右膝を襲った突然の麻痺だ。しかしそれでも、彼女は麻痺した右膝に長下肢装具と呼ばれる関節の動きを補助する医療器具を装着し、ロフストランドクラッチと呼ばれる肘当ての付いた杖を突きながら、必死に歩く。
「阿杏、どうしてここに?」
「どうしてって、さっき電話で、困った時にはチ・ホアに相談しろと助言したのはあたしじゃないか。だからあたしも、この店に向かっている筈の尊くんと美恵に合流するために、必死でここまで歩いて来たんだよ? まさか二人とも、あたしだけを置いてけぼりにする気だったの?」
僕の問いに、僕らの元にまで歩み寄って来た阿杏は、さも当然と言った口調で胸を張りながら答えた。確かに僕が病院の電話番号に掛け、看護師に取り次いでもらった電話で彼女と今後の対応を相談した際に、阿杏からチ・ホアの店に行けと言われた事は事実だ。しかしまさか、入院している筈の彼女自身がここまで来て合流するとは、思ってもみなかった。
「ちょっと待てよ? そもそもキミは、入院していたんじゃなかったのか?」
「へへへ、看護師の隙を見て、逃げ出して来ちゃった」
舌を出し、少しおどけた表情でもって悪びれる阿杏。彼女の返答と態度に、僕は天を仰いで嘆息する。
「そんな脚じゃ、危険な地下には連れて行けないよ」
「駄目じゃないの阿杏、病院から逃げ出すなんて。それに霧島くんの言う通り、そんな脚で地下に下りたりなんかしたら、怪我するだけじゃないの」
僕に続いて宮路さんもまた、呆れながら忠告した。しかし阿杏は、一歩も引かない。
「元々今回の妖探しの一件は、あたしの家庭の問題が発端だったんだ。だから、あたしには最後まで事の成り行きを見守って、その責任を負う義務がある。それに地下に下りて、あの妖にまた頭を下げる必要があるのなら、下げる頭は多い方が良いでしょう? 仮に頭を下げるだけじゃなくて代償を求められたとしたら、なんならあたしは、この左膝も差し出す覚悟でいるからね」
そう言って阿杏は、健常である自身の左膝をバンバンと叩いてみせた。勿論、いくらなんでもこれ以上、彼女に代償を払わせる訳には行かない。だが昨夜麻痺したばかりの膝を押してでも、ここまで歩いて来た彼女の事だ。たとえ僕達がいくら押し留めても、きっと這ってでも同行する覚悟なのだろう。
「分かったよ。阿杏も一緒に行こう。ただし、絶対に無理はしないように。その脚ではもう一歩も進めないような状況になったら、素直に僕の言う事に従って、引き返すんだ。分かった?」
「うん、分かった。無理はしない。同行を認めてくれてありがとう、尊くん」
阿杏は、僕に礼を言った。対して宮路さんは未だ少し心配顔で、僕に尋ねる。
「本当にいいの、霧島くん? 阿杏のこの脚で、本当に地下まで行けると思うの?」
「仕方が無いさ。仮にここで拒んだとしても、きっと阿杏の事だから、一人で僕達の後を追って来ると思うよ。そうなるくらいだったら最初から連れていった方が、いくらかマシだよ、きっと」
僕がそう言うと、宮路さんも渋々ながらに納得したのか、半ば呆れたような表情で首を縦に振った。勿論僕も彼女と同様に、阿杏の同行を、天啓の如き妙計奇策とは考えていない。しかし今ここで阿杏を拒絶すれば、それはそれで、今後の僕達三人の関係に禍根を残す事は容易に想像出来る。阿杏の身の安全も勿論大事だが、彼女が納得するだけの正念場を用意してやる事もまた大事だ。こうなってしまった以上は、これまでにも増して阿杏と宮路さんの二人を自分が守らねばならぬと、僕は思いを新たにする。
「どうやら、話がまとまったようね? それじゃあ出発前に一休みして、お茶にしましょうか? ちょうど昨日、新しい蓮花茶を入荷したところなの」
まるで責任を感じている素振りも無くそう言ったチ・ホアは、茶を淹れるために、レジカウンターの奥の厨房へと足を向けた。そして途中でこちらを振り返ると、微笑みながら僕に告げる。
「あたしが都市伝説を教えてしまったお詫びとして、頼もしい用心棒を紹介してあげるからね?」
その声色からは、やはり悪びれているような様子はうかがえない。
●
「ねえ、本当にこんな物でいいの?」
そぼ降る雨に濡れた舗装道路をミニバイクを押して歩きながら、僕が手にしたビニール袋を指差した宮路さんが怪訝そうに尋ねた。
「さあ……。でもチ・ホアがこれでいいって言っていたんだから、これでいいんじゃないのかな?」
僕は曖昧な返答を返すと、自分でも不安になって来たので、ビニール袋を開けて中身を確認する。袋の中身は、発砲樹脂製の食品容器。分かり易く言うと弁当屋なんかでよく使われている、白いスチロール製の容器。あれが合計で三パックほど、チェーン展開する露店のロゴが印刷されたビニール袋に入っていた。容器の中身は出来たてなので、ビニール袋の上から触っても未だ温かく、食欲をそそる良い匂いを周囲に漂わせる。
「着いたよ」
「ああ、着いたね」
目的地に到着した事を阿杏が教えてくれたので、僕はビニール袋から顔を上げて、同意した。眼前には、見上げるほどの高さにまでそびえ立つ、大きな鳥居。そしてその鳥居の奥には、厳かな雰囲気を漂わせる神社の境内が広がっている。
ここは、南天地区の市街から少し外れた小道を通った先に居を構える、金山神社の門前。そして僕と阿杏と宮路さんの三人は、チ・ホアの指示に従い、骨董街の彼女の店からここまで足を伸ばして来た。ただし途中で一度露店に立ち寄ったので、真っ直ぐここまで来た訳ではない。
「お待たせ」
「うん、それじゃあ中に入ろうか」
鳥居の傍にミニバイクを停めた宮路さんと合流し、僕達は神社の境内へと足を踏み入れた。阿杏は未だ杖を突いて歩く事に慣れておらず、ややもすれば置いて行かれそうになるが、それでも僕達に遅れまいと必死で歩き続ける。当初、僕と宮路さんは彼女に手を貸そうとしたが、かえって歩き難いと言って拒まれてしまった。果たして実際に手を貸された方が歩き難いのか、それとも阿杏なりに僕や宮路さんのお荷物にはなりたくないとの矜持から来る発言だったのかは、判別が付かない。どちらにせよ、今は彼女の意志と判断を尊重するのが得策だろう。今後の阿杏の日常生活が杖無しには成り立たない事を考慮すれば、
可能な限り早く杖に慣れておくべきである事は間違い無いのだから。
「前にここに来たのは、転校初日に宮路さんに連れられて来た時だったな」
「そうだね。あの時はまさか、こんな用事でここにまた、霧島くんと一緒に来る事になるなんて思いもしなかった」
僕と宮路さんは、以前二人でお参りした時の事を思い出して、少しだけ懐かしむ。宮路さんにとっては、あれが初デートのつもりだったのかもしれない。
「何? 二人は前にも一緒に、ここに来た事があるの?」
「まあ、ちょっとね」
「ふうん、随分と意味深な言い方だね。デートでもしたの?」
阿杏の問いを誤魔化す僕を、杖を突いて歩く彼女がからかった。その内容は当てずっぽうで言ったのかもしれないが、なまじ間違ってもいないので否定し難く、宮路さんは少しだけ顔を赤らめる。
「金山神社の拝殿の左右に並ぶ狛犬と言うと……これか」
参道を歩いて社務所の横を通過し、やがて切妻屋根の拝殿に辿り着くと、その左右に配された石造りの狛犬を見上げた。台座の上に置かれた狛犬は立派で、僕は何となく、その頭を撫でる。
「さてと、それで二つ並んだ狛犬の内の、口を開けている方の足元にこれを置けばいいんだね?」
僕はそう言うと件の狛犬に近付き、手にしたビニール袋の中からスチロール製の容器の一つを取り出すと、その容器の蓋を開けた。途端にむわっと湯気が立ち上り、周囲に漂っていた美味そうな匂いが、その濃度を増す。
「美味しそう」
隣に立つ宮路さんが、黒縁眼鏡の奥の瞳を輝かせながら、殆ど無意識に呟いた。僕もゴクリと、溢れ出す唾を飲み込む。と言うのも、その食品容器の中身は出来たて熱々の美味そうなたこ焼きだったのだから、致し方ない。表面はパリパリ、中はトロトロの絶妙な加減に焼かれた生地と熱されたソースの芳醇な香りは、否が応にも食欲を刺激する。
「これでいいのかな?」
僕はそのたこ焼きを一パック、狛犬の足元の台座の上にそっと置いた。そして台座から一歩後ろに下がると、暫し様子をうかがう。すると心なしか、雨に濡れた狛犬の表面を伝い落ちる水滴が増えたように感じられ、それはまるで石で出来ている筈の神獣が汗を掻いているようにも見えた。更に時間を置くと、遂に狛犬がぶるぶると震えるように動き出す。
「何だ?」
驚く僕達の眼前で、石造りの狛犬の輪郭が次第に曖昧になり始めた。すると次の瞬間、狛犬は眩く輝きながらはらはらと微細な欠片になって分解し、その欠片が再集結して新たなる形を成す。そして気付けば、今しがたまで狛犬が置かれていた台座の上に、僕と同年代くらいの少女が一人立っていた。
「もう我慢出来ないの!」
たすき掛けにした白衣に緋袴と言う巫女装束を動き易いように多少アレンジした和装に身を包んだその少女は、そう叫びながら足袋に下駄履きの足で台座の上から地面にひょいと降り立つと、たこ焼きの容器を手に取ってから僕に詰め寄る。
「ちょっとあんた達! 何の権利があって、こんな物をあたしの眼の前に置いてんの! こんな物を置かれたら、出て来ざるを得ないじゃないの!」
怒気を孕んだ声でそう言った少女は、未だ驚いている僕の眼前でたこ焼きを一つ摘み上げると、自身の口の中へと放り込んだ。そして今しがたまで眉根を寄せていた顔を瞬時に綻ばせ、心から美味そうにたこ焼きを咀嚼する。
「美味しい……」
間の抜けた笑顔で次々とたこ焼きを頬張りながら、少女は歓天喜地の声を漏らした。それを呆然と見つめる僕と阿杏と宮路さんの三人は、その場に立ち尽くしたまま、何が何だか訳が分からない。すると僕達の横手で再び眩い光が煌いたかと思うと、今度は拝殿を挟んで反対側に置かれた台座の上の狛犬もまた数多の欠片に分解し、再集結によって一人の少女の姿を成す。そして新たに現れた少女もまたひょいと地面に降り立つと、つかつかと大股で、こちらに歩み寄って来た。その顔には、明らかに怒りの色が滲む。
「ちょっと阿! あんた、なんでそんなに簡単に顕現してんの! 人前でそんなに軽々しく顕現していたら、お社様の沽券にも関わるでしょ!」
「だってえ……。そんな事を言っても吽、たこ焼きだよ? 出来たて熱々の、たこ焼きだよ? こんな美味しそうな物を眼の前に置かれたら、顕現もしちゃうよお……」
二人目の少女に詰め寄られた一人眼の少女が、情け無い声を漏らした。どうやらこの少女は、たこ焼きに眼が無いらしい。
「まったく……。とにかく、顕現してしまったからには仕方が無い。後でお社様にも怒ってもらうから、覚悟しておきなさいね。……それで、あんた達も阿の好物を知っていたと言う事は、どうせあたし達に用があってここまで来たんでしょ? 誰の紹介で、何の用で来たのさ?」
吽と呼ばれた二人目の少女は、阿と呼ばれた一人目の少女を叱責し終えると、こちらへと向き直って僕の顔を指差しながら尋ねた。一方で僕も含めたこちらの三人はと言えば、突然現れた彼女らにどう接したものか未だ決めかねていて、少し言葉に詰まる。
「えっと……」
僕は言葉を選びながら、眼前に立つ巫女装束の少女二人を見比べた。最初に姿を現した阿は髪が短く、大きな垂れ眼が特徴的で、今も呑気にたこ焼きを食べ続けている。彼女とは対照的に長い髪を結った吽の方はと言えば、切れ長の釣り眼が特徴的で、僕の返答が遅い事に随分と苛立っている様子だった。また二人ともほぼ同じデザインの巫女装束に身を包んでいるのだが、阿の方が少しだけぽっちゃりと肉付きが良いのに対して、吽の方は心なしか痩せぎすに見える。有り体に言えば阿の外観は狸を連想させ、吽の外観は狐を連想させた。
「僕らはチ・ホアから、ここに来るように言われて……」
「チ・ホア? ああ、あのベトナム人の女か。よりにもよってあの女狐の紹介ともなれば、これはきっと、碌でもない用なんだろうさ」
狐の様な吽がチ・ホアを女狐呼ばわりしながら、天を仰いでわざとらしく嘆息してみせる。どうやら彼女とチ・ホアは、決して良好な関係と言う訳ではないらしい。
「それで? あんた達はチ・ホアの紹介で、何の用でここまで来たのさ?」
「えっと、実は僕達、このフォルモサの地下に住み着いている妖に願いを叶えてもらいに行ったんです。しかしその妖と言うのが、実は人の死によってのみしか願いを叶えられない妖だと言う事を、後から知りまして……。このままだと、この宮路さんの願いを叶えるために、僕が死ぬ事になりそうなんです」
「ふうん。まあ、よほど慈悲深くてお人好しの神様でもない限りは、願いを叶えてくれる存在なんて言うのは大概そんなもんなんだけどさ。あんた達も、そのくらいは知っておきなさいよ」
吽は腕組みをし、呆れたような口調でもってそう言った。
「それでこれからまた地下に下りて、その妖に、願いを無かった事にしてくれないかと直談判しに行くところなんです」
「そう。で、それがあたし達と、何の関係があるのさ?」
僕の説明に、やけに食って掛かる吽。おそらくはこれが彼女の素の口調なのだろうが、少しだけ癪に障る。
「実は地下へと下りる事をチ・ホアの店で相談していたら、頼もしい用心棒を紹介すると言われて、それでここに来たんです。ここで口を開けている狛犬の足元にたこ焼きを置けばその用心棒が必ず現れるから、地下で妖との直談判が決裂した場合には、彼女らに助けてもらいなさいと言われて……」
僕の説明の途中で、吽は背後でたこ焼きを食べ終えた阿を睨んだ。
「阿! あんたがそんなに食い意地が張っているから、あのチ・ホアなんかに付け込まれるんじゃないの! たかがたこ焼きなんかで易々と正体を現すなんて、それでもお社様に仕える神獣の端くれなの? 恥を知りなさい、恥を!」
「ごめんなさい、ごめんなさい、だって、たこ焼きが美味しそうだったんだもん」
怒る吽に、怯える阿。まるでコントの様な二人に、今度は僕の方が呆れる。
「はあ……。それでまあ、あんたの話を要約すると、これから地下に下りてその胡散臭い妖とやらに直談判しに行くから同行してくれって事ね? それって用心棒と言えば聞こえは良いかもしれないけれど、結局は、ただの子守りじゃないの。残念ながらあたしらだって、そんな子供のお使いについて行ってあげるほど、暇じゃないんだからね? 悪いけれど、お断りさせてもらうよ」
そう言って、膠も無く僕達をあしらおうとする吽。しかし僕は、彼女がそんな態度に出た場合の対処方法もまた、チ・ホアから聞かされていた。
「チ・ホアが言っていました。用心棒として僕達に同行してくれれば、前回の負け分をチャラにしてあげてもいいと」
僕の言葉に、吽の顔色が変わる。
「……本当に? あのチ・ホアが?」
「はい」
「そうか……。負け分チャラか……」
吽は眼を瞑ると眉間に皺を寄せて首を捻り、うんうんと唸りながら、考えあぐね始めた。何の負け分なのかはチ・ホアからも知らされていないが、それをチャラにしてもらえると言う条件は、随分と魅力的らしい。そしてたっぷり五分ほども熟慮を重ねた後に、遂に吽は首を縦に振る。
「……分かった。不本意だけれど、負け文チャラと引き換えとあっては仕方が無い。用心棒として、あんた達と一緒に地下に下りてやろうじゃないか」
深い溜息と共に、吽が直談判への同行を許諾した。
「本当ですか、ありがとうございます!」
「但し、チ・ホアの負け分チャラとは別に、これはあんた達への借りとさせてもらうからね? いつか何かの機会にこの借りは必ず返してもらうから、覚悟しておきなさいよ」
そう言って、吽は僕達三人を睨め回す。そして背後を振り返ると、たこ焼きを食べ終えて手持ち無沙汰にしていた阿の首根っこを掴み、こちらへと引き寄せた。
「それじゃあ改めて、お互いに自己紹介をしようじゃないの。あたしは吽で、この子は阿。共にこの金山神社のお社様に仕える、神獣狛犬さ」
「どうも、阿です」
巫女装束の二人はそう言って、誇らしげに胸を張る。
「あ、えっと、霧島尊です。高校二年生です」
「王杏です。同じく高校二年生です。阿杏と呼んでください」
「同じく、宮路美恵と言います。よろしくお願いします」
三者三様に、僕達も簡単な自己紹介を終えた。すると吽の手を振り解いた阿が一歩前に出るや、僕の手にしたビニール袋を指差し、自己紹介などどうでもいいとでも言いたげな表情と口調でもって要求する。
「あのさ、その袋の中のたこ焼き、食べないんだったらあたしが貰ってもいいかな? 駄目?」
チ・ホアにたこ焼きを買ってから神社に行けと言われたので念のために三パック買って来たのだが、その残りも欲しがるとは、この神獣は随分と食い意地が張っているらしい。
「まあ、いいですけど」
僕が呆れながら、内地に本拠を置くたこ焼きチェーン店のロゴマークとマスコットキャラクターが印刷されたスチロール製の容器を手渡すと、阿は間の抜けた笑みを漏らしながら恭しくそれを受け取った。そして早速蓋を開け、爪楊枝を手に取ると、ソースとマヨネーズに濡れたたこ焼きを美味そうに頬張り始める。その緊張感の欠片も無い姿に、彼女の隣に立つ吽もばつが悪そうに頭を抱えていた。
「美味しそう……」
不意に聞こえて来た声に振り返れば、宮路さんが指を咥えて、たこ焼きを頬張る阿を羨ましそうに見つめている。どうやらこの場に居合わせた五人の中で食い意地が張っているのは、阿だけではないらしい。
「ねえ、霧島くん。残りの一パック、あたしが貰っちゃ駄目かな?」
「いいよ。はい、宮路さん」
宮路さんは僕の手からたこ焼きの入った容器を受け取ると、阿と同じく間の抜けた笑顔を浮かべながら、その中身を頬張り始める。育ちが良い筈の彼女も、食べ物の前ではその威厳を保てないようだ。
「あんたも、大変そうだな」
そう言って、吽が僕に同情の視線を向ける。
「そっちこそ」
僕もまた、吽を同じ視線でもって見つめ返した。そして僕らの間に奇妙な連帯感が生まれている最中にも、阿と宮路さんの二人は、出来たて熱々のたこ焼きを美味そうに頬張り続けている。
●
先の週末に訪れたばかりの地下街の入り口前に、僕と阿杏と宮路さんの三人に新たに阿と吽を加えた合計五人は立っていた。
「ここか」
「ここみたいね」
釣り眼の神獣吽と垂れ眼の神獣阿とが入り口を見上げながら確認し合うと、首をくいっと傾けて、僕達に追従して来るように促す。
「行くよ。霧島、あたし達が前衛を勤めるから、後ろから道案内を頼む」
「あ、はい」
吽の要請に同意した僕は、先行する阿吽の二人に続いて、阿杏と宮路さんと共に地下へと続く階段を下り始めた。杖を突いて歩く阿杏は階段に多少難儀している様子だったが、僕達はあえて手を貸さない。その代わりに、万が一彼女が階段を踏み外した際にも落下するその身体を即座に支えられるように、それとなく阿杏の少し前方を重心を後ろに傾けて歩く。
「随分と暗いね。しかも、なんだかやけに生臭いじゃない」
自身の鼻を摘みながら不快げにそう言った吽は、右手でもって空中に印を切った。するとその掌の上にぼうっと、握り拳くらいの大きさの火の玉が浮かび上がり、それが吽の周囲を漂いながら暗い地下街を明るく照らし出す。これが俗に言う、狐火と言うやつなのだろうか。
「臭いねえ、吽。鼻が曲がりそうなの」
「本当に臭いな、阿。こんな仕事はとっとと終わらせて、早くお社に戻ろう」
僕と阿杏と宮路さんの三人はこの匂いを以前にも体験して多少は慣れているが、これが初体験らしい阿吽の二人は、地下街に足を踏み入れた瞬間から文句たらたらだった。しかしこんな地下第一層で不平を漏らしていては、あの強烈な悪臭を発する妖に出会った日には、あまりの臭さに卒倒するかもしれない。
「あの改札を超えてから、更に階段を下ってホームに下ります」
ダンボールやベニヤ板で作られた浮浪者のねぐらの脇を通過し、散乱した建材やガラス片や排泄物を乗り越えて、やがて地下街の連絡通路を二百mばかりも歩くと、駅の構内に入るための自動改札が見えて来た。そして前回来た時のまま破壊された状態で横たわるその自動改札の残骸を、僕達五人は強引に踏み越える。さすがにその際は、僕と宮路さんの二人が阿杏に手を貸した。左右から半ば担がれる格好でもってなんとか残骸を踏み越えた阿杏は、僕達に礼を言う。
「ありがとう尊くん、美恵」
「やっぱり、その脚で地下に下りるのは無理があったんじゃないか?」
「……そうかもね。皆のお荷物になっちゃってる事は、自覚してる。でもね、元はと言えばあたしが蒔いた種だから、その結末は最後まで自分の眼で見届けておきたいの。なんか、ごめんね。いつもいつも、あたしの我侭にばかり付き合わせちゃって」
「そんな、謝る事じゃないよ。我侭だなんて思ってないから」
「そうだよ阿杏。それに今は、あたしの願いが原因で皆を巻き込んじゃっているんだから、謝るのはあたしの方だよ」
珍しく気弱な阿杏を、僕と宮路さんは励ました。その間も阿吽の二人はと言えば、僕らの事になど構わずに先を急ぐ。
「この階段を下ればいいのか?」
地下鉄のホームへと続く長い階段を見下ろしながら、先頭を行く吽が尋ねた。その問いに答えて僕が頷くと、彼女は相棒である阿と共に、階段を下り始める。彼女達に少し遅れて僕達三人も階段を下り始めるが、吽が生み出した狐火だけでは陰になった箇所が暗かったので、僕と宮路さんは鞄の中から取り出した各自のフラッシュライトで足元を照らした。特に宮路さんは、杖を持つ手とは反対の左手で手摺を掴んでいるためにフラッシュライトを持てない阿杏に代わって、彼女の足元を照らしてあげている。
「次は、このホームの端まで歩いて、そこから線路に下ります」
「ふうん」
階段を下り切ってホームに辿り着いた僕が出した指示を、阿吽の二人は了解した。そして狐火とフラッシュライトの灯りを頼りに、暗いホームを歩き始める。
「それにしても、蒸し暑いな。乞食がいない分だけ匂いはマシになったが、こうも蒸し暑いと、もうお社に戻りたくなって来た」
「これから更に地下に下りるんで、蒸し暑さも倍増しますよ」
「マジかよ、糞」
既に嫌気が差して来ている吽に僕が追い討ちを掛けると、彼女は辟易とした口調でもって悪態を吐いた。だがそれも、無理はない。僕にとってもこれで二度目の来訪となる地下世界はやはり蒸し暑く、駅のホーム内の全ての壁面が結露で濡れ、天井からはポタポタと絶え間無く水滴が滴り落ちて来る。そして無人のホームを縦断し、完膚無きまでに破壊された売店の横を通過すると、やがて線路へと下りるための短い鉄階段に突き当たった。その鉄階段は湿気によって錆が浮き、赤茶色に変色している。
「よっと」
「ほっと」
顕現した神獣である阿吽の二人は人間よりも身が軽いらしく、鉄階段を使わずにホームから直接線路の上へと、ひらりと飛び降りてみせた。ホームに辿り着くための長い階段を下りている際もそうだったが、一見すると不安定な高下駄を履いているのに、よく転ばないものだと感心する。
「尊くん、ごめん、ちょっと手を貸して」
「うん、いいよ阿杏。支えているから、ゆっくり下りて」
線路へと下りる鉄階段には手摺が設置されていなかったために、さすがに杖だけでは危険だと判断した阿杏の求めに応じて、一足先に下りていた僕が手を貸した。そして僕ら二人の足元をフラッシュライトで照らしてくれていた宮路さんも線路へと降り立ち、五人全員が揃ったところで、線路沿いのトンネル内を一路北上し始める。
「……ねえ、霧島くん」
「ん? 何、宮路さん?」
狭くて蒸し暑いトンネル内を歩いている最中に、宮路さんが僕の名を呼んだ。
「阿杏と同じようにさ、あたしも霧島くんの事を、下の名前で呼んでもいい?」
どうやら彼女は、僕の呼称を変えたいらしい。
「うん、別に構わないけど?」
「そっか。それじゃあこれからは霧島くんの事を、尊くんって呼ぶね」
そう言うと宮路さんは、相変わらずの子犬の様な笑顔でもって微笑む。そう言えば僕が死ぬとか死なないとかの騒ぎですっかり失念していたが、彼女にとっての僕は、危険を冒してまでも妖に交際を祈願するほどの想い人なのだ。その想い人の呼称が苗字から名前へと変遷し、親密度がほんのちょっと向上するだけでも、女の子にとっては舞い上がるほどの喜びなのだろう。
「ところで、吽さん」
「吽でいいよ。さん付けなんて、鬱陶しい」
「それじゃあ、吽。チ・ホアが言っていた、前回の負け分って何なんですか?」
僕の素朴で率直な問いに、吽の表情が曇った、そしてげんなりとした彼女は一度舌打ちをしてから、ボソリと呟く。
「……麻雀」
「え?」
「麻雀だよ、麻雀。賭け麻雀でボロ負けしたんだよ、あのベトナムの女狐相手にさ。まったく、フォルモサ式の麻雀は殆ど経験が無いって言うから舐めてかかっていたら、あの女狐の配牌がツキまくってやがったんだ。それでここぞとばかりに高配当の役で上がられまくって、気付いたら素寒貧さ。それで手持ちが足りなくなって、返済を待ってもらってたんだよ、畜生」
そう言うと、吽は再度舌打ちをした。そして麻雀で負けた事がよほど悔しかったのか、線路の脇に置かれた配電盤の外装を、力任せに蹴り飛ばす。ステンレス板で出来た箱が蹴られたガンと言う衝撃音が、トンネル内を反響した。
「……それはまた、災難でしたね」
「いいよ、慰めなくても。身から出た錆だって事は分かってるんだしさ」
同情する僕に、吽はふくれっ面を向ける。どうやらこの一件に関しては、あまり触れない方が得策らしい。
「で、ここに入る、と」
やがて二十分余りも歩いた後に、僕達は更に地下へと下るための、『34-S』と書かれた作業用通路の鉄扉の前に辿り着いた。ここに至るまでに前回よりも時間がかかってしまったが、その原因はやはり、杖を突いて歩く阿杏の歩速に合わせて全員が行動しているからに他ならない。勿論それに不平不満を漏らす者は一人もおらず、阿杏自身も可能な限り同行者の負担にならないように努力している。
「開けるよ」
吽がそう言うや、ノブを回して鉄扉を開けた。ギギギと錆びた金属の軋む音が、トンネル内に反響する。そして姿を現したのは狭い作業用通路と、更なる下層へと続く鉄階段。その鉄階段を一列縦隊になって、僕達五人は下り始めた。
「阿杏、気を付けて」
「うん、大丈夫」
鉄階段には手摺が設置されているが、傾斜が急な上に一段の幅が狭いので、右膝が麻痺している阿杏は下るのに難儀する。一応は僕が前を歩いて彼女が転落した際にはその身体を支える準備をし、後ろを歩く宮路さんがジャージの襟首を掴んで最悪の場合にも頭だけは打たないように細心の注意を払ってはいるが、それでも不自由な足での降下は予断を許さない。そして運良く三階層分の鉄階段を何事も無く下り終えた僕達は、再び姿を現した鉄扉を押し開いて、新たなるトンネルの中へと足を踏み入れた。先程までのトンネルよりも深い分だけ、更に蒸し暑さが増す。
「あ、そうだ忘れてた。吽、その狐火を今すぐ消して。それと皆、声を立てず静かに」
「どうした、霧島?」
僕の要請に、訝しみながらも吽が狐火を消し、僕と宮路さんもフラッシュライトを消灯した。するとトンネルの先、南西の方角がオレンジ色に仄明るく輝いているのが確認出来る。
「あれは、何の灯りだ?」
事情を知らない吽が、僕に尋ねた。
「この先の地下鉄の駅に、魔神仔と言う小人の妖が棲みついているんだ。こいつらに気付かれたら厄介だから、前回と同様に、ホームの下を這い進もう」
小声でそう提案した僕の言葉に従い、阿吽の二人を先頭にした僕達一行は姿勢を低くすると、トンネルの壁沿いを忍び足で前進する。静寂に包まれた密閉空間の中では、阿杏の杖がコンクリート製の床を突く音が、妙に甲高く聞こえた。また時々天井から滴り落ちて来る結露の水滴が頭や背中を打ち、その度にひゃあと声を上げそうになって、心臓に悪い。そして次第に闇が薄まり、僕達の顔をオレンジ色の光が照らし始めると、やがて地下鉄の駅のホームの端へと辿り着く。
「やっぱり居た。今日もまた眠っているみたいだけど、魔神仔だ」
「ふうん、あれが魔神仔か」
身を低くしたまま頭だけを覗かせ、ホームの上をうかがいながら、僕と吽が小声で言葉を交わした。その言葉通り駅のホーム上では前回来た時と同じく、オレンジ色に輝きながら揺れる焚き火を囲んで、魔神仔の一団が眠っている。
一見すると、まるで皮膚を剥かれて筋繊維が剥き出しになった類人猿の様な外観の赤い小人、魔神仔。高いびきを掻きながら眠っているこの妖達とは、可能な限り悶着は避けたい。
「また寝てるね、魔神仔ちゃん達。あたしが一人で来た時も、ずっと眠ってたよ?」
やはり緊張感が足りない宮路さんが、醜悪な面構えの魔神仔をちゃん付けで呼んだ。
「あいつら、もしかして夜行性なのかな? だとしたら昼間は寝ている筈だから、今の内にホームの下を這い進んで行こう」
「身を隠しながら、這って行くのか。はっきり言ってそんなやり方は、性に合わんな。お社様に仕える神獣の身としては、この上無く屈辱的だ」
僕の提案が不満らしい吽が不平を漏らし、舌打ちをする。しかし今は、とにかくこの先の空洞に棲む妖の元にまで無事に辿り着く事が先決だ。その事を重々承知している阿吽の二人は、不本意ながらも這い蹲ると、眠りこけている魔神仔達に見付からないように細心の注意を払いながらホームの下の退避ゾーンを這い進む。そして神獣の二人に続いて僕もまた這い蹲ろうとした時に、ふと気付いた。阿杏の麻痺した脚では、ここを這い進む事は出来ない。
「やっぱりその脚では、ここを這って行くのは無理だよね?」
「……うん。どうやらあたしが皆と同行出来るのは、ここまでみたい。この脚じゃ、仕方無いね。あたしはここで待っているから、尊くん達は構わずに、先に進んで」
そう言って、残念そうに肩を落とす阿杏。自身が蒔いた種の結末を最後まで見届けておきたいと言っていた彼女の事だから、その胸中は察するに余りある。
「僕が阿杏を背負って、先に進めないかな?」
「そんな、無理をしないでいいから。尊くん、そこまで体力に自信は無いでしょ?」
「まあ……うん。その、ごめん」
己の不甲斐無さに、僕は恐縮した。そんな僕に空元気の笑みを向けながら、阿杏は僕を励ます。
「そんな情け無い顔をしないで。尊くん自身の命がかかっているんだから、頑張らなくっちゃ」
そう言って僕の背中を叩く阿杏に、宮路さんが決意を述べる。
「それじゃあここで待っててね、阿杏。絶対にあたしが、あの酷い匂いのお爺ちゃんにあたしの願いをキャンセルしてもらって、尊くんの命を救ってみせるから。阿杏の分も、頑張るよ」
「うん。頑張ってね、美恵」
手を握り合い、見つめ合う阿杏と宮路さん。二人は無言で頷き合った後に、名残惜しげにゆっくりと手を放した。そして宮路さんは僕と共に這い蹲ってホームの下へと向かい、阿杏はトンネル内の、柱の影に身を隠す。
「遅いぞ霧島、宮路、急げ」
先行する吽が手招きしながら、僕と宮路さんに向かって叫んだ。勿論叫んだとは言っても周囲に聞こえないほどの小声でだが、口の動きからそう言っているのが分かる。
「急ごう、宮路さん」
「うん、尊くん」
僕達もまたホームの退避ゾーンを這い進んで先を急ぎながら、小声で囁き合った。そしてホームの中央に近付くに従って、次第に頭上から聞こえて来る魔神仔達のいびきの声量が大きくなり、奴らとの距離が縮まっている事を実感する。
「ん?」
やがて魔神仔達に最接近したところで、僕はふと気付いた。今しがたまで背後から聞こえて来ていた宮路さんの足音が、止まっている。そこで背後を振り返ると、何故か彼女はホームの上に頭と手を覗かせて、眠っている魔神仔達の一団に向けてスマートフォンを構えていた。
「ちょっと! 何やってるの宮路さん!」
僕は小声で問うが、当の宮路さんは呑気な口調でもって答える。
「ん? あのね、魔神仔ちゃんがこんなに近くで見られる機会はそうそう無いだろうから、今の内に動画を撮っておこうと思ってね」
呑気にも程がある宮路さんの返答に僕が呆れた、次の瞬間。彼女が構えたスマートフォンが、結構な音量でもってパシャリとシャッター音を発した。その無機質な機械音が、駅の構内を反響する。
「あ」
「「あ」じゃないよ、宮路さん! 気付かれるよ!」
「ごめん、尊くん。動画を撮るつもりが、間違えて静止画の方のシャッターを押しちゃった」
弁解する宮路さんだったが、残念ながら、時既に遅し。焚き火を囲んで眠りこけていた魔神仔の内の一体がぱちりと眼を開くと、もぞもぞと身体を揺すりながら半身を起こし、首を巡らせた。そしてホームの上に頭を覗かせていた僕と宮路さんの視線とその魔神仔の視線とが、ばっちりと搗ち合う。すると間髪を容れずに、件の魔神仔が絶叫するかのような声量でもって、キーッっと天高く鳴いた。その鳴き声を合図にして途端に他の魔神仔達も一斉に目を覚まし、立ち上がって周囲を警戒する。
「やばい! やばい! やばい!」
「どうしよう、尊くん! 見付かっちゃった!」
僕達は慌てて身を隠すが、背後からは魔神仔達の鳴き声と足音が聞こえ、それが次第にこちらへと迫りつつあった。そして遂に、赤い小人である魔神仔の一体がねぐらにしているホームから線路上へと飛び降りて、退避ゾーンに身を潜めた僕と宮路さんと対峙する。その手には錆だらけの鉈を握り、キーッと一際大きな声で鳴くと、ただでさえ醜悪な顔を憤怒でもって歪ませながらこちらへと駆け寄って来る魔神仔。おそらくは縄張りを侵された事に激怒し、僕達を殺して生皮を剥ぐ気に違いない。僕は宮路さんを身を挺して庇いながら、死を覚悟した。鈍色に光る鉈が、迫り来る。
だが魔神仔の振るう鉈が僕の首を切り落とすよりも一瞬早く、こちらへと飛び来る者が存在したかと思うと、それが赤い小人の頭を蹴り飛ばした。その者とは、顕現した神獣の一人、吽。彼女はその足に履いた高下駄の底でもって、後一歩で僕を屠りかけた魔神仔の側頭部に強烈な飛び蹴りを叩き込み、僕と宮路さんの命を救ってみせた。そして今の今まで息を殺してホームの下を這い進まねばならなかった鬱憤を晴らすかの如く、高らかに宣言する。
「やっぱりこうやって正々堂々と正面突破する方が、あたしの性に合ってるね! 霧島! 宮路! あんた達は下がってな! この醜い小人どもは、あたし達が完膚無きまでに叩きのめしてあげるよ! 行くよ、阿!」
「ほい来た、吽!」
仁王立ちする吽の隣に阿もまた飛び来ると、二人は揃って虚空に印を切った。すると何も無かった筈の空間に朱漆に濡れた柄も鮮やかな薙刀がそれぞれ一振りずつ顕現し、阿吽の二人はそれを手に取ると魔神仔達に向かって構え、名乗りを上げる。
「やあやあ、遠からん者は音に聞け! 近からん者は眼にも見よ! 我こそは金山彦神が忠実なる下僕にして誉れ高き神獣狛犬、名は阿!」
「名は吽!」
「我らに仇なす命知らずはかかって来い! 名を上げたき者は前に出よ! いざ尋常に、勝負! 勝負!」
最後は二人揃って名乗りを上げ終えた阿吽の二人は、薙刀を振るって柄尻で地面を打ち鳴らし、見得を切ってみせた。薙刀の柄に結わえられた朱色の飾り房が風に舞い、房の根元の鈴がしゃらんと鳴る。そして打ち捨てられた地下鉄の駅のホームは、にわかに戦場と化した。
「宮路さん、下がって!」
僕は宮路さんを抱き寄せると、彼女と共に、背中合わせで薙刀を構える阿吽の背後の壁沿いへと退避する。そして阿吽の二人が追加で印を切って複数の狐火を呼び出せば、仄暗かった周囲が昼間の様に明るくなった。
「さあ、どこからでもかかって来な! この醜い小人どもが!」
「神獣の力、今こそ見せてやる!」
阿吽が叫び、魔神仔達を挑発する。ある者はキーキーと鳴き、ある者はギャッギャと笑う赤い小人達。彼らの手には欠けた鉈や錆びた鎌と言った凶刃、もしくは鉄パイプやハンマーと言った鈍器が握られ、自分達の縄張りを侵した獲物を生かして帰さぬ気でいる事は明々白々だった。そして僕達を取り囲むように鶴翼の陣を組んだ魔神仔達は、じわじわと間合いを詰めて逃げ場を無くし、どうやら一斉に襲い掛かる魂胆らしい。
「尊くん、あたし怖い」
「大丈夫。こっちには、頼もしい用心棒がついているんだ」
小柄な身体を震わせる宮路さんの肩を抱きながら、彼女を安心させるために僕は囁いた。するとその囁きを耳ざとく聞きつけた吽が、余裕綽々とでも言いたげな口調でもって豪語する。
「よくぞ言ったよ、霧島! ここは用心棒であるあたし達に任しておきな! なあに、この程度の雑魚どもなんて、あっと言う間に捻り潰してくれるよ!」
その言葉を理解してか、敵である魔神仔達もギャアギャアと喚き声を立てながら、地面を打ち鳴らしていきり立った。場の興奮は最高潮に達し、激突の時は近い。
「来るか」
薙刀を構えた阿吽がそう呟くと、互いの勢力が得意とする間合いを計り合い、周囲が静寂に包まれる。コンクリート壁に囲まれた駅の構内に反響する、両者の荒い呼吸音。そしてその呼吸音すらも止まった、次の瞬間。魔神仔達のリーダーらしき個体がギャーッと一際大きな声で鳴いたのを合図に、赤い小人の一団が手にした得物を振り上げながら、一気に距離を詰めた。
「甘い! 甘い! 甘い!」
魔神仔達の動きを読んでいた阿が、掛け声と共に全身を躍動させて、柄を長く持った薙刀を横薙ぎの大振りにぶんと振るう。するとその一撃を避けようとした魔神仔達の連携が乱れ、隙が生じた。そしてその隙を逃さずに、体勢を崩した魔神仔の内の一体目掛けて、今度は吽が跳躍する。
「折伏!」
本来ならば仏教用語である一声と共に、薙刀の柄を短く持った吽の大上段の一撃が、狙い定めた魔神仔の脳天を真っ二つに両断した。するとカチ割られた赤い小人の頭部からは血と脳漿ではなく、代わりに赤く輝く神代文字の羅列にも似た光の帯が立ち上り、それが白蟻に食われる材木の様に魔神仔の身体を蝕み始める。そして数拍の間の後に、光の帯によって全身を食い尽くされた魔神仔は、まるで最初からそんな者など存在しなかったかの如く消え失せた。後にはその小人が持っていた筈の得物と下着程度の衣服だけが、ポツンと残されている。
「見たか! これぞ我らが折伏の刃の力なり! 貴様ら卑賤の下郎どもを、力尽くでもって神代の国へと送り届けてくれようぞ!」
吽が得意満面に謳い上げ、再び薙刀を振るって柄尻で地面を打ち鳴らし、見得を切ってみせた。すると見得を切られた魔神仔達は怯んで退散するかと思いきや、むしろ興奮と怒りでもって囂然たる気勢を上げ、益々をもっていきり立つ。分かりきっていた事だが、もはや両者の間に和解の余地は無い。そして駅の構内を反響する無秩序な怒号と共に、赤い小人達の第二波が阿吽の二人に襲い掛かる。
「そんな動きじゃ、あたし達は倒せないのさ! 頼んだよ、阿!」
「ほい来た、吽!」
掛け声と共に、阿吽の二人は迫り来る魔神仔達に向かって薙刀を振るった。阿は全身を使って大きな円を描く様に薙ぎ、吽は腰を入れて直線的な動きでもって突き、戦略や戦術と言った高度な戦法を持たない魔神仔達を次々と屠って行く。どうやら膂力に勝る阿が大技でもって敵を撹乱し、技術に勝る吽が浮き足立った敵を各個撃破して行くのが阿吽の常套手段らしい。
「折伏! 折伏! 折伏!」
やがて十体ばかりの魔神仔が阿吽の薙刀によって一刀に伏され、赤く輝く光の帯に食われて消え失せると、さすがの赤い小人達も盲滅法な突撃は敢行しなくなった。そして両陣営は距離を取り、呼吸を整えながら、互いに相手の出方をうかがう。
「お? 真打ちの登場か?」
そう言って、阿吽が身構えた。何故ならば彼女達の視線の先で、ホームの天井を支える柱の影からぬっと、以前ここに来た時にも見かけた一際大きな巨体を誇る魔神仔が姿を現したからだ。その身長は優に二mを越えており、足の先から頭の天辺まで赤黒く染まったその風貌は、まさに皮膚を剥かれた巨漢のゴリラとでも表現すべきだろうか。しかもゴリラとは違ってその顔は醜悪で、口の端からは泡立った涎をボトボトと垂らし続けている。
「我が名は阿!」
「我が名は吽!」
「貴様に名乗る名があるならば、今ここで名乗ってみよ!」
阿吽の二人が改めて名乗りを上げ、巨漢の魔神仔にも名乗りを要求するが、どうやら赤いゴリラには日本語が通じていないらしい。その証拠に、巨漢の魔神仔は鼻息を荒げながら赤い顔を更に紅潮させて興奮するばかりで、その挙動からは正々堂々と名乗りを上げるような素振りは一向にうかがい知れなかった。
「名乗るべき名も持たぬとは、所詮は下郎か」
溜息と共に吽が吐き捨て、薙刀を構え直す。そして良く見れば、巨漢の魔神仔の手に一本の細長い鉄塊が握られている事に、僕は気付いた。その鉄塊の正体は地下鉄の線路の軌条、俗に言うレールであり、重量数百㎏はあろうかと言う鋼鉄製のそれを大上段に振りかぶった巨漢の魔神仔は、威嚇の雄叫びと共に阿吽の二人目掛けてその鉄塊を打ち下ろす。
「遅いよ!」
ごうと言う衝撃と共に打ち下ろされたレールがコンクリート製の床を砕いてホームに亀裂を走らせたが、そこに立っていた筈の阿吽の二人は嘲笑の声と共に身を翻して回避しており、その姿は疾うに無い。そして側転で宙を舞い、巨漢の魔神仔を左右から挟み込むように着地した彼女達は身を屈めると、薙刀の柄尻でもって獲物の脚の脛を左右同時に打擲した。すると急所である弁慶の泣き所を攻め立てられた巨漢の魔神仔は、堪らず床に膝を突き、おうおうと苦痛の声を漏らす。
「今だ、阿!」
「ほい来た、吽!」
互いの掛け声を合図にして、阿吽の二人はその場で地面とは平行に身体を一回転させると、遠心力によって加速した薙刀の切っ先を巨漢の魔神仔の喉元に左右の斜め下から同時に突き立てた。するとまるで磔獄門に処された罪人の胴体の様に、二振りの薙刀が、赤いゴリラの喉から首後ろにかけてを交差するように貫通する。巨漢の魔神仔の喉から、ゴボリと言う音と共に真っ赤な鮮血が漏れた。
「折伏!」
阿吽が同時に叫ぶと、巨漢の魔神仔の喉元に開いた傷口からも赤く輝く光の帯が立ち上り、それが魔神仔の巨体を蝕み始める。そしてものの十秒足らずで、赤いゴリラは跡形も無く光の帯に食い尽くされ、消え失せた。主人を失くしてホーム上を転がる鋼鉄製のレールが、妙に物悲しい。
「さあ、どうした? 貴様らの実力はこの程度か? 我らに恐れをなして勝負を捨てると言うならば、背中を見せてとっとと去ね! 未だ戦うと言うならば、死を覚悟してとっととかかって来るがいい! さあ! さあ! さあ!」
巨漢の魔神仔を倒した事で気が大きくなったらしい阿吽の二人が、かんらかんらと高らかに笑いながら挑発した。彼女達を囲んで居並ぶ赤い小人達も、さすがにこのままでは勝ち目は薄いと感じたのか、ジリジリと後退を開始する。すると次の瞬間、線路の奥の僕達が元居た方角から、カシャンと言う軽い金属音と共に「きゃっ」と小さな悲鳴が聞こえて来た。その金属音と悲鳴に視線を巡らせれば、地下鉄の線路上で転倒している阿杏の姿が眼に入る。どうやらトンネル付近の柱の影から、僕達からは一人離れて事の成り行きを見守っていた彼女が、線路の枕木に躓いて転んだらしい。そしてそんな阿杏を指差しながら、リーダー格と思われる魔神仔が一際大きな声でギャーッと鳴いた。その鳴き声と同時に、魔神仔の内の一体が、彼女目掛けて走り出す。
「しまった!」
阿吽が表情を曇らせながら叫び、脚の悪い阿杏の救出に向かおうと一歩を踏み出した。しかしそうはさせまいと、他の魔神仔達が立ち塞がって、彼女達の行く手を阻む。勿論その程度の雑魚でしかない魔神仔では阿吽の二人は倒せまいが、彼女達が足止めされている間に阿杏が人質に取られでもしたら、形勢が逆転される事は想像に難くない。そしてそんな事を考えている今この瞬間にも、リーダーからの勅命を受けた魔神仔が、転倒したまま立ち上がれない阿杏に迫りつつある。
「阿杏!」
僕は彼女の名を呼ぶと同時に、宮路さんの肩を抱いていた手を放すと、半ば無意識のまま阿杏を救出すべく駆け出していた。幸いにも魔神仔は小人で、しかも足が短い。僕は決して俊足ではないが、それでも何とかギリギリで、先行する赤い小人に追いつける目測が立つ。だが次の瞬間、無情にも僕の足先は線路の枕木に引っ掛かり、僕は無様に転倒した。膝と肘をコンクリート製の床にしたたかに打ち付けて、激痛が走る。
「阿杏、逃げろ!」
痛みを堪えて立ち上がりながら、僕は叫んだ。しかしそんな僕の数十m前方では、未だ線路上に転がったままの阿杏が体勢を立て直そうと難儀しており、そこに魔神仔が接近する。その魔神仔の手には出刃包丁の様な鋭利な刃物が握られ、まさに絶体絶命の状況と言う他無く、もはや一刻の猶予も無い。
「尊くん!」
「阿杏!」
僕達が互いの名を呼び合った、その刹那。僕の頭の直上を、空中を飛ぶ何かが疾風を纏いながら物凄い速度で通り過ぎて行ったかと思うと、それが出刃包丁を持った魔神仔の腕を肩口から切断した。ギャアギャアと、片腕を失った魔神仔が真っ赤な鮮血にまみれながら鳴き喚く。そして赤い小人の腕を切断した後にトンネル内の柱に突き刺さって止まっていたのは、柄が朱漆に濡れた一本の薙刀だった。
「間に合ったな」
背後から聞こえて来た声に振り返れば、吽が薙刀の投擲を終えた体勢で立っており、僕と視線を合わせた彼女はニヤリと笑みを漏らしながら僕に命令する。
「さあ、霧島! 早く阿杏を助けに行け! 急げ!」
その言葉に、僕は急いで立ち上がると、阿杏を魔神仔の凶刃から救い出すべく再び駆け出した。するとその間にも、片腕を失った魔神仔は自分の腕と共に床を転がった出刃包丁を拾い上げ、転倒したままの阿杏に改めて迫る。随分と諦めの悪い小人だとも思うが、奴も奴で必死に違いない。
「させるかよっ!」
しかし魔神仔が阿杏に襲い掛かる寸前に遂に彼女の元へと駆け寄った僕は、ここまで駆けて来た勢いと全体重を乗せた渾身の回し蹴りを、気合一閃と共に赤い小人の脇腹に叩き込んだ。すると醜い声でギャアと鳴いた魔神仔は、線路の上を転がった後にトンネルの壁に頭を激突させると、首を変な方向に向けて倒れ伏したままピクリとも動かなくなった。また魔神仔を蹴った僕自身も、慣れない事をしたせいか少し足を痛めたらしく、足首の関節と腱がズキズキと痛い。
「阿杏、無事か?」
僕は痛めた足を庇いながら、転倒したままの阿杏の身を案じて彼女に歩み寄る。
「うん、あたしは大丈夫。尊くんこそ、大丈夫?」
「ああ、僕なら大丈夫。ちょっと足を痛めただけだから」
僕は安堵の笑みを漏らしながらそう言うと、阿杏を引き起こすために、身を屈めてから彼女に手を差し伸べた。だが阿杏は驚愕の表情を浮かべ、僕の背後を指差して叫ぶ。
「尊くん! 後ろ!」
「え?」
僕が背後を振り返ろうとした、次の瞬間。僕の首に何か細長い物が巻き付き、ギリギリと絞め上げ始める。
「げふっ……ふっ……」
僕は苦悶しながらも可能な限り首と視線を巡らせ、背後を見遣った。するとそこに立っていたのは、先ほど僕が蹴り飛ばした筈の、片腕を失った魔神仔。その魔神仔が壁にぶつけた頭部から流血しながらも、残った一本の長い腕でもって、裸絞めの要領で僕の首を絞め上げる。
「く……そ……」
相手が片腕を失っている事から未だ完全に極められてはいなかったが、それでも呼吸不全に陥りつつあった僕は、頭上に上げた手を背後に回して魔神仔の首を絞め返した。赤い小人の喉がゴボゴボと痙攣する感触が手に伝わって来て、気味が悪い。だがとにかく今は、互いに首を絞め合って、どちらが先に息の根を止められるかの根競べに死力を尽くす。
「が……は……」
魔神仔の腕によって気道と頚動脈が圧迫され、次第に顔が鬱血し、視界が赤く染まり始めると同時に意識が遠退き始めた。明確な死が目前に迫りつつあると言う事実に、今更ながらゾッと恐怖する。そして赤かった視界が闇に閉ざされて完全に意識を失う寸前、僕の首を絞め上げていた魔神仔の腕から不意に力が抜け、だらりと胸元を滑り落ちた。
「げっ、げほっ、げほっ、はーっ、はーっ、はーっ」
激しく咳き込みながら深呼吸を繰り返し、ようやく酸素が巡り始めた脳味噌でもって、僕は自分が根競べに勝利した事を理解する。そして僕の背中にもたれかかるような体勢で脱力している魔神仔の死体から手を放すと、背後へと押し退けた。ドサリと音を立てて、赤い小人が線路上に崩れ落ちる。
「尊くん、大丈夫?」
「ああ、正直言ってかなり危なかったけれど、なんとか死なずに済んだらしい」
心配する阿杏に汗だくの顔を向けながらそう言って、僕は再び安堵の笑みを漏らした。そして未だに転倒したままの彼女を抱え起こし、僕達二人は互いの無事を確認し合う。
「僕が、殺したんだよね……」
足元の線路上に転がる魔神仔の死体を見下ろしながら、僕は呟いた。
「仕方が無いよ。尊くんが殺さなかったら、尊くんかあたしがこの魔神仔に殺されていたんだから」
阿杏はそう言って慰めてくれたが、僕は生命ある者を殺めてしまった事に対する罪悪感に苛まれ、胸が痛い。しかもそれが人ならぬ妖とは言え、人間にも似た知性ある存在ならば、胸の痛みも尚更だ。そして気付けば僕の両の瞳からはぽろぽろと悔恨の涙が零れ落ち、図らずもそこに、僕と阿杏の名を呼ぶ声が届く。
「尊くん、阿杏、二人とも大丈夫? 怪我は無い?」
「霧島、阿杏、無事か? どうした、涙なんて流して? どこか怪我をしたのか?」
宮路さんに阿吽の二人を加えた総勢三名が、僕達の身を案じながらこちらへと駆け寄って来ると、泣いている僕を見て少し驚いた様子だった。そして僕の足元に転がる魔神仔の死体を見て全てを察した彼女達は、それぞれの方法でもって僕を慰めてくれる。
「尊くん、元気出して? 尊くんは悪くないんだから、そんなに気にする事ないよ」
そう言って自身の鞄の中からハンカチを取り出し、僕の頬を伝う涙を拭ってくれる宮路さん。
「そうとも霧島、気に病む事など無い。我ら神獣も含めてそもそも神や妖などと言うものは、現世においては生も死も等価であり、またその境界がひどく曖昧なものなのさ。だからその生き死ににいちいち心を砕いていては、身体が幾つあっても身が持たん」
吽は僕の肩を叩きながらそう言い、阿は魔神仔の死体に歩み寄ると、その頭に薙刀の刃を突き立てた。
「折伏!」
阿によって頭部を真っ二つにされた片腕の魔神仔が赤く輝く光の帯に食われて消え失せ、吽は更に語る。
「見な、霧島。我らが刃によって折伏されたからには、この妖は強制的に、神代の国へと送られたのさ。だからもう二度と、現世で苦しむ事も悲しむ事も無い。当然、それをお前が気に病む必要も無い」
なんだか詭弁でもって言い包められている様な気分だが、それでも吽の言葉に、僕の心は少しだけ軽くなった。そして魔神仔の死体が転がっていた場所に向かって手を合わせた僕は、心の中で念仏を唱え、それ以上深くは考えない事にする。
「他の魔神仔は?」
「ふん、奴ら形勢逆転が叶わぬと見るや、尻尾を巻いて逃げて行きよった。我らが勝利は、全てお社様の加護によるものぞ」
妙に時代がかった口調で僕の問いに答えると、吽は阿と共に、胸を張って鼻息も荒く勝鬨を上げた。そして顕現していた彼女達の薙刀もまた、赤い光の帯と共に虚空へと消える。
「……尊くん、やっぱりあたしなんかよりも、阿杏の方が心配なんだね」
僕の涙を拭ってくれていた宮路さんが黒縁眼鏡の奥の眼を逸らしながら、寂しげな声と表情でもってボソリと呟いた。
「え?」
その言葉の意味するところが即座には理解出来なかった僕は問い返すが、彼女は再び僕と視線を合わせると、いつもの子犬の様な笑顔を浮かべながら答を誤魔化す。
「ううん、何でもないの。気にしないで。意地の悪い事を言っちゃったから。……それよりも尊くん、首は大丈夫? 赤くなって、腫れてるよ?」
「う、うん、大丈夫……。未だちょっと痛いけれど、たいした怪我じゃないから……」
僕は、阿杏を助けるためとは言え宮路さんを一人置き去りにした自分を恥じた。出来る事ならば今ここで懺悔の言葉を並べたいが、そんな事をしても、心優しい宮路さんは喜ばないだろう。むしろ責任を感じて、より一層の気苦労を負ってしまうに違いない。
「さて、それでは障害を排除し終えたところで、先を急ごうか。幸いにも魔神仔とか言う赤い小人どもが居なくなった事で、わざわざホームの下を這い進む必要も無くなったし、ここで待機している筈だった阿杏も我らに同行出来る運びとなった。これぞまさに、怪我の功名と言えよう」
ふふんと鼻先で笑いながらそう言った吽は、相方である阿を従えて、意気揚々と線路上を歩き始めた。僕と宮路さん、そして杖を突いた阿杏もまた、二人の神獣に続いて歩き始める。色々な意味で彼女達に板挟みにされた僕は、ひどく複雑な気分で面映ゆい。
「それで、この線路沿いをこのまま真っ直ぐ進めばいいのか、霧島?」
「え? ああ、そうです」
僕の返答を聞いた吽は高下駄の音も高らかに歩き続け、残りの四人も彼女に追従する。すると緩やかに湾曲した線路がやがて途切れ、コンクリートに覆われていた壁や床も岩肌が剥き出しとなり、遂に僕達は目的地である地下の空洞へと足を踏み入れた。そして以前ここに来た時と同様に、前方の暗闇の中央には小さなオレンジ色の光点がボンヤリと輝いている。
「あれか」
「あれです」
光点を指差す吽に、僕は頷いた。そして狐火に照らされた空洞内を、僕達は光点目指して前進する。フォルモサの地下第六層以下に存在する空洞内はひどく蒸し暑く、まるで鍾乳洞の中の様に天井のそこかしこからポタポタと結露した水滴が滴り落ち、常雨都市である地上と同じくここも雨が降り続いているかのような錯覚に陥った。やがて僕達五人は光点の正体である小さなランプが軒先に吊るされた、廃材や瓦礫を積み上げて作られた奇妙な掘っ立て小屋の正面に立つ。
「すいません」
僕は一歩前に出ると、小屋に向かって呼びかけた。
「すいません、お爺ちゃん、居ますか?」
宮路さんもまた一歩前に出て呼びかけ、手にしたフラッシュライトでもって小屋を照らす。すると小屋の入り口である戸口を覆うボロ布が捲くられ、例の小柄な老人がその姿を現した。と同時に、老人の身体から漂って来るあの強烈な悪臭が、またしても僕達を襲う。
「うっぷ」
僕はえずいて鼻を摘み、あらかじめこうなる事を予見していた阿杏と宮路さんもまた、持参したハンカチでもって口と鼻を覆っていた。
「臭っ! 何これ? 一体何の匂いなの?」
「臭い! 何なのさ、この酷い匂い!」
前知識も無くこれが老人との初対面であった阿吽の二人は、ある程度覚悟を決めていた僕ら三人とは違って、あまりの臭さに鼻を摘みながら悪態を吐いて顔を背ける。すると老人はそんな阿吽の反応を楽しんでいるのか、皮脂と垢で汚れたその顔にニヤニヤと湿った笑みを漏らして止まない。
「良く来たな」
以前と変わらずしわがれた声でそう言った老人は、地面に胡坐を掻いて腰を下ろした。既にこの老人が只の人間ではなく、人の死によってのみ願いを叶える妖である事を身に染みて思い知らされている僕は、無為な前置きなどせずに口火を切る。
「今日はお願いがあって、直談判に来ました」
「そうかしこまるな。わしは、どんな願いでも聞いてやる。ただし、それは人の死によってのみ叶うがね」
僕の出鼻を挫くようにそう言うと、老人はくっくと笑った。怒りと屈辱でもって拳を固く握り締めた僕は今にも殴りかかりそうになるが、唇を噛んで、ぐっと堪える。
「お願いします、あたしの願いを、無かった事にしてください! 本当に、本当にお願いします、お爺ちゃん!」
「あたしからもお願いします!美恵の願いを、なんとかキャンセル出来ませんか?」
宮路さんが頭を下げながら懇願し、阿杏もまた頭を下げた。しかし老人は、そんな彼女達を嘲笑うかのように、その願いを拒否する。
「それは、出来んね。一度聞き届けてやった願いを、そうそう簡単に無かった事にしてもらえると考えているのなら、それは大きな間違いだ。覚悟を決めて、自分の願いが叶う瞬間を楽しみにしているがいい」
そう言った老人は、再びくっくと笑った。
「どうして駄目なんですか? この前、阿杏の願いは無かった事にしてもらえたじゃないですか?」
僕は食い下がるが、老人はにべも無い。
「あれは、わしに何も願わなかったお前さんの心意気に免じての特例だ。しかし今回は、何も免じてやるものが無い。お前さんはまだまだ若いから子供特有の万能感に囚われているのかもしれんが、そうそう自分に都合良く世間が動いてくれるとは思わん事だな。さもないと、碌な大人にならんぞ?」
僕を指差しながらそう言った老人は、胡坐を掻いていた地面から立ち上がると、小屋の中へと引き返そうとする。こうなっては、手段を選んでいるような余裕は無い。
「お願いします! どうか、宮路さんの願いを無かった事にしてください! この通りです!」
硬い岩肌が剥き出しの地面に跪きながらそう言った僕は、人生で二度目の土下座をした。勢い良く頭を下げ過ぎて、額が地面にごつんと当たる。同じ相手に二度にも渡って土下座するのは屈辱以外の何物でもなかったが、今はこうするしか方法が無い。
「お願いします! あたしが全部悪いんです! 反省していますから、あたしの願いを無かった事にしてください!」
僕に続いて宮路さんもまた、土下座しながら懇願した。
「あ、あたしも……」
阿杏も土下座しようとするが、脚が不自由なせいで上手く跪けずに、手間取る。
「そんな事をしても無駄だよ、お前さんがた。意味の無い土下座なんて、するもんじゃない。……確かお前さんの願いは、そっちのお前さんがた二人が疎遠になって、それでもってお前さんとお前さんが結ばれる事だったかな? さて、この願いは、果たして誰が死ぬ事によって叶うんだろうかねえ」
僕達三人を順繰りに指差しながらそう言った老人は、ニヤニヤと湿った笑みを絶やさない。そして僕は、最後の手段に出る。
「阿吽」
僕は下げていた頭を上げ、地面から腰を上げると、背後で事の成り行きを見守っていた阿吽の二人の名を呼んだ。そして神獣である二人に、要請する。
「交渉は決裂した。後は頼む」
「分かった。任しておきな、霧島」
僕の要請を了承した阿吽の二人は、小屋の前に立つ老人に向かってほくそ笑みながら歩み寄り、代わって僕と阿杏と宮路さんの三人は後方に下がって身を寄せ合った。そして吽は、老人に問う。
「どうしても、こいつらの願いを無かった事にする気は無いのか?」
「くどい。一度聞き届けた願いを、そうそう簡単に無かった事には出来んと言った筈だ。それともお前さんが、新たにわしに願いを告げて、事態の収拾を図るかい? まあその場合にも、勿論誰かが死ぬ事によってのみ、願いが叶う事になるがね」
そう言ってくっくと笑う老人の眼前で、阿吽の二人は虚空に印を切った。すると朱漆に濡れた柄も鮮やかな薙刀が一振りずつ顕現し、その薙刀を手にした二人は、それを老人に向けて構える。
「こうなれば、力尽くでもってこちらの思惑に従わせるまでだ。ご老体に刃を向けるのは本意ではないが、交渉が決裂したとあっては、致し方無い。少しばかり、痛い眼を見てもらおうか」
吽の言葉に、場の空気がいきおい緊張した。しんと、空洞内に静寂の時が訪れる。しかし二本の薙刀の切っ先を突きつけられた老人は、余裕の笑みを崩さない。
「わしに、痛い眼を見せると言うのか。果たしてお前さんがたに、そんな事が出来るのかな?」
「何だと?」
老人の言葉に吽が問い返した、次の瞬間。老人の身体の周囲に、突如として黒くて細長い粘着質の物体が大量に、そして爆発的に発生した。そしてその黒い物体は、まるで軟体動物の触手の様にうねりながら老人の身体を飲み込むと、そのままどんどんと膨張し続ける。やがて気付けば老人が立っていた場所には、ぬめぬめとした粘液に濡れた表面が光を照り返す、黒く巨大な物体の山が出来上がっていた。言わずもがなかもしれないが、この黒い物体もまた老人の身体と同様に、強烈な腐敗臭を放っている。
「何だ、こいつは?」
「何なの、これは?」
触手の発生と同時に後方へと飛び退っていた阿吽の二人が、黒い物体の山を前にして、改めて薙刀を構え直した。すると無数の触手が絡み合いながら積み重なる事によって成り立っていた黒い山は躍動し、次第に解け始め、その内部から異様な外観の巨大な生物がその姿を現わす。いや、それはそもそも、生物と言っていいのかどうかが判然としない不気味な存在だった。
その存在には、表面に毛の生えた胴体に、一見すると犬のそれにも似た頭部が複数生えている。しかもその頭部はそれぞれが出鱈目な方向に生え、所々には白い骨が露出し、暗く落ち窪んだ眼窩の中には何故か眼球が存在しない。また胴体の下部には六本の妙に野太い脚が生えており、背中には鳥の様な翼が、脚と同じく六枚生えていた。そして胴体の中央には乱杭歯が並んだ獣の口蓋の様な孔が一つ、こちらに向かって口を開けている。しかし何よりも不気味なのは、それら胴体や頭部や脚の各所に、多数の人間の肢体の一部が無作為に生えている点だった。
それはまさに、化け物。この世のものならざる妖としか、表現する言葉を持たない。そしてその化け物から漂う匂いには、これまでの強烈な腐敗臭に加えて、鼻を突く獣臭が加わる。
「さて、これでもまだ、わしに痛い眼を見せられると豪語出来るのかな?」
化け物が、しわがれた老人の声でもって言い放った。するとその言葉を向けられた阿吽の二人は、額に脂汗を滲ませながらも、その口端に不敵な笑みを浮かべて言い放ち返す。
「少しばかり驚いたが、この程度は予想の範囲以内! むしろ手応えのありそうな妖と戦えるとあって、腕が鳴る! 相手にとって、不足無し! どこからでもかかって来るがいい!」
そして阿吽の二人は改めて薙刀を構え直し、名乗りを上げる。
「やあやあ、遠からん者は音に聞け! 近からん者は眼にも見よ! 我こそは金山彦神が忠実なる下僕にして誉れ高き神獣狛犬、名は阿!」
「名は吽!」
「我らに仇なす命知らずはかかって来い! 名を上げたき者は前に出よ! いざ尋常に、勝負! 勝負!」
最後は二人揃って名乗りを上げ終えた阿吽の二人は、薙刀を振るって柄尻で地面を打ち鳴らし、見得を切ってみせた。薙刀の柄に結わえられた朱色の飾り房が風に舞い、房の根元の鈴がしゃらんと鳴る。
「さあ、貴様も名乗るがいい!」
見得を切り終えた吽が、化け物を挑発した。すると化け物の胴体の中央に開いた口が開き、答える。
「我が名は
渾沌と名乗った化け物はそう言うと、空洞の天井を見上げてげらげらと笑った。その笑い声だけでも空洞内の空気がビリビリと震え、僕の背中にはゾッと怖気が走る。
「四凶が一角とは、さては大陸から来た妖か! さすれば今ここで、日の本の国の神格に仕える神獣の力を見せてくれる! 覚悟せよ!」
阿吽の二人が揃ってそう言い終えるや否や、阿が大地を駆け、吽が虚空を跳躍し、それぞれが渾沌に襲い掛かった。そしてまずは地を這うようにして駆け寄った阿が、大振りに振るった薙刀でもって渾沌の脚を薙ぐ。しかしその巨体に見合わぬ俊敏さでもって、渾沌は阿の振るった薙刀を回避してみせた。初手の攻撃が不発に終わった事によって、阿吽の連携に乱れが生じる。しかし既に吽は跳躍を開始してしまっているので、今から軌道を修正する事は出来ない。そこで一か八か、単身での攻撃に打って出る吽。
「折伏!」
掛け声と共に、彼女は大上段に構えた薙刀を、渾沌の胴体から生えた頭部の一つへと打ち下ろした。その切っ先から、赤く輝く光の帯が立ち上る。しかしその光の帯が、先程駅のホームで魔神仔達を壊滅させた時の様に、渾沌の身体を蝕む事は無かった。薙刀の刃が犬の様な外観の頭部に達する寸前で、渾沌の全身から黒いもやの様なものが湧き上がり、それがまるで見えない壁の様に立ちはだかって薙刀による一撃を阻んでいる。
「糞っ! この犬畜生め!」
悪態を吐きながら、跳躍していた吽が地面へと着地した。そして駆け寄った阿と共に薙刀を構え直し、再び臨戦態勢を取るが、今度は迂闊に飛び込みはしない。
「どうした? わしは未だ、かすり傷一つ負ってはおらんぞ? 日の本の国の神獣の力とやらを見せてくれるのではなかったのか?」
今度は渾沌が神獣を挑発し、挑発された阿吽の二人は眉間に皺を寄せて歯噛みしながら抗弁する。
「黙れ、犬畜生如きが大言壮語を吐きおって! そこまで言うのならば、我らが神獣の真の力をとくと見よ!」
威勢良くそう叫んだ阿吽の二人は、再び渾沌に襲い掛かった。しかし今度は二人ともが姿勢を低くして大地を駆け、渾沌を左右から挟み込むように二手に分かれると、敵の脚に連続した集中攻撃を仕掛け始める。どうやら阿吽の二人は、先程阿の攻撃を回避してみせた渾沌の俊敏さを脅威と判断したらしく、まずはその脚を破壊して動きを封じ込める作戦を選択したようだ。
「折伏! 折伏! 折伏!」
二手に分かれた阿吽が、挟み撃ちの要領でもって、巨大な渾沌の胴体から生えた六本の脚を薙刀でもって切り刻む。先程吽の大上段の一撃を阻んだ黒いもやによる見えない壁は、どうやら渾沌の野太い脚部までは守りきれていないらしい。その証拠に、今度は薙刀の刃が生み出す赤い光の帯が渾沌の脚を蝕み、少しずつではあるが確実にダメージを与えつつあった。
「どうだ、我らが折伏の刃の味は! このままその無駄にでかい図体を、細切れの挽肉になるまで切り刻んでくれる!」
新たな作戦に勝機を見出した、阿吽の二人。彼女達は高らかに謳い上げ、ほくそ笑みながら薙刀を振るい続ける。このまま渾沌の身体を切り刻み続ければ、確かに勝利は目前かもしれない。すると不意に、渾沌の胴体の中央の口が大きく開くと、大量の空気をその内部へと吸い込んだ。そして一泊の間を置いてから、唐突に、言語に絶する大音量でもってげらげらと笑い始めた。
「ひっ!」
「きゃっ!」
ビリビリと空気を震わせながら空洞内を反響するその笑い声は、後方に下がって渾沌と阿吽の戦いを見守っていた僕と阿杏と宮路さんの鼓膜をも蹂躙し、僕達三人は手で耳を塞ぎながらその場に蹲る。特に阿杏は、耳を塞ぐために杖を握っていた手を放さねばならなかったので、体勢を崩して地面に倒れ伏してしまっていた。
「阿杏、大丈夫か?」
「大丈夫……。大丈夫だけれど、何なのこの笑い声は……」
倒れ伏した阿杏を僕が案じている間にも、渾沌の笑い声は空洞内を大音量で反響し続ける。その声量はかつて体験した事が無いほどの凄まじさで、もはや耳の穴を塞いでも遮断する事が出来ずに、鷲掴みにされた頭蓋骨越しに強制的に鼓膜を振動させられているような感覚に襲われた。そして渾沌から距離を取っていた僕達三人でもこの有様なのだから、至近距離からこの爆音を浴びせられた阿吽の二人は堪らない。
「阿! 吽!」
少しだけ鼓膜が笑い声に慣れて来た僕が、阿吽の二人の名を呼び、その姿を探す。すると二人の神獣は、先程まで彼女達が切り刻んでいた筈の渾沌の足元に崩れ落ち、白目を剥いて昏倒していた。やはりこの笑い声に、鼓膜を蹂躙されたらしい。
そしてようやく、渾沌は笑い止む。
「ううううう……」
覇気の無い呻き声を上げながら、薙刀の柄で身体を支えた阿吽の二人が、覚束無い足取りでもって立ち上がろうと努めていた。彼女達の膝はガクガクと笑っており、気を抜けばすぐさまその場に崩れ落ちて、再び昏倒してしまいそうにも見える。
「なんて笑い声だ、この犬畜生め……」
「膝に力が入らないの……」
爆音によって平衡感覚を司る三半規管に障害が発生したのか、まるで酔っ払いの様に千鳥足になる阿吽の二人。それでもなんとか立ち上がった彼女達は、ガクガクと笑い続ける膝を叩いて活を入れると、薙刀を構えて渾沌と対峙した。すると渾沌は、背中に生えている六枚の翼を疾風と共に拡げる。そしてゆっくりと羽ばたきながら、空洞内の虚空に浮かび上がった。
「あの翼、飾りじゃなかったのか……」
狼狽する阿吽の視線の先で、飛翔する渾沌。その胴体の中央の口が大きく開き、再び大量の空気をその内部へと吸い込んだ。またしてもあの笑い声を発するのかと警戒した阿吽と僕達の合計五人は、急いで耳を塞ぎ、爆音に備える。だが次の瞬間に渾沌の口から漏れ出たのは笑い声ではなく、ドロドロとした粘着質の、茶褐色のもやの塊だった。そしてそのもやが飛翔している渾沌の全身はもとより、その直下で攻撃に備えていた阿吽の二人をも飲み込むと、僕の立っている位置からではその姿が確認出来なくなる。
「阿吽……?」
二人の神獣の身を案じながら、僕は渾沌とその周辺一帯を包み込んだ茶褐色のもやを見守った。すると時間の経過と共にゆっくりともやが拡散し、次第に薄くなると同時に、その内部が明瞭になり始める。するとやはり、渾沌の直下でもやに飲まれた阿吽の二人は地面に倒れ伏し、昏倒していた。そして薄くなったもやが僕と阿杏と宮路さんの元にまで流れ着くと、これまで以上の強烈な悪臭が僕達三人を襲う。
「うっぷ、うっ、おろろろろろ……」
あまりの匂いに胃の内容物が逆流し、僕は耐え切れずに身を屈め、嘔吐した。
「うえっ、うええええ……」
「おええええ……」
阿杏と宮路さんの二人もまた、嘔吐を禁じ得ない。それ程までの強烈な悪臭を至近距離から浴びせられた阿吽の二人が昏倒しているのも、当然と言えば当然だろう。そして良く見れば、既に阿吽は二人とも嘔吐を終えており、地面に倒れ伏した二人の身体は吐瀉物まみれだった。
「うえっぷ、糞、なんて匂いだ……」
「うえええっ、気持ち悪いの……」
そう言って弱音を上げる阿吽の二人には、もはや立ち上がる気力も無い。茶褐色のもやとして眼に見えるレベルにまで濃縮された悪臭の塊は、彼女達の嗅覚だけに留まらず、おそらくは肺の中まで完全に蹂躙し尽くしたのだろう。その証拠に二人の吐瀉物には大量の血が混じっており、単に臭くて嘔吐しただけではなく、内臓を傷めている事が見て取れた。そして飛翔する渾沌は、吐瀉物まみれで倒れ伏したままの阿吽を睨め回す。
「どうした、日の本の国の神獣とやら? もう終わりか? その程度が、お前さんがたの真の力とやらなのか?」
しわがれた老人の声でそう言うと、渾沌はげらげらと嘲笑った。
「畜生……。分詞の身でさえなければ、こんな犬畜生如きに負ける事など無かった筈なのに……」
「やっぱり分詞の身では、神通力が足りないの……」
嘲笑された阿吽の二人は、吐瀉物まみれのまま負け惜しみの言葉を漏らすが、その身に負ったダメージは深刻で立ち上がる事すらもままならない。すると渾沌は勝利を確信したのか、足元に転がる阿吽を無視し、遠巻きに勝敗の帰趨を見守っていた僕達三人の方へと向き直る。
「どうだ、お前さんがた? これで、力尽くでもって願いを無かった事にしてもらおうなどと言う傲岸不遜な考えは、消し飛んだ事だろう。さすればこの役立たずの神獣どもを連れてとっととこの場から退散し、親しきものの死によって願いが叶う瞬間を、楽しみに待つが良い」
そう言うと、再び渾沌はげらげらと嘲笑った。すると僕の隣に立つ宮路さんが膝から地面に崩れ落ち、大粒の涙を零しながら悲嘆に暮れる。
「そんな……。それじゃあ本当に尊くんが、あたしのせいで死んじゃうよお……。そんなの嫌だよお……。誰か、なんとかしてよお……」
涙と鼻水でもって顔をグシャグシャに濡らしながら、わあわあと声を上げて泣きじゃくる宮路さんに、僕はかける言葉が見付からない。いやそもそも、この僕自身こそが彼女の願いによって死んでしまう当事者なのだから、もっと慌てふためいてもいい筈だ。しかし何故か僕は、このままだと自分が死ぬと言う事に対しての実感が湧かずに、只その場に呆然と立ち尽くす。
泣きじゃくる宮路さん。彼女をなだめる阿杏。立ち尽くす僕。そして頼もしい用心棒であった筈の阿吽の二人までもが完膚無きまでに敗北した今、僕達五人に残された光明は何一つとして存在せず、只々絶望のみが心を支配していた。
すると不意に背後から、綺麗でありながらも少し妖艶な声が、耳に届く。
「まったく、阿吽の二人と来たら、随分と不甲斐無いんじゃないの? 曲がりなりにも神獣なんだから、もう少し善戦しても良かったんじゃなくって?」
聞き覚えのあるその声に振り返れば、そこには白いアオザイを着た長身痩躯のベトナム人女性、チ・ホアが立っていた。そしてこちらへと歩み寄って来た彼女は、僕達三人の脇を通過すると、未だに飛翔したままの渾沌の巨体と対峙する。
「お前さんは、誰だ?」
渾沌が問うた。その問いに対して、チ・ホアが答える。
「あたしは、グエン・チ・ホア。そこに転がっている不甲斐無い神獣二人の債権者で、こちらの子供達の、まあ、一時的な保護者と言ったところかしら? それで心配になって様子を見に来たんだけれど、そうしたら、この有様じゃない? まったく、本当に不甲斐無いったらないじゃないの、そこの自称神獣のお二人さんはさ?」
「……うるさいぞ、チ・ホア。あたし達はお社様の名誉にかけて、未だ戦えるぞ……」
「未だ負けた訳じゃないの……」
僕達を交互に指差しながら渾沌の問いに答えたチ・ホアに、不甲斐無いと評された阿吽の二人が、吐瀉物まみれで倒れ伏したまま抗弁した。しかしその言葉とは裏腹に、もはや彼女達には立ち上がるだけの余力も残されてはいない。
「黙って寝てなさい、阿吽。今のあなた達は神獣狛犬じゃなくて、只の負け犬でしかないの。だから麻雀の負け分チャラの話も、これでご破算よ? だって、用心棒としての役目を果たせなかったんだから、当然でしょ?」
「そんな……」
「無念なの……」
踏んだり蹴ったりとでも言うべき無残な結末を迎えた阿吽の二人は、恨めしそうにそう言うと、ピクリとも動かなくなった。すると改めて、渾沌がチ・ホアに問う。
「それで、お前さんは何の用でここに来た? 単に様子を見に来ただけではないのだろう? このわしに、何を願う?」
「あたしの願いは、単純明快よ? そこの黒縁眼鏡の子がうっかりあなたに告げてしまった願いを、無かった事にしてほしいの。あなたなら、それが出来るんでしょう? ……ああ、勿論誰も死ぬ事無く、平穏無事なままこの願いを叶えてちょうだいね?」
「くどい。何度でも言うが、一度聞き届けた願いを、そうそう簡単に無かった事には出来ん。それを理解したならば、とっととここから立ち去るが良い」
宮路さんを指差しながらチ・ホアが告げた願いを、渾沌はにべも無く拒否した。もはや聞き飽きた渾沌の返答に、僕と阿杏と宮路さんの三人は、改めて落胆する。しかしチ・ホアは一歩も引かず、むしろ渾沌に一歩歩み寄ると、自身の左眼を覆う医療用の眼帯を外した。
「これでも未だ、あたしの願いを聞き届けてはくれないのかしら?」
そう言ったチ・ホアの眼帯の下には何が隠されていたのか、僕が立っている位置からでは彼女の後姿しか見えないので、それを確認する事は出来ない。しかし正面からそれを見据えた渾沌はその動きを止めると、眼帯を外したチ・ホアと睨み合い、二人の間には沈黙の時が落ちる。
そしてたっぷりと時間をかけてから、遂に渾沌が折れた。
「よかろう。互いに敵愾心を抱かぬ事を条件に、お前さんの求めに応じて、そこのお前さんの願いを無かった事にしてやろうじゃないか」
チ・ホアと宮路さんを順繰りに睨め回しながら、そう宣言した渾沌。彼の言葉が信じられずに、僕達三人はだらしなく口を開けたまま、暫しぽかんと呆ける。そして数拍の間の後に、渾沌の言葉の意味をようやく理解した僕達は、歓喜の声を上げながら抱き合った。
「やったよ宮路さん! 宮路さんの願いを、無かった事にしてくれるって!」
「本当? 本当に、本当なんだよね?」
「本当だよ、美恵! だからほら、もう泣かないで」
阿杏は泣き崩れていた宮路さんに対して泣き止むように促すが、宮路さんはむしろこれまで以上に大粒の涙を零しながら、今度は嬉し泣きでもってその顔をグシャグシャに濡らし始める。
「良かった……。本当に、良かったよお……。これでもう、あたしのせいで尊くんが死なずに済むよお……」
笑顔を浮かべながら泣き続ける宮路さんを、僕と阿杏は優しく抱き締めた。これでもう彼女は苦しまずに済むし、勿論僕も、死なずに済む。しかし残念ながら、そう思ったのも束の間。どうやらそう簡単には、事態は収束してはくれないらしい。
「但し」
改めて、渾沌が言葉を発した。空洞内を反響したその声の調子に、僕は嫌な予感がしてならない。そしてその予感は、的中する。
「お前さんの願いを無かった事にしてやるが、勿論、タダでと言う訳には行かない。お前さんに、それ相応の代償を支払ってもらおう」
「代償?」
渾沌に睨まれた宮路さんが、自身の顔を指差しながら問い返した。そして渾沌は、彼女に宣告する。
「そうだ、代償だ。一度は聞き届けてやった願いを無かった事にしてやるのだから、その結果としてお前さんが失わずに済んだ一番大事なものと引き換えに、二番目に大事なものを奪わせてもらおう」
どうやら渾沌は、阿杏の願いを無かった事にした時と同様に、今度は宮路さんにも代償を支払わせる気らしい。
「待て、待ってくれ! そんな、そんなのは、いくらなんでも残酷過ぎるじゃないか!」
「何を言うか。本来ならば、一度は聞き届けてやった願いを無かった事にする義理など無いのだから、この程度の代償は安いものだろう?」
抗弁する僕を、やはり渾沌はにべも無くあしらう。そして代償を支払わされる当の宮路さんは、どうやら既に、覚悟を決めているらしい。
「ありがとう、尊くん。あたしの事を、心配してくれているんだよね? でもね、あたしは大丈夫。尊くんが死なずに済むのなら、あたしは、どんな代償を支払わされても耐えてみせるから。だからあたしの事は心配しないで、尊くんは自分の命が助かった事だけを喜んでいてね?」
「宮路さん……」
彼女の言葉に、僕は涙を零した。勿論それは、自分の命が助かった事が嬉しかったから零した涙ではない。この期に及んで宮路さんを助ける事が出来ない自分を恥じての、悔恨と懺悔の涙だった。
「ごめん、宮路さん。力になれなくって」
「ううん。いいの、尊くん。その気持ちだけで、あたしは充分に嬉しいから」
そう言って、僕と宮路さんは抱き合う。
「あたしも力になれなくて、ごめんね、美恵」
阿杏もまた、僕達の輪に加わった。
「残念ながら、こればかりはあたしにも、どうする事も出来ないからねえ」
チ・ホアは嘆息しながらそう言い、阿吽の二人は未だに吐瀉物まみれで倒れ伏したまま、ピクリとも動かない。
「どうやら、話はまとまったようだな」
僕達の動向を見守っていた渾沌が、確認を取るべくそう告げた。そしてそんな渾沌に向かって、僕と阿杏との抱擁を解いた宮路さんは一歩前に出ると、無言で頷く。
「それでは、元の姿に戻らせてもらおう。暫し待たれよ」
その言葉と同時に、見上げるほどの巨体を誇っていた渾沌の全身からぬめぬめと黒光りする粘着質の触手が湧き上がり、その触手が渾沌を包み込んだ。そして巨大な黒い物体と化した渾沌は、現れた時とは逆に次第に収縮すると、やがてどこへとも無く触手は消え去って、気付けば元の小柄な老人だけが空洞の中央にポツンと立っていた。と同時に空洞内に充満していた獣臭は消え去り、老人の体臭だけが僕達の鼻を突く。
「さて、お前さん。覚悟はいいな?」
「はい、お爺ちゃん」
宮路さんの返答を聞いた老人は、地面に胡坐を掻いて座ると、静かに眼を閉じた。そしてゆっくりと両手を挙げ、以前も二度ほどそうして見せたように、パンと一回大きな拍手を打つ。するとその破裂音が空洞内を反響して僕達の耳に届くのと同時に、宮路さんの身体が、まるで糸が切れた操り人形の様にその場に崩れ落ちた。
「宮路さん!」
僕は膝から崩れ落ちた宮路さんの身体を、地面に頭を打ち付ける寸前で支え、彼女の名を呼んだ。しかし気を失っているのか、眼を閉じた宮路さんからの反応は無い。
「宮路さん? 宮路さん、大丈夫?」
僕は、意識の無い彼女の肩を揺する。ほんの半日ばかり以前に、同じ様に願いを無かった事にする代償を求められた阿杏は、女子サッカー部の特待生と言う彼女にとっての存在意義を支えていた右膝を失った。そして今、果たして宮路さんは、代償として何を失うと言うのだろうか。僕は不安に苛まれながら、彼女の名前を呼び続ける。
「う……ん……」
「宮路さん?」
抱き抱えた僕の腕の中で、宮路さんが眼を開けた。そして彼女は眼をぱちくりさせると、きょとんとした表情で僕の顔を見つめながら、尋ねる。
「えっと、あの、どちら様ですか?」
「え?」
宮路さんの口から発された予想外の言葉に、僕は驚きを隠せない。しかしそんな僕に抱き抱えられたまま、彼女は居住まいが悪そうに身を捩り、僕を拒絶する。それはまさに、見ず知らずの異性に身体を触られている思春期の女性そのものとでも言うべき、他人行儀な反応と行動だった。
「美恵、身体は何ともないの?」
「あ、阿杏。うん、特にどこも、痛くもなんとも無いみたい」
僕の腕から逃れて立ち上がった宮路さんは、自身の身体に異常が無いかをくまなく確認してから阿杏の問いに答え、微笑む。しかしその笑顔が向けられたのはあくまでも友人である阿杏に対してだけで、どちら様と問われてしまった僕に対してではない。そして宮路さんは僕を指し示しながら、今度は阿杏に問う。
「えっと、こちらの方は、どなた? 阿杏のお友達?」
「何言ってるの、美恵? 尊くんだよ」
まだ事情が飲み込めていないらしい阿杏は、呆れたような口調でもって答えた。しかし宮路さんはきょとんとするばかりで、僕の事を思いだす素振りはうかがえない。
「みこと……くん? えっと、ごめん、誰だっけ?」
「あ……」
宮路さんの返答に、ようやく事情を察した阿杏。今度は彼女が、宮路さんに問う。
「美恵。ここがどこで、あたし達が何をしにここまで来たか、覚えてる?」
「勿論、覚えてるに決まってるじゃない。ここは地下鉄の駅から更に地下に下りて来た先の空洞で、あたしの願いを無かった事にしてもらうために、ここまで来たんでしょ? そんな事、なんで今更聞くの?」
さも当然と言った口調で、宮路さんは答えた。すると阿杏は、僕達からは少し離れた場所に胡坐を掻いて座ったままの老人を指差しながら、再度問う。
「それじゃあさ、美恵。そこの妖に美恵が何を願ったのか、覚えてる?」
「勿論。ええと……あれ?」
再び答えようと口を開いた宮路さんだったが、その表情が急に曇り、虚空を見上げたまま言葉を失った。そして腕組みをして暫し考えあぐねた末に、逆に問い返す。
「ごめんなさい、阿杏。あたし、あのお爺ちゃんに、何を願ったんだっけ? 何故だか分からないけれど急に度忘れしちゃって、どうしても思い出せないの。何か凄く、大切な事を願ったような気がするんだけれど……」
そう言って悩み続ける彼女の言葉に、僕と阿杏は全てを理解した。宮路さんは、願いを無かった事にしてもらった代償として、僕に関する全ての記憶を失っている。そして同時に、僕の事を好きだと言ってくれた彼女の想いもまた、記憶と共に雲散霧消してしまったのだ。
「美恵、あのね、ここにいる尊くんは……」
「いいんだ、阿杏」
宮路さんの身に果たして何が起きたのか、それを本人に説明しようとする阿杏を、僕は制した。そして頭を抱えて悩み続ける宮路さんに向き直ると、軽く頭を下げながら、自己紹介の言葉を述べる。
「初めまして、宮路さん。霧島尊です。よろしく」
「あ、えっと、宮路美恵です。名前は北京語読みの「めいふい」でも日本語読みの「みえ」でも、好きな方で呼んでください。よろしくね、霧島くん」
頭を下げながら僕の事を「霧島くん」と呼んだ宮路さんに笑顔を向けると、彼女はいつもの子犬の様な笑顔でもって、僕を見つめ返した。その笑顔の邪気の無さに、僕は少しだけ救われたような気がして、溜飲を下げる。兎にも角にも、僕と宮路さんは今ここから、新たな関係を構築し始めるのだ。
「さてと、それではこれで、わしの役目は終わった事になるな。お前さんがた、気を付けて帰るが良い」
一部始終を見届け終えた老人はそう言うと、やおら立ち上がり、まるで何事も無かったかのように元居た掘っ立て小屋の中へと姿を消した。すると周囲に充満していた老人の体臭も消え、只々終わりの無い蒸し暑さだけが、僕達の身体を包み込む。そして気付けば静寂を取り戻した地下の空洞内には、僕と阿杏と宮路さん、微笑んでいるチ・ホア、それに倒れ伏したまま一向に動かない阿吽の二人だけが残された。
「えっと、阿と吽は大丈夫なの?」
ようやく僕が二人の神獣を心配すると、チ・ホアが事も無げに答える。
「あの二人なら、大丈夫よ? 元々阿吽の二人は狛犬が顕現した姿で、実体しか持たない人間とは違う、概念的な存在なの。だから暫く休ませてあげれば、すぐに元通りの姿に回復するからね?」
「……軽々しく大丈夫とか言うな、このベトナムの女狐め。確かに我ら神獣は概念的な存在で実体のみに縛られたりはしないが、それでも顕現した肉体が傷付けば、それなりに苦しいんだぞ」
「あら、聞こえてたの? ごめんなさいね? でもそれだけ喋れるって事は、もう随分と回復して来たって事じゃない? それじゃあそろそろあなた達も起き上がって、こんな暗くて蒸し暑い場所からはとっとと退散しましょ? ね?」
悪態を吐く吽にそう言うと、チ・ホアは僕達三人に向かって手招きをしながら、空洞の出口の方角へと歩き始めた。彼女に追従する僕達三人の背後では、阿吽の二人がよろよろと立ち上がり、やはり空洞の出口を目指して歩き始める。
こうして僕達一行の地下探索の旅は、僕の命と引き換えに宮路さんが記憶の一部を失った末に、一応の終焉を迎えた。
●
「ふう、やっと帰って来れた」
地下街から地上へと帰還した僕はそう独り言ちると、何度も深呼吸を繰り返し、肺の中の空気を入れ替える。地上は相変わらずしとしとと雨が降り続いていたが、蒸し暑いばかりの地下に比べればずっと空気が清涼で、実際の天気はともかくとして気分だけは晴れ晴れしい。そしてふと周囲を見渡せば、最初から同行していた四人に途中参加のチ・ホアを加えた五人もまた、僕と同様に深呼吸を繰り返して心機一転に努めていた。
「さあ、帰りましょ?」
そう言って先導するチ・ホアの後に続き、そぼ降る雨の中を、僕達は南天地区の市街を目指してぞろぞろと歩き始める。そしてふと見上げてみれば空は雨天だが明るく、体感的にはとっくに夜になっていてもおかしくない筈だったが、スマートフォンを取り出して現在の時刻を確認してみれば未だ正午を少し回ったばかりの昼日中だった。登校前に夜市の入り口で宮路さんを待っていた早朝から、地下であれだけの大冒険を繰り広げて来たと言うのに、実質的にはほんの五時間ばかりしか経過していない。そんな事を考えながら貧民街を縦断し、橋を渡ってドブ川を越えた僕達は、やがて目的地である市街に足を踏み入れる。
「さてと、それじゃあ悪いけれど、あたしは自分のお店に帰らせてもらおうかしら? 店番をしてくれる人が見付からなくって臨時休業にして来たから、早く帰らなくっちゃならないの」
チ・ホアはそう言うと、くるりと踵を返し、アオザイの裾を風になびかせながら彼女の店の方角へと歩み去って行ってしまった。
「あたし達も、もう帰って休ませてもらうよ。早く境内に戻ってお社様の神気を浴びないと、いつまで経っても顕現した肉体が回復しやしない」
「もう今日は、帰って寝たいの」
渾沌に敗北してボロボロに窶れ果てた阿吽もまたそう言うと、彼女達のテリトリーである金山神社の方角へと足を向け、背中を丸めてとぼとぼと歩み去る。そして未だ夜市が開催されるには早い時刻のフォルモサの市街には、僕と阿杏、そして宮路さんの三人だけが残された。
「これから、僕達はどうしようか? ここで解散する?」
隣に立つ二人に僕が問うと、阿杏が自身の麻痺した右膝を指差しながら答える。
「あたしは膝の検査をした病院から逃げ出して来ちゃったから、騒ぎになる前に、早く戻らないと。それに慣れない杖で歩き続けたせいで、脚も腕も、もう限界。阿吽の二人じゃないけれど、あたしも早く帰って休みたいな」
「そうか。それじゃあ僕が、病院まで送って行くよ」
杖を突きながら病院の方角へと足を向けた阿杏に、僕が同行する旨を告げた。すると友達思いの宮路さんもまた、それに追随する。
「あ、二人とも、ちょっとここで待っててくれる? あたしも霧島くんと一緒に、阿杏を病院まで送って行くから」
「そうだね。それじゃあ僕達はここで待ってるから、宮路さんは駐輪場までバイクを取りに行って来なよ」
僕がそう言うと、宮路さんはその子犬の様な可愛らしい顔に、きょとんとした困惑の表情を浮かべた。そして小首を傾げてまじまじと僕の顔を見つめながら、不思議そうに尋ねる。
「霧島くん、あたしとは初対面なのに、どうしてあたしがバイクに乗って来たって知ってるの? 大抵の人はあたしがバイクに乗っているって知ると、全然似合わないって言うから、あたしの見かけから判断したんじゃないよね? やっぱり以前にどこかで、あたしと霧島くんって会ってるよね?」
「……そうだね。そうかもしれないね」
答をはぐらかした僕は、少しだけ寂しそうに、しかし屈託無く笑った。そんな僕を見た宮路さんは、益々をもって不思議そうな表情を浮かべて小首を傾げながら、過去の記憶を紐解こうと必死になっている。そして気付けば杖を突いて立つ阿杏もまた、僕と一緒に屈託無く笑っていた。
●
南天地区の市街からそう離れていない国道沿いに建つ、市立南天総合病院。その駐輪場の入り口前で待つ僕と阿杏の元にミニバイクを停め終えた宮路さんが駆け寄って来ると、到着を告げる。
「お待たせ」
到着と同時に、何故かぴょんとジャンプしてから着地してみせる宮路さん。彼女の仕草はやはり子犬の様に無邪気で、可愛らしい。
「うん。それじゃあ、行こうか」
僕の言葉を合図に、僕達三人は病院の正面玄関に向かって歩き始める。市立南天総合病院は結構な規模の総合病院なので、駐輪場から正面玄関までは、少し遠回りをしなければならない。そして目的地が近付くに連れて、病院の周囲に数台のパトカーが停車している事に気付いた僕達は、何か事件でも起きたのだろうかと思いながら正面玄関の自動ドアを潜った。
「尊!」
「父さん?」
自動ドアの先の待合室に何故か父さんの姿があったので、僕は驚きの声を上げたが、隣に立つ宮路さんもまた同じ反応を見せる。
「パパ? ママ? どうしてここにいるの?」
「美恵! あなたこそ学校にも行かないで、一体どこに行ってたの? 心配したんだからね?」
そう言いながらこちらへと駆け寄って来た身なりの良い中年の男女が、どうやら宮路さんの両親らしい。そして宮路さんとその両親が抱き合うのを横目に、少し遅れて駆け寄って来た父さんが、僕に事情を説明してくれる。
「尊、どこに行ってたんだ? 心配したんだぞ?」
「父さんこそ、どうしてこんな所に?」
「王杏さんが、脚の検査の途中で病院を抜け出しただろう? それで捜索を開始した病院と警察が学校に問い合わせたら、お前と宮路さんの二人も、今朝は普通に家を出たのに登校していないと言うじゃないか。だから皆で、お前達を探してたんだぞ? 何度電話をかけても通じないし、今まで一体どこにいたんだ?」
「それは……」
言葉を捜しながら、僕は状況を理解した。どうやら阿杏が病院を逃げ出した件が僕らの予想以上の混乱を招いたらしく、病院関係者だけでなく警察までもが出動して、僕達三人を捜索していたようだ。そして父さんは何度も電話をかけたと言うが、おそらくそれは、僕達が地下に潜っていた頃に行なわれたに違いない。地下ではずっとスマートフォンのアンテナ表示が圏外のままだったので、父さんには悪い事をしたが、通話が出来なかった事は至極当然と言える。
それにしても、警察に通報されてしまったのは面倒だ。こうしている今現在も病院の待合室内にはちらほらと警官の姿が散見されるのだが、おそらく僕達三人はこれから彼らに、以前に廃アパートで阿杏と共に発見された時と同じく説諭と言う名の説教をされるのだろう。そう考えると僕の気は滅入り、腹の底から嫌な味のする溜息が漏れざるを得ない。
「杏!」
僕が溜息を漏らした直後、どこかで聞き覚えのある声が、待合室に響き渡るほどの一際大きな声量でもって阿杏の名を呼んだ。その場に居合わせた全員の視線が、声の主に集中する。すると身体のあちこちに包帯や絆創膏による治療痕が見て取れる中年男性がこちらへと駆け寄って来ると、杖を突いて立つ阿杏の無防備な頬を、躊躇い無く殴り抜いた。
「阿杏!」
杖を取り落として病院の床を転がる彼女の名を叫びながら、阿杏を殴った色白のヤサ男と言った風体の中年男性が彼女の実の父親である事に、僕は気付く。
「杏! お前は一体、どれだけ俺の手を煩わせたら気が済むんだ! 家が火事になったこの大変な時に、一人で勝手にほっつき歩いてんじゃないぞ、この能無しの馬鹿女が! 恥を知れ、恥を!」
「ごめんなさいお父さん、ごめんなさい」
床に転がったまま何度も謝る阿杏に怒号を浴びせながら、彼女の父親は実の娘を足蹴にし続けていた。見る間に阿杏の顔に新たな生傷が刻まれ、血が滲む。そして次の瞬間、僕は殆ど無意識のまま阿杏の父親の元にまで駆け寄ると腕を振りかぶり、彼の顔面を渾身の力でもって殴り抜いていた。
「尊くん?」
僕の名を口にした阿杏の眼前で、つい今しがたまで実の娘を怒鳴りつけていた彼女の父親が、尻餅を突くようにしてどうと倒れる。そして彼は殴られた鼻っ柱を押さえながら、信じられないとでも言いたげな呆然とした表情でもって、殴った僕を見上げていた。また僕自身も自分の取った行動が信じられず、息を荒げながら言葉を失い、混乱する。人を殴り慣れていない僕の拳にさほどの威力は無かった筈だが、それでも阿杏の父親の鼻腔からは真っ赤な鮮血が一筋垂れ落ち、彼の着ているシャツに小さな染みを作った。
「おま……」
混乱しながらも口を開いた僕は、勢いに任せて言葉を並べ始める。
「お、おま、お前に、阿杏の気持ちが分かってたまるか! 阿杏はお前みたいな暴力を振るう父親でも愛しているから、お前を孤立させたくないから、自分の大事な脚を犠牲にしてでもお前を助けたんだぞ! そんな事も知らないお前に、実の娘を殴るような権利があるとでも思っているのか! 確かにお前は仕事が上手く行っていなくてストレスを抱えているのかもしれないが、それで苦しんでいるのはお前だけじゃないんだぞ! 阿杏だって忠信くんだって、皆苦しんでいるんだ! それをお前は自分だけが苦しんでいるような顔をして、しかも家族に暴力を振るって……。能無しの馬鹿はお前の方だし、恥を知るのもお前の方だ! 分かったか!」
ぜえぜえと息を荒げながら、怒り慣れていない僕は自分で自分が何を言っているのか殆ど理解出来ないままに、僕は胸の内を吐露し終えた。そして未だに呆然としたままの阿杏の父親は、小さな声で肯う。
「……はい。ごめんなさい」
それは拍子抜けするほどあっけない、懺悔の言葉だった。その言葉を聞いた僕は、勢いに任せて、最後にもう少しだけ忠告する。
「分かったか? 分かったんだな? だったら、これからは家族全員で仲良くしろ! お前には、お前を愛してくれている家族が居るんだ! それは、幸せな事なんだ! それを忘れるな!」
最後の方は喉を枯らしながら、声を掠れさせて、僕は叫ぶように言い放った。気付けば何故か、僕の両の瞳からはぽろぽろと涙が零れ落ちていて、病院の床に小さな水溜りを作る。そして興奮のあまり過呼吸を起こした僕は、酸素過多によって急激な眩暈に襲われた直後、視界が真っ暗になると同時にすとんと意識を失った。
「尊くん!」
「霧島くん!」
「尊!」
病院の待合室の床に崩れ落ちながら、阿杏と宮路さんと父さんの三人が僕の名を呼ぶ声が微かに聞こえたような気がしたが、その真相は定かではない。唯一確かな事は、頬に触れたリノリウム製の床の感触が、やけにひんやりとしていて心地良かった事だけだった。
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