第一幕


 第一幕



 教室の前扉がガラリと開けられ、僕は担任の周教諭と共に入室した。途端に教室内の生徒達がざわざわと色めき立ち、僕の顔を指差しながら、何事かをひそひそと囁き合っている。

 ここは、フォルモサの南天地区に建つ、国立南天大学付属高等学校の二年二組の教室。その教室の教壇の上に、周教諭と並んで僕は立つ。

「昨日のホームルームで予告した通り、今日は転入生を紹介します。それでは霧島くん、自己紹介をしてください」

「はい。えっと、霧島尊きりしまみことです。東京から転校して来ました。趣味はサッカー観戦と映画鑑賞と、それに読書です。これから、その、よろしくお願いします」

 周教諭に促された僕は、緊張で少しばかり噛み気味になりながらも自己紹介を終えると、ぺこりと頭を下げた。すると生徒達はパチパチと疎らな拍手でもって、僕を迎え入れてくれる。

「それでは霧島くんの席は昨日の内に用意しておいたので、あそこの空いている席に座ってください。皆も、同じクラスの一員として、霧島くんと仲良くするように。それでは日直の人は、今日の予定の報告をお願いします」

 周教諭がホームルームを進行させる中、僕は指定された席に腰を下ろした。周囲の生徒達は皆学校指定の制服に身を包んでいるが、急な転校で未だ制服が用意出来ていない僕だけは私服姿のままなので、少しだけばつが悪い。

 その時、誰かが僕の肩を、背後からトントンと軽く叩いた。そこで背後を振り返ってみれば、すぐ後ろの席に腰を下ろしたやけに色黒な男子生徒が、右手を差し出しながら小声で囁く。

「よお。俺、ヨシダ。よろしくな」

「よろしく」

 僕も小声で返答し、ヨシダと名乗った男子生徒と握手を交わした。彼は肌の色とは対照的な真っ白な歯を剥いて、嬉しそうにニコリと微笑む。そしてその時、僕は気付いた。廊下よりの一番後ろの席に、一昨日の夜に路地裏で僕に食卓塩をくれたショートカットの少女が、あの時と全く同じジャージ姿で腰を下ろしている事に。

「それではこれで、ホームルームを終了します。あ、霧島くん。あなたには渡す物が有るので、放課後に職員室まで来てください」

「あ、は、はい」

 ホームルームの終了を告げる周教諭から不意に名前を呼ばれた僕は、慌てて返事をした。渡す物とは何だろうかと、一瞬だけ考えを巡らせる。するとその間に、ジャージ姿の少女は無言で席を立つと、そのまま後ろ扉からさっさと教室を出て行ってしまった。彼女に声をかけそびれた僕は、その場に立ち尽くす。

「あのさ、霧島くんはさ、東京から来たんだよね?」

 立ち尽くしている僕に一人の女子生徒が近付いて来ると、興味深げに眼を輝かせつつ、小首を傾げながら尋ねて来た。その女子生徒はやけに小柄だが少しぽっちゃりしていて、学校指定のワイシャツの上からやや大きめのカーディガンを羽織り、ぱっと見た限りではボブカットの髪型と大きなセルフレームの黒縁眼鏡が印象的に見える。

「あ、うん。一応、東京から来たんだけど……」

「東京の、どの辺?」

「えっと、浅草」

「え、すごい。東京でも、真ん中辺りじゃない。それじゃあ霧島くんはさ、芸能人とか漫画家とかに、知り合いとかいるの? やっぱり東京では、そこら辺に芸能人が歩いてたりするの?」

 ある程度予想していた事ではあるが、やはり東京から来たと知られると、こう言った質問をされざるを得ないらしい。

「いや、渋谷駅とか新宿駅とかで芸能人がテレビのロケをしているのを何度か見かけた事はあるけれど、さすがに知り合いに芸能人はいないよ。それに、漫画家にも知り合いはいないかな。まあ一応、僕の父さんも作家の端くれだから、少しは関係があるのかもしれないけどさ。……それにしても、なんで漫画家に知り合いがいるかなんて聞くの?」

「あたしさ、将来は有名な漫画家になって、東京で暮らすのが夢なんだよね。だから今の内からさ、少しでも東京の事を知っておきたいんだ」

 そう言うと、その女子生徒は無邪気に微笑んだ。その笑顔は妙に間抜けと言うか、いい具合に力が抜けていて、まるで世間の世知辛さを知らない子犬が微笑んでいるかのようにも見える。

「それでさ、霧島くんのお父さんが作家さんって言う事は、漫画家さん? それとも、小説家さん?」

「一応は、小説家かな。とは言っても全然売れてなくて、東京での連載の仕事が無くなったから、このフォルモサまで都落ちして来ちゃったんだけどね。ごめんね、有名な作家じゃなくてさ」

「ふうん、そっか」

 女子生徒は少し残念そうにそう言うと、ずずっと鼻を啜った。なんだか彼女の所作の一つ一つからは、小動物の様な無邪気さと可愛らしさがうかがえる。

「あたし、宮路美惠みやじめいふい。名前は北京語読みの「めいふい」でも、日本語読みの「みえ」でも、好きな方で呼んでくれればいいから。よろしくね、霧島くん」

「こちらこそよろしく、宮路さん」

 僕は宮路美恵と名乗った黒縁眼鏡の女子生徒と、改めて挨拶を交わした。すると彼女は再び無邪気に微笑みながら、更に尋ねる。

「霧島くんはさ、秋葉原に行った事はあるの? やっぱり秋葉原って、漫画やアニメのお店が一杯あるんでしょ? それに、日曜日になるとコスプレして歩いてる人が沢山いるって聞いた事があるよ? ああ、それからやっぱり東京は、アニメを放映しているテレビ局も多いんでしょう? 深夜になると毎日の様に新作アニメが放映されているって、東京に住んでいる漫画家さんとかがSNSで報告していたけれど、あれって本当なの?」

 早口で捲くし立てるかのような質問攻めに、僕は気圧されて、少しばかり狼狽した。すると後ろの席のヨシダが、からかうような口調でもって囃し立てる。

「また始まったよ、宮路のオタクトークがさ。ほらほら、霧島も突然そんなマニアックな話題を振られて、困ってるじゃないか。まったくこれだからオタクって奴は、アニメや漫画の話になると急に早口になるのって、気持ち悪いよな」

「うるさいぞ、ヨシダ。あたしは今、霧島くんと話してるんだからね」

 からかわれた宮路さんが、唇を尖らせながら抗言した。

「そんな事を言ったって、実際にオタクは気持ち悪いじゃないか。なあ、霧島?」

 ヨシダの問いに、背後に座る彼の方を振り向いた僕は、言葉を選びながら答える。

「いや、その、別に気持ち悪くはないんじゃないのかな? 僕だって漫画とか好きで、よく読むしさ」

「え? 何? 霧島も宮路と同じで、オタクなの?」

「いや、別にオタクって程じゃないよ? 一応は好きな漫画とかをよく読むってだけで、アニメなんかは全然観ないしさ。でもまあ、アニメとか好きなのは、それはそれでいいんじゃないのかな。女の子がアニメが好きとか、ちょっと可愛いじゃん」

「ふうん」

 少し意外そうな表情と視線でもって、ヨシダは僕の全身を睨め回した。それにしても、いきなり転校生の事を本人の了承も得ずに呼び捨てにするとは、この男は結構不躾な奴なのかもしれない。そして前方へと視線を戻せば、宮路さんが僕の顔を少し熱っぽい眼で見つめながら、何やら頬を赤らめている。

「ん? どうしたの、宮路さん?」

「え? あ、いや、その、ううん、何でもない。何でもないから」

 しどろもどろになりながらもそう言った宮路さんは、無理に作ったような笑顔をこちらに向けながら、そそくさと自分の席に戻って行ってしまった。彼女の態度が急に変わった事を不思議に思っていると、ヨシダが背後から僕の肩を馴れ馴れしく抱き、耳元に囁きかける。

「霧島、お前、上手くやったじゃないか」

「?」

 僕は彼の言葉の真意が読めずに、頭の上に疑問符を浮かべた。その一方で斜め前方の席に腰を下ろした宮路さんは、こちらを横目でチラチラとうかがいながら、もじもじと落ち着きが無い。背後のヨシダが、再び真っ白な歯を剥いてニコリと微笑む。


   ●


「失礼しました」

 意味の無い言葉と共に、鞄を抱えた僕は、職員室から退出した。時刻は、既に放課後。多くの生徒達は授業の終了と共にさっさと帰宅したか、もしくはそれぞれの部活動に励んでいる。結局周教諭が言っていた僕に渡す物とは、各教科の教科書と生徒手帳、それに部活動の案内や入部届けの用紙と言った、雑多な書類の束だった。

「帰るか」

 一息嘆息してからそう呟いた僕は、渡された教科書や書類の束を全て鞄の中に放り込むと、下駄箱が置かれた昇降口に向かって歩を進める。急に重くなった鞄の肩紐が肩に食い込んで、少し痛い。階段を下りる途中で窓の外を見遣れば、このフォルモサでは当然の事だが、今日もしとしととそぼ降るような雨が降り続けていた。

 下駄箱の前で上履きから外履きの靴に履き替えると、校舎の外に出る。空を見上げると、季節は未だ冬なので、この時刻でも既に宵闇が迫りつつあった。

 するとそこに、ドコドコドコと低いエンジン音を唸らせながら一台のミニバイクがゆっくりと近付いて来て、僕の眼前でピタリと停まる。

「霧島くん、もう帰るの?」

 ミニバイクに乗っていたのは、頭にハーフヘルメットを被った宮路さんだった。彼女の小柄な体格と比較すると、ミニバイクがやけに大きく見える。

「うん。ちょうど帰るところだけど?」

「そっか。じゃあさ、その、良かったらあたしと、一緒に帰らない?」

 突然の提案に少し驚くが、別に断る理由も無い。

「いいよ。途中まで、一緒に帰ろうか」

 僕が宮路さんの提案を了承すると、彼女はニコリと、無邪気な子犬の様な笑顔でもって再び微笑んだ。そしてエンジンを切ったミニバイクを押しながら、僕と並んで、学校から市街へと向かう国道沿いの道を歩き始める。

「霧島くんが住んでるのは、南天ナンティエン地区? それとも北地ベイディー地区?」

「南天地区の、ちょっと高台を上った辺りだよ」

「そっか。あたしの家は北地地区の下の方だから、霧島くんの家からは結構離れてるね」

「宮路さんは、いつもバイクで通学しているの?」

「うん。あたしの家からだと、ここまで来るのに長い坂を上って来ないといけないからさ。バイクじゃないと、とてもじゃないけど足腰が保たないよ」

 他愛も無い会話を繰り返しながら、僕と宮路さんは歩き続けた。学校は南天地区の外れに在るので、そこから彼女の住む北地地区に向かうには、南天地区の市街を縦断する必要がある。このまま歩き続ければ、彼女と別れるのは南天地区の市街の、ちょうど中央辺りだろうか。

「ねえ、霧島くん。ちょっとさ、寄り道していかない?」

「寄り道?」

 南天地区の市街にもう少しで差し掛かると言う辺りで、宮路さんが再び提案した。

「うん。都合が良かったらでいいんだけどさ、駄目?」

「いや、僕は別に、構わないけど? それで、どこに行くの?」

「まずはさ、そこの神社に寄って、お参りして行こうよ。霧島くんも引っ越して来たばかりだったら、まだお参りしてないでしょ?」

「へえ、この辺に神社が在るんだ。いいんじゃない、お参りも」

 僕は特に信心深い方ではないが、これからお世話になる土地の神様に挨拶の一つもしておくと言うのも、悪くはない。そう考えた僕は、ミニバイクを押す宮路さんと共に、市街から少し外れた小道を通って神社の境内へと足を踏み入れる。勿論境内に車輌で進入する事は出来ないので、宮路さんは鳥居の傍にミニバイクを停めてから、頑丈なチェーンロックを三つも装着していた。

 それにしても僕と違って、宮路さんは傘を差す気がまるで無いらしい。いや、宮路さんに限らず、このフォルモサに住む人達は少しぐらい雨に濡れる事を、何とも思っていないようだ。常に雨が降り続ける常雨都市で生まれ育った彼女達にとっては、この程度の小雨など、傘を差すにも値しないのだろう。

「ここはさ、何の神様を祀った神社なの?」

「えっと、確か金山神社の分祀だから、商売の神様を祀った神社かな? でもあたし達はそんな事は気にしないで、学業成就でも交通安全でも、何でも好きな事をお祈りしているけどね」

 僕の問いに、宮路さんは小首を傾げながら答えた。そして社務所の横を通過した僕達二人は、手水舎で手と口を清めてから参道を進み、左右に狛犬を配した拝殿へと赴く。切妻屋根の拝殿は思いの外に立派な造りで、広い境内も清掃が行き届いており、地元民の信仰心の深さを暗に語っていた。

「どうか、父さんの新しい仕事が、上手く行きますように」

 二礼してから賽銭箱に硬貨を投げ入れ、二拍手の後に、神妙な面持ちでもって願を掛ける僕。父さんの仕事が上手く行かなければ僕の生活にも支障を来すので、この願いが叶ってくれなければ、結構洒落にならない。そしてふと隣を見れば、僕に負けず劣らずの熱心さでもって、宮路さんも何事かを祈願している。

「宮路さん、随分熱心に願掛けしていたみたいだけれど、どんな事を願ったの?」

「へへへ、秘密」

 拝殿から鳥居の前まで引き返した僕の問いに、宮路さんはミニバイクのチェーンロックを外すと、やはり子犬の様に微笑みながら答を秘匿した。女の子の秘密を詮索するのも無粋かと思ったので、僕もそれ以上は聞かない。そして神社へと至った道を引き返して南天地区の市街へと足を踏み入れた僕達は、昨夜も夕食を摂った夜市の入り口に立つ。

「それじゃあ宮路さんは、ここから坂を下りて、北地地区の家に帰るんでしょう? ここでお別れだね」

「うん、そうだね。霧島くんは、夜市イエシーを通って帰るの?」

 そう尋ねながらミニバイクに跨った宮路さんは、ハーフヘルメットを被って首紐を絞めると、シリンダーに差し込んだイグニッションキーを回してエンジンを掛けた。マフラーから排気ガスが吐き出され、エンジンがドコドコドコと唸りを上げる。

「ああ。通って帰ると言うか、ここで晩飯を食べてから帰るんだ。それに父さんの分の晩飯も、ついでに買って帰るように頼まれているしね」

 僕の返答に、ミニバイクを発進させようとしていた宮路さんの手が止まった。

「え? このまま真っ直ぐ、家に帰るんじゃないの? 晩ご飯を夜市で食べて行くの?」

「ああ、うん。うちは、母さんがいないんだ。それに家で待っている父さんも、料理なんてまるで出来ないからね。だからうちのご飯は全て、夜市での外食か、コンビニの菓子パン頼みなんだよ」

「そうなんだ……。あ、ちょっと待っててね」

 そう言うと、宮路さんはミニバイクのエンジンを切り、ポケットからスマートフォンを取り出してどこかに電話を掛ける。

「あ、もしもし? ママ? あのさ、晩ご飯はもう作っちゃった? 未だだったら、あたしは今日は外で食べてから帰るから。うん、そう。ちょっと遅くなる。なんでって、とにかくどうしても、そうしたいの!」

 どうやら電話の相手は、彼女の母親らしい。

「お待たせ。それじゃあ霧島くん、あたしも夜市で晩ご飯を食べて帰る事にしたから、一緒に行こうよ。いいでしょ?」

「僕は別に構わないけど……。宮路さんの方こそ、いいの? 家で家族が待っているんじゃないの?」

「大丈夫大丈夫、気にしないでいいから。あ、それと霧島くん、良ければあたしと電話番号を交換してくれないかな?」

「はあ……」

 なんだか良く分からないが、どうやら宮路さんは、僕と一緒に夜市で晩飯を食べる算段を整え終えたようだ。そしてそんな彼女の思惑に流されるようにして、ミニバイクを駐輪場に停めた僕達二人は互いのスマートフォンの電話番号を交換し合うと、露店が立ち並ぶ夜市へと足を踏み入れる。

 夜市は、今夜も盛況だった。立ち並んだ露店の数々は未だ開店してから間も無いが、地元民と観光客の別無く既に多くの客で溢れ、道には目当ての料理を求める人の行列が出来ている。それぞれの露店が思い思いの看板や提灯を店先に飾り、暖かなオレンジ色の光が街路を照らすと同時に、濡れた路面に反射して幻想的な光の饗宴を演出していた。そしてそこかしこの鍋や釜から立ち上る湯気と熱気、それに様々な食材や調味料から漂う芳醇な香りが、否応無しに食欲を刺激して止まない。

「さてと、何を食べようか?」

「あたしは何でもいいよ。霧島くんが食べたい物とお店を選んでくれたら、あたしもそこで、同じ物を食べるから」

 宮路さんは店と献立の選択権を僕に譲ってくれるが、むしろそれは、僕の方が困る。

「いやその、実は僕、未だ北京語のメニューが殆ど読めなくてさ。それで越して来てからずっと、露店で注文する時にメニューから料理の内容が想像出来なくて、困ってたんだ。だから出来れば、宮路さんが教えてくれると助かるんだけれど……」

 そう言うと、宮路さんは黒縁眼鏡の奥の瞳を輝かせた。

「そう言う事なら、任せといて! あたしが、このフォルモサの美味しい料理を教えてあげるから! それじゃあまずは、今日の霧島くんは何が食べたい? 牛肉? 豚肉? 鶏肉? 主食はご飯? それとも、麺?」

「あ、えっと、ご飯……かな? それと、豚肉が食べたいかも」

 やけに張り切っている宮路さんに気圧されながらも希望を述べると、鼻息も荒い彼女は僕の手を取り、先導して歩き始める。

「豚肉が食べたいのなら、何と言ってもまずは、排骨飯パイクーファンだよね! 美味しいお店を知ってるから、そこまで行こう!」

 導かれるままに歩き続けると、やがて夜市の中央辺りで、一軒の露店の前に辿り着いた。そして店内に並べられたテーブルの一角を確保した宮路さんは、僕の了解も得ずに、次々と料理を注文する。

「おばちゃん、内用ネイヨンで、排骨飯を二つ。それと番茄炒蛋ファンチエチャオダン貢丸湯ゴンワンタンを一つずつください。あ、タンは二人で分けるから、空のお椀を一つ追加してくださいね」

 僕にはまるで読めない北京語で書かれたメニューを読み、淀み無く料理を注文する宮路さん。すると彼女がおばちゃんと呼んだ露店の厨房に立つ中年女性が鍋と玉杓子を手際良く振るい、気付けば完成した料理の数々がカウンターの上に並べられていた。そして会計を終えた僕達はそれらの料理をテーブルに運ぶと、向かい合う体勢で椅子に腰を下ろし、少し早めの夕食を共に頂く事にする。

「いただきます」

 割り箸を割った僕は、まずはメインである排骨飯の皿を手に取った。排骨とは豚の肋骨の周りの肉、いわゆるスペアリブの事らしく、どうやら衣を付けて油で揚げたその排骨を熱々のご飯の上に乗せたのが排骨飯らしい。そして揚げたての排骨に齧り付けば、とろとろに溶けた豚の脂と甘辛い醤油味のタレがじわりと染み出して来て、得も言われぬ旨みが舌の上に広がる。

「あ、美味い」

 思わず、僕の口から感嘆の声が漏れた。そんな僕の姿を見て、テーブルを挟んだ向かいの席に座った宮路さんが、彼女自身もまた自分の皿の排骨を頬張りながら嬉しそうに微笑む。

 取り除かれていない骨が邪魔で少し食べ辛いが、揚げたての排骨は日本のトンカツにも似ていて、白いご飯との相性が良い。皿の端に盛られた付け合わせの茹で野菜も箸安めに丁度良く、食欲を増進させる。一昨日食べた鶏肉飯も美味かったが、この排骨飯も負けず劣らずの美味さだ。

「こっちの番茄炒蛋も美味しいよ? 食べてみて?」

 嬉しそうに微笑み続けている宮路さんに勧められて、テーブルの中央に置かれた皿に盛られた料理にも、僕は箸を延ばす。

 その番茄炒蛋と呼ばれた料理は、簡単に言ってしまえば、トマトの卵炒めだった。そして一口食べてみれば、じっくりと火を通したトマトの甘味と酸味に卵のコクが加わって、実に美味い。排骨飯で腹が膨れていなければ、これを白いご飯の上に山盛りに盛って、レンゲでかっ込みたくなるほどだ。

「どう、霧島くん? 美味しい?」

「うん。排骨飯も美味いけど、これもすごく美味いね」

 僕は無心で、番茄炒蛋を口に運ぶ。それにしても、卵とトマトの相性の良さはオムライスでも証明済みなのに、何故この料理が内地で食べられていないのかが不思議でならない。そして排骨飯と番茄炒蛋の皿が半分がた空になった頃に、ようやく僕は、宮路さんが取り分けてくれたスープの椀を手に取る。

「これは?」

「貢丸湯。この店は湯の量が多いから、二人で半分こすると、丁度良い量になるの」

 宮路さんの説明通り、そのスープは二人で取り分けて半分の量になっても、僕の腹を満たすに充分な量がお椀に盛られていた。そして色が薄くて丸い肉団子と微塵切りのセロリを浮かせたそれは、一見すると、鰯のつみれの澄まし汁にも似ている。

「あ、魚じゃないんだ」

 肉団子を一口齧れば、鰯のつみれとは全く違った獣肉の味が口中に広がり、スープもまた魚介の出汁ではなかった。

「うん。貢丸湯のお肉は豚の挽肉だし、スープも豚の骨から出汁を取っているの。霧島くんが豚肉が食べたいって言ったから、排骨飯と合わせて豚尽くしにしてみたんだけど、嫌だった?」

「いや、全然嫌なんかじゃないよ。うん、美味い美味い」

 正直に言うと貢丸湯に浮いたセロリの香りが少しだけ苦手だったが、それを差し引いても、どの料理も驚くほど美味い。そして箸とレンゲが止められなくなった僕は食欲の赴くままにバクバクと食べ続け、宮路さんはそんな僕を嬉しそうに微笑んで見つめながら、自分の分の料理をモリモリと食べている。

「ふう、ごちそうさま」

「ごちそうさまでした」

 やがて全ての皿と椀を空にした僕達は、食事の終了を告げた。ごちそうさまと言いながら手を合わせて小さくお辞儀をする宮路さんの姿は、彼女が見かけによらず育ちが良い事を、暗にうかがわせる。

「霧島くん、この後も未だ、夜市を見て回るくらいの時間はあるの?」

 料理を作る人と食べる人の熱気と喧騒に満ちた店内で、宮路さんが僕に尋ねた。

「いや、家で待っている父さんに晩飯を買って帰らなくちゃならないから、あんまり長居は出来ないよ」

「そっか」

 残念そうにそう言うと、肩をすくめる宮路さん。しかし彼女は諦めずに、食い下がる。

「でもさ、少しくらいだったら大丈夫でしょ? そのお父さんに買って帰る便當ビェンダンを選ぶついでに、夜市で何か甘い物でも食べて行こうよ? ね?」

「まあ、少しくらいだったらいいけど……」

「じゃあ、決まり! そうと決まったら、早く行こうよ。食べ終わったのにいつまでも座ってたら、お店の人の迷惑にもなるしさ」

 そう言って立ち上がった宮路さんは、僕の分の食器もまとめて厨房の洗い場へと返却すると、手招きをしながら僕を急かす。お店に迷惑をかけないように配慮したり、僕の分の食器もさりげなく片付けてくれる心遣いから察するに、やはり彼女はそれなりに良い家のお嬢様なのだろうか。

「霧島くん、喉渇いた?」

「喉? うん、そうだね。さっきの店だとスープしか飲まなかったから、ちょっと喉が渇いたかな」

「じゃあさじゃあさ、珍珠奶茶ゼンチュウナイチャーのお店に行こうよ、ね?」

「ゼンチュウナイチャー?」

 単語の意味は分からなかったが、おそらくは何かの飲み物であろうそれを売っている露店を目指して、僕の手を引きながら宮路さんは人混みの中を歩き始める。そして辿り着いたのは、一軒の露店の前。その店先には、既に若い女性を中心とした客の一団によって、ちょっとした行列が出来ていた。

「蛙?」

 僕は、少し驚く。と言うのも、露天が掲げる看板には、やけにリアルな蛙とその卵の絵が描かれていたからだ。しかも露店から出て来た客の持つプラスチック製のカップの底には、何か黒いブツブツした粒状の物体が大量に沈んでいる。蛙の脚の肉が食べられる事は知識の上では知っているが、卵までが食べられるとは聞いた事が無い。

「宮路さん、僕、さすがに蛙の卵は食べる度胸は無いんだけど……」

 狼狽する僕を見て、隣に立つ宮路さんが、ぷっと吹き出して笑った。そして僕の脇腹を小突きながら、説明してくれる。

「あれは、本物の蛙の卵じゃないよ。見た目が蛙の卵に似ているだけの只のタピオカだから、安心して」

 そう言って笑う宮路さんの周囲をよく見ると、行列に並んでいる他の客の何人かも、僕をチラ見しながら笑いを噛み殺していた。いらぬ恥をかいてしまった僕は、恥ずかしさで顔を赤くする。

「ほら霧島くん、サイズと氷の量と甘さが選べるから、好きなのを選んで。氷の量は少なめで、よっぽどの甘党じゃなかったら、甘さも控えめにした方が丁度いいと思うよ」

「それじゃあ僕はMサイズの氷無し、砂糖は50%で」

「あたしはLサイズの薄冰バオビンの、少糖シャオタンをください」

 僕には甘さ控えめを勧めながら、自分は砂糖70%の少糖を注文する宮路さん。彼女が言うところの「よっぽどの甘党」を、宮路さん自身が自認していると言う事なのだろうか。しかし「少」と言う漢字の意味が日本語の「少ない」とは微妙にニュアンスが違うのが、慣れない僕には少しややこしい。

 そして注文と会計を終えた僕達に手渡されたのは、プラスチック製のカップに注がれた薄茶色の液体。カップの底には黒い粒々が沈み、やけに太いストローが付属する。

「あ、紅茶だ」

 その薄茶色の飲み物は、ミルクがたっぷりと入った、甘い紅茶だった。そしてやけに太いストローは、カップの底に沈んだタピオカを紅茶と一緒に吸い上げるためのものだと理解する。どうやら珍珠奶茶と言うのは、タピオカ入りのミルクティーの事らしい。

「どう、美味しいでしょ?」

「うん、いけるいける」

 同意を求める宮路さんの言葉に、僕は頷いた。爽やかな紅茶の風味とタピオカのプルプルとした食感が、舌と喉に心地良い。しかし砂糖50%でもかなり甘いのに、砂糖70%でしかもLサイズを注文した宮路さんは糖分の摂取過多ではないかと、少し心配になる。やはり女の子と言うのは、生まれながらにして甘い物に眼が無いのだろうか。

 そして僕達二人は珍珠奶茶を飲みながら、仲良く並んで、夜市をぶらぶらと歩き続ける。また気付けば僕と宮路さんはごく自然に手を繋いでいたが、あまりにも自然過ぎて、特に気恥ずかしくも感じない。

「ねえ霧島くん、肉粽ロウツォンはどうかな?」

「え? 何が?」

 不意にこちらを振り向いた宮路さんの言葉に、僕は問い返した。

「霧島くんのお父さんに買って帰る晩ご飯、あの肉粽なんかが良いんじゃないかなって」

 そう言って宮路さんが指差す先を見遣れば、一軒の露店の軒先に、竹の葉で包まれた大量の中華ちまきが吊るされている。

「ああ、ちまきか」

「そう、ちまき。霧島くんのお父さんが嫌いじゃなければ、この店の肉粽は大きくって種類も豊富だし美味しいから、これを何個か買って帰るのとかは、どうかな?」

「うん、いいね」

 宮路さんの提案を快諾した僕は、彼女と共に、店の前に出来た行列に並んだ。そして勧められるままに、父さんの分の晩飯として、僕は特製八寶肉粽トゥージバーバオロウツォン蛋黄粽ダンファンツォンを一つずつ注文した。特製八寶肉粽がちょっとお高いだけあってサイズも大きめだったので、蛋黄粽と合わせて二つも買えば、決して大食漢ではない父さんの一食分には充分事足りるだろう。そしてここフォルモサのちまきは日本で食べるちまきとは違って、ビニールパックで小分けにされたタレが付属するようだ。

「なんか霧島くんが買ってるのを見てたら、あたしも肉粽が食べたくなって来ちゃった。ねえ、もう一つあたしが買うからさ、二人で半分こしようよ」

 そう言うと宮路さんは、僕の了承を得る前に、さっさと自分の分のちまきを注文してしまった。そしてスチロール製の皿に乗せられたちまきを手に取ると、それにとろみのあるタレと刻んだ香菜シャンツァイをたっぷりとかけてから、通りの端に置かれたベンチに腰掛けて僕を手招きする。

「これは、何だっけ?」

八寶肉粽バーバオロウツォン。霧島くんが買った特製八寶肉粽ほどは豪華じゃないけれど、これもすっごく美味しいよ?」

 店頭で貰って来た割り箸でちまきを半分に割りながら、宮路さんが言った。そして隣に座った僕の眼前に、箸で摘んだちまきの半分を差し出す。

「はい、丁度お肉と椎茸と卵が入っているところ、霧島くんにあげる」

 僕は差し出されたちまきに、がぶりと齧り付いた。甘辛いタレの味が染みたちまきは餅米と具材の食感のコンビネーションが絶妙で、確かに美味い。また残ったちまきのもう半分も、宮路さんが美味しそうに頬張っている。

「そっちの半分には何が入っていたの?」

「ん? こっちは干し海老と貝柱と、ピーナッツかな? あれ? 霧島くん、こっちの方が良かった?」

 少し不安そうな表情を見せる宮路さん。

「いや、そんな事は無いよ。でもそっちも美味そうだから、今度また腹が減っている時に食べる機会があったら、一人で丸々一個食べてみたいな」

「そうだね。また一緒に食べようね」

 そう言って、宮路さんは子犬の様に微笑んだ。そしてまた同時に、僕は気付く。座っている僕から三十mほど前方の、宮路さんの肩越しの人混みの中を、見覚えのあるジャージ姿の少女が垣間見えた。僕は立ち上がってその少女を眼で追おうとしたが、彼女は一瞬で人混みの中に紛れて歩み去り、もうその姿は確認出来ない。

「霧島くん、どうしたの?」

 突然立ち上がった僕を、宮路さんが訝しんだ。僕は何も答えずに、ベンチに座り直す。

「宮路さん、ちょっと聞いていい?」

「ん? 何?」

「今朝教室で見かけた、一番後ろの席に座っていた女子は何て言う名前なのかな? 制服の上からジャージを着ていて、髪型はショートカットで、ホームルームが終わると同時に教室から出て行っちゃった女子。昼休みにも放課後にも教室には戻って来なかったけれど、彼女も同級生なんでしょ?」

「ジャージでショートカットの女子って、阿杏アーシンの事?」

「阿杏? それが、彼女の名前なんだ?」

「うん、そう。フルネームは王杏ワン・シンだけど、クラスの女子は愛称で、阿杏って呼んでるの。彼女がどうかしたの?」

 僕の問いに答えた宮路さんが、珍珠奶茶の残りを飲みながら小首を傾げて、更に訝しんだ。するとその時、僕らが食べ終えたちまきが乗っていた皿に何か小さな影がぴょんと飛び乗ったので、僕は驚く。

 キーキーと鳴きながら皿に残ったちまきの米粒を齧るそれは、身長三十㎝くらいの小さな鬼だった。しかも妙に腹が膨らんでいるくせに手足がガリガリに痩せこけた、見るからにみすぼらしくて汚らしい子鬼だ。その子鬼がベンチに腰掛けた僕と宮路さんの眼前で、残飯を漁りながらケラケラと笑っている。

「あ、嫌だもう」

 突然の鬼の出現に驚く僕を尻目に、眉根を寄せながら不愉快そうにそう言った宮路さんは、カーディガンのポケットから小さなピルケースを取り出した。そしてその中身を一摘み、鬼に向かって振りかける。すると鬼は一際大きな声でキーと悲鳴を上げると、苦しそうに顔を歪めながら脱兎の如く逃げ出し、夜市の闇に消えた。

「何、今の?」

「あれは、饿鬼。夜市でも家の台所でも、食べ物が有る所には必ず現れる妖の一種だから、霧島くんも気を付けてね? あ、霧島くんは、ちゃんとヤニと塩は持ち歩いてる? 引っ越して来たばかりでまだ持ってないんだったら、これ、あげようか?」

 宮路さんはそう言いながら、手に持った二つのピルケースを差し出す。その中にはそれぞれ、ほぐしたタバコの葉と食卓塩が詰められていた。さきほど鬼に振りかけたのは、そのピルケースの中に詰められたタバコの葉らしい。

「いや、いいよ。ちゃんと持っているから。饿鬼が出た時にはタバコの葉を撒いて、烟鬼が現れた時には塩を撒くんだよね?」

 パーカーのポケットの中からタバコの葉が入ったジップロックの小袋と食卓塩の小瓶を取り出した僕がそう言うと、宮路さんはちょっと驚いたような表情で言う。

「へえ、霧島くんも、もう知ってたんだ。じゃあ饿鬼と烟鬼が現れても大丈夫だね」

「うん。それでさっきの話の続きなんだけれど、一昨日の夜にこの夜市の路地裏でこのタバコの葉と塩をくれたのが、その阿杏さんなんだ」

「阿杏が? どうして彼女に、それを貰ったの?」

「実は路地裏で、烟鬼に襲われちゃってね。そこを通り掛かった阿杏さんが烟鬼を塩で追い払ってくれて、ついでにこれらを僕にくれたんだ。それで今日、たまたま教室で彼女を見かけたんで挨拶ついでに名前くらいは聞いておこうと思ったんだけど、さっさと教室を出て行っちゃったからさ。彼女、授業にも出ずに、どこに行ってたんだろう?」

「うーん、阿杏はちょっと特別だからなー……」

 そう言って、少し考え込む宮路さん。たっぷりLサイズの量の珍珠奶茶をゴクゴクと飲み干してから、彼女は教えてくれる。

「阿杏はね、うちの学校の女子サッカー部の、特待生なの。中学の頃から有名な選手で、大学選抜とプロからも声がかかっているんだって。だから基本的には授業に出なくても単位は貰えるし、部活で結果を出し続ければ、大学にも無試験で進学出来るらしいよ。それで、勉強をする気が無くなっちゃったのかな? 毎日学校には来るけれど、授業には殆ど顔を出さないで、保健室で寝てばっかりいるみたい。だけど放課後になると起きて来て、部活動にはちゃんと励んでいるらしいけれどね」

「そうなんだ」

 宮路さんの説明に、僕は得心した。しかし毎日学校には来ながらも授業には殆ど出席せずに、同級生達と交流する事も無く保健室で寝続けていると言うのは、果たしてどんな気分なのだろうか。そう考えると、一度は得心した筈の宮路さんの説明がなんだかひどく納得が行かず、淀んだ澱の様な物が心に溜まる。

「……霧島くん、阿杏の事が、そんなに気になるの?」

「うん、ちょっとね」

 小首を傾げながら尋ねる宮路さんに、僕は半ば上の空で答えた。そして自分の珍珠奶茶の残りを飲み干しながら、阿杏さんの心情を想像して、思い悩む。しかしそんな僕を見つめる宮路さんの表情が、少しだけ曇っている事には気付かなかった。

「それじゃあ、そろそろ帰らなくっちゃ。父さんの分のちまきも、冷めない内に早く届けたいからね」

 僕はそう言って立ち上がると、持ち帰りの肉粽が入ったビニール袋を指し示す。すると宮路さんも立ち上がり、二人で分け合って食べた肉粽が盛られていたスチロール製の皿と割り箸、それに空になった珍珠奶茶のカップをゴミ箱に捨てると、再び僕と手を繋いだ。そして僕達二人は来た道を引き返し、夜市の入り口横の駐輪場へと辿り着く。

「それじゃあまた明日、学校で会おうね、霧島くん」

「うん、また明日。今日は色々と教えてくれて、ありがとう」

 ハーフヘルメットを被って首紐を絞め、三つのチェーンロックを外し終えた宮路さんは、僕と別れの挨拶を交わした。そしてミニバイクに跨ってエンジンを掛けると、雨のそぼ降る国道を走り始める。ドコドコドコと言う独特のエンジン音が、耳に心地良い。しかしほんの数mばかりも走ったところで宮路さんはミニバイクを急停車させると、彼女の背中を見送っていた僕の方に振り返り、大きな声でもって忠告する。

「霧島くん、もしも道に赤い封筒が落ちていても、絶対に拾っちゃ駄目だからね? 約束だよ?」

「うん、分かった」

 忠告を了承した僕に微笑みかけると、宮路さんは再びミニバイクのアクセルを開けて、その場から走り去った。僕は忠告の意味が分からずに、少し困惑する。そして気を取り直すと、自宅である団地の方角へと足を向けた。Mサイズでも結構な量があった珍珠奶茶のせいで、腹が少したぷたぷする。


   ●


「ただいま」

 帰宅の挨拶と共に、僕は団地の十二階の自宅に足を踏み入れた。そして未だに荷物が詰まったダンボール箱が積み上げられたままの廊下を通過すると、父さんの仕事部屋の前で足を止め、ドアを二回コンコンとノックする。

「どうぞ」

 今日は、中から返事が返って来た。その返事を確認した僕は、ドアノブを回してドアを開ける。

「父さん、今帰ったよ」

「ああ、お帰り、尊。今日も早かったな」

 仕事机に向かっていた父さんと、挨拶を交わした。それと同時に父さんは、咥えていたタバコを灰皿で揉み消す。どうやら父さんは、息子が見ている前で堂々とタバコを吸う事に対して抵抗があると言うか、微かな罪悪感を覚えているらしい。

「早かったって、もう七時だし、外は真っ暗だよ。それでこれ、父さんの分の晩飯。未だ温かいけれど、レンジでチンしてから食べてよ。ああ、タレをかけてから食べるのを忘れないでね」

「ああ、ありがとう。そうか、もうこんな時間か」

 僕が差し出したビニール袋を受け取った父さんは、今日もまた、それをデスクの脇に積まれた本の山の上に無造作に置いた。温かい肉粽が、刻一刻と冷めて行く。

「それで、仕事の方は、順調?」

「ああ、順調だとも」

 そう言って嘘を吐く父さんの原稿執筆は、今日も進んだ形跡が無い。

「それじゃあ、あんまり根を詰め過ぎないようにね。僕はもう少ししたら先に寝るから、お休みなさい」

「ああ、お休み。……そうだ尊、ちょっといいかな?」

「何? 父さん」

「今日は、お前の初登校の日だったんだろう? それで、新しい学校はどうだった? 友達は出来そうか? 担任の先生は、どんな人だった? 何か部活動には参加するのか?」

 ドアノブに手を掛けて出て行こうとする僕に、父さんは矢継ぎ早に尋ねた。その問いに対して僕は、今日も作り笑いを浮かべると、事も無げに答える。

「新しい学校は、なかなか居心地が良さげだったよ。何人か友達も出来たし、担任も女の先生で、優しそうだったしね。部活に参加するかどうかは、未だわからないかな。もうすぐ三年生になるし、こんな時期に上級生が入部して来ても、後輩に気を使わせるだけだと思うからさ。それだったら、来年の受験に向けて、今から勉強に集中しておいた方が良いんじゃないかな」

「そうか。それならいいんだが……」

 父さんは、そう言って安堵した。だがそんな父さんは、僕が中学校で、そして前に通っていた内地の高校でどんな部活動に励んでいたかも、おそらくは関知していないだろう。

「一人での食事は、寂しくないか?」

 改めて、父さんが尋ねた。どの口がそんな事を聞くのかとも思ったが、僕は父さんの新たな問いに答える。

「もう慣れたよ。一人で食べた方が、気が楽な事もあるしね。それに今日の晩飯は、学校の帰りに、夜市で友達と一緒に食べたんだ」

「もう一緒に食事をするような友達が出来たのか。それは良かった。それでその友達と言うのは、男か? それとも女か?」

「女」

「女の子か。転校初日にもう彼女が出来るなんて、お前も隅には置けないな」

「そんなんじゃないよ。その子は宮路さんって言う同じクラスの子なんだけれど、なんだか将来は、東京で漫画家になるのが夢なんだって。それで、東京から来た僕に興味が有るらしいよ」

「そうか。理由はなんであれ、仲の良い友達が出来ると言うのは良い事だ。しかもそれが異性であるならば、尚更な。その宮路さんと言う子を、大事にするんだぞ」

 今更何を偉そうに忠告しているのかと言いかけたが、それを口に出してしまうほど、僕も子供ではない。

「それじゃあ父さん、お休みなさい」

 僕は改めて就寝の挨拶を告げるとドアノブを回し、父さんの仕事部屋から退出する。ドアを閉めた直後に、父さんがライターでタバコに火を点ける音が耳に届いた。

「友達、か」

 ボソリと呟いた僕は、廊下を歩いて自室へと向かう。そして自室に足を踏み入れると、脱いだパーカーを椅子の背もたれに放り投げてから、ベッドの上にごろりと大の字で横になった。珍珠奶茶で満たされた腹が、未だ少したぷたぷする。

「宮路さんと、阿杏さん。宮路さんはともかくとしても、阿杏さんとは未だ学校では言葉も交わしていないから、友達とは言えないよなあ……」

 僕はそう独り言ちると、ゆっくりと瞼を閉じた。ヨシダの事は、とりあえず今はどうでもいい。

 しとしととそぼ降る雨の音が、今夜も耳に届く。

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