フォルモサに雨は降る
大竹久和
プロローグ
プロローグ
雨が降っていた。
傘を差すか否かを迷うくらいの、しとしととそぼ降るような雨がいつまでも降り続き、一向に止む気配は無い。そんな雨の中を、夕食を摂るために夜市と呼ばれる露店街へと独りで赴いた僕は、行き交う人混みの中で立ち尽くしながら、一軒の露店の前で思いあぐねていた。露店内の厨房では店主らしき女性が様々な料理を次々と拵えては並んでいる客に手渡し、更に次の客の注文に応えるべく鍋を振るう。鍋からはもうもうと立ち込める湯気と共に食欲をそそる芳醇な香りが立ち上り、熱された油が弾ける心地良い音と共に、露店の周囲を漂っていた。
「……読めない」
僕はボソリと呟き、肩を落として嘆息する。一応この島は日本の領土内だが、露店のメニューは全て北京語で書かれており、内地で生まれ育った僕には全く読めなかった。勿論、メニューに表記された漢字の意味からある程度の料理の想像はつくのだが、あまりにも予想外のゲテモノ料理を提供されても困る。特に『大陸妹』と『下水湯』と言うのが一体どんな料理なのか、まるで想像がつかない。そこでとりあえず、一番無難で分かり易い漢字で表記された料理を注文する。
「すいません、この『とりにくめし』を一つください」
「
店主の女性が料理名の正しい読み方を教えてくれながら、注文を快諾した。そして包丁と玉杓子が素早く振るわれると、あっと言う間に、僕の眼前に熱々の料理が盛られた丼が置かれる。
「
会計と同時にそう言った彼女の言葉通り、丼の隅には煮卵が一つ盛られていた。おそらくはこれが、彼女の言う茶葉蛋とやらなのだろう。
「あ、ありがとうございます」
不器用に礼を述べながらぺこりと頭を下げた僕に、店主の女性は屈託無く微笑んだ。そして丼を手にした僕は、店の外に並べられたテーブル席に腰を下ろすと、鶏肉飯をさっそく食べ始める。
「いただきます」
鶏肉飯。丼に盛られた炊き立ての白米の上に細切りにされたたっぷりの鶏の胸肉が更に盛られ、そこにとろりとした茶褐色のタレがかけられており、見た目こそ地味だが実に美味そうだ。そして実際に一口食べてみれば、鶏の脂が加えられた甘辛いタレとさっぱりとした出汁の染みた胸肉の相性は抜群で、箸が止まらないほど美味い。
「うん、これは美味いな。父さんへの持ち帰りもこれにしよう」
そう独り言ちながら、僕はもりもりと鶏肉飯を食べ続ける。またおまけで添えられた茶葉蛋を一口齧ると、調味料に含まれた八角の匂いに少しだけ違和感を覚えたが、こちらもまた味が染みていてとても美味い。そして一人ぼっちの食事を終えた僕は満腹になった腹を擦りながら立ち上がり、空になった丼を厨房に返却してから、店主の女性に追加で注文する。
「すいません、さっきと同じ鶏肉飯を一つ、今度は持ち帰りでお願いします」
それを聞いた店主の女性はにっこりと微笑むと、今度は丼ではなく持ち帰り用の紙箱に、先程と同じ鶏肉飯を詰め始めた。
すっかり暗くなった夜空を見上げれば、いつ止むともなく雨が降り続いている。
●
薄暗がりの中で、僕は足を止めた。そして周囲をぐるりと見渡すが、ここは見覚えの無い狭い路地裏の一角であり、目印になるような看板も標識も見当たらない。また誰かに道を尋ねようにも、人っ子一人猫一匹すらも出歩いている者はおらず、エアコンの室外機が並ぶビルの谷間に僕はポツンと立っていた。
「完全に迷っちゃったな……」
そう言って自分が迷子になっている事を認めた途端に、やけに心細くなって来て、年甲斐も無く少し泣きそうになる。そして同時に、露店で買った持ち帰りの鶏肉飯を一刻も早く父さんの元に届けようと考えた結果、未だ引っ越してから二日目の慣れない街で近道を選択してしまった自分の愚かさを深く嘆いた。
「早く届けないといけないのに……」
こうしている間にも、手にしたビニール袋の中の鶏肉飯が冷めてしまう。そう思った僕はそぼ降る雨に濡れながら、少しでも前へと進むために、とりあえず一歩を踏み出そうとした。しかしその時不意に、何かに足首を掴まれでもしたかのように足が重くなり、体勢を崩した僕はつんのめって転びそうになる。
「何だ?」
よろけて脚をもつれさせながらも転倒だけは回避すると、自分の足元へと眼を向けた。するとそこには、かつて見た事も無い奇妙な存在が地面から生えて来るかのようにして立ち上っており、それらが何体も群がりながらこちらへと迫って来る。それは一見すると霧か煙で出来たような小さな人型のもやであり、実体が有るのか無いのかも判然としないそれらは僕の脚にまとわりつくと、そのまま身体の表面を這い進むようにして登って来た。先程僕の足首を掴んだのも、こいつらの内の一体に違い無い。
「何だ? 何だこれは? やめろ、放せ、離れろ!」
僕は必死で足掻き、叫ぶ。しかし人型のもやは聞く耳を持たず、木の洞の様に落ち窪んだ奴等の眼からは生気が感じられない。そして気付けば、蟻の大群にたかられた蝉の死骸の様な有様でもって、僕は全身をもやによって出来た人型に覆い尽くされていた。誰かに助けを求めようにも身動きが取れず、声も出ない。このまま自分はここで死ぬのではないかと言う恐怖に、頭の中が混乱する。
「たす……け……て……」
喉の奥からその一言を必死で絞り出すのが、今の自分に出来る精一杯の抵抗だった。そして僕は膝を突き、地面にうずくまる。濡れたアスファルトは冷たく、硬い。このままでは父さんの元へと届けなければならない持ち帰りの鶏肉飯が濡れてしまうと、何故かそんな事ばかりがやけに気に掛かる。
するとそこへ、何か粉末状の物体が軽く一振り、パラパラと振り掛けられた。それと同時に、僕の全身を覆っていた人型のもや達が大気に溶けるかのようにして霧散し、僕は再び身体の自由を取り戻す。
「
呼吸を荒げながら跪いたままの僕の耳に、誰かの声が届いた。顔を上げ、声のした背後に視線を巡らせると、薄暗がりの中に立つ一人の少女の姿が眼に止まる。
「あ……ありがとう。キミが助けてくれたの?」
「なんだ、内地の人か。それでキミ、身体の方は大丈夫? 怪我は無い?」
今度は日本語で僕の身を案じる、僕と同じくらいの年頃の少女。上半身にはサッカークラブのジャージを羽織り、下半身にはスカートを穿いた彼女はアジア人の女性にしてはやや長身で、すらりと伸びた足は細く引き締まっている。またその顔に眼を向ければ、太く凛々しい眉と大きなアーモンド型の眼が特徴的であり、短く切り揃えられた頭髪も相まって、一見すると精悍な少年の様な印象を与えた。
「駄目だよ、観光客がこんな路地裏にまで入って来ちゃ。はい、これ」
そう言って、紙箱に詰められた鶏肉飯が入ったビニール袋を拾った少女は、それを僕に手渡す。
「いや、僕は観光客じゃないよ。一応はここの住民だ。……とは言っても、二日前に越して来たばかりだけどさ」
「ふうん、新入りさんか」
少女はジャージのポケットに手を突っ込んだまま、僕の全身を値踏みするかのように睨め回した。
「そんな事よりも、さっきのあのもやみたいな奴は、一体何なんだ?」
「あれは、
「……確かに、僕の父さんはヘビースモーカーだけど……」
思い当たる節があった僕は、自分の着ているパーカーの匂いを嗅ぐ。自分ではあまり意識した事は無かったが、父さんが吸っているタバコの匂いが、少しは染み付いているのかもしれない。
「まあ、あまり気にしなくても大丈夫だよ。烟鬼は見た目はおっかないけれど、まとわりつかれるとちょっと身体の自由を奪われるくらいで、実害は殆ど無いからね。キミも、別にどこも怪我してないだろ?」
「え? ああ、そう言えば……」
言われてみれば確かに、烟鬼にまとわりつかれていた間は身動きが取れなくて息苦しかったが、それ以外に直接的な苦痛や外傷があったのかと問われれば、何も無い。心臓の鼓動と呼吸を荒げていたのも、肉体的な損傷によるものと言うよりも、むしろ精神的なパニックによるものだ。
「それに、烟鬼は塩を嫌うから、塩を撒けば簡単に去ってくれる」
そう言って、少女はジャージのポケットから掌大の子瓶を取り出した。それはどこにでも売っている、食卓塩の小瓶。先程彼女が僕に向かって撒いた粉末状の物体も、おそらくはこの食卓塩に違い無い。その証拠に、僕の着ているパーカーの皺の間にも、その食卓塩がちらほらとこびり付いている。
「多くの
少女はそう言いながらこちらに近付くと、食卓塩の入った小瓶とほぐしたタバコの葉が入ったジップロックの小袋を差し出したので、僕はそれらを受け取りながら彼女に礼を述べる。
「あ、その、どうもありがとう。なんか、悪いね。助けてもらった上に、こんな物まで貰っちゃって」
「気にしないで。これはこの街に住む人間に対する、まあ、洗礼みたいなものだから。それにこのくらいでかしこまっていたら、ここでは生きて行けないよ」
「本当に、ありがとう。それでその、出来れば教えてもらえないかな? ここから大通りに出る道をさ」
僕は心から礼を言うと、受け取った食卓塩の小瓶とジップロックの小袋をパーカーのポケットに納めながら、もののついでとばかりに少女に尋ねた。すると彼女は、路地裏から伸びる道の内の一本を指差して答える。
「そこを真っ直ぐ行って、突き当りを右に曲がれば、南天地区の夜市に出るから。そこから先は、分かる?」
「ああ、ありがとう。夜市まで出られれば、あとは多分、知っている道だから帰れると思うよ」
僕は安堵した。どうやら帰路に就く目印となる夜市は、思っていたよりも近いらしい。
「それじゃあ、気を付けて。今後はもう、烟鬼なんかに絡まれたりしないように」
「うん。それじゃあ、本当にありがとう」
僕は手を振り、お礼の言葉と共に、少女と別れの言葉を交わし合った。すると少女は振り返る事も無く、足早に路地裏を歩み去ると、そのまま闇夜の中に姿を消す。独り取り残された僕は夜市へと続くと言うビルとビルに挟まれた道を歩きながら、彼女の名前を聞きそびれた事を少しだけ後悔していた。そして同時に、とても凛々しくて綺麗な少女だった事を、今更ながらに思い返す。
手にしたビニール袋の中に入った紙箱に詰められた鶏肉飯は、すっかり冷め切ってしまっていた。
●
「ただいま」
夜市から五分ほども歩くと、大通りの喧騒からは隔絶された住宅街へと辿り着く。その住宅街の一角の団地の、十二階。二日前から自宅となった1202号室の鍵を開けた僕は、誰に言うでもなく帰宅の挨拶を告げると、まだ荷物の詰まったダンボール箱が積まれている廊下を通って父さんの仕事部屋の前に立った。そしてコンコンと二回ドアをノックして返事を待つが、応答が無いのでドアノブを回し、無断で入室する。
「父さん、今帰ったよ」
「うん? ああ、
仕事机に向かっていた父さんが、咥えていたタバコを灰皿で揉み消すと、こちらを振り返りながら言った。仕事に集中していたためか、どうやら僕のノックは聞こえていなかったらしい。
「うん、ご飯を食べて来ただけで、どこにも寄り道しなかったからね。それでこれ、父さんの分の晩飯。もう冷めちゃったから、レンジでチンしてから食べてよ」
「ああ、ありがとう」
僕が差し出したビニール袋を受け取った父さんは、それをデスクの脇に積まれた本の山の上に、無造作に置いた。息子が買って来てくれた晩飯を今すぐにでも食べようと言う考えは、今の父さんには無いらしい。そして少しでも冷めないようにと気を配った鶏肉飯が食べられる頃には、それは冷め切っただけでなく、炊き立てだった白米も硬くなってしまっている事だろう。
それにしても引越して来たばかりだと言うのに、父さんの仕事部屋は、既にゴミ溜めの様な有様だった。資料と称された雑多な本や紙の束がそこかしこに堆く積まれ、部屋の隅に置かれたベッドの上を除けば、ドアから仕事机までの間には人間一人がやっと通れる程の足の踏み場しか無い。そして唯一の聖域である筈の仕事机の上にも、既に資料の山が築かれつつある。
「それで父さん、仕事の方はどう?」
「ん? あ、ああ、順調だよ」
そう言いながら、父さんは仕事机の上のノートパソコンの液晶画面を、自身の身体でもってそれとなく隠した。そして僕は、今朝から父さんの原稿執筆が全く進んでいない事に気付かないフリを決め込む。
「そう。それじゃあ僕は先に寝るから、お休みなさい」
「ああ、お休み。……そうだ尊、ちょっといいかな?」
「何? 父さん」
「今回の引越しを、お前はどう思っているんだ? その、これから三年生になる大事な時期なのに、父さんの都合で勝手に転校を決めさせてしまった事に関してなんだが……」
ドアノブに手を掛けて出て行こうとする僕に、父さんは尋ねた。その問いに対して僕は作り笑いを浮かべると、事も無げに答える。
「それなら、問題無いよ。東京よりもこっちの方が、むしろのんびりしていて勉強には向いているだろうからね。それに僕は成績もそんなに良くなかったから、進学出来るかどうかも分からないし」
「そうか。それならいいんだが……」
父さんはそう言って安堵した様子だが、僕は嘘を吐いた。実際の僕の成績は全国模試でも上位に入るほど良く、教師にも国立大学への推薦入学を保障される程の優等生だったのだが、父さんはその事実を知らない。家事と育児を全て妻に任せっきりだった父さんは、半年前に母さんが急逝するまで、息子に対して何の関心も抱いていなかった。
「それじゃあ父さん、お休みなさい」
僕は改めて就寝の挨拶を告げるとドアノブを回し、父さんの仕事部屋から退出する。ドアを閉める直前に、父さんが新しいタバコに火を着けて煙をくゆらせるのが眼に止まった。そして廊下に出た僕は自分のパーカーの匂いを嗅いで、小声で呟く。
「やっぱり、少しタバコの匂いが染み付いているな」
そのまま廊下の突き当たりの洗面所に向かった僕は、パーカーに消臭スプレーを吹き付けてから、ついでとばかりに入浴と歯磨きを済ませた。そしてTシャツとハーフパンツの寝間着に着替えると、キッチンの冷蔵庫から取り出した無糖の緑茶入りのペットボトルを片手に自室へと足を踏み入れて、一息つく。
「これがフォルモサか……」
部屋の電気も点けずに窓辺へと歩み寄った僕は、冷たい緑茶を飲み下しながら、十二階の窓から臨む市街を一望した。いつまでも止む事無く雨は降り続いていると言うのに、眼下の夜市は盛況で、オレンジ色の暖かな光に包まれた街路が雨に滲んでいる。
ここは、常雨都市フォルモサ。日本の最西端に位置するこの島のこの街は、数十年前の戦時中に発生した局所的な地殻変動によって、常に雨が降り続ける特殊な気候に変化してしまった。そして今現在、最先端のハイテク産業と神秘主義的なオカルト現象が渾然一体となって同居するこの街に、今夜も雨は降り続ける。
「寝るか」
僕はベッドに腰掛けると、持っていたパーカーを椅子の背もたれに向かって放り投げた。するとパーカーのポケットから板敷きの床へと、食卓塩の小瓶が転がり落ちる。
「おっと」
食卓塩の小瓶を拾って机の天板の上に置いた僕は、ベッドにごろりと横になると、天井を見上げながら食卓塩をくれた少女の事を思い出していた。サッカークラブのジャージとショートカットの髪が良く似合う、すらりと伸びた長い脚の少女。やはり彼女の名前を聞きそびれた事が、悔やまれて仕方が無い。
「綺麗な子だったなあ……」
そう呟いた僕の耳には、止む事の無い雨音と、夜市の喧騒が微かに届く。この街で生きて行くからには、この音にも早く慣れてしまわなければならない。そんな事を考えながら瞼を閉じた僕は、ゆっくりと眠りに就く。
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