第二幕
第二幕
国立南天大学付属高等学校の本校舎一階の廊下を、僕は歩いていた。顎を上げて天井を見上げるような体勢で歩く僕の背後の廊下には、等間隔で点々と、小さな赤い血痕が続いている。僕の両の鼻腔から溢れた鼻血が、傷口を押さえた手を伝い落ちて、リノリウム製の床を汚しているのだ。
「霧島、大丈夫か?」
「ああ、大丈夫だ」
心配してくれるヨシダにそう言うと、僕達は歩き続ける。転校して来たばかりの僕には目的地である保健室の場所が分からなかったので、彼が付き添ってくれている事が、少しだけ心強い。
「しっかしお前も、あの程度のボールも避けられないなんて、鈍臭いよなあ」
「放っとけ」
前言撤回。やはりヨシダは、心強くなど無い。
ところで僕が何故鼻血を流しながら廊下を歩いているのかと言えば、ほんの十分ほど前の体育の授業中に、飛んで来たサッカーボールによって鼻っ柱を潰されたからだ。その結果として僕は鼻血を噴出し、少しだけ頭もくらくらとするので、軽い脳震盪を起こしている可能性も考えられる。そしてもう少し詳しく説明すると、今は、五時限目の授業中。昼休みを終えたばかりで腹が膨れていたせいか、注意力が散漫になった僕は運悪く、敵チームのフォワードが放ったシュートを偶発的な顔面ブロックで防いでしまったのだ。これが故意に防いだのならば多少は格好が付いたのかもしれないが、単にボーっと突っ立っていたところをボーリングのピンの様にノックアウトされただけなので、みっともない事この上無い。
「ここだ」
ヨシダの声にふと気付けば、昇降口から渡り廊下を経由して、とある部屋の前に辿り着いていた。扉の上のネームプレートには、『保健室』と書かれている。
「それじゃあ俺は授業に戻るから、お前はここで、ゆっくり休んでいろよ。六時限目も休むようなら、先生には伝えておくからさ」
「ああ、ありがとう」
歩み去るヨシダに礼を言って、僕は彼と別れた。鼻を押さえながら喋っているので、僕の声は鼻声になっている。
「失礼します」
一声掛けてから保健室の扉をがらりと開け、室内へと足を踏み入れた。すると肌も露な一人の女子生徒の姿が視界へと飛び込んで来たので、僕は驚く。着ていたジャージと制服のブラウスを脱ぎ、下着姿でこちらを向いて、背後から校医によって治療を施されている背の高い女子生徒。凛々しい眉と短く切り揃えられた頭髪が似合う彼女は、紛れも無く、僕と同級生の阿杏さんだった。そして僕と同様に彼女もまた突然の邂逅に驚いているのが、その表情からうかがい知れる。
「あ、ご、ごめんなさい」
僕は反射的に謝るのと同時に、阿杏さんと校医に背を向けようとした。しかし僕よりも一瞬早く、顔を真っ赤にした彼女の方が先に、僕に背を向ける。するとこちらに向けられた阿杏さんの背中の中央の、ちょうどブラジャーのホックの下辺りに、大きな裂傷が刻まれている事に僕は気付いた。その裂傷はさほど深くはなく、少し皮膚が剥けて血が滲んでいる程度だったが、範囲が広いので見るからに痛々しい。しかも良く見れば、彼女の身体のあちこちに、同じような痣や裂傷の痕跡が無数に見て取れる。
「一体どうしたの、その傷?」
花も恥じらう乙女の柔肌から眼を逸らす事も忘れて、僕は尋ねた。すると阿杏さんは、肩を震わせながら小声で要望する。
「……お願い、見ないで」
「あ」
我に返った僕は慌てて身体を反転させ、彼女に背を向けた。背後からは、おそらく阿杏さんが服を着ているのであろう、衣擦れの音が聞こえて来る。すると服を着終えた彼女は、保健室の入り口で立ち尽くしていた僕を突き飛ばして、体育館の方角へと走り去って行ってしまった。廊下の彼方に消え去る阿杏さんの背中を、僕はただ呆然と見送る事しか出来ない。
「彼女のあの傷は、何なんですか?」
僕は阿杏さんが立ち去った後の保健室に足を踏み入れると、校医に聞いた。しかし校医は、口の前に指を一本立てながら答える。
「それは、守秘義務だから。残念だけれど、個人の抱える事情は、無断で他の生徒に教える訳には行かないの。それでも彼女の力になりたいんだったら、個人的に親しくなって、彼女に直接聞いてみて。それで、キミはどんな理由で保健室に来たの?」
「あ、はい。体育の授業中にボールが当たって、鼻血が出たんですが……」
僕は鮮血で濡れた鼻を押さえたまま、保健室へと赴いた理由を校医に説明し始めた。なんだか阿杏さんの下着姿を見た僕が興奮して鼻血を出したような格好になってしまって、ひどく情け無い。
鼻腔からは、未だに真っ赤な鼻血が溢れ出て来る。
●
「……霧島くん、霧島くん」
誰かに肩を揺すられて、僕は浅い眠りから覚醒した。見慣れぬ風景と寝慣れないベッドの感触に、自分が今現在どこにいるのか理解出来ずに少しだけ呆ける。
「霧島くん、起きた?」
「あ、ああ、宮路さん。おはよう」
僕の肩を揺すっていた宮路さんが、ベッドの横に立っていた。彼女は未だ寝惚けている僕を、呆れたような表情でもって見つめている。そして同時に、僕は思い出した。ここは学校の保健室のベッドの上であり、どうやらサッカーボールを顔面に受けて軽い脳震盪を起こした僕は、ここで少し横になったまますっかり眠りこけてしまっていたらしい。
「あれ? 今、何時? もう放課後?」
既に陽が落ちた窓の外を見遣ってから、僕は宮路さんに尋ねた。呆れた彼女は肩をすくめて嘆息すると、壁に掛けられた時計を指差しながら答える。
「もう放課後どころか、部活も終わる時間だよ? 霧島くんったら六時限目を休んで保健室で寝ているって聞いたから、放課後になっても教室で待ってたのに、いつまで経っても戻って来ないんだもん。だから霧島くんの机の中に入っていた荷物をまとめて、持って来てあげたんだからね? はい、鞄と着替え」
「あ、ありがとう」
僕は礼を言いながら、宮路さんから僕の鞄と着替えを受け取った。すると彼女は、無言でこちらに背を向ける。どうやら後ろを向いている間に、体操服を脱いでさっさと着替えろと言う事らしい。ちなみに僕の制服は未だ届いていないので、転校初日の昨日と同じく、僕の格好はパーカーを上着とした私服のままだ。
「宮路さんはこの時間までずっと、僕を教室で待っていてくれたの? どうして?」
「だって、今日も一緒に帰ろうと思ってたんだもん。いいでしょ、そのくらい」
着替えながらの僕の問いに、宮路さんは背中を向けたまま答えた。その声は怒っているような照れているような、複雑な色を含む。そして着替え終えた僕は彼女が持って来てくれた鞄を背負うと、宮路さんと共に保健室を後にした。
「あれ? そう言えば、校医の先生は?」
「さあ、知らない。あたしがここに来た時には、もう誰もいなかったよ?」
「何だよそれ。無責任だなあ……」
おそらくは、職員会議か何かが長引いてでもいるのだろう。だがそれにしても、ベッドで寝ている生徒を放置したまま長時間保健室を留守にするとは、無責任も甚だしい。
「それじゃあ霧島くん、今日も途中まで、一緒に帰ってもいいんでしょ?」
「勿論構わないけれど、でも今日も僕は夜市で晩飯を食べて帰るから、一緒に帰るとしてもそこまでだよ?」
「うん、それでいいよ。それに霧島くんがそう言うだろうと思って、今日は事前に、あたしも夜市で晩ご飯を食べて帰るってママに伝えておいてあるから」
言葉を交わしながら昇降口へと向かった僕達は、下駄箱で上履きから外靴に履き替えると、雨がそぼ降る戸外へとその身を晒した。そして途中で一旦別れ、正門前で少し待たされた僕の元に、駐輪場からミニバイクに乗って来た宮路さんが合流する。彼女は今日も制服のブラウスの上から大きめのカーディガンを羽織り、子犬の様な笑顔を絶やさない。
「お待たせ」
「それじゃあ、行こうか」
エンジンを切ったミニバイクを押して歩く宮路さんと連れ立って、僕は国道沿いの道を歩き始めた。今日は昨日と違って神社に立ち寄っているような時間は無いので、学校から真っ直ぐ南天地区の夜市へと足を向ける。やがて他愛も無い世間話を交わしながら歩き続ける内に、僕達は人混みでごった返す夜市の入り口へと辿り着いた。そして今夜も駐輪場に停めたミニバイクに頑丈なチェーンロックを三つも装着して、宮路さんは防犯に万全を期す。
「さて、と。今日の霧島くんは、何が食べたいの? 食べたい物を教えてくれたら、あたしが美味しいお店まで案内してあげるから」
僕と手を繋ぎながら、胸を張って尋ねる宮路さん。そんな彼女に、僕はあえて問い返す。
「逆に尋ねるけど、宮路さんは今日は何が食べたいの? 昨日は僕のリクエストに応えてくれたんだから、今日は宮路さんが食べたい物を食べようよ」
「ふえ?」
宮路さんは僕の問いに、一瞬だけきょとんとした表情を浮かべた。しかしすぐに言葉の意味を理解すると、小首を傾げながら眼を瞑って、思案する。
「……
たっぷり五分ばかりも思案してから、宮路さんが答えた。
「グオティエ? それじゃあ、それを食べに行こうか。どこか美味い店、知ってるの?」
「勿論! 任せといて!」
彼女が言う鍋貼とやらがどんな食べ物なのかは分からなかったが、自分の要望が聞き届けられた事が嬉しいらしい宮路さんは、僕の手を引いて意気揚々と歩き始める。足を踏み入れた南天地区の夜市は今夜も盛況で、行き交う人と人の間をすり抜けながら歩くのには未だ慣れない。そして暫く歩き続けた末に辿り着いた露店のテーブルを確保すると、僕達は料理の完成を待つ客の行列の最後尾に並んだ。
「あれ? 鍋貼って、餃子の事?」
「そう。内地で言うところの焼き餃子が、ここで言うところの鍋貼なの。正確には中身もちょっと違うんだけれど、まあ、大体同じような物かな?」
解説してくれる宮路さんと得心する僕の眼前で、鉄板の上に並べられた鍋貼が次々と焼かれて行く。内地の焼き餃子とフォルモサの鍋貼との外見上の違いは、焼き餃子が水餃子と同じく人間の耳の様な俵型なのに対して、鍋貼は細長い棒状に成型されている点だけらしい。
そして行列に並んでいた僕は、露店内の壁に掲げられたメニューの中に、以前から不思議に思っていた漢字の並びを発見した。
「ねえ、宮路さん。『たいりくいもうと』と『げすいゆ』って、何?」
僕の問いに、隣に立つ宮路さんが問い返す。
「ん? 霧島くんは、
僕の返答を聞く前に、行列の順番が回って来た宮路さんは、さっさと料理を注文してしまった。そしててきぱきと働く店員の手によって、注文した三品、合計七皿が次々とテーブルに並べられる。鍋貼は焼き餃子、下水湯は肉入りのスープ、燙大陸妹は茹でた葉物野菜だった。
「いただきます」
会計を終えた僕と宮路さんは軽く一礼してから割り箸を割り、夕食を食べ始める。
まずは、鍋貼。箸で摘んで一口食べてみれば、やっぱり焼き餃子だ。表面はパリッと焼かれたもちもちの皮の中に、ニラを混ぜ込んだ熱々の豚挽肉の餡がたっぷりと詰まっている。餡にはニンニクが入っていないのでやや淡白なさっぱりとした味付けだが、その分だけ食べ易く、肉汁が充分に染みていて美味い。
「どう、霧島くん? 内地の焼き餃子と比べて?」
「うん、見た目がちょっと違うだけで、中身は殆ど一緒だね。白いご飯と一緒にバクバク食べたいよ」
自分の分の鍋貼を大口を開けて頬張りながら宮路さんが発した問いに、僕は率直な感想を漏らした。すると彼女は、本当に心底不思議そうな声と表情でもって疑問を呈する。
「前から不思議に思っていたんだけどさ、どうして内地の人って、餃子とご飯を一緒に食べるの? どっちも主食じゃん」
「え? どうしてって……。むしろ僕の方が聞きたいんだけど、こっちでは一緒に食べないの?」
「食べないよ。そんなのパンをおかずにご飯を食べているみたいで、どう考えてもおかしくない?」
「えー、そうかなあ? ご飯と一緒に食べた方が、絶対に美味いのに……」
僕と宮路さんの意見がぶつかり合い、どちらも引かない。これが、内地育ちとフォルモサ育ちの価値観の相違なのだろうか。ともあれ今の僕はフォルモサに住んでいるので、郷に入っては郷に従う。白いご飯の登場は諦めて、焼きたて熱々の鍋貼だけを黙々と食べ続けた。そしてある程度腹が膨れたところで、燙大陸妹と呼ばれた茹でた葉物野菜に箸を延ばす。
「レタス?」
「そう、レタス。大陸妹は、レタスの品種の名前なの」
謎の葉物野菜を一口食べた僕に、宮路さんが大陸妹の正体を教えてくれた。茹でたレタスにニンニク醤油のタレをかけたのが燙大陸妹で、シャキシャキとした食感が食欲をそそる。味は素朴で、特筆するほどの美味さではないが、肉の脂が回った舌の箸安めには丁度良い。
そして僕は、一番不穏な名前の下水湯の盛られたお椀を手に取って、まじまじと観察してみた。ぱっと見た限りでは、色の薄いスープの中に、薄切りにされた肉と千切りにされた生姜が浮かんでいる。ゴクリと唾を飲み込み、覚悟を決めてから、スープと肉をレンゲですくって口に運んだ。見た目通りのさっぱりとした風味と、コリコリとした肉の食感が口の中に広がる。生姜の効いた味付けは、冬場に飲むには最適かもしれない。
「これは、何の肉?」
「多分、鶏かアヒルの砂肝。それに、他の内臓も入っているのかな? 『
「ふーん」
謎だった下水湯の正体に、僕は得心した。しかし何故内臓を下水などと書くのか、その謎は残されたままである。
「どうして、内臓を下水なんて書くの?」
物は試しで、宮路さんに聞いてみた。すると予想に反して、あっさりと答が返って来る。
「あたしも良くは知らないけれど、元は英語の発音に、無理矢理当て字をしたみたい。だからこの場合は、漢字の意味は関係無いんだって」
「そうなんだ」
謎はおおよそ解明されたが、それにしても当て字とは言え、食べ物に『下水』とはまたすごい漢字を当てたものだ。まあ内地にも、『ドブ汁』と言う食欲を減退させるとしか思えない名前の食べ物が存在するので、その点では内地もフォルモサも大差は無いのかもしれない。
「ふう」
やがて二皿分の鍋貼、それに燙大陸妹と下水湯を胃に納め終えた僕は、膨らんだ腹を擦りながら一息付いた。向かいの席では僕よりも食べるのが遅い宮路さんが、自分の分の鍋貼を美味そうに頬張っている。そして露店の外に眼を向けた僕は、昨日と同じく、人混みの中に一人の少女の姿を見つけた。それはサッカークラブのジャージを羽織り、凛々しい眉にショートカットの髪型が印象的な阿杏さんに相違無い。
「阿杏さん!」
僕は彼女の名前を呼びながら、立ち上がった。向かいの席の宮路さんが箸を止め、突然立ち上がった僕を見上げながら何事かと驚く。そして夜市の喧騒の中に消えようとする阿杏さんを追って僕が走り出すと、残しては勿体無いと思ったのか皿の上の鍋貼を全て口の中に押し込んだ宮路さんが、僕の分の鞄も抱えて後に続いた。
人混みを掻き分けるようにして早足で消え去ろうとする阿杏さんを必死で追う僕は、途中で何度も通行人にぶつかってしまい、その度に走りながら謝罪する。そして遂に、脇道から路地裏に入ろうとする彼女の肩を、僕は掴んだ。驚いた阿杏さんが、こちらを振り向く。振り向いた彼女の、左の頬。先程の露店で彼女の姿を発見した際には見えなかった側の頬が、真っ赤に腫れていた。また頬骨の上には小さな痣も出来ており、鼻の下には鼻血を拭った痕跡も見て取れる。
「阿杏、どうしたの、その顔?」
僕よりも先に、背後から僕を追って来た宮路さんが尋ねた。阿杏さんは彼女とは眼を合わさずに、怪訝そうに僕を見つめる。
「キミ、誰?」
どうやら阿杏さんは、僕の事を覚えていないらしい。
「僕だよ、霧島尊。三日前の夜に烟鬼に襲われていたところをキミに助けてもらって、昨日の朝に、キミと同じクラスに転校して来た霧島尊だよ。覚えてないの?」
「ああ、そう言えばいたね、そんな人。それで、キミが何の用?」
ようやく僕の事を思い出したらしい阿杏さんが、ぶっきらぼうに言った。そこで僕は、尋ねる。
「その顔の傷は、一体どうしたの? それに今日の午後に保健室で会った時も、背中に大きな傷があったじゃないか。それも一つや二つじゃなく、幾つもの痣があった筈だ。一体どこの誰に、そんな酷い事をされたんだ?」
僕の問いに、阿杏さんの表情が変わった。どうやら保健室で彼女の下着姿を見てしまったのもまた僕である事を、ようやく思い出したらしい。しかし恥辱の色に染まるその表情は、下着姿を見られた事を恥ずかしがっているのではなく、隠していた傷と痣を見られた事によって名誉が傷付けられたと感じている悔恨の表情にも似ていた。
「とにかく阿杏、まずはその腫れている頬を冷やさなくっちゃ。ほら、その辺の露店であたしが氷を貰って来るから、阿杏も一緒に来てよ」
そう言うと、ポケットからハンカチを取り出し、阿杏さんの腕を取って露店まで連れて行こうとする宮路さん。しかし阿杏さんはそんな彼女の手を強引に振り払うと、こちらに背中を向けて肩を震わせながら、涙声で訴える。
「……お願い、見ないで……。こんなの、何でもないんだから……。そっとしておいてよ……」
悲痛な彼女の姿に、僕と宮路さんはその場に立ち尽くしてしまって、二の句が告げない。すると僕達の背後から、小さな人影が一つ、こちらへと近付いて来た。そしてその人影は阿杏さんの正面へと回り込むと、小さな身体でもって彼女を抱き締める。
「
阿杏さんを姉と呼んだその小さな人影は、未だ小学五年生くらいの少年だった。そして彼は、怪訝そうに僕と宮路さんを交互に見つめながら尋ねる。
「あのう、あなた達は、どなたですか? 姉に何か、ご用ですか?」
「え? ああ、その、僕達は阿杏さんの同級生で、さっきそこで偶然出会って、それで彼女が顔を怪我していたから心配になって……」
少年の言葉遣いが見かけの年齢とは不相応に丁寧なものだったので、驚いた僕は咄嗟に言葉が出ずに、しどろもどろになってしまった。するとそんな僕を阿杏さんが制し、少年に説明する。
「
今や頬だけでなく、その両の瞳も涙で腫らした阿杏さんはそう言うと、僕と宮路さんの眼をじっと見つめた。その涙で濡れる真っ赤な瞳は、これ以上自分には関わらないでくれと、無言で訴えかけている。
「それじゃあ忠信、帰りましょう」
「うん、姐姐」
無言で立ち尽くす僕らの横を、弟を連れた阿杏さんが通り過ぎて行った。途中で一度、弟の忠信くんがこちらに振り返って頭を下げ、詫びる。
「どうも、姉がご心配をおかけしました。今後とも、姉と仲良くしてあげてください」
やはり歳相応ではない丁寧な言葉遣いで詫びた彼に対して妙な違和感を感じている間にも、阿杏さんとその弟は僕と宮路さんの元から遠ざかり、やがて夜市の喧騒の中へと消えた。彼女達の背中をただ見送る事しか出来なかった僕達は、無力感に苛まれながら、暫し立ち尽くし続ける。
「……阿杏に、一体何があったのかな?」
沈黙を破って、宮路さんが呟いた。
「さあ……。僕には、さっぱり分からないよ。でもとにかく、保健室で見た彼女の傷は、只事じゃなかったんだ」
僕の返答を聞いた宮路さんが、提案する。
「ちょっと、座って話さない?」
彼女の提案に従い、僕達は手近な露店へと足を踏み入れた。そしてテーブルと椅子を確保すると、そこに腰を下ろして思い悩んでいる僕を尻目に、カウンターで注文と会計を終えた宮路さんは紙製のカップを手にして戻って来る。
「はい、霧島くんの分の
「あ、うん」
僕は彼女からカップを受け取り、芋圓と呼ばれた料理を眺めた。カップの中には白色とオレンジ色の団子がたっぷりと浮いていて、その上から小豆と緑豆が盛られている。それは一見するとカラフルなお汁粉と言った外観で、スプーンですくって一口食べてみれば、少し甘さが控えめだが味も食感もお汁粉に良く似ていた。ただし芋圓の団子はお汁粉の白玉団子よりも弾力があって、芋が練り込んであるのか、その味はイタリア料理のニョッキにも似ている。
寒空の下で食べる温かな芋圓は甘くてとても美味かったが、阿杏さんの事が気掛かりな僕と宮路さんは、無言で黙々と食べ続けた。そして半分ばかりも食べ終えたところで、宮路さんが口を開く。
「ねえ霧島くん、保健室で、何があったの?」
「……今日、保健室で見ちゃったんだ。阿杏さんの背中には大きな傷があって、それ以外にも身体中に、小さな傷や痣が沢山あるのをさ。あんなの、絶対に普通じゃないよ」
「そっか……」
そう言うと、宮路さんがスプーンを持つ手を止めた。そして少し遠い眼をしながら、語り続ける。
「実を言うとね、阿杏の身体に傷や痣がある事は、あたしも前から気付いてたの。……ううん、あたしだけじゃなくて、多分クラスの半分くらいの人は気付いていると思う。だって、今は冬だからそんなに目立たないけれど、夏になって薄着になるとスカートやブラウスの隙間から傷や痣が見えるんだもん。それに時々は、服で隠せない顔や手足にも包帯や絆創膏を巻いて来るからね」
「だったらどうして、クラスの皆はその傷の事を知っていながら放っておいているのさ? 誰も何も言わないの?」
「言わない訳、無いじゃない! でも阿杏自身にいくら傷や痣の事を尋ねても、サッカー部の練習中に怪我をしたの一点張りで、何も教えてくれないんだもん。それにあんまりしつこく追求すると、彼女、教室を出て行っちゃうし。だからその内に、誰も聞くのを止めちゃった」
僕達は押し黙り、再び黙々と芋圓を食べ続けた。美味い筈の芋圓の甘さが、なんだか今は、舌の上で空回りする。
「……霧島くんは、そんなに阿杏の事が気になるの?」
「そりゃそうさ。僕は昨日転校して来たばかりの新参者かもしれないけれど、それでも阿杏さんとは同級生なんだから、気になって当然だよ。それに、彼女には一回助けてもらった恩があるんだ。そんな恩人が眼の前で困っているのに、見て見ぬフリなんて出来る訳が無いだろ?」
そう言う僕の語気は、荒い。阿杏さんの問題を放置している同級生達にも、またその同級生達と同じく無力な自分自身に対しても、腹が立って仕方が無いのだ。そしてそんな僕を、隣に座る宮路さんが少しだけ寂しそうな表情でもって見つめている事に、僕は気が付かなかった。
「でも阿杏には、そっとしておいてよって言われちゃったね。だから彼女をこれ以上追及しても、多分また、教室を出て行って保健室に篭っちゃうと思うの。ねえ、霧島くん。一体どうしたら、彼女が真相を教えてくれると思う?」
「そんな事、僕にも分からないよ……」
宮路さんの問いに対して明確な回答を得られない僕は、天を仰いで嘆息する。一介の高校生でしかない僕達に出来る事は、あまりにも少ない。
「阿杏さん……」
雨のそぼ降る空を見上げながら、僕は彼女の名前を呟いた。雨に濡れる露店の看板が、阿杏さんの涙を思い出させる。
●
「それじゃあまた明日、学校で会おうね、霧島くん」
「うん、また明日」
昨日と同じく一旦夜市の入り口横の駐輪場へと引き返した僕達は、別れの挨拶を交わした。ハーフヘルメットを被った宮路さんはエンジンを掛け、ミニバイクを発進させると、彼女が住んでいる北地地区を目指して国道を北上し始める。
結局僕と宮路さんの話し合いによって、阿杏さんから真相を聞きだすための妙案は生まれなかった。遠ざかるミニバイクを眼で追う僕は改めて自分の無力さに苛まれていたし、それは宮路さんもまた同様に違いない。やがてミニバイクが視界から消え去るのを確認した僕は踵を返すと、再び夜市へと足を踏み入れる。
「あ、父さんの分の晩飯を買い忘れてた」
迂闊にも、重要な用事の一つをすっかり失念していた事に気付いた僕は、帰宅する途中で宮路さんと共に鍋貼を食べた露店を再度訪れた。そして大人一人分の鍋貼と下水湯を持ち帰りで購入すると、それらが入れられたビニール袋を持って、自宅である団地への帰路に就く。
●
「ただいま」
今日もまた帰宅の挨拶と共に、僕は団地の十二階の自宅に足を踏み入れた。そしてダンボール箱が積まれた廊下を経由して父さんの仕事部屋の前に辿り着くと、コンコンと二回ドアをノックして、返事を待つ。
「どうぞ」
返事を確認してから僕はドアを開け、仕事部屋へと入室した。
「父さん、今帰ったよ」
「ああ、お帰り、尊」
灰皿でタバコを揉み消す父さんに、晩飯が入ったビニール袋を手渡す。
「これ、父さんの分の晩飯。一見すると餃子だけれど、これは鍋貼と言って、内地とは違って白いご飯とは一緒に食べないらしいんだ。もしもご飯と一緒に食べたいんだったら、今朝の残りが冷凍庫に保存してあるから、それを解凍してから食べてね」
「ああ、ありがとう」
僕が差し出したビニール袋を受け取った父さんは、今日もまた、それをデスクの脇に積まれた本の山の上に無造作に置いた。この数日間で僕が買って帰った弁当の入ったビニール袋や紙パックで、デスクの脇には小さなゴミの山が築かれつつある。
「それじゃあ父さん、お休みなさい」
「ああ、お休み。……そうだ尊、ちょっといいかな?」
「いや、今日はちょっと疲れているから、重要な用事じゃないならまた今度でもいい?」
「そうか……。まあ、たいした用事でもないから、別にいいんだが」
少し残念そうな父さんを横目に、僕は仕事部屋を後にした。そして自室に足を踏み入れ、パーカーを脱ぎ捨ててからベッドの上に大の字になって寝転がると、天井に向かって大きな溜息を吐く。
「阿杏さん……」
僕は再び、彼女の名前を呟いた。耳に届く雨音が、やけに大きく聞こえる。
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