となりを見たならば

新樫 樹

となりを見たならば

 同じクラスのタカユキの家には屋根の上に物干し台があって、いつもそこに洗濯物が揺れていた。

 その物干し台はタカユキの父さんの手作りだ。

 大工でもなんでもない、ただのサラリーマンが適当に作ったような物干し台は、同級生たちの間でいつ崩れるか賭けていたくらいの代物だった。

 そんな物干し台で、タカユキの母さんは毎日洗濯物を干す。

 エプロンを風に揺らしながら、小さく微笑んで。

 毎朝、俺はその光景を見ながら学校へ行く。

 ときどき白いブリーフが青空にはためいて、持ち主のタカユキは仲間たちにからかわれて真っ赤になって怒っていた。



*******



 父親が早くに死んだから、母親は仕事人間になった。

 掃除や洗濯はときどきやっていたけれど、小学校三年くらいから晩飯を作るようになった。

 言い出したのは俺だった。

 夕方。

 スーパーの袋をぶら下げて歩く俺に、エライわねぇと近所のおばちゃんがうるさくて、それだけがいやだった。

 ほめられるたびに、クソッたれってさけびたくなった。

 腹がすくからだ。作ろうって思ったのは。

 母さんが帰ってくるのは七時くらいで、それから晩飯を作ってたら食べるのは八時ちかくになる。それがつらくなってきたから、作ろうと思っただけだ。

 なんにも知らないくせに、いい子とか言うな。

 そんな目で見るな。



「おまえんち、今日の晩飯なに?」

 タカユキがでかい目をくりくりさせながら聞いてくるのはいつものこと。

 こいつは一番好きな科目はなんですかと質問されて、給食ですと言ったやつだ。

「…さぁ。なんだろうな」

 俺が飯を作っていることは誰にも言っていない。

 エライわねぇと言う近所のおばちゃんと同じ目を、友達にまでされたら胸糞悪い。

「今日は俺んち、ハンバーグカレーなんだ」

「ばっかだなぁ、カレーっつったらコロッケだろ。コロッケカレー」

 他のやつも話に入ってきて言う。

 カレーは最近作れるようになった。

 でも、皮むきがたくさんあるからめったに作らない。

 俺はカレー、好きだけど。

 昔、母さんが作ってくれていたカレーには、特別なときには目玉焼きが乗っていた。

「……カレーには目玉焼きだろ」

 ばかじゃねぇの。

 おお、それもいいなぁと言う二人を見ずに、次の授業の教科書とノートを机に乗せていると、タカユキがそうだ! といきなり声を上げた。

「なぁ、お前、夏休みの研究どうする?」

 ぐっと顔をのぞき込まれてのけぞる。

「自由研究?」

「そう。決めたか?」

「まだだけど」

「じゃあ、一緒にしようぜ。太陽の観察」

「……太陽?」

 炎天下で、炎天下にしてる張本人の観察か。

 うへぇと思った。

 それにさっきのカレーの話がムカムカと俺の中に残っていて、すぐにいいよと言ってやる気にはなれなかった。

「それって、どうやるんだよ?」

 ぶっきらぼうに言うと待ってましたとばかりに、ぺらっと一枚のカラフルなポスターみたいなものが広げられる。

「東西南北書いた画用紙の上に、こういう半球で透明なやつ置いてさ、ちょうど真ん中に影がくるところにペンで印付けるんだよ。そうすると、太陽が通った場所がわかるんだ」

 どうやらどこかの通信教材の付録らしく、写真入りでオススメの自由研究が紹介してある。

 まとめるのも簡単だぞ、と指さした場所に目を移すと、懇切丁寧にやり方が載っていた。

「二人で?」

「うん、そのつもり。家一番近いしさ、母ちゃんもお前知ってるし」

「え?」

「うちの物干し台でやろうと思ってさ。ちょっと母ちゃんに話したら、昼飯お前の分も用意するって言ってたぜ」

 どうしてだろう。

 タカユキの母さんと物干し台が出てきた瞬間、不意に頭の中にあの小さく微笑んで洗濯物を干す姿が浮かんで、その人が飯を作ってくれるのかと思ったら、なんだかわからないもので胸がきゅうっとなった。

「……わかった。一緒にする」

「っしゃぁーっ!」

 はっと気付いたときには答えたあとで、目の前でタカユキが上機嫌でクネクネ踊っていた。



 俺は夏休みが好きじゃない。

 昼飯を作るのが面倒だし、一日をどう過ごしていいのかわからない。

 学童に来たらと言われたけれど、夏休みの間は弁当がいると聞いて断った。

 ただでさえ時間のない母親に毎日弁当作らせるとか考えられないし、俺はといえば家族二人で食べる夕飯くらいは作れても弁当なんか作れる気がしない。

 タカユキと約束した日は母親の早出の日で、もそもそ起き出した時にはもういなかった。

 前に、太陽の観察のことと、昼飯をごちそうになることを話していた。

 だから、テーブルには朝食の他にメモがある。

 『観察がんばってね。ちゃんとごあいさつしてね』

 魔法陣の文字みたいな走り書きだ。

 時間に追っかけられてる人は、みんな魔法が使えればいいんだ。そうしたら、あんなにいつも疲れていなくてすむ。

 しょうもないことを考えながら箸を手に取ると、テーブルの隅にある小さな紙袋に気付いた。中を覗くと美味そうなクッキーが入っている。手土産だろう。余計な時間などないはずなのに、いったいいつの間に買ったんだろう。

 ほら。こんなのも、魔法でどうにかできればいいんだ。そしたらもっと……。

 はっとして時計を見る。そろそろ出ないといけない。

 六時に、タカユキの家に行くことになっている。

 せっかくだから宿題もやろうということになっていて、俺は手提げカバンにワークと筆箱を入れ、小さな紙袋と一緒にぶらぶらさせながら雲一つない空を見上げて歩いた。

 二階よりも高い建物はこのあたりにはない。

 物干し台は遮られることもなく、通りに出ればすぐに見えた。

 今日は洗濯物は干されていない。観察のために空けてくれたんだろう。

「おはようございます」

「よく来たわね。さぁどうぞ」

「こっち来いよ!」

 出迎えてくれたタカユキの母さんにあいさつをして持ってきた紙袋を渡すと、タカユキがじれったそうに俺の腕を引いた。

「ここから上るんだ」

 案内された先には、小さな中庭から屋根に向かって階段がのびているのが見えた。

 手すりなんかがちゃんと付いていて、けっこう立派だ。

「すぐに始めようぜ」

 すでにセッティングされている透明の半球。

 朝早いっていうのに太陽の方も準備万端らしく、熱線みたいな日差しが肌をさす。

「一時間おきに印つけるからな」

「わかった」

 最初の一点はタカユキが付けた。

 次の一点は俺。

 なんとなくまわりを見回して、わぁっと思う。

 大した高さではないけれど、足元を四方八方に連なる色とりどりの屋根が面白い。

 登校途中にいつも見上げる物干し台から、今日はこうして町を見渡しているのも愉快だ。

 崩れそうだと思っていた物干し台は案外よくできていて、俺は少しだけいつ壊れるかの賭けに乗っていることを気まずく感じた。

「お昼ですよ」

 七つ目の印がついて、いかにもっていうラインが半球にできてきたとき、下から優しい声に呼ばれた。

 数時間をまるまる物干し台にいたわけではなかったが、二人ともなんだかんだとしゃべりながら町を見下ろしているのが楽しくなって、ついつい宿題そっちのけでアイス食べたりジュース飲んだりしながらここで過ごしていた。

 おかげで何一つ遊んでないのに、いろんなところが日焼けでピリピリする。

 休み明け、先生に自由研究焼けですって言ってみようか。

 いくらかオマケがくるかもしれない。



 どうぞと出されたのは素麺だった。

 ガラスの大皿にきれいに一口サイズずつに丸めてあって、つゆの器は冷たさにくもって水滴を流している。もうひとつ大皿があって、そこにはいろいろな種類の天ぷらが乗っていた。

「すげぇ……昼から天ぷら!?」

「あら、嫌いだったかしら?」

「いえ!好きです……」

「なら良かった。ゆっくり食べてね」

 観察あるんだからゆっくりなんてできねぇよと、ずるずる素麺を口に含みながらタカユキが言い、いただきますは言ったの?行儀悪いわねぇと、タカユキの母さんが苦笑する。

 いただきます。手を合わせてから素麺をすする。

 つい、口に出てしまった心の声。

 サクサクとした衣にまた心の声が出そうになって、あわててナスと一緒に飲み込んだ。

 俺には作れないから昼飯にこんなに美味しい天ぷらなんて、もう食べられない。そう思ったら胸の奥がイガイガしてきた。

 クソッたれだ。こんなのクソッたれだ。

 そうだ。この間の給食のイカの天ぷらの方が美味しかったじゃないか。

 そっちの方が美味しかった……。

 

 デザートのスイカを食べながら、見るとはなしにタカユキの母さんを眺める。


 ……違う。この人じゃない。


 浮かんだ言葉に首を傾げる。

 違う? いや、違うって、何が?

 なんのことだろう。

 自分自身でもわからないものが、胸をざわざわさせている。

 いつも登校しながら、物干し台の光景を見上げているときのそれと似ている気がした。


 夕方五時で観察を終えた。

 まとめは別の日にすることにして、タカユキの母さんに礼を言い、タカユキと手を振りあって別れた。

 日にあたり過ぎて疲れた身体に、鬱陶しく絡み付く熱い微風が気持ち悪い。

 今日は早くフロに入ろうと家路を急ぐ。

 母さんは早出だったから、もしかしたらもう買い物も終わって家にいるかもしれない。

 かけていったカギは開いていた。

 明かりのもれるリビングのドアを開けると、キッチンでエプロン姿の母親がジュウジュウ美味そうな匂いをさせて忙しく腕を動かしていた。

「お帰り」

 聞き慣れた声が、聞き慣れない言葉をにっこり言う。

「疲れたでしょう? お風呂入ってきちゃいなさいよ」

「……うん」

 ぱたんと閉じたリビングのドア。

 背中にしたまま、俺は自分を見下ろす。

 ただでさえ暑いのに、内臓が全部ほかほかしだして、まいった。

 こんな日は、俺はバカになる。

 変な声をあげて踊ったりしたくなる。

 そうして母親に、なにやってんのもうって、言われてみたくなる。笑われてみたくなる。

 気付いたら目の前がゆらゆらと揺れていた。

 限界をこえて雫が落ちる。

 バッカじゃねぇの……。なに泣いてんだよ。

 乱暴にごしごしと拭った頬が、日焼けにしみて痛かった。


「月でも見ましょうよ」

 飯の後。急に母親が言いだして、さんざん太陽見てきて今度は月かよなんて思ったけど、気分の隅っこはなんだか弾んだ。

 一緒にベランダに出る。

 アパートの二階。

 タカユキのとこの物干し台と違って見晴らしは悪いけれど、月を遮るほどの高い建物はなく、まるい輝きが夜空にぽっかり浮いているのが見える。

「……きれいねぇ。ゆっくり月を見る暇もなかったわ」

 ふうっと息を吐いて、母親はじっと月を見つめている。

 小さく微笑んで。

「あ……」

 その横顔が、一瞬で俺の中の霧をはらった。

 ああ、そうだったのか。

 そうだったんだ……。


 いつのころなのかわからない記憶があふれだす。

 たぶん俺の、最初の記憶。

 タカユキの家の物干し台は、アルミのベランダになった。

 そこでは、タカユキの母さんじゃない女の人が、小さく微笑みながら洗濯物を干している。

 ときどきこちらに向かって何か言っては、楽しそうに洗濯物を干す。

 優しい優しい、光と音の世界。

 いつもいつも俺に寄り添う、温かなもの。


 母さんだったんだ。


「どうしたの? 大丈夫?」

 はっとして、慌てて目をそらす。

「なんでもない」

「……そう?」

 再び月を向く気配をとなりに感じながら、俺はどっどっと祭りの太鼓みたいに鳴っている心臓の音を聞いていた。

 ただでさえまだ蒸し暑いのに、俺の身体中が熱く熱く満たされていく。

 俺は気付かれないように、となりを見た。

 母さんが部屋に入ろうと言うまで、ずっとずっと、となりを見ていた。

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