第7話 神獣
ウォーズの顔に、雨が落ちてきた。
「――さあ、レックスマン司教。時は満ちた。今日が『神』が思し召された『終わりの日』だ」
リュンセルに促され、ウォーズは胸元のロザリオを掴んだ。
皮膚の下から突き上げてくるような衝撃、鋭い苦痛は皮膚を突き破り、ウォーズを人ではないモノへと変化させていった。
「見ろっ! 少年が……! 何だアレはっ……!」
誰かが叫んだ。
「アレはっ……!」
僕は目の前の光景が信じられなかった。
ゴクリと唾を飲み込んで、ようやく出た言葉が……。
「緋色の、虎……?」
誰もが、そこから目を背けられない。
後ずさりすら出来ずに、神獣へと変化したウォーズを見上げている。
どこからともなく、讃美歌が聞こえてきた。
教会堂には反教会の民衆も押し寄せていたが、やはり信仰心を拠り所にしている人々も中にはいた。
「あ、ああ……神獣だ。神獣に魂を捧げれば、
『神』の御許へと昇れるんだ……」
「もう何も苦しむ必要はないんだ……。やっと、やっと、眠りに就くことが出来るっ……!」
「どうかオレを喰ってくれ! オレを『神』の御許へ……!」
「いや俺だ!」
「私が先よ!」
「神獣様、どうかわたくしの子供を、『神』の御許へとお運びくださいませ!」
敬虔な教会の教徒達が、正門前に溢れだした。
「あんなモノが神獣な筈がないっ! あんなペテン教会の口車に踊らされるな!」
「あんなモノはバケモノだっ! バケモノの餌になるだけだ! バケモノを殺せ! アレこそが人類を滅ぼさんと画策する元凶である!」
反教会と教徒の両方が、正門を壊しにかかった。
その時、正門を攻撃していた前方から、嗚咽が聞こえてきた。
「グエッ……!」
「ゲエエ……!」
「何だ!? どうしたっ!」
民衆が次から次へと嘔吐し、倒れていく。
「マズいでさぁ、ヴァン坊ちゃん! 『カカシ』の連中が出てきやがった!」
「何だとっ……!」
見れば、芽吹いた『カカシ』が何十、何百と民衆を襲い、人々は逃げ回っている。僕は背中の“寓話の
「このままじゃあ、こっちにも臭いが届いちまう! 逃げやしょう、ヴァン坊ちゃん!」
「だけどっ……!」
僕は教会堂のバルコニーで、この惨劇を見下ろすウォーズを見上げた。
「ウォーズが……」
「ウォーズ坊ちゃんは教会側の人間でさぁ! 見てくだせえ、あんなバケモンになっちまって! 教会はこの世界の終わりを受け入れた連中で、ウォーズ坊ちゃんもまた、それを望んでいるんでさぁ!」
ダビソンの言葉に、ぐっと俯いた。不意にズボンのポケットに異物を感じて、それを探った。
「母さんのロザリオ……」
手に取ったそれは、昨夜父さんからウォーズにと預かったものだった。
「それ、奥様の……」
僕は意を決すると、“寓話の
「ヴァン坊ちゃん……!」
息を止めようとも、『カカシ』の腐敗臭は鼻から入り、僕の意識を崩し掛けようとする。何度か足下がぐらつき、目眩がした。
それでも立ち上がり、背中の“寓話の
閉まっていた正門が開き、人々も『カカシ』も教会堂の中へと雪崩れ込んでいった。僕も正門を潜り、バルコニー目指して走った。
だが、息が持つ筈もなく、僕は教会堂の階段で崩れ落ちた。
「ハア、ハア、……あと、少しなんだ……ウォーズ……」
上空からの風で、『カカシ』の腐敗臭が吹き付けてきた。
「う、うう……」
元々体力なんてものはない上に、何十キロものレディを背負っている。腐敗臭が体中の毛穴から入り、既に満身創痍。
意識も途絶え始め、もうダメだと諦めかけた、その
「――眠ってはダメ」
耳元でそう聞こえた。
そうして色白い手が僕の視界に入ったかと思うと、そのまま僕の顔の前でひと扇ぎした。優しい花の香りがして、「これで臭いは大丈夫よ」と聞こえた。
不意に、背中の“寓話の
僕はもう一度立ち上がり、よろめきながらも、ウォーズの下へと向かった。
「――ズ、ウォーズ……」
殆ど正常な意識などない中、僕は誰かしらに占拠されつつある教会堂を歩き続けた。
反教会が『カカシ』と戦い、教会堂に火を放った。燃え盛る炎は、あっという間に『カカシ』達を火だるまにしていく。
それでも難を逃れた『カカシ』達が僕達を襲ったが、どういう訳か、指一本僕達に触れることなく、どこかへと消えていった。
「ォーズ……ウォーズ……、どこ、に、いるんだよ……」
煌びやかな教会堂の聖殿を抜け、バルコニーへと続く階段を上った先に、教会の礼服を着て、マスクを付けた男達がいた。
「あれ、は……」
僕に気が付いたのか、男が一人、僕の下へとやってきた。
「リュン、セル……先、生?」
「君はヴァン・サリー・レックスマンか。丁度良い、見たまえ。君の弟が、迷える魂を『神』の御許に運ぶところを」
僕は力なくその言葉の先に目を向けた。そこに、弟の姿はなかった。そこにはただ、人々や『カカシ』を喰い散らかし、咆哮する獣の姿しかなかった。
「ウォー……ズ?」
「全く、君の弟は素晴らしい神獣だよ。幼い頃から君達を見てきたが、やはり司祭なんかよりも、神獣の方が、ずっと適性だったらしい!」
「先、生……、ウォーズは、僕の弟は、どこですか?」
僕は目の前の獣が、ウォーズだとは思えなかった。縋る想いで、リュンセル司教の礼服を掴んだ。
「何を言う? あの神獣が、今正に息絶えた魂を咥えるあの『獣』が、君の弟だろう?」
リュンセル司教が、卑しく笑った。
「ち、がう……! アレは、僕の弟なんかじゃ、ないっ……! ウォーズは、僕の弟は、人間だっ……!」
脳裏に浮かぶ、ウォーズの笑顔。対比して、獣が唸り声を上げた。
「君の弟は、フラミンゴス教会の神獣となった。誰にでも出来ることではない。彼は特別で、崇高なる『血』をその身に宿した、教皇に選ばれし存在なのだ!」
神獣と謳ったウォーズの姿に、リュンセル司教は陶酔していた。
「血……」
その言葉に、僕は背中の“寓話の
彼女もまた、『血』を必要としていた。
「おや、そのご婦人はもしかして――」
リュンセル司教の手が伸びてきて、咄嗟に彼女を匿った。
「……彼女に触れないでください!」
ようやく意識が正常に戻りかけて、僕はリュンセル司教を睨みつけた。
「リュンセル司教……!」
駆けつけた狸顔の男――ミネルヴァ司祭。
「炎がすぐそこまで迫ってきております! ここももう長くは持ちそうにありませんぞ! 急ぎ
「まあ、待ちたまえ、ミネルヴァ。ヴァン・サリー、君が背負うご婦人を私に見せておくれ?」
「嫌だっ……」
卑しく笑うリュンセル司教に、直観で嫌な気を感じた。
「さあ早く。早くその『人柱』を――」
リュンセル司教の手が再び伸びてきた、その瞬間――。
「ガルルル……!」
神獣となったウォーズが、僕達の前に飛び込んできた。
「ウォーズ!」
対峙するように、ウォーズはリュンセル司教の前で咆哮した。
「やれやれ。信徒と
余裕の笑みを浮かべて、リュンセル司教は言った。
「ウォーズ……?」
リュンセル司教に威嚇していたウォーズだったが、やがて大人しくなり、襲い掛かる『カカシ』相手に噛み付いた。
「リュンセル司教、お早く! 『カカシ』共が勘付き始めましたぞ!」
動揺するミネルヴァ司祭が、僕の前を横切った。
「この匂いは……」
ミネルヴァ司祭から漂ってきた匂いは、どこかで嗅いだことのある、柑橘系のそれだった。
「ふむ、もう行かねばならぬか。だが、一度この世界の門を開いた、ご婦人のお顔が見てみたい」
そう言うと、リュンセル司教はグイッと“寓話の
「――汚らわしい、人の子が」
「なっ……!」
その瞬間、リュンセル司教が蹲った。
「ひいっ! 老婆がっ! 枯れ果てた老婆がっ……!」
「リュンセル司教! いかがなされたのです、リュンセル司教!」
困惑するミネルヴァ司祭に、僕はそっと背中の“寓話の
窓の外からヘリコプターの音が聞こえてきた。
「参りますぞ、リュンセル司教!」
正気を失ったリュンセル司教を背負い、ミネルヴァ司祭は駆け付けた
取り残された僕達に、炎が襲い掛かる。
僕は“寓話の
遠くから、悲鳴や窓ガラスの割れる音がする。
燃え行く『カカシ』がいる中で、『カカシ』の腐敗臭も漂い、それによって嘔吐する人々。反教会も教徒も『カカシ』も、炎の中では、灰になるだけの存在。
僕も今まさに、力尽きようとしている。
そっと目を閉じて、身体が床に同化していく感覚がした。
「ああ、この感じ、久し振りだな……。やっと、眠れるんだ……」
小さい頃、眠りに就く前に、母さんに絵本を読んでもらった記憶が蘇る。
隣には父さんもいて、エドワード兄さんやケルヴィン兄さんもいる。それから小さく蠢くケルトを捲ると、そこには、とびきり可愛い僕の弟が、楽しそうに笑っていて……。
僕は瞼を開けた。
「……ウォーズ」
すぐそこに、神獣になったウォーズがいた。まるで子犬みたいに僕の頬を舐め、頬ずりした。
「なんでお前ばかりが……」
特別なのか?
いや、違う。
「お前ばかりが、こんな苦労を背負って……」
僕は、ポケットから母さんのロザリオを取り出した。
「覚えてる、だろ? 母さんの、形見。父さんが、お前にって。司祭祝いにやってくれって。父さん、ずっとお前に謝りたがってた。お前は聡い子だから、何も話さなくても、伝わるんじゃないかって。でも、違ったって。……父さんは逃げたんじゃなくて、守りたかったんだ。僕やお前を、レックスマン家の本当の呪縛から、守りたかったんだって。良く分かんないだろ? 僕もだよ。けど、父さん、最後に僕達のこと、守ってくれたんだ。だから、信じてやろうよ」
僕は母さんのロザリオを、ウォーズの牙に掛けた。
「これで、母さんもお前のことを、守ってくれるよ……」
そこまで言って、僕の意識が途絶えた。
どこかで誰かがくしゃみをした。
まるで天から落ちてきたような大きなくしゃみの後、ゆっくりと白い門が隙間を覗かせ、そこから眩い光が差し込んできた。
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