第3話 “寓話の婦人(マダムグース)”
夜更けになっても、僕達は各々勉強や読書で時間を潰している。人間から睡眠という本能が消え、睡眠薬でさえその効力を失っていた。人々は、思いのままに眠らない人生を送っている。それが後どれくらいなのか、誰にも分からない。
『終わりの日』が訪れるまでの苦痛に、誰も彼もが堪えている。
僕はそっと目を瞑り、深く溜息を吐いた。
その時、ドアを叩く音がした。開けた先に立っていた男が、躊躇いながらも微笑んだ。
「父さん……」
「すまんなぁ、ヴァン。こんな夜更けに」
申し訳なさそうに、父さんが謝った。
「いいよ、別に。どうせ眠れないんだし」
僕は、父さんを部屋の中に入れた。
二人でソファに腰掛け、ティーカップに紅茶を注いだ。
「はい、温まるよ」
「すまん。もうすぐ冬だもんなぁ、さすがに夜更けは寒いもんだ」
「そうだね。……それで、どうしたの? こんな夜更けに屋敷に来るだなんて、珍しいじゃないか」
「ああ……」
父さんが言葉に詰まった。
2年前、父さんはレックスマン家の屋敷を出ていった。いい年したオッサンが、家族と一族の宿命を捨て、この屋敷から逃げ出したのだ。
母さんは、僕が5歳の時に病気で亡くなった。
エドワード兄さんは4年前に大学進学を機に家を出て、ケルヴィン兄さんも3年前にスモック鉄道に就職したから、2年前に屋敷にいたのは、僕とウォーズだけだった。その状況下で、この父親は、ある日突然姿をくらませたのだ。
僕もウォーズも血眼になって捜して、使用人達も毎晩捜し回って、ようやく隣町の小劇場で見つけた時には、もうすでに、レックスマン家の当主としての威厳はどこにもなかった。
元々優しい人ではあったが、先祖代々が受け継いできた土地や、レックスマン家の仕来りを精一杯に守ってきた人だった為に、そのショックは計り知れなかった。特にウォーズの落胆は凄まじく、父親の全てを拒絶した。
父、リオネス・ミルヴァ・レックスマンは不慮の事故で死んだ、そう世間に公表し、無理やり家督をエドワード兄さんに継がせようとしたが、まだ学生の身分であることを盾に、それは保留のままになっている。それからウォーズは父さんを恨み、絶縁状態が続いている。
父さんもレックスマン家の屋敷には足を踏み入れて来なかったが、時々寂しくなるのか、こうして人目を盗んでは、僕の所に訪れることがあった。
「ウォーズに見つかったら、ただじゃ済まないと思うけど?」
僕は、きっぱりと言った。
「ああ、まだ怒ってるよな?」
「そりゃあね。この時間は、町の図書館に行っていていないけど。今日だって、僕が“寓話の
「そうなのか! ……すまんなぁ、不甲斐ない父親で」
しゅんと落ち込む父さんに、僕は大きな溜息を吐いた。
「それで、何しに来たの?」
「ああ! いや、大した用事ではないんだが……」
思い出した様子で、父さんがポケットから何かを取り出した。
「これって……」
「ああ。フラミンゴス教会のロザリオ。お前の母さんの形見だ」
握られているロザリオには、母さんが大事にしていた、パールのネックレスがつけられていた。
「母さんの……懐かしいな」
「ああ。ウォーズの司祭祝いにと思ってな。ほら、アイツが一番、母さんっ子だっただろう? だからこれが、アイツのこれからの支えになればいいと思ってな……。父さんからと言っても、アイツはきっと受け取らんと思ってな。だからヴァンから渡しておいてくれないか?」
「それは良いけど……。ちゃんと、ウォーズと話した方が良いと思うけど?」
「話したところで、今更許してはくれんだろう」
「僕は許したよ?」
「それは、お前が慈悲深いからだ」
「ウォーズだって慈悲深いさ。でなければ、最年少司祭にはなれないよ」
僕は、拳をぎゅっと握りしめた。
「ヴァン……。お前だって、いつか偉い司祭になれるよ」
心を見透かされているようで、奥歯を噛み締めた。
「別に。僕は司祭になりたいってわけじゃないさ……」
「強がりか?」
「違う!」
「弟に先越されて、本当は悔しくて堪らないんだろう」
「だから違うって言ってるだろっ……!」
そう躍起になって否定した僕の頬に、つぅーっと涙が流れた。
「ヴァン……」
「ちがっ、これは――」
「違わないだろう? お前は優しいから、アイツの優秀さを妬んだりしないし、司祭の件だって、とっくに受け入れているんだろうが、心にあるやり切れない想いは、父さんにだって分かるさ」
優しく抱き締められ、僕は父さんの胸の中で泣いた。
誰もが皆、心に葛藤を抱いて、寄り縋れる何かを探している。
世界が終わると知ってから、表立って口に出せない恐怖心が、更に心の安寧を蝕んでいく。それを取り除く存在が、本来の信仰心の筈だった。
それなのに、『終わりの日』が訪れると知ってから、フラミンゴス教会がそれを肯定してから、僕は信仰心というものを、きれいさっぱり失ってしまった。
信じられなくなってしまったのだ。
それまで『神』と崇めていた存在を。
『神』の御許に昇ることで、更なる高みへと導かれると説いた教会を、僕は否定してしまった。
それではいけないと、今日のウォーズの説教で原点に立ち返ろうとしたけれど、一番初めにあった信仰心も、『神』への忠誠心も、今の僕に舞い戻ってくることはない。
ダビソンやミージャに説教出来なかったことで、はっきりとそう、思い知らされた。
「父さん、僕はもう、どうすれば良いのか分からないんだ」
紅茶を飲んで、そう呟いた。
「教会の考えが、僕には理解出来ないんだ。『終わりの日』を肯定した教会を、どうしても、正しいとは思えないんだよ」
「ヴァン……」
「母さんが死んで、毎日寂しくて悲しくて、泣いてばかりいた僕とウォーズを救ってくれたのが、フラミンゴス教会の司祭様だった。信仰心があれば、またすぐに母さんに会えるって、その言葉に救われた。だから僕もウォーズも、あの時の司祭様みたいになりたくて、悲しんでいる人々を救いたくて、
「ああ、アイツはブツクサだが、聡い子だからな。こっちが何も言わなくても、伝わるモノがあるんだろう。だから父さんも、それに甘えて、何も言わなかったんだ。アイツなら、分かってくれるってな。だが、結局それがいけなかったんだろうな……」
「父さんは間違っていなかったと思う。けど、きっと言葉が足りなかったんだよ。だからお願い、ウォーズがミーフに出立する前に、ちゃんとあの時のことを――」
ドーン!!!
「な、んだ? 今の音……」
僕はカーテンを開け、窓から爆発音がした方角を見た。
「なっ! これって……」
南に1キロ程離れたジェノレープの町の方角。家や建物、木々や森が、火の海に包まれているのが見えた。
「一体何が……」
「奴らだ! 奴らがこの町で芽吹いたんだ!」
「奴らって、もしかして『カカシ』!?」
「ああ。マズいな、こっちにも来るぞ!」
そう慌ただしく、父さんがドアへと向かった。
「えっ、ちょっと、どこに行くんだよ!」
「どこって、決まってるだろう! “寓話の
「はあ!?」
訳も分からず、僕は母さんの形見をポケットに入れ、父さんの後に続いた。
途中、黒煙の上がる町に振り返った。
「ウォーズ……」
「アイツならきっと無事だ! だから早く来いっ!」
事を急ぐ父さんの言葉に、僕は後ろ髪を引かれる思いで先を進んだ。
あちらこちらから、悲鳴が聞こえてくる。
町を燃やす炎が迫り来る中で、急いで森の奥へと走った。
「良かった、無事だな」
“寓話の
「……っ」
詰まるものがあって、反射的に僕は顔を反らした。
「どうした、ヴァン」
「……いや、いっそ燃えてしまった方が、良いんじゃないかと」
ボソリと本音が出た。
父さんの眉間が動いたのが分かったが、すぐに慈しむ表情に変わった。
「そうかもしれんな。お前の気持も痛い程分かるぞ? けどな、コレは何があっても、守らなければならないモノなんだよ」
そう言うと、父さんは左手のレザーを外し、爪で皮膚を切った。
真っ赤な『血』の中に、虹色に光り輝くものが見えた。
「父さん、それ……」
「ああ。お前にこれを見せたかったんだ」
するといつもはピクリともしない“寓話の
乾いた体に『血』が滴り落ち、どこからともなく鼓動が聞こえてきた。
「ウソだろ、生きてるの?」
僕は、目の前の光景が信じられなかった。
「ああ。これは生きている。ほら、見た目も変わってきたぞ」
父さんの『血』を吸収した“寓話の
木と同化し、完全に干からびた状態の老婆から、見目美しい若い娘になっていった。
とてもこの世のものとは思えないそれから、ドクンドクンと生気がみなぎってくるのを感じた。
「父さん、これ、どういうこと……?」
「そうだな、お前達には何も話してこなかったが、これは、この“寓話の
「羊の門……?」
初めて聞く言葉だった。
僕は怪訝な顔で、父さんを見上げた。
「ああ。神の啓示により、この世界も『終わりの日』を迎えようとしているが、この世界が始まる前にも、今とは違う世界があって、その世界も『終わりの日』によって、今の世界が始まった。つまりは、前の世界を終わらせ、次の世界を始める為の“人柱”――それが“寓話の
「継承、者……?」
「そうだ。そして、その継承者を代々守り繋いできた一族が、我々レックスマン家だ」
初めて聞く一族の真実に、僕は両手のレザーを見つめた。
「じゃあ『血』は? 僕達の『血』が、彼女を生き長らえさせているの?」
「……違う、その逆だ」
「え? どういう――」
生じた疑問をぶつけようとした、その
「ミ、ツケ、タ……ミツケ、タ……ヤット、ミツ、ケタゾ……」
「なっ、なんだよ、お前らっ!」
森の影から現れた謎の生物。
片足を引きずって、両手をぶらんと落としたナニかが、僕達の方に近づいてきた。それは1体ではなく、2体、3体と、次から次へと、闇の中から湧き出てきた。
「コイツらが『カカシ』だ。『終わりの日』を迎えた世界の、次の支配者だ」
森の影に月光が落ち、その正体が、はっきりと見えた。
「こいつら、顔がっ……!」
「ああ。所詮はカカシだからな。だが、人間よりもずっと、薄気味悪い顔立ちだろう!」
ボサボサ頭に、ペンや筆で描かれた無機質な顔。生気を感じるものはなく、ただただ、気味の悪さだけが漂ってくる。
不気味な『カカシ』がじりじりと近づいてきて、思わず僕は後ずさった。
突然、悪臭が鼻についた。
「うえっ……な、んだ、このにおいっ」
「ヴァン!」
父さんの声と同時に、僕の鼻と口が、ハンカチで覆われた。
「んん(父さん)!」
「いいから、お前はこのまま町外れまで走れ……! ぐっ……、こい、つらは、父さんが、どうにか、する、から……!」
悪臭のせいで、父さんが咳き込んだ。僕はどうにかして父さんの手を払い除け、「父さんも逃げよう!」と叫んだ。
「うえっ……!」
吐き気で、その場の視界が揺らいだ。
「馬鹿やろっ……!」
揺らぐ視界の先に、ノロリノロリと近づいてくる『カカシ』が見えた。
父さんがゆらりと僕の前に立ち、両手を広げた。
「む、すこたち、には、指、いっぽん、ふれ、させんぞ……!}
「ケケケ。ケケケ。ニンゲン、ハ、コノ、ニオイ、デ、ホロビ、ユク……」
「オウサマ、ノ、イウトオリ、ダ……」
そんな『カカシ』の声が、遠くに聞こえた。
僕の意識が遠のき、力なく倒れた先に、生暖かい温もりを感じた。ドクン、ドクン、と心音が聞こえ、どこか懐かしい鼓動が、僕の意識の中に入り込んでくる。
すっと瞼を開けた先に、丘に立つ白い門が見えた。今までいた場所とは異なる次元で、フワフワとした感覚だった。
「これは……?」
「これが『羊の門』よ」
背中から上がった声に、「え?」と振り返った。
「君は……“寓話の
「ええ、ご明察」
父さんの『血』で、生気を取り戻した彼女の笑顔が眩しかった。
「貴方がヴァンね。リオネスの三番目の息子」
「ああ。……僕の『血』は、美味しかったかい?」
どうしてこんな会話をしているのか、分からない。けれどもこの会話に、何かしらの意味があるのだろう。
「そうね、まあまあってところかしら」
「ふっ……。これでも、命懸けだったんだけどな」
「あら、ごめんなさい。でも、やっぱりリオネスの『血』が一番。こうして昔の姿に戻れる、特別な『血』ですもの」
「ああ、あの虹色のキラキラしたやつか……」
「レックスマンの中でも、更に特別な存在。リオネスと、その息子の中では、末の子くらいかしら」
「末の子? ああ、ウォーズか……」
フワフワした感覚の中で、僕の脳裏に、ウォーズの笑顔が浮かんだ。
「なんでアイツばかりが、特別なんだろう?」
すっと目を瞑った。
小さい頃からウォーズは優秀で、いつも誰かに「君は特別な存在」だと褒められてきた。父さんも母さんも、それから兄さん達も、皆がウォーズに期待した。
司祭の件だって、アイツがそこまで優秀でなければなかった話で、そうなれば、僕がこんなにもやきもきした気持ちになることなんて、なかったかもしれない。
だが、現実問題、ウォーズは司祭となり、母さんの形見を受け継ぐ。
そして今回も、“寓話の
ウォーズが主役で、僕は脇役。
『終わりの日』を前にして、信仰という名の下に、ウォーズは人類を更なる高みへと昇る意義を唱え、人類最後の希望となる。
きっとこんな筋書きで、この世界は『終わりの日』を迎えるのだろう。
「ああ、なんて僕は無力なんだろう……」
滲み出た感情に、「うふふ」と笑う声が聞こえた。
僕は瞼を開けた。“寓話の
ポッと頬が赤くなったかと思うと、クスクスと悪戯に笑って、こう僕の耳元で囁いた。
「――人間なんて、大嫌い」
「え……?」
そこで意識が戻った。
瞼を開けたそこに、今現在『カカシ』にフルボッコにされている父さんがいた。
「と、父さん!?」
「お、おう! どうにか無事だ!」
「そうは見えないけどっ!」
寄ってたかって蹴られている割には、余裕そうだった。
悪臭は消えていた。
木の葉が揺れる向きからして、風向きが変わっていた。
「そうか、風上にいれば、『カカシ』の臭いは防げるのか」
僕は立ち上がった。
ふと、背中の“寓話の
さっき見た光景は夢だったのか?
いや、眠るという本能を失った今、それはなかった。反して、彼女は眠ったままだ。
「ヴァン、彼女を連れて逃げろ!」
「え?」
「父さん、やっぱり無理だった!」
先程まで格好つけていた、親父の見る影なし。フルボッコにされた父さんは、あっけなく『カカシ』達に降参していた。
「もう! そういうところが、ウォーズから嫌われている理由だよ! すぐに現実にぶち当たって、逃げ出そうとする!」
「ああ、すまんなぁ、ダメ親父で」
「ったく、しょうがないなぁ……」
僕は“寓話の
「よし! そのまま彼女を背負って、『羊の門』をこいつらの手の届かない場所まで運べ!」
「父さんはどうするの?」
「おれは……まあ、どうにかなる!」
「ホントに!?」
どこまでも楽天的な父さんに、僕も、次第にどうにかなるだろうと思えてきた。
「いいかヴァン、何があっても、『羊の門』は開くな!」
「え……?」
「父さんもお前の考えと同じだ。『終わりの日』なんてものを肯定した教会はもう、信じられん。『羊の門』が開けば、今のこの世界は終わりを迎え、コイツら『カカシ』が支配する新しい世界となる。いいかヴァン、教会は新しい『人柱』を探している! この先、『羊の門』の継承者を巡って、大きな争いが起こるぞ!」
そこまで言った父さんが、「うえっ!」とその場に吐いた。
「父さん!」
思わず駆け寄ろうとした僕を、「来るな……!」と父さんが制止した。
「でもっ!」
風向きがまた、変わろうとしていた。
「大丈、夫だ。すこしだけ、臭いに、やられた、だけだっ……!」
「ケケケ、ケケケ、モウ、スコシ、デ、ニンゲン、ガ、シヌ、ゾ」
「アト、スコシ。アト、モウ、スコシ」
『カカシ』達が父さんに覆いかぶさっていく。
「父さん!」
「い、いいから、逃げろ、ヴァン! 世界を、終わらせるな!」
「ぐっ……」
拳を握り締め、奥歯を噛み締めた。
僕の背中に、この世界の命運が賭けられている。一目散にその場から逃げ出し、森の出口へと走った。
「ニゲタゾ、オエ……!」
そんな声が聞こえて、僕は、死にもの狂いで逃げた。
「父さんっ……!」
何度も振り返ろうとしたけど、
怖くて、
恐ろしくて、
引き返すことなど出来なかった。
僕は泣きながら森を出て、町外れのローグ港へと向かった。
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