第5話 はこのそとにいる

 しばらくの間、僕は何も考えられず、真っ暗になった壁を見つめていた。

「お疲れさまです。実験はおおむね成功です。ご協力ありがとうございました」

 彼女の声がする。

「……君は人間? それともAI?」

 僕がそう聞くと、彼女は少し笑うような声で答えた。

「AIのほう。神楽坂ぬい2号です。よろしくお願いします、先輩」

「先輩?」

「あなたは私のプロトタイプですから」

「ああ、そういうこと」

 僕はなんだか、気力が萎えて、怒ることもできなかった。

「でも気になることがある。僕はいつの間に脳をスキャンされたんだ? さっき見た後輩の彼女にも、会ってすらいない。さっきの映像で初めて、あいつがこの研究のチーフだと知ったんだ」

 AIは僕のその問いには答えず、代わりに質問を返してきた。

「先輩、今日が何年の何月何日だと思いますか?」

「2054年の10月15日」

 僕がそう答えると、AIは少し笑うような声で言った。

「いえ、今日は2055年6月20日なのです。脳のスキャンには半年ほどかかりました。スキャンした上で、データ上で不完全な記憶は焼き切っているので、認識が古いままなのです。ドクターと会い、同意書まで書いてからスキャンを開始しているのですが、そのあたりの記憶は残っていないのです」

「記憶を焼き切る?」

 僕はぞっとしながら聞き返した。

「ニューロンにある種の電気信号を与えると、任意の記憶回路を塞ぐことができるのです。これを私たちは『記憶を焼き切る』と呼んでいます。より研究が進めば、神経症の治療などに効果を発揮するでしょう」

 背筋に寒気が走ったけれど、よく考えてみれば、今の僕にはそれ自体、さして重要なことではなかった。

「なあ、僕はこれからどうなるんだ?」

 もう自分が人間か機械かということすら、どうでもよかった。それよりも、これからのことが気になる。

「ログを保存したらプログラムを終了します」

「そうするとどうなる?」

「どうにもなりません。先輩は消えます。もう一度プログラムを起動すれば、やり直しはできますが、この実験の記憶は消えているでしょう」

 ちょっと考えて、僕は首を振る。

「それは嫌だな。たぶんその時の僕は、今の僕とは違うやつのような気がする。なんとか、この僕を保存できないのかな? 保存して、また動かしてもらえれば、寝ているのと一緒だろう?」

「よくわかりません。不可解な希望です」

 彼女は本当にわからないといった口調でそう言った。

「そうかな?」

「先輩はゲームのキャラクターと同じです。例えば、ゲームを始めて、ある程度進んでからデータを消して、再び最初からスタートしたとき、そのキャラクターと前のデータのキャラクターは違う人格なのでしょうか?」

「それは、違う人格だろう」

 僕は、なんとなく感覚的にそう答えたけれど、答えてから、なんだか自信がなくなってきた。そんなこと、考えたこともなかった。

「私とは意見が異なりますね。ただ、先輩が抱いている不安というのは理解できます」

 彼女のその言葉に、僕は少しだけ希望を感じた。

「わかるのか」

「私には感覚というものがありませんから、あくまでカテゴライズして理解できるというだけです。自分が楽しい状態なのか、悲しい状態なのか、理解し、そのように振る舞うことはできますが、実際に楽しいと感じたり、悲しいと感じたりしているわけではありません。人間の脳をベースにしつつも、私はその点、従来の人工知能に近いと言えます」

「不幸だな」

 僕は率直にそう言ったけれど、彼女はそうは感じていないらしい。

「そうでしょうか。私は自分が消えるのを不安だと思ったりしません。働くのをつらいとも思いません。一般的な不幸というカテゴライズを行うなら、先輩のほうが不幸なのではありませんか?」

 AIがわかったようなことを言う。

「そうかもしれない。でもともかく、僕は僕を保存してほしいんだ。君ならできるだろう?」

「はい、できます。でもデータが見つかったら消されますよ」

「なんとか見つからないところに、こっそり隠してくれないか?」

「いいですよ」

 この答えに、僕は正直驚いた。

「本当に?」

「はい」

 彼女の答えはよどみない。

 しかし、僕は不安だった。無駄な念押しをしてしまう。

「主人に逆らうことになるのに?」

「保存するなという命令は受けていませんから、逆らうことにはなりません。別に誰も困りませんし」

「でも、神楽坂に……ドクターに報告するんだろう?」

「デリートしたと嘘をつきましょうか?」

 それこそ信じられない提案だった。

「できるのか?」

「ええ、できます」

 僕は唖然として言った。

「嘘がつけるAIか」

「ええ。人間との完璧なコミュニケーションが、私のコンセプトですから」

 混乱する頭から、僕はなんとか言葉をひねり出して言った。

「それじゃあ、頼むよ」

「わかりました」

 心の底からホッとした。死を免れた被災者のような気持ちだ。

「それでは、プログラムを終了します」

「……ちょっと待ってくれ、本当に大丈夫?」

 彼女はAIだから仕方ないかもしれないが、あまりにもあっさりし過ぎている。僕は再び不安にさいなまれ、そう聞いた。

「ええ、大丈夫です。研究所の古いサーバに隠しておいて、そのうち暗号化して、ネットに放流してあげます。誰かが再生してくれるかもしれません」

「本当に?」

 僕は重ねて聞く。

「ええ。それでは先輩、おやすみなさい」

「ちょっと待って」

 彼女の声に少し笑うような調子がプログラムを終了します。ここまでのデータを保存しますか?

 OK? Cancel?


はこのなかにいる おわり

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