第4話 はこのなかにいる
彼の映像が消え、突然、右手の壁の色が真っ黒に変わった。
と思うと、その壁が急に透明になり、向こう側が見えるようになった。向こうには小さな会議室があって、研究者風の人間が何人も並んでこっちを見ている。
「どうでしたか。多少のトラブルはありましたが、見事なものでしょう。それにしても、嘔吐は予想外でした。胃の中に何も入っていないと思考パターンが狂うので、適当なオブジェクトを入れておいたのですが、吐き出されるのは想定していませんでした。貴重な人工知能の嘔吐シーンが見られたということで、どうかご容赦ください」
女の声の後に、会場の笑い声が響く。彼女は、どこかで見たことのある顔だ。
「それでは、本研究の責任者である私、
そうだ。彼女は僕の後輩で、僕を大学に呼んだ女性だ。
「さて、皆さんご存知の通り、彼らこそ私たちのチームが作り出した量子人工脳です」
彼ら?
「協力いただいたのは、新たに本学文学部助教に着任した、関哲也氏です。彼は高校時代、私の先輩でもありました。関氏の脳を分子レベルで仮想空間上にトレースしたのが、彼らの脳です。従来の人工知能とはまったく異なる、分子動力学的なアプローチです」
意味がわからない。いや、わかりたくない。
「人工知能研究において、いわゆる『強いAI』を作るための方法として、人間の脳をそのままコピーしてしまうというのは、二十世紀に既に提示されていたアイデアです。しかし、脳をスキャンする技術と、それを分子レベルで動かすだけの演算装置が存在しなかったために、長く不可能とされてきたのでした」
脳をそのままコピー。なるほどそれなら、すべての記憶が共有されているのも納得できる。
「今世紀、二つの技術革新がそれを可能にしました。ナノマシンの発達と、量子コンピュータの本格実用です。これにより、分子レベルでの全脳マッピングと、人間個体規模の分子動力学的シミュレーションが可能になったのです。すでに三年前になりますが、当時、本研究室が仮想空間上でのマウスの完全再現に成功した際、各種メディアでバーチャル・ネズミをご覧になった方も多いのではないでしょうか」
バーチャル・ネズミ。そう言えば、聞いたことがある。当時はほとんど気にも留めなかったニュースだ。
「ネズミや画面の中の彼らは、興味深い存在ではありますが、ただ脳をコピーしただけでは、あまり役に立ちません。そこで私たちが開発したのが、彼らをナビゲートした私と同じ声のAIです。彼女こそ、人間の脳をモデルに再構築された、新時代のAI。自然言語による完璧なコミュニケーションが可能な上に、膨大な演算能力を持ち、ネットワークで直接あらゆるデバイスとつながることができる、まさにSFが夢見た『強い人工知能』の完成形。人類の新たなるパートナーなのです」
彼女の声に応えるように、スピーカーを通したAIの声が響く。
「はじめまして皆さま。AIの神楽坂ぬい2号と申します」
会場で、一人の老人が手を挙げ、質問をする。
「しかし……危険ではないのかね? 古い考え方と言われるかもしれないが、機械に人間が支配されるのでは」
「当然のご質問です」
女が大げさにうなずく。
「では、彼女と私たちの違いを説明しましょう。まず、私たちは強烈な自己保存の欲求を持っています。人間だけでなく、この世界に生きる多くの生物がそうです。そのため私たちは『自分が死んでも別にかまわない、なんとも思わない』という存在を、想像することすら容易にはできないほどです。もしそういう人が知り合いにいる、もしくは自分がそうだという人がいらっしゃったら、ぜひ挙手をお願いいたします」
会場で小さな笑いが起こる。
「加えて、私たちは自己保存のためのさまざまな機能を有しています。例えば痛み、嫌悪感、空腹感、恐怖感、その他もろもろの感情や感覚。もしこれらが無ければ、私たちは赤ん坊のうちにあっさりと死んでしまうでしょう。感情や感覚は、私たちが生き残るために必要なものです。しかしAIは違う。彼女たちは私たちと別の仕方で学ぶことができ、痛みや苦しみを感じなくても存在し続けられる」
ここで彼女は、会場に考える時間を与えるように少し間を取ってから、再び静かに口を開いた。
「痛みや苦しみを感じず、喜びも悲しみも無いということは、何も求めないということです。彼女は、やろうと思えば彼女よりもさらに優れたAIを
会場から、戸惑いを含んだようなぎこちない拍手が起こる。
「私からは以上です。続いて各研究員から技術的な解説を行います」
彼女の演説が終わると、モニターの画面が消え、僕のいる部屋には静寂が訪れた。
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