第3話 はこのなかにいる

 僕の言葉を聞いて、映像の僕は、ふらつきながらイスまで戻ってきた。

「何を思いついたんだ」

「どんなに僕のことを調べ上げていても、これだけは絶対に知らないはずのことがあったんだ。僕自身でさえ、ついさっきまで忘れていたんだからな」

「……何のことだ?」

 彼は、そんなことは思い当たらないとでも言いたげに、眉を寄せて顔をしかめる。

「五歳くらいのころ、隣に、石和いさわくんって子が住んでいたのを憶えているか?」

「もちろん。あの頃は二人でよく遊んだんだ」

「どうして遊ばなくなったか憶えているか?」

「それは……僕が引っ越したからだ」

「でも、手紙も書いてない。いや、向こうから手紙が来たのに、返してもいないんだ」

「……憶えていない」

 意外にも彼はあっさりと認めた。でも、僕はそれでは許せなかった。

「猫がいただろう」

「猫……?」

「空き地に住み着いていた猫だ。よく石和くんと二人で猫に会いに行った」

「……やめてくれ、気分が悪い……息苦しいんだ」

 映像の僕が懇願するように言う。僕は、自分が本物だと証明することよりも、僕自身を痛めつけることに夢中になっていた。

「ある時、石和くんはその猫を自分の家で飼うと言い出したんだ。僕は最初、賛成した。でも、彼が猫を飼うようになってから、急にそれが許せなくなった」

「やめろ!」

「空き地に行かなくなった石和くんも、彼のものになった猫も、許せなかった。そうして、猫が家の外に出るのを待ち伏せして、僕は猫を捕まえた」

「ここから出してくれ! こんなの拷問だ!」

「その猫を抱いて、僕は川まで走ると、猫を川に放り投げた」

 彼は倒れるように膝を突き、口元を押さえている。

「猫は溺れそうになりながらも、僕のところに戻ってこようとした。それを僕は、太い木の枝で、叩いた。何度も何度も、叩いて、猫が動かなくなって、川に流されていくのを見ると、僕は何事もなかったように家に帰った。それから、僕は石和くんと会うのをやめたんだ。その猫の名前、思い出したか? チャーリーだよ。僕は、僕が殺した猫の名前を、自分の家の猫につけてたんだ。どうして忘れてたんだろうな? あの時以来だよ、僕が、嫌な目に遭ったとき今のお前みたいに、現実逃避をするようになったのは」

 そこまで一息に言い切ってから、僕は映像の僕の様子がおかしいのに気がついた。

 彼は体を震わせて、生唾を吐き出していた。

 それは嘔吐だった。

 僕は、目の前で、僕が嘔吐するのを見た。

 胃と食道が収縮してのたうつ音。そしてそれに続く、吐瀉物が逆流して吐き出される音。それはひどく生々しく、なまの生命を感じさせ、同時にそれは、僕の中にひどい嫉妬を引き起こした。

 こんなにも生々しく、こんなにも振る舞えるのだから、彼のほうが人間なのでは?

 もし彼が人間だとすれば、僕が二人いるわけがないのだから、僕が機械だ。

 僕のこの記憶も、ぜんぶ嘘なのだ。

 しかし、次の瞬間、僕の背筋に氷が走った。

 彼の吐瀉物を見たからだ。

 それは、まるでコールタールのように真っ黒な、黒光りする半固形物で、とても人間が食べるようなものではなかった。それは床にしばらくとどまってから、煙のようにふっと消えた。

 それで僕たちは確信した。

 彼は人間ではない。

 嘔吐が止み、しばらくすると、彼はイスにもたれかかりながら立ち上がり、突然、イスを振り上げて壁を殴りつけた。

 激しい金属音。しかし壁には傷ひとつつかない。反対に、イスの脚が折れて取れた。その脚を、彼は所かまわず振り回し、殴りつける。

 しばらく彼の狂態は続いた。僕はただ茫然と、暴れる自分の姿を見ていた。彼は涙を流して、泣いていた。

 彼は絶望したように肩を落とし、そして言った。

「僕は機械じゃない」

 そう言って、彼は折れて尖ったイスの脚を、自分の首に突き付けた。

「おい、何を……」

 僕が止める間も無く、彼はそれをずぶりと自分の首に突き刺した。弾けるような音を立てて、真っ赤な血が飛び散る。

 十分に深く突き刺さったそれを、彼は引き抜いた。首に開いた穴から血があふれ出し、彼はそのまま表情を失って、倒れた。

 僕はただ茫然と、その様子を見ていた。

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