終章 世界で一番可愛い君へ
「おはよう、お兄ちゃん」
「…んぁ、朝か…」
妹に起こされながら、気だるさの残る体をゆっくりと起こす。
味気ない白のカーテンは、朝日を浴びて眩しく輝いている。
一つ大きくあくびをして、目をこする。
朝だ。何も変わらない、朝だ。
「…なにぼけっとしてんの?早くご飯食べないと遅刻しちゃうよ?」
「わかってる」
余談だが、こうして最近は妹に起こされることが多くなった。去年、というか先月くらいまでは朝に口を利くことすら稀だったのだが、心境に変化でもあったのだろうか、もはや母の顔を朝から見る羽目にはならなくなった。
いや僕としては、朝、いつもより数十分早く起きられる、もとい起こされるので余裕を持って登校できるうえに、自称モテ女の妹は母に比べいい匂いがする。ちょっと離れているこの距離感ですらそうなんだから、相当だ。さすが意識高い系は違うな。
…まあ、今はもう妹の匂いなんて嗅いでいなくても、もっといい人いるしな。
洗面所に向かい、まず顔を洗う。
蛇口を捻ると、思ったより冷たい水が流れた。
「…冷た」
思わず一度手を引っ込める。
気分の高揚に反して、季節はまだ春のままだということを、改めて実感する。
今度は覚悟を決めて—それほど大袈裟なものではないが—、冷水を顔に浴びせた。
意識が蘇る。この、瞬時に眠気の霧が晴れていく感じが、どうにもたまらなく好きだ。
「…ふう」
タオルで顔を拭きながら、小さく息を吐く。
いつものように、タオルからは柔軟剤の香りがふんわりと立ち込める。
鏡を覗き込む。
いつぞやあった目の下のクマは、今やもうない。
そこには、これまでの彼とは打って変わって、どこか清々しい青年の顔が映り込んでいた。
「…よし」
最後に頬を二、三度、軽く叩いてから、僕は洗面所を後にした。
∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵
「いただきます」
「はーい」
食卓について、手を合わせる。
母から返ってくる返事も、いつもと同じだ。
朝食は、いつもとなんら変わりない、ご飯に味噌汁、あとは野菜炒めとベーコンエッグという、いかにも普通の食事。
それでも、今日の僕にはとても美味しそうに見える。いや実際美味しいんだけれども。
完食。
「ごちそうさま」
「…早いわね、今日なんかあるの?」
「いや、特には」
「あらそう…」
気づけば完食していたくらいの感じだ。何も心配してもらうことではない。
それにしても、今日の食べるスピードは僕からしてもとても早かった。普段なら20分くらいかけてご飯を食べるのだが、今日はまだ10分も経っていない。
「…もう行こうかな」
「そう。いってらっしゃい」
「行ってきます」
手に重いスクールバッグを提げて、家を出る。
玄関の扉を開ける。外の明るさに一瞬目が眩んだ。
細めた目を、ゆっくりと開いていく。
今日も、いい天気だ。
∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵
いつもと変わらない通学路。
いつもと変わらない雑踏。
いつもと変わらない、何気ない風景。通学の一コマ。
駅前の、ロータリーの一角。
…そんな中に、彼女は佇んでいた。
ともすればオブジェともとれるような、端正な顔立ち。
モデルのようにすらっと整った、美しいプロポーション。
皺一つ見られないほどに完璧な、新品のような制服。
そのどれもが、過不足なく調和し合っている。
人通りこそ多い。
多いのだが、彼女はその中でも一際周りとは違う輝きを放っている。
眩しい。
道行く人の中にも、手にした新聞よりも彼女に見惚れている人も少なくない。
思わず、足が止まってしまう。
声を掛けようとしたのだが、なかなか近づけない。
物理的にではない。どこか遠く感じてしまうのだ。
ふと、彼女がこちらを向く。
ゆっくりと足を踏み出して、こちらに近づいてくる。
僕は今、どんな顔をしているのだろうか。
「おはよう。早かったわね」
「…あ」
やっと硬直から解かれて初めに出た声は、唸りにも似た挨拶だった。
「…お、おはよう」
「…なによ、ご不満?」
「いえ、そういうわけではなく…」
「じゃあなによ」
「…その、見惚れてたと言いますか…」
言わないと怒り出してしまいそうな雰囲気だったので、こめかみの辺りを掻きながら呟く。
すると、彼女はぷいっとそっぽを向いてしまった。
「…そ、そう」
あれ?
言うこと間違えたかな…?
少し変な空気が流れた後、僕は改めて仕切り直す。
「月島さん、あの…」
仕切り直したはずなのだが、いじけたような声の彼女に遮られてしまう。
「桜子」
「…え?」
「だから、名前」
「いや、知ってるけど…」
「そう呼んでよ」
「……」
いきなり名前呼びですか…。ハードル高いな。
こういうのって少しずつ慣らしていって、だんだん名前呼んだり手を繋いだりするものではないのだろうか。いやこれが初めてだからわからないけれども。
「……」
僕があれこれと考えている間も、彼女は僕が名前で呼ぶのを今か今かと待っている。
…そういう目をするのやめてよ。
意を決して、口を開く。
「…さ、桜子」
「なに?」
彼女は、子供のように満面の笑みを浮かべた。
言ってみて何なんだけど、これ滅茶苦茶恥ずかしい!リア充たちはこんな修羅場を乗り越えていっているんですね。尊敬します。
それはそうと、僕の聞きたかったことがやっと聞けるようになった。
「絶対、待ってたよね…?」
「…そうでもないわよ。さっき来たばっかり」
その間で、嘘だというのはよくわかった。
やっぱり気を遣わせてしまっている。
「なんか、ごめんね?僕のことは待ってなくても…」
「そんなこと言わないで」
「……」
今度は切なそうな声に、僕の言葉が遮られる。
「私は、私がしたいから、ここで待ってるの。そもそも、そうじゃなきゃあなた先行っちゃうでしょ?」
「…そうかも」
僕は月島さん、もとい桜子を待てるような性分ではない。どうして、と言われても、そういう生まれをしていないのだ。生まれた頃から、ずっとそういう性分なのだ。
「…でも、本だって読みたいんじゃないの?」
やはり、こんな時にもお得意のマイナス思考が炸裂する。こんなだから今まで彼女なんていないモブだったのに。
ただ、彼女の声は優しい。
「大丈夫よ。待ってる間にも読めるし」
「…でも…」
未だなお追い縋る僕。醜いのはわかってる。
けれど、こんな幸せな時間が信じられないのだ。
「いいの」
「……」
「何たって、」
一呼吸置いて、彼女は続ける。
「…私、海斗くんの彼女なのよ?」
……。
なんと言うか、生きていてよかった。初めて報われたような気がする。
頬をやや赤く染めたまま、それでもまっすぐに僕の目を見て彼女は言う。
「だから、遠慮しなくていいのよ」
「……ッ」
泣ける。いや、もしかしたらもう泣いているかもしれない。
それくらいに、心に響いた。
彼女を持つ、ってこんなことなんだな。
「ほら、行くわよ?」
「…あ、うん…」
いつになく、彼女が大人に見える。
身長こそ僕と同じか少し低いくらいなのだが、それでも今日は背中が大きく見える。
春特有の、心地よい風が肌を撫でる。
なびく髪を抑えて僕に微笑みかける姿は、まさしく女神だった。
∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵
前述したことだが、さ行の先頭である僕は、た行の桜子とは座席の位置が近い。
そのせいで、いや、そのおかげで、教室でもよく彼女に話しかけられるようになった。
授業中こそ黙って受けてはいるが、終わるとすぐに僕の机まで駄弁りに来るのだ。その度に教室の空気が淀む。
…今だって、そうだ。
わざわざ、自分の椅子を持ってきてまで、だ。
「…ねぇ」
「…は、はい?」
「なによ。いいじゃない、話しかけたって」
「いや、その…目立つんですけど…」
正直周りの視線が痛い。
みんなもう放課後で、各自部活の用意を始めて、運動部なんて着替えながら丸いモンスター引っ張ってハンティングしてるのに、僕の背中には視線が常に鋭く突き刺さっている。
なぜだ。
嫉妬とか憎悪とか、その程度ならまだいいのだが—感覚が麻痺しているのだ—、僕でも感じ取れるほどの殺意を送ってこられると、背筋が寒くなってしまう。
ただ、そんな僕の胸中など察してくれるはずもなく、彼女は続ける。
「いいじゃない、もう付き合ってるんだし」
「…そういうのは今言うことじゃないと思います」
ほら、また一つ嫉妬が殺意になってる。
僕、明日くらいに死んでしまうのではないだろうか。
しかし彼女は意地悪顔だ。
「…私、そんなに怖い?」
「いえそうではなく周りの視線が…」
「そう?」
そう言って、彼女は辺りを見回す。
すると当然、みんな彼女に目を向けられると殺意も緩めて笑顔にすらなる。
そして、一周ぐるっと見終わった後、僕の方を見て言う。
「みんな、笑ってるじゃない」
そうやって僕に微笑みかけるから、またほらみんな僕を呪い殺そうとするんだよ。
「わざとやってますよね?」
「ふふ、バレた?」
彼女はいたずらっぽく笑う。
あなたがドSなのはよくわかりました。
「…からかうのも大概にしてよ」
「だって面白いもの」
「彼氏の心は弄ぶものじゃないと思います」
「………そうかしら?」
「間がわざとらしいよ」
「…ふふっ」
なにわろとんねん。
そうこうしているうちに、なんだか視線の嵐も弱まったかと思うと、ほとんどのクラスメイトが教室を出て行ってしまっていた。
たった2人、僕らだけの空間。
静かな、それでいて幸せな時間が、ただ流れる。
「ねぇ」
「どうしたの?」
「…帰りましょう?」
「そうだね」
手近にあったバッグを、少し雑に引き寄せる。
肩に提げたバッグは、朝よりもやや重い。
「…なんか、不思議」
「どうして?」
「前はこんな風に帰るどころか話すことすら考えたこともなかったのに、って」
「…そうかしら?」
「え?」
「私はそうじゃなかったわよ?」
「…どういうことっすか」
考えても考えても、ただ疑問符が浮かぶばかり。
全く行間が読めず純粋に聞き返した僕に、彼女は意味深に笑顔を浮かべるだけ。
「あ」
一瞬真剣な顔をしてから、何かを思い出したように彼女はこちらに近づく。
「…どうしたの?」
「忘れ物よ」
「…そうすか」
そうして、僕のそばまで来て、
不意を打つように、唇が重なった。
たっぷり十数秒の、恋人としての口づけ。
唇が離れると、いまだ放心したままの僕に、彼女はまた意地悪そうに笑う。
「忘れ物、よ?」
硬直したままの僕を置いて、彼女は幸せそうに教室を後にした。
「…ちょ、…」
頬を染めたまま、僕も黙って——正しくは何も喋られなくて、教室を出た。
廊下の少し先を歩く彼女の後ろ姿は、それはそれは絵になるものだった。
∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵
いつもの高架下をくぐって、いつもの公園に到着する。
そういえば、桜子の家ってどの辺りなのだろうか?
唐突にそんなことを思う。
「ここからそう遠くないわよ」
僕の思考を読んでか、先回りして彼女が答える。
「歩いてどれくらいなの?」
「10分くらいかしら」
「意外に近かった…」
ともすれば僕の家とも近いのではないだろうか。そうなれば会う機会ももっと増えるだろうに。
「…懐かしいね」
不意に、懐古に走る。
彼女もまた僕と同じ思いなのだろう。目を細めている。
「…そうね」
「色々あったよね、この公園」
「感謝、しないといけないわね」
そうやって、また目が合う。
しかし今回は2人とも恥ずかしくなって、すぐに目を逸らしてしまう。
くすぐったいような、そんな空気になる。
僕の方から口を開いた。
「…でもさ」
「……」
「よかったよ、」
桜子とこうして一緒にいられて。
「私もよ」
そうして、どちらからともなく、唇を近づける。
今度は、挨拶ほどの短いキスだった。
なんだかまだ帰りたくないと思って、ベンチに座ったまま、茜に染まりきった夕焼け空を仰ぐ。
さっきまで耳に入ってこなかった、子供たちの遊び声が聞こえてきた。
もう帰る時間よ、と子供を説得している親たち。
まるで合唱のように夕方を告げるカラスの群れ。
サラリーマンを大量に乗せて今日も走る、通勤電車。
どの声にも、どの音にも、新鮮味を感じた。
「…帰ろうか」
「そうね」
立ち上がる。
「じゃあね」
「ええ、さようなら」
また明日。
そう微笑む僕の彼女は、やっぱり世界で一番可愛い。
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