#4 百面相


「佐藤くん!」



 聞き慣れた、よく澄んだ美しい声に振り返る。

 そこにいたのは…。


「月島さん…?」


 なぜ、貴女あなたが。

 嬉しい。また話せる。

 でもどうやって。家はこっちじゃないはず。

 はやる気持ちを抑えて、冷静に聞く。


「…どうしたの?」

「どうしたの、じゃないよ!」


 つかつかと詰め寄ってくる。

 少し手を伸ばせば手繰り寄せられるくらいの距離まで近づいてきて。


「…今日は教室に来て、って言ったでしょ…?」

「…え?」


 二度目だ。

 こんな風に彼女の声が震えたのを聞いたのは。


 ただ、僕はそんなこと聞いていない。

 慌てながらも、丁寧に聞き返す。


「い、いや、聞いてないけど…」

「…え?」


 今度は彼女が驚く番だ。

 僕を責めるように、キッと目を細める。


「あっ、そ!…もういいわ」

「あ、ちょ、ちょっと待ってよ!」

「…何よ」


 これが多分、最初で最後のチャンスだ。

 彼女に謝れるのも。

 …彼女と、話せるのも。


「…本当にごめんなさい。月島さんのことろくに知りもしないで、秘密にしてること話してくれだなんて…、本当に傲慢でした」


 思い出が少ないからこそ、どんな月島さんも思い出せる。

 優しそうに笑う彼女も。

 悲しそうに微笑んだ彼女も。


 全てが、走馬灯のように駆け巡る。

 いっそ、本当に死んでしまえたら、なんて考えてしまう。

 悲しみが、思い出を喰らい尽くしていく。

 なんとか堪えて、一語一語紡ぐ。


「…もう僕と話してくれなくても、これだけは言わせてください。ごめんなさい。あと…」

「……」


 彼女は、黙って俯いている。



「…ありがとう、ございました」



「……!」


 彼女が目を見張る。

 これが別れを告げているんだと、彼女にも伝わっているようだ。


 不意に、視界が歪む。霞む。

 言い終えて、氾濫し始めてきてしまった。

 こんなモブみたいな僕と話してくれたことへの感謝の気持ちと、二度とこうはならないんだと惜しむ気持ちとで、切なくなる。


 雨が、降ってきた。しとしとと肩を濡らす。

 手に傘を持ったまま、放心したように彼女は立ち尽くす。

 濡れるのもはばからず、僕たちは向き合う。


「……」

「……」


 そうして、僕は軽く会釈をして、踵を返した。

 これで、僕は決定的に、別れを告げたんだ。

 こういうと語弊があるかもしれないけど、短い付き合いだったなあ。


 雨は、僕の世界を平等に濡らす。

 傘のない僕には、冷たすぎる春雨だった。



 ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵



「ただいまー」


 久しぶりにそこそこ元気な声が出た。

 けれどいかんせん寒い。肩口からは水も滴っている。手足の先も、完全に冷え切っていた。


「おかえり、…ってお兄ちゃんすっごい濡れてんじゃん!すぐ風呂入って来なよ!」

「…そうしようかな」


 今日も出迎えてくれたのは妹だ。

 母は明日にならないと帰ってこない。妹のご飯もそれなりに美味いのだが、おふくろの味からは少し異なるところはある。味噌汁の味付けとか、ナムルの塩加減とか、そういう些細なところを気にしてしまう。そういう意味では、おふくろの味が一番なんだろう。僕にとっては。


「…お兄ちゃん、ほら突っ立ってないで早く風呂行って」

「…ああ、ごめん」


 びしょびしょになったローファーを脱ぎ捨て、靴下も併せて脱ぐ。雨に濡れた時の、むわんとした足の臭いがした。


「くっさ」

「うるせぇな…お前だってこうなるだろ」

「私は足臭くないもーん」

「あっそ」


 アイドルだからトイレしません理論だろうか。どうでもいいや、妹だし。興味ないもん。足の臭いとか嗅ぎたくないし。


「…あっ、お兄ちゃん足も濡れてる!ちょ、ちょっと、濡れるから…」

「後で拭いとくからいいだろ」

「じゃあよろしくね」

「はいはい」


 綺麗好きはこれだから困る。そういうのは全部自分の部屋に置きっぱなしにしておいてくれよ。


 僕に気を遣っているのか、自然を装って妹は聞いてきた。


「…なんかあったの?」

「なんもねえよ」

「…嘘」

「嘘じゃねえよ」

「……」


 僕は何ら嘘などついていない。

 これまでの日々の方が、があっておかしかったのだ。明日から、また戻るだけ。


「…まあいいや。とりあえず風呂入ってきて」

「あいよ」


 妹の視線が僕の背中を離れなかったのは、振り返るまでもなくわかった。



 ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵



 キュルル、ザー…。


 今となっては古びてしまったシャワーヘッド。こいつは、僕が物心ついたくらいからずっと変わっていない。

 労をねぎらうように、優しく撫でる。

 今日はなんだか、無性に古いものを愛でたい気分だ。


「はぁ…」


 誰かのため息が、湯気に溶けていく。


 これで本当に終わったんだ。

 もう悲しくなんてない。

 明日からは。


「……」


 曇って自分の顔も見えない鏡を、ただぼうっと眺める。

 僕は今、どんな顔をしているだろうか。


 シャワーヘッドは固定されたように動かない。


 最後に顔を洗ってから、湯船に浸かる。


「ああぁぁ〜」


 脱力したような声が出るのはご愛嬌だ。


 肩まで浸かると、今日の疲れが一気にむせ返ってきた。


「……」


 外から温められる快楽に浸りながら、目を閉じる。

 何とない仕草で、彼女を思い出してしまう。


「……」


 心残りしている自分は、確かにここにいる。あれだけ高嶺だと思っていた人と話せていたのだから。

 けれど、そのままが普通なんだ。

 だから、もう、いいんだ。


「……」


 何かが目から溢れそうになって、慌てて上を向く。

 立ち上る湯気が、換気扇に吸い込まれて行っているだけだった。


 今日は珍しく、カラスの行水程度で風呂を上がった。



 ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵



 夕食は、妹が熱心に作ってくれたポトフとハンバーグ、それに珍しく炊かれた白米にもやしのナムルだった。

『どう、美味しい?』などとしつこく聞かれ、しぶしぶというかなんというか、『美味しいよ、ありがとう』なんて答えた僕だったが、終始味は感じなかった。逆に言えば味がないのが却って美味く思ったというのもあったかもしれない。

 重い体を、ベッドに横たえる。

 机に置いてあるのは相も変わらず物理のままだ。あれから1ページも進んでいない。


「……」


 何を呟く気にもなれず、スマホを閉じる。


 うつ伏せになって目を閉じると、すぐに睡魔が襲ってきた。

 今日はもう、寝てしまおう。



 ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵



 翌朝。


「ええっと、今日は月島さんがお休みかな?…あ、体調不良とか言ってたな…」


 教室中がざわつく。


『珍しいよね。今日、月島さん休みなんだって』

『ホントに!?…でも月島さんのことだからさ、なんか旅行とかじゃないの?』

『そんなわけないでしょ…。月島さんに限ってそんなズル休みしないよ』

『…ま、そうよね…』


『月島さんお休みだってよ!』

『あれじゃね?俺らが見舞い行けば、好感度アップなんじゃね?』

『おおー!』

『アホかお前ら。そんなの下心見え見えじゃねえか』

『…そうだな』


 僕は一人、波立っていた。

 間違いなく僕のせいだ、と。

 もう嫌だ。

 こんなことは、もう嫌だ。

 そう思っても、彼女はここにいない。

 本すら、一冊も置いてある気配がしない。


「……」


 恐る恐る後ろを振り向く。

 時々他の女子と目が合っては戻すという青年期特有の謎の過程を踏みながら、目的の机を見る。


 やっぱり、いない。


 頬をつねっても、舌を噛んでも、目をこすっても、目に入るものは変わらない。

 あそこで、ただ美しく本を読む。

 そんな彼女の姿は、どこにもなかった。



 ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵



 放課後も、なんら変わりはない。

 いや、葉桜になり始めたという意味では変わっているのか。

 けれど、昨日から降り続いた雨が上がった後の駅前通りは、サラリーマンたちが闊歩していて、いつも通りだ。


 まだ花が多く残っている桜が目に入る。

 手を伸ばして、香りを嗅いでみた。甘くて、春をよく感じさせてくれる。この匂いこそが、日本の春だ。


「…お前、何してんの?」

「いや、なんとなく桜の匂い嗅ぎたくなってさ」

「お前ってそんなロマンチストだったっけか?」

「…失礼な。ロマンの一つくらい持ち合わせてるよ」

「それは失敬」


 こっちの桜の花は、まだ僕の手の届くところにあった。



 ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵



「じゃあな」

「うん、また明日」


 今日も昨日と同じように、駅で友人と別れる。

 駅の西口は再開発が進んで、県内最大級のショッピングモールや中層ビル郡が立ち並んでいる。

 そのせいか、この時間であっても家族連れやカップルの姿がよく目立つ。

 円満そうな夫婦、純愛を育むカップル。

 この場にいる誰に対しても、僕は批判する権利を持っていないような気がした。

 彼らは成功者。

 僕は失敗者。

 明らかな差が、僕に現実を突きつける。

 嫌になって、いつもは入店する本屋にも、今日は行けそうになかった。



 逃げるようにして、昨日と同じ公園にたどり着く。

 幼児に遊ばれた後、寂しそうにゆらゆらと揺れ続けるブランコ。

 その上に、浅く腰掛ける。


「……」


 何をするでもなく、ただ時間が流れていく。

 今日は5限授業だったはずなのに、もう空は茜色だ。


「…帰ろう」


 最後に軽く一漕ぎして、ブランコを降りる。

 僕に座られても嬉しくないだろうに、またブランコは揺れ続けていた。


 バッグを肩にかけ、ゆっくりと歩き出す。

 公園の出口に目を向けた時、その姿を見つけた。


「月島さん…」


 今日も変わらず、美しかった。



 ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵



 僕の方から、彼女の座るベンチへと歩み寄っていく。

 座れば牡丹とは正にこの姿なのだなと確信するほどの美しさ。

 あれだけ覚悟を決めたのに、僕は息を飲んだ。


「…つ、月島さん、ここで何を…?」


 恐る恐る、といった感じで、僕は尋ねる。


「…佐藤くんのこと、待ってたの。ここにいれば、また会えるんじゃないかな、って」

「……っ」


 なんと嬉しいことを言ってくれるではないか。録音しておけばよかった。


「…どうして?」


 野暮とは思いつつも、聞いてみる。


「…ごめんなさい。私の方が謝らなくちゃいけなかったのに…、貴方にだけ謝らせちゃって、本当にごめんなさい」

「……」


 違う。違うんだよ、月島さん。


「…月島さんが謝ることじゃないよ。僕が悪いんだし…」

「…違うの」

「ううん、違わない。勝手に僕が思い上がって、力になれるかもなんて」


 思ってしまえば、立て板に水だ。

 僕の罪悪なんて、誰よりも僕がわかっている。


「そんなの傲慢だったん…」


「違うってば!」


「…え?」


 突然大きな声が響き渡って、僕の言葉は遮られる。

 声の主の方を見ると、小刻みに震えているのが見て取れた。


「違うの、佐藤くん…」

「……」


 沈黙で、言葉の続きを促す。


「あの日、佐藤くんが言ってくれたこと、覚えてる?」

「…ごめん、覚えてない」

「私はね、全部覚えてるよ。ほらさ、『ありのままの月島さんでいてよ』って言ってくれたでしょ?」

「……」


 思い出したら恥ずかしいから忘れようとしてたのに…。


「今までそうやって言ってくれる人なんていなくて…」

「……」

「…こんな人間だって知って、みんな逆に気持ち悪がるだけだったの」

「…そう、だったんだ…」


 そうとしか、言えない。

 どんなに厳しい環境だったかは、本人以外わかるはずがないからだ。


「…なんか気が動転しちゃって」

「でもなんか言わなきゃって感じになって」

「それで『ごめんなさい』なんて言っちゃったの」

「誤解させちゃった」

「だから、本当にごめんなさい」


 矢継ぎ早に、彼女は話す。

 僕の言った言葉は、思った以上に彼女の心を揺さぶっていたみたいだ。


「その次の日も、心の準備っていうか、…どうやって顔合わせたらいいかわかんなくって」


 少し、頬が上気している。誰の、というわけではなく。


「……」

「……」


 むず痒い、そんな沈黙が流れる。

 指の先をもじもじとさせながら、上目遣い気味にこちらの様子を伺う彼女。

 それを、半ば放心しながら見つめる僕。

 おかしい。なんでこんな告白みたいな雰囲気になってるんだ。


 それを差し引いたとしても、昨日の雨は、もう完全に乾ききっていたようだ。


「それでね、今日はさ」

「…うん」

「私の話を、しようと思うの」

「…どんな?」

「私の、秘密」

「……っ」


 いたずらっぽく微笑んだ彼女の顔をまっすぐ見ながら話を聞くのは、無理に違いなかった。


「ちょっと長くなるよ?」



 ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵



 神は、人々に平等に試練を与える。

 天才には、短い生涯を与えたり。

 韋駄天には、重大な怪我を与えたり。

 彼女もまた、その一例なのだろう。

 彼女は、解離性障がいの一つらしかった。とは言っても、まだ軽微なもの。解離性遁走などが起きるわけではなく、解離性障がいとしてはまだ一般的な解離性同一性障がいに近い病気。


 日付をまたいで寝ると、人格がまるで変わってしまう。しかし、健忘の症状はなく、前日のことは覚えている。簡単に言うと、そういった感じだ。


「本当に、秘密だよ?」


 こうやって、目の前で意地悪そうに笑っているのも、また彼女の一つの人格らしい。


 この話を聞いて、僕は特に慌てることはなかった。

 彼女にとっては物凄く意外だったみたいだが、いやなに、どうあっても月島さんは可愛いのだ。美しいのだ。その結論に、変わりはない。


「…でもさ、学校だとなんかいつも同じ感じに見えるけど」

「頑張ってるんだよ、あれでも?いつもどんな感じかなって思い出して受け答えするんだから」

「…マジか」


 ああ、それなら放課後になって相当疲れているのにも納得がいく。



 公園の端の電灯がチカチカと光りだした。

 それを見計らってか、突然、彼女は呼吸を整えて。


「佐藤くん」

「うん?」


 呼ばれて、彼女の方を向く。

 すると、甘い香りがふわっと僕を包み込んで。

 





 唇が、柔らかい感触に包まれた。




「これが、ありのままの私。…どう?」


 頬は、暗くなり始めた今でも、真っ赤なのがよくわかった。

 桜の花を遠ざけていたのは、どうやら僕だったらしい。




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