#5 積極的

 なにが起きたのかわからなかった。

 さっきばかし駅前で嗅いだ香りがして、その後…。


 どうなったんだ!?


 目の前にあるのは、若干上気した頬ながらこちらをまっすぐ見つめる月島さん。

 思わず唇に触れる。

 なにがあったんだなにがあったんだなにがあったんだなにがあったんだなにがあったんだなにが…。

 …柔らかかったなあ。

 いや、そうじゃなくて!

 もう何が何だかわからない。

 だって、あの月島さんが、僕に、キッ、キッ、キスなんて…しなさるわけがないでござりましょうが!


 …モノローグでもこの有様である。文法など何処へやら。


 気が動転した僕に追い打ちをかけるように、彼女は耳元で囁く。



「…お返事、待ってますから」



 ああ、耳に息がかかって力が抜ける…。

 だからそうじゃなくて!


「ちょ、え、あの…」

「…落ち着いた方がいいですよ」


 言われて、大きめに深呼吸をする。

 すう、はあ、すう、はあ…。

 …おかしいな、全然鼓動が治らない。


「お、お返事ってなんのことでしょうか…?」

「……」


 彼女は質問の意味がわからないというように、首を傾げる。

 そして、頬を真っ赤に染めて。


「…いえ、ですからその、……。…もう一回した方がいいですか…?」

「……っ」


 ぜひそうして頂きたい。ぜひ、ぜひッ!


 …ハッ!

 取り乱してしまった。かたじけない。


 高温でショートしかけている思考回路をどうにか繋ぎとめて、なんとか言葉を口に出す。


「そういうことじゃなくて、その、なんて言うか…」

「違います」

「…え?」


 なにが違うんだ?


 そう不思議に思った僕の頬が、また先程と同じ柔らかい、いやそれでいて先程よりはざらっとした、彼女の唇の襲撃を受けた。


 …え?

 再び、僕は驚くのみ。



「茶化さないでくださいよ。…わ、私だって、恥ずかしかったんですよ?」



 幼い子供を諭すように、そう優しく言い残した彼女は、思考も体躯も硬直したままの僕を他所に、すっと身を離すと足早に公園を後にして行った。

 …早足で、照れを隠すように。


 僕はしばらく、公園のベンチに座り込んだまま動けそうになかった。



 ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵



 ベッドに寝転がって、天井を見上げる。天井さんには色々とお世話になりっぱなしだ。


「…ふう」


 気疲れやら何やらで、思わずため息が漏れる。

 今自分がめちゃくちゃ幸せに恵まれてるんだな、ってのはやっとわかってきた。あれだけ必死こいて想いぶつけて、空振ったと思ったらこうなったから、半分モブとして生きてきた(※個人の感想です)僕にとっては、混乱して当たり前ぐらいの感じだろう。


 …でも、僕の想いに月島さんはきちんと答えてくれたんだ。

 それだけでも、この上なく嬉しい。一世一代の勇気が功を奏して、振り向いてもらえたんだ。何事にも変えようのない、最上の幸福だ。


 だけど。

 だけど、月島さんはこんな僕と付き合って平気なのだろうか。顔も平凡、成績も平凡、おまけに運動まで人並みというこの超ボーダー人間のこの僕と。

 容姿端麗、成績優秀、品行方正、それに運動神経バツグンの、僕にとっては文字通りのお姫様。

 不釣り合いにもほどってものがあるんじゃないですかね。

 確かに、ああいう雰囲気に持ち込んだのは他でもない僕だ。でも、さすがに僕は自意識過剰じゃないから、あんなことになるなんて想像だにしていなかった。


 そっと、あの柔らかい感触の残る唇に触れる。

 ……。

 ………。

 …………。

 まだ、にわかには信じられない。


 悶々として寝られそうになくなった僕は、夜風に吹かれに一人バルコニーへ出た。



 ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵



 我が家は一軒家だ。

 建てた当時はこの辺りにもほとんど家はなく、星も見放題だったらしい。けれど今ではマンションが建ち並んで、視界はぎゅっと狭まってしまったんだとか。

 それでも、夜風に吹かれる分には十分すぎる見晴しだ。案外空もよく見える。残念ながら今日は薄曇りで星は見えないが。


 僕の家のバルコニーは、アパートやマンションのように隣の部屋とひと繋がりになっている。子供の頃よくここで走り回って遊んだのはよく覚えている。



「…お兄ちゃん?」


 そのバルコニーの逆の端から聞こえるのは、控え目な妹の声。


「…どうかしたか?」

「ううん、特に何も…」

「じゃあ、どうしたんだよ?」

「……」


 黙り込まれるとこっちとしても困るんだよな…。

 話題を、なんとか変えようとする。


「…お前さ、それから彼氏とはどうなの?」

「…お兄ちゃん、お父さんみたいになってるよ?」

「うっ、そうかよ…」


 言われてみればそうかもしれない。年頃の女の子の男事情聞くなんて実父くらいなものだな、確かに。

 だけどなあ、と僕は続ける。


「お前が急に黙り込むから僕から話をしようとだな…」



「…お兄ちゃん、疲れてるでしょ?」



「…なんだよいきなり」


 そんなに表に出るもんかな、と思いつつ顔を軽く叩く。

 肌的には変わってないと思うけど…。


「顔とかじゃなくて、精神的に」


 そう言われて、僕は妹の方にちらりと向く。

 心配させないように、努めて明るい声を出して言う。


「どうして?」

「…いやだってさ、いきなりあんなこと聞いてくるし、家じゃなんか話上の空だし…、いつものお兄ちゃんじゃない」

「そうか?至って普通だと思うんだけど…」

「全然違うよ。お母さんだって気づいてると思うよ?」

「…ま、マジか」

「私だって気付くんだから、相当でしょ…」

「……」


 うわ、てことはここ最近妹ごときにずっと心配されてたのかよ。僕情けねぇな。


「…少しくらい話してくれても…」

「もう大丈夫」

「…え?」


 もう、大丈夫。

 大丈夫なんだ。


「…その問題はもう解決したんだよ。心配かけてごめんな」

「……」


 まあ別の問題が発生してるんだがな。

 それは…、まあ、いいんだよ。

 ああもう、想像するだけで頭おかしくなりそうだ。


 ただまあ、なんというか、妹にも気苦労はかけたようだから、礼はちゃんとしないとな。


「なんか後でやってやるよ。それくらいさせてくれ」


 本心としてはゲームやろうとか、勉強教えてとかぐらいがいいんだけどな。ゴディバとかはちょっと無理なんだよな〜、お兄ちゃん。


「…じゃあさ」

「お、早速だな?なんだ?」



「…お、終わったんだったら、なんのことか、話してくれても、いいよね…?」



 そうくるか。

 どう足掻いても聞き出したいのか。

 おずおずと聞いてきた妹の目には、しかしながら頑なな意思が込もっている。


「…仕方ねぇな」


 黒歴史覚悟で、僕は話し始めたのだった。



 ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵



「ふぅーん。お兄ちゃんが女の子とねぇ〜。ふぅ〜ん」

「…なんだよ」


 拗ねたような口調の妹に少し苛立つ。


「いや、だってあのお兄ちゃんがだよ?私も聞いたことあるあの月島さんとだよ?よく話す仲なんだよ?おかしいって思うでしょ」

「…失礼な」


 ていうか月島さんそんなに有名なのか。

 そういえば去年の入試の倍率2倍超えたとかなんとか…。僕の時なんて1.48倍だったのに。


「それに、それじゃあお兄ちゃんどうせ…」


 最後の方が小声で聞き取れなかった。

 あれか、よくラブコメにある系の妹が云々ってやつ?

 …バァカ!こいつに限ってあるわけなかろう!


「僕がどうしたんだよ?」

「…なんでもない!」

「あっそ」

「とりあえず!早く寝ろ、バカ!」

「はいはい僕はバカですよ」

「もうムカつく…」


 なんでだよ。


「結」

「…なに」


 まだぶすったれてやがる。

 妹心っていうの?全然わからん。


「おやすみ」

「……」


 なんだよこいつ。

 寝ろっていうから寝ようとしてんのに。

 やっぱこんな妹いらんわ。


 妹が何事か言っていたが、どうせ減らず口だろう。

 僕は後手にガラス戸を閉めて部屋に戻った。



 ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵ ∴ ∵



 なんだかんだ言って、昨日はよく寝た。

 妹と話したあと、数十分後には眠気がちゃんと襲ってきて、しっかりと睡眠に入ることが出来た。

 おかげで、今日はバッチリ元気だ。

 けれども、家を出た足はあまり早くなかった。


「…お、海斗おはよう」

「あ…」


 我が親友である。

 今日は珍しくこの時間の登校だ。

 もう駅まで来てたんだな。全然気付かなかった。


「…どうしたの?今日遅いけど」

「…いや遅いったってお前と同じ時間だろうが」

「そうだけどさ」


 確かにそうなんだけど。僕が朝遅いだけなんだけど。聞きたいのはそういうことじゃないんだよ。


「…単に寝坊しただけだよ」

「そうすか」


 明日雪でも降りそうだな。まだ春だし。桜は散ったけど。


「それはそうと、お前…今日は元気そうだな」

「そう?」

「うん。ほら、寝癖もあんまねぇし」

「真ん中のこいつだけは立っちゃうんだけどな…」

「そういうのアホ毛だろ。お前特にアホだもんな」

「うるせぇな、あんたとどっこいどっこいだよ」

「はは、そうだったかな」

「お前な…」


 いい加減現実見ろ、と言おうとした矢先。



「おはよう、佐藤くん」



「「…へ?」」


 男二人、気の抜けた声を上げる。

 振り向くと、そこにいたのは。


 朝は誰とも話さないことで有名な、あの月島さんだった。







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